21 / 35
あなたと恋が終わるまで
9
しおりを挟む
「辛いなんて言わないで……」
修一さんは私の髪にキスをした。
「この件は少し時間をおいて話し合おう。僕は夏帆が大切だから」
繰り返し私を安心させようとする言葉を発しても、一度生まれた不信感はなくなることはなかった。
恋人の腕の中で椎名さんの温かな手の感触を思い出していた。
「すいません、トイレの水が流れないんですけど……」
「それは食品開発部の皆さんで何とかなりませんか?」
「えっと……何とかと言うと?」
「リモコンの電池があるかとか、詰まってないか見るとか」
「分かりません……」
「いいです行きますから!」
私は乱暴に受話器を置いた。食品開発部からの内線にイラつかずにはいられない。
同僚が私をチラチラと盗み見る。それに更に怒りが増した。
「大丈夫?」
丹羽さんが私の様子を気にしている。
「食品開発部のトイレの水が流れないそうです」
「そうじゃなくて夏帆ちゃんが」
「え?」
「疲れた顔してる。ちゃんと寝れてる?」
「あんまり……」
「悩みすぎちゃだめだよ。いつでも愚痴聞くから」
「ありがとうございます」
丹羽さんの存在はありがたい。冷静さを取り戻せる。
「ちょっと行ってきます」
でも食品開発部に文句言ってやる。トイレの水が流れないなんて私に言ってこないでよ!
入り口のすぐ手前のトイレが流れなくなったらしい。やはりウォシュレットのリモコンの電池が切れたようだ。レバーがないためリモコンでしか水が流せない。
トイレに行ったら誰もいなかったので、自分で確認して新しい電池を持ってくるのに時間がかかった。
食品開発部課の人が確かめて先に内線で教えてくれたら電池を取りに行く時間が省けたのに。報告だけしてその場からいなくなったことに苛立ちを覚える。
言ったからいいと思ってるんだから……。
予めコピー紙に『使用禁止』と印刷したものを持ってきていた。電池を持ってくる間だけ扉に貼っておいたので、剥がして電池を換えようと思った。その時トイレの外から誰かが入ってくる気配がした。
私は慌てて『使用禁止』の貼り紙をしたままのトイレの中に隠れた。トイレのトラブルまで私が直すところを誰かに見られたくなかった。
「……この間の会議でやっと決まったみたい」
「やだな、メンバー変わるとやりづらいんだよね」
「この忙しいときに最悪」
どうやら入ってきたのは二人のようだ。洗面台に化粧ポーチを置く音が聞こえた。
「営業推進部の子に聞いたんだけど横山さんが課長に昇進だって」
「今? どうして急に?」
「やっぱりあの噂本当だったんだよ。副社長に取り入って出世狙ってるって」
「結局さ、横山さんと総務部の地味子ちゃんはどうなったの? 宇佐見さんは?」
「地味子ちゃんが横山さんと付き合ってるってこと」
「じゃあ地味子ちゃんがもし横山さんと結婚したらなんか癪だよね」
「わかるー」
再び怒りが湧いた。二人の前に出ていって怒ってやろうか。
修一さんはみんなが羨ましがるほど完璧な男なんかじゃない。
「宇佐見さんは切り替え早くて、観葉植物のメンテナンスに来てくれてる業者の人いるでしょ。あの人と付き合ってるんだって」
「へえー、宇佐見さんも面食いだね」
二人がトイレから出ていった気配がして深呼吸した。
噂は本人のいないところで勝手に変化して広まってしまう。人から人へ。悪意を含んで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二次会の会場の暑さに耐えかねてテラスに出たものの、ドレス姿では夜になると少し冷える。
杏子先輩と和也さんの結婚式に呼ばれ、朝から慣れないピンヒールを履いて足が悲鳴をあげている。
先輩と和也さんは多くの人に囲まれて話すことができそうにない。時間的にそろそろお開きになる頃だ。
会いたくないあの人に見つからないように先に帰ろう。今会っちゃったらまた現実を見なきゃいけないから。
会いたくない人物を避けるために高校の友人の居場所を探して会場内を見回した。そうしてうっかり会いたくない本人と目が合ってしまい、人混みに紛れて逃げようとしたときにはもう遅かった。
「俺を探してたの?」
椎名さんが私の横に立った。
「……そうですよ。何か問題でも?」
「珍しく素直じゃん。俺も夏帆ちゃんを探してたよ」
探していたのは本当のこと。でもそれは会いたくないから逃げるためだ。
普段会社のロゴ入りシャツを着ているところを見慣れているため、スーツを着崩した姿は一段とかっこよく見える。
和也さんの大学の同期生なら、今日もしかしたら椎名さんも招待されているかもしれないとは思っていた。
女の人と楽しそうに話す椎名さんを見つけたら、なんだか腹立たしくなってきて近づきたくなかった。
やっぱり女の子なら誰にでもいい顔をしてニコニコ笑うんじゃん、なんて思っちゃって。
私がそんなことを思う資格がないのだからおかしいのだけれど。
