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あなたと恋に落ちるまで

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「ちょっと」

タオルケットから体が出た椎名さんは後ろから私を抱きしめた。

「椎名さん!」

「もうすぐ離れるんだからもうちょっと……」

そう言って私の髪を撫でる。

「よく寝れた?」

「はい。ぐっすりです」

ベッドに運ばれた記憶がない。よほど熟睡だったのだろう。

「ならよかった。俺は全然寝れなかったけど」

「え? 狭かったですか? すみません……」

「あー、いや……夏帆ちゃんの横は結構拷問だわ」

「え? どういう意味ですか?」

「手を出さないように必死になっちゃう。着替えるね。送るから」

「はい……」

洗面所に行く椎名さんの後姿に申し訳なさが増す。やはり不用意に泊まるべきではなかったのだ。





「本当にありがとうございました」

家の近くまで車で送ってもらいお礼を言う。

「夏帆ちゃんが元気になってよかった」

「椎名さんのお陰です」

最後まで椎名さんは優しく笑う。

「じゃあまた。気をつけてね」

「はい」

「連絡待ってる」

私は小さく頷く。椎名さんがまた私と会いたいと言ってくれて幸福感で満たされる。
思わず胸に手を当てた。修一さんに付けられた痣が消えたら、私は椎名さんに気持ちを伝えようと思う。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



今日の俺はすこぶる機嫌が良い。
老人ホームに置いている鉢のメンテナンスをしていたら入所者のお婆ちゃんに饅頭をもらい、ケーキ屋の植え込み作業をしていたらケーキをもらえた。
でも理由はそれだけではない。
乱れた服と白い肌に赤い汚れを見たときはどうにかなりそうなほど怒りがこみ上げたけれど、俺の腕の中で抵抗することも拒否することもしないでいてくれた夏帆を思って機嫌が良い。
一睡もしていないのに夏帆の寝顔を思い出すと眠気など吹き飛んだ。
今まで女のことでここまで一喜一憂したことなどなかったのに、今までにないほど振り回されている。



昼は何を食うかな。最近はコンビニ弁当を買って車内で食べることが多かったから今日は店に入るか。

高級住宅地や有名私立大学が近いこのオフィス街は早峰フーズのある古明橋の隣に位置し、セレブの街というイメージが強い。その中で一際浮いている牛丼チェーン店の列の最後尾に並んだ。

「あれ、椎名さん?」

女に声をかけられた。見ると横に立っていたのは早峰フーズの宇佐見だった。

「ああ、どうも……」

「こんにちは」

宇佐見は高い声でニコニコと俺の傍に寄ってきた。昼休みだというのに面倒くさいことになった。

「今からお昼ですか?」

「はい……」

「私もなんです。よければご一緒しませんか?」

「ここ牛丼屋ですけど」

カフェでランチしてそうな女と入る所じゃない。実際列に並んでいるのはサラリーマンばかりだ。ここならオシャレな店は他にもたくさんあるだろうに。

「大丈夫です。私がっつりなの好きなんで」

こっちが大丈夫じゃねえよ。空気読めよ。
俺の都合はお構いなしに宇佐見は隣に当たり前のように一緒に並ぶ。

「俺食うの早いですけど」

「あ、はい。大丈夫です」

遠回しな拒絶もこの女には通じない。
そうですか。なら付き合ってやるよ。

テーブル席に通されると当然のように俺の向かいに座り、特盛に味噌汁とサラダをつけたセットを頼む俺に対して宇佐見は並盛だけを頼んだ。

「椎名さんはこの辺も担当なんですね」

「ここと古明橋と時々イベントの作業もやります」

「へー。次はいつうちの会社に来ますか?」

「まだ未定ですけど近いうちに」

宇佐見は俺の顔を見て始終笑顔を見せる。寝不足の頭にわざとらしい高い声がガンガン響く。
以前の俺ならこんな女は適当にあしらっていたけれど、今は存在が心底煩わしくて仕方がない。

「宇佐見さんはどうしてここに?」

「私が担当する取引先がこの通りの向こうにあるんですけど、新商品の売れ行きをチェックしに来てたんです」

「へー……」

宇佐見に対して俺は気のない返事を返す。俺の静かな昼休みをこの女のせいで潰されて腹が立っている。
牛丼が運ばれてきたので食べることに専念した。専念したかった。

「椎名さん、連絡先教えてください」

意に反してストレートに攻めてきた。

「ん、」

俺は口に牛丼を入れたまま財布の中から名刺を出すと宇佐見に渡した。

「もう椎名さん、会社携帯は知ってますよ」

宇佐見は俺の名刺を裏返して見ると困ったように笑う。名刺の裏にプライベートの番号を仕込んでおくことなんてしない。

「プライベートのやつを教えてくださいよ」

「俺、彼女にしたい子にしか教えないんで」

宇佐見はムッとしたようだが俺は構わず味噌汁を飲んだ。

「じゃあ私、椎名さんの彼女になりたいです」

これまたストレートに言われた。
そこまで本気になってくれても、宇佐見の人柄を知っている俺には嬉しいとは思えない。

「宇佐見さんは横山さんと付き合っていたんですよね」

「え? 椎名さんまでご存じなんですか? 困ったな……」

宇佐見はわざとらしく困った顔を見せつける。自分から触れ回っておいて何が困るというのだろう。

「椎名さん気になりますか?」

気にならねえよ。
上目使いに見られても俺には効き目はない。

「どうして別れたんですか?」

突っ込んだ質問をしてみた。宇佐見と横山の恋愛に興味があったわけではないが、横山がこの女と別れた後にどうして夏帆と付き合ったのかに興味があった。

「実は……私が横山を振ったんですよ。なんか価値観が違うっていうか、もしも結婚したら会社を辞めてほしいって言われて。まだ結婚の具体的な話もないのに重たいと思いません? 仕事も辞めたくないのに」

宇佐見は食べるのをやめて横山の話に食いついた。

「一緒に住んでたんですけど、共働きなのに家事は私がやるみたいな空気になって、辛くなったから別れちゃいました。同じ仕事をしてて全部私がやるなんておかしいですよ」

「まあそうですね……」

「不規則な仕事なのにお弁当まで作るなんて無理」

宇佐見はだんだん愚痴っぽくなってきていた。

そうか、だから料理のできる夏帆に嫉妬しているのかもしれない。

「宇佐見さん家事苦手なんですか?」

「いいえ! そんなことはないですよ! 時間があれば料理だってします!」

俺の指摘に宇佐見は焦って完全に箸が止まっている。必死に弁明し、俺に良いイメージを植え付けようとしているようだ。

「横山のお母様が専業主婦だったそうで、お母様と同じように女性に理想を高く持っていました」

なるほど、別れる理由としては理解できる。振られる前に宇佐見から別れを切り出した。横山の理想になれない女になる前に。

「誰にでもいい顔をするのに、生活面ではだらしがなかったんです。私がやらなきゃ掃除もしないし。でも全部私がやるなんて無理ですよ」

話が途切れたと同時に俺は食べ終わった。宇佐見は器にまだ半分以上残っている。

「でも、椎名さんになら毎日お弁当作れるかもしれないですよ」

可愛く見せようと少し首をかしげて俺を見た。そんな技は俺には意味がないのだ。

「いえ、結構です」

「は?」

遠慮なくはっきりと言い捨てる。この女は男の前では良い顔をして自分を偽る。プライドが傷つくことを許さない。横山を振ったくせに、その後付き合いだした夏帆の方が横山の理想と近いことが気に入らない。こういうタイプの女は穏便に距離をおいた方がいいかもしれない。関わらない方が身のためだ。

「作ってくれる子はいますので」

まだ食べ続けている宇佐見は置いていく。待っている義理はない。俺は伝票を持って立ち上がった。

「それは北川さんのことですか?」

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