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あなたと恋が終わるまで

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「辛いなんて言わないで……」

修一さんは私の髪にキスをした。

「この件は少し時間をおいて話し合おう。僕は夏帆が大切だから」

繰り返し私を安心させようとする言葉を発しても、一度生まれた不信感はなくなることはなかった。
恋人の腕の中で椎名さんの温かな手の感触を思い出していた。










「すいません、トイレの水が流れないんですけど……」

「それは食品開発部の皆さんで何とかなりませんか?」

「えっと……何とかと言うと?」

「リモコンの電池があるかとか、詰まってないか見るとか」

「分かりません……」

「いいです行きますから!」

私は乱暴に受話器を置いた。食品開発部からの内線にイラつかずにはいられない。
同僚が私をチラチラと盗み見る。それに更に怒りが増した。

「大丈夫?」

丹羽さんが私の様子を気にしている。

「食品開発部のトイレの水が流れないそうです」

「そうじゃなくて夏帆ちゃんが」

「え?」

「疲れた顔してる。ちゃんと寝れてる?」

「あんまり……」

「悩みすぎちゃだめだよ。いつでも愚痴聞くから」

「ありがとうございます」

丹羽さんの存在はありがたい。冷静さを取り戻せる。

「ちょっと行ってきます」

でも食品開発部に文句言ってやる。トイレの水が流れないなんて私に言ってこないでよ!



入り口のすぐ手前のトイレが流れなくなったらしい。やはりウォシュレットのリモコンの電池が切れたようだ。レバーがないためリモコンでしか水が流せない。
トイレに行ったら誰もいなかったので、自分で確認して新しい電池を持ってくるのに時間がかかった。
食品開発部課の人が確かめて先に内線で教えてくれたら電池を取りに行く時間が省けたのに。報告だけしてその場からいなくなったことに苛立ちを覚える。

言ったからいいと思ってるんだから……。

予めコピー紙に『使用禁止』と印刷したものを持ってきていた。電池を持ってくる間だけ扉に貼っておいたので、剥がして電池を換えようと思った。その時トイレの外から誰かが入ってくる気配がした。

私は慌てて『使用禁止』の貼り紙をしたままのトイレの中に隠れた。トイレのトラブルまで私が直すところを誰かに見られたくなかった。

「……この間の会議でやっと決まったみたい」

「やだな、メンバー変わるとやりづらいんだよね」

「この忙しいときに最悪」

どうやら入ってきたのは二人のようだ。洗面台に化粧ポーチを置く音が聞こえた。

「営業推進部の子に聞いたんだけど横山さんが課長に昇進だって」

「今? どうして急に?」

「やっぱりあの噂本当だったんだよ。副社長に取り入って出世狙ってるって」

「結局さ、横山さんと総務部の地味子ちゃんはどうなったの? 宇佐見さんは?」

「地味子ちゃんが横山さんと付き合ってるってこと」

「じゃあ地味子ちゃんがもし横山さんと結婚したらなんか癪だよね」

「わかるー」

再び怒りが湧いた。二人の前に出ていって怒ってやろうか。
修一さんはみんなが羨ましがるほど完璧な男なんかじゃない。

「宇佐見さんは切り替え早くて、観葉植物のメンテナンスに来てくれてる業者の人いるでしょ。あの人と付き合ってるんだって」

「へえー、宇佐見さんも面食いだね」

二人がトイレから出ていった気配がして深呼吸した。
噂は本人のいないところで勝手に変化して広まってしまう。人から人へ。悪意を含んで。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



二次会の会場の暑さに耐えかねてテラスに出たものの、ドレス姿では夜になると少し冷える。

杏子先輩と和也さんの結婚式に呼ばれ、朝から慣れないピンヒールを履いて足が悲鳴をあげている。
先輩と和也さんは多くの人に囲まれて話すことができそうにない。時間的にそろそろお開きになる頃だ。
会いたくないあの人に見つからないように先に帰ろう。今会っちゃったらまた現実を見なきゃいけないから。

会いたくない人物を避けるために高校の友人の居場所を探して会場内を見回した。そうしてうっかり会いたくない本人と目が合ってしまい、人混みに紛れて逃げようとしたときにはもう遅かった。

「俺を探してたの?」

椎名さんが私の横に立った。

「……そうですよ。何か問題でも?」

「珍しく素直じゃん。俺も夏帆ちゃんを探してたよ」

探していたのは本当のこと。でもそれは会いたくないから逃げるためだ。

普段会社のロゴ入りシャツを着ているところを見慣れているため、スーツを着崩した姿は一段とかっこよく見える。

和也さんの大学の同期生なら、今日もしかしたら椎名さんも招待されているかもしれないとは思っていた。
女の人と楽しそうに話す椎名さんを見つけたら、なんだか腹立たしくなってきて近づきたくなかった。
やっぱり女の子なら誰にでもいい顔をしてニコニコ笑うんじゃん、なんて思っちゃって。
私がそんなことを思う資格がないのだからおかしいのだけれど。

「夏帆ちゃん今一人?」

「高校の友人と一緒です。もうすぐ帰ろうとしてたところで」

「もう帰るの?」

「知り合いは友人一人だけで居心地悪くて……」

その友人も和也さんの友人と楽しそうに話している。そういうのが苦手な私は近づきにくかった。
杏子先輩は高校時代の先輩だ。他の参列者はみんな先輩で、お互い知ってはいても親しいわけではなかった。

「送ってくよ」

「いいです! 大丈夫です!」

「一緒に帰ろう。夜だから心配だし」

この間のこともあって、椎名さんに優しくされると甘えてみようかなって思えてしまった。

椎名さんに続いて建物の外に出た。
引き出物の紙袋を私の分まで持ってくれて、慣れないヒールに疲れてゆっくり歩く私のペースに合わせて、椎名さんもゆっくり歩いてくれた。

「夏帆ちゃん家どっち方面?」

「あの、えっと……上りです」

「そう」

私と一緒に電車に乗ろうとする椎名さんに焦った。

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