「夏帆ちゃん今一人?」
「高校の友人と一緒です。もうすぐ帰ろうとしてたところで」
「もう帰るの?」
「知り合いは友人一人だけで居心地悪くて……」
その友人も和也さんの友人と楽しそうに話している。そういうのが苦手な私は近づきにくかった。
杏子先輩は高校時代の先輩だ。他の参列者はみんな先輩で、お互い知ってはいても親しいわけではなかった。
「送ってくよ」
「いいです! 大丈夫です!」
「一緒に帰ろう。夜だから心配だし」
この間のこともあって、椎名さんに優しくされると甘えてみようかなって思えてしまった。
椎名さんに続いて建物の外に出た。
引き出物の紙袋を私の分まで持ってくれて、慣れないヒールに疲れてゆっくり歩く私のペースに合わせて、椎名さんもゆっくり歩いてくれた。
「夏帆ちゃん家どっち方面?」
「あの、えっと……上りです」
「そう」
私と一緒に電車に乗ろうとする椎名さんに焦った。
修一さんは私の髪にキスをした。
「この件は少し時間をおいて話し合おう。僕は夏帆が大切だから」
繰り返し私を安心させようとする言葉を発しても、一度生まれた不信感はなくなることはなかった。
恋人の腕の中で椎名さんの温かな手の感触を思い出していた。
「すいません、トイレの水が流れないんですけど……」
「それは食品開発部の皆さんで何とかなりませんか?」
「えっと……何とかと言うと?」
「リモコンの電池があるかとか、詰まってないか見るとか」
「分かりません……」
「いいです行きますから!」
私は乱暴に受話器を置いた。食品開発部からの内線にイラつかずにはいられない。
同僚が私をチラチラと盗み見る。それに更に怒りが増した。
「大丈夫?」
丹羽さんが私の様子を気にしている。
「食品開発部のトイレの水が流れないそうです」
「そうじゃなくて夏帆ちゃんが」
「え?」
「疲れた顔してる。ちゃんと寝れてる?」
「あんまり……」
「悩みすぎちゃだめだよ。いつでも愚痴聞くから」
「ありがとうございます」
丹羽さんの存在はありがたい。冷静さを取り戻せる。
「ちょっと行ってきます」
でも食品開発部に文句言ってやる。トイレの水が流れないなんて私に言ってこないでよ!
入り口のすぐ手前のトイレが流れなくなったらしい。やはりウォシュレットのリモコンの電池が切れたようだ。レバーがないためリモコンでしか水が流せない。
トイレに行ったら誰もいなかったので、自分で確認して新しい電池を持ってくるのに時間がかかった。
食品開発部課の人が確かめて先に内線で教えてくれたら電池を取りに行く時間が省けたのに。報告だけしてその場からいなくなったことに苛立ちを覚える。
言ったからいいと思ってるんだから……。
予めコピー紙に『使用禁止』と印刷したものを持ってきていた。電池を持ってくる間だけ扉に貼っておいたので、剥がして電池を換えようと思った。その時トイレの外から誰かが入ってくる気配がした。
私は慌てて『使用禁止』の貼り紙をしたままのトイレの中に隠れた。トイレのトラブルまで私が直すところを誰かに見られたくなかった。
「……この間の会議でやっと決まったみたい」
「やだな、メンバー変わるとやりづらいんだよね」
「この忙しいときに最悪」
どうやら入ってきたのは二人のようだ。洗面台に化粧ポーチを置く音が聞こえた。
「営業推進部の子に聞いたんだけど横山さんが課長に昇進だって」
「今? どうして急に?」
「やっぱりあの噂本当だったんだよ。副社長に取り入って出世狙ってるって」
「結局さ、横山さんと総務部の地味子ちゃんはどうなったの? 宇佐見さんは?」
「地味子ちゃんが横山さんと付き合ってるってこと」
「じゃあ地味子ちゃんがもし横山さんと結婚したらなんか癪だよね」
「わかるー」
再び怒りが湧いた。二人の前に出ていって怒ってやろうか。
修一さんはみんなが羨ましがるほど完璧な男なんかじゃない。
「宇佐見さんは切り替え早くて、観葉植物のメンテナンスに来てくれてる業者の人いるでしょ。あの人と付き合ってるんだって」
「へえー、宇佐見さんも面食いだね」
二人がトイレから出ていった気配がして深呼吸した。
噂は本人のいないところで勝手に変化して広まってしまう。人から人へ。悪意を含んで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二次会の会場の暑さに耐えかねてテラスに出たものの、ドレス姿では夜になると少し冷える。
杏子先輩と和也さんの結婚式に呼ばれ、朝から慣れないピンヒールを履いて足が悲鳴をあげている。
先輩と和也さんは多くの人に囲まれて話すことができそうにない。時間的にそろそろお開きになる頃だ。
会いたくないあの人に見つからないように先に帰ろう。今会っちゃったらまた現実を見なきゃいけないから。
会いたくない人物を避けるために高校の友人の居場所を探して会場内を見回した。そうしてうっかり会いたくない本人と目が合ってしまい、人混みに紛れて逃げようとしたときにはもう遅かった。
「俺を探してたの?」
椎名さんが私の横に立った。
「……そうですよ。何か問題でも?」
「珍しく素直じゃん。俺も夏帆ちゃんを探してたよ」
探していたのは本当のこと。でもそれは会いたくないから逃げるためだ。
普段会社のロゴ入りシャツを着ているところを見慣れているため、スーツを着崩した姿は一段とかっこよく見える。
和也さんの大学の同期生なら、今日もしかしたら椎名さんも招待されているかもしれないとは思っていた。
女の人と楽しそうに話す椎名さんを見つけたら、なんだか腹立たしくなってきて近づきたくなかった。
やっぱり女の子なら誰にでもいい顔をしてニコニコ笑うんじゃん、なんて思っちゃって。
私がそんなことを思う資格がないのだからおかしいのだけれど。
「夏帆ちゃん今一人?」
「高校の友人と一緒です。もうすぐ帰ろうとしてたところで」
「もう帰るの?」
「知り合いは友人一人だけで居心地悪くて……」
その友人も和也さんの友人と楽しそうに話している。そういうのが苦手な私は近づきにくかった。
杏子先輩は高校時代の先輩だ。他の参列者はみんな先輩で、お互い知ってはいても親しいわけではなかった。
「送ってくよ」
「いいです! 大丈夫です!」
「一緒に帰ろう。夜だから心配だし」
この間のこともあって、椎名さんに優しくされると甘えてみようかなって思えてしまった。
椎名さんに続いて建物の外に出た。
引き出物の紙袋を私の分まで持ってくれて、慣れないヒールに疲れてゆっくり歩く私のペースに合わせて、椎名さんもゆっくり歩いてくれた。
「夏帆ちゃん家どっち方面?」
「あの、えっと……上りです」
「そう」
私と一緒に電車に乗ろうとする椎名さんに焦った。
0
お気に入りに追加
48
あなたにおすすめの小説
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
水曜日は図書室で
白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
青春
綾織 美久(あやおり みく)、高校二年生。
見た目も地味で引っ込み思案な性格の美久は目立つことが苦手でクラスでも静かに過ごしていた。好きなのは図書室で本を見たり読んだりすること、それともうひとつ。
あるとき美久は図書室で一人の男子・久保田 快(くぼた かい)に出会う。彼はカッコよかったがどこか不思議を秘めていた。偶然から美久は彼と仲良くなっていき『水曜日は図書室で会おう』と約束をすることに……。
第12回ドリーム小説大賞にて奨励賞をいただきました!
本当にありがとうございます!
ファザー☆コンプレックス〜父親は妖精王?!〜
風雅ありす
ファンタジー
「レイラ、君を迎えに来たよ。
さぁ、一緒にパパの国へ帰ろう」
校庭一面を埋め尽くす花畑の中、
黒い髪に浅黒い肌、黒いスーツに身を包んで立っているその男は、
まるで悪魔のようだった。
もうすぐ16歳を迎えようとしていた【花園 麗良】(はなぞの れいら)の前に、
突然、麗良の父親を名乗る男【ラムファ】が現れる。
ラムファは、自分を妖精王だと名乗り、不思議な力を使って、麗良を《妖精の国》へ連れて行こうと画策するが、
今まで自分に父親はいないと信じて生きてきた麗良は、ラムファを拒絶する。
しかし、ラムファに危険なところを助けてもらったことをキッカケに、少しずつラムファに心を開いていく麗良。
(悪い人ではない)
そう思いつつも、麗良がラムファの手をとることが出来ないのには、理由があった。
麗良には、密かに想いを寄せる人がいる。
それは、華道家である祖父【花園 良之】の花弟子である【青葉】という男性で、
幼い頃から麗良が歳の離れた兄のように慕っている相手だ。
でも同時に、その【青葉】が自分の母親である【胡蝶】を想っていることも分かっている。
そして、麗良を狙う謎の組織の影。
果たして、麗良が最後に選ぶ道は――――?
ミステリー要素を孕んだ、少し切ない恋愛ファンタジー。
隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。
地味男はイケメン元総長
緋村燐
青春
高校一年になったばかりの灯里は、メイクオタクである事を秘密にしながら地味子として過ごしていた。
GW前に、校外学習の班の親交を深めようという事で遊園地に行くことになった灯里達。
お化け屋敷に地味男の陸斗と入るとハプニングが!
「なぁ、オレの秘密知っちゃった?」
「誰にも言わないからっ! だから代わりに……」
ヒミツの関係はじめよう?
*野いちごに掲載しているものを改稿した作品です。
野いちご様
ベリーズカフェ様
エブリスタ様
カクヨム様
にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる