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【精揉】まるで針のように心撚れて
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◇◇◇◇◇
オフィス街である古明橋でも蝉の鳴き声が聞こえるほどに暑い季節になった。
お店では温かい濃いめの龍清軒を淹れると、ポットに氷を入れ、そこに注いで冷茶として提供するようになった。ペットボトルの緑茶よりも色が鮮やかで深いコクを感じるとお客様にも好評だ。
今日のお昼は聡次郎さんに冷たいお茶を淹れてあげようか。
恋人同士になった今でも、予定が合えばお昼を一緒に食べていた。相変わらず私の淹れたお茶を「おいしい」と言ってくれたことはないけれど、それが逆にやる気になってお茶の勉強への活力になっていた。いつか聡次郎さんがおいしいと言ってくれるようなお茶を淹れてあげたい。
開店してから間もなくしてお店に若い女性が来店してきた。
「いらっしゃいませ」
お辞儀をした顔を上げ女性を見ると、この店には不釣合いなほど若い女性だった。年は私とそんなに変わらないだろうけれど社会人には見えない。もしかしたらまだ学生ということもありえる。そしてこの女性は驚くほど顔が整っていた。
「こんにちは」
女性は商品には目もくれず、迎えた私と川田さんの前まで歩いてきた。
「栄と申します。本日は奥様とのお約束がありまして参りました」
「ああ、はい……少々お待ちください……」
栄という名に引っ掛かったけれど、私は全身から気品を漂わせる女性に座るように促すと事務所に入った。
「あの、栄さんという方が奥様に会いに来店されたのですが……」
麻衣さんにそう伝えると麻衣さんの顔が曇った。
「そう……奥様を呼ぶからそのままお待ちいただいて」
「かしこまりました」
お店に戻ると川田さんが女性に冷たい龍清軒をグラスに注いでお出ししたところだった。
「ありがとうございます」
女性は川田さんにそう言うと両手でグラスを持ちお茶を飲んだ。その仕草から育ちの良さを感じた。芸能人として活躍できそうなほど美人な彼女は、ただお茶を飲む姿だけでも絵になった。年が近い私が卑屈になってしまうほど美しい。
奥様とこの人が会うなんて意外だった。奥様のお客様はいつも仕事関係の人ばかりだ。この女性はどう見ても仕事関係の人とは思えない。
「愛華さんお待たせしました」
事務所から奥様が出てきた。
「お久しぶりでございます」
女性は立ち上がると奥様に向かって一礼した。
「さあこちらに」
奥様は女性を連れて奥の廊下に出て行った。廊下へのドアが閉まる前に「三宅さん、お茶を応接室にお願い」と言ってドアを閉めた。
お茶を用意して応接室の前まで運ぶと、ドアの外からでも中の2人が笑い合う様子がわかった。
「失礼いたします」
中に入ると奥様は私が見たこともないほど笑顔だった。
女性の前にお茶を置くと「ありがとうございます」と私に笑顔を向けてくれたのに対して、奥様は私が出て行くまで私の存在など意識から消しているのではと思うほど無視していた。
お昼は聡次郎さんの予定が長引いて一緒にランチタイムを過ごすことはできなくなってしまった。最近はこういうことも増えていた。役員として聡次郎さんは毎日忙しそうにしている。2人きりで会うことは休憩時間のみという日もあった。
今日はお昼から閉店までカフェでの勤務を終え、アパートまで帰ってきて階段を上ろうとした時、アパートの前に1台の車が止まった。
「梨香」
「え、聡次郎さん!?」
運転席の窓から聡次郎さんが顔を出した。私は慌てて車に駆け寄った。
「どうしたの?」
「迎えに来た」
「え?」
「俺んちに来い」
「は?」
突然のことに間抜けな言葉しか出てこない。
「一緒に暮らそう」
「なんですか突然……」
「梨香に全然会えないの辛い。いっそ一緒に住んでしまいたい」
真顔でそう言われ呆れたものの嬉しさがこみ上げる。
「でも急には……住むのは聡次郎さんの部屋でしょ?」
「うん。あの部屋は俺1人じゃ広すぎる。ベッドもな」
一瞬、私が風邪を引いた夜、あのダブルベッドで寝たことを思い出した。私と聡次郎さんが一緒に住むということは毎日あのベッドで2人で寝るということだ。
「きっと奥様は反対されるよ?」
「そんなのどうでもいい。俺の生活に干渉される筋合いはないよ。母親でもな」
「でも……」
悩む私に聡次郎さんは「とりあえず今夜だけでも」と縋るような目を向けた。
「今夜……だけなら……」
私にしては勇気を出した言葉を聡次郎さんは満面の笑みで受け入れた。
今のアパートの契約もある。すぐに一緒に住む提案は受け入れられないけれど、ここまで迎えに来てくれた聡次郎さんを帰らせるのは申し訳ない気がした。
「荷物取って来るので待っててください」
「わかった」
部屋に帰った私は一泊分の荷物をボストンバッグに詰めた。明日は都合よく龍峯での勤務だ。今ではもう聡次郎さんの部屋から出勤しても社員の目を気にしなくてもいいのだ。
明日の着替えと歯ブラシと化粧水とメイク落としも。充電器にドライヤー、万が一体調を崩すといけないから常備薬を入れて……。
気がつけばバッグの中には一泊分以上の荷物が入っていた。今夜だけと言ったのに必要のない日用品を持っていこうとする自分がおかしい。
車に戻ると「大荷物だな」とパンパンに膨れたボストンバッグを見て聡次郎さんも笑った。
「女の子には色々あるんですよ」
「はいはい」
運転している聡次郎さんはとても機嫌がよさそうだ。
聡次郎さんと一緒に住むということに実感は持てない。過去の恋人とも同棲の経験はない。同棲したいと思ったこともないけれど、聡次郎さんとなら悪くはないと思えていた。
聡次郎さんの部屋に入っても緊張のあまり突っ立っていた。何度も来て食事をした部屋なのに、今日はいつもと違うように感じてしまう。そんな私に彼は「梨香、お茶」と言ってきた。
「自分で淹れてください」
「俺のは美味しくないんだよ」
「私のお茶だって美味しいとは言ってくれないくせに」
私の指摘に聡次郎さんは返事をすることなく「先に風呂入るから淹れといて」と言ってバスルームに行ってしまった。
ソファーの上にボストンバッグを置くと、もう勝手知ったるキッチンに立って準備をした。
お湯が沸くのを待つ間明日の朝ごはんを考えることにした。聡次郎さんの家でご飯を作ることも増えたから、冷蔵庫にはある程度の食材が入っている。
メニューを決めたところで聡次郎さんがバスルームから出てきた。
髪を濡らしたまま私の後ろに立ち、「お茶はあとでいいから風呂入ってこいよ」と言われ、忘れていた緊張感が戻ってくる。
「う、うん、入ってくる……」
今まで何度も聡次郎さんの部屋に来たけれど、いつもその日の内に帰ることが前提だった。でも今夜はもうこの部屋から出ないのだ。緊張しないわけがない。
ボストンバッグから下着やメイク落としを出したとき、パジャマを忘れたことに気がついた。
「パジャマ忘れた……」
「まじか、俺の貸そうか?」
「お願いします……」
「こんなに大荷物なのにパジャマ忘れるなんてうける」
「もう、自分でも呆れてるんだから笑わないでください」
いらないものばかり持ってきて肝心なものを忘れてしまった。だって聡次郎さんの部屋に泊まるのに動揺しないわけがない。
オフィス街である古明橋でも蝉の鳴き声が聞こえるほどに暑い季節になった。
お店では温かい濃いめの龍清軒を淹れると、ポットに氷を入れ、そこに注いで冷茶として提供するようになった。ペットボトルの緑茶よりも色が鮮やかで深いコクを感じるとお客様にも好評だ。
今日のお昼は聡次郎さんに冷たいお茶を淹れてあげようか。
恋人同士になった今でも、予定が合えばお昼を一緒に食べていた。相変わらず私の淹れたお茶を「おいしい」と言ってくれたことはないけれど、それが逆にやる気になってお茶の勉強への活力になっていた。いつか聡次郎さんがおいしいと言ってくれるようなお茶を淹れてあげたい。
開店してから間もなくしてお店に若い女性が来店してきた。
「いらっしゃいませ」
お辞儀をした顔を上げ女性を見ると、この店には不釣合いなほど若い女性だった。年は私とそんなに変わらないだろうけれど社会人には見えない。もしかしたらまだ学生ということもありえる。そしてこの女性は驚くほど顔が整っていた。
「こんにちは」
女性は商品には目もくれず、迎えた私と川田さんの前まで歩いてきた。
「栄と申します。本日は奥様とのお約束がありまして参りました」
「ああ、はい……少々お待ちください……」
栄という名に引っ掛かったけれど、私は全身から気品を漂わせる女性に座るように促すと事務所に入った。
「あの、栄さんという方が奥様に会いに来店されたのですが……」
麻衣さんにそう伝えると麻衣さんの顔が曇った。
「そう……奥様を呼ぶからそのままお待ちいただいて」
「かしこまりました」
お店に戻ると川田さんが女性に冷たい龍清軒をグラスに注いでお出ししたところだった。
「ありがとうございます」
女性は川田さんにそう言うと両手でグラスを持ちお茶を飲んだ。その仕草から育ちの良さを感じた。芸能人として活躍できそうなほど美人な彼女は、ただお茶を飲む姿だけでも絵になった。年が近い私が卑屈になってしまうほど美しい。
奥様とこの人が会うなんて意外だった。奥様のお客様はいつも仕事関係の人ばかりだ。この女性はどう見ても仕事関係の人とは思えない。
「愛華さんお待たせしました」
事務所から奥様が出てきた。
「お久しぶりでございます」
女性は立ち上がると奥様に向かって一礼した。
「さあこちらに」
奥様は女性を連れて奥の廊下に出て行った。廊下へのドアが閉まる前に「三宅さん、お茶を応接室にお願い」と言ってドアを閉めた。
お茶を用意して応接室の前まで運ぶと、ドアの外からでも中の2人が笑い合う様子がわかった。
「失礼いたします」
中に入ると奥様は私が見たこともないほど笑顔だった。
女性の前にお茶を置くと「ありがとうございます」と私に笑顔を向けてくれたのに対して、奥様は私が出て行くまで私の存在など意識から消しているのではと思うほど無視していた。
お昼は聡次郎さんの予定が長引いて一緒にランチタイムを過ごすことはできなくなってしまった。最近はこういうことも増えていた。役員として聡次郎さんは毎日忙しそうにしている。2人きりで会うことは休憩時間のみという日もあった。
今日はお昼から閉店までカフェでの勤務を終え、アパートまで帰ってきて階段を上ろうとした時、アパートの前に1台の車が止まった。
「梨香」
「え、聡次郎さん!?」
運転席の窓から聡次郎さんが顔を出した。私は慌てて車に駆け寄った。
「どうしたの?」
「迎えに来た」
「え?」
「俺んちに来い」
「は?」
突然のことに間抜けな言葉しか出てこない。
「一緒に暮らそう」
「なんですか突然……」
「梨香に全然会えないの辛い。いっそ一緒に住んでしまいたい」
真顔でそう言われ呆れたものの嬉しさがこみ上げる。
「でも急には……住むのは聡次郎さんの部屋でしょ?」
「うん。あの部屋は俺1人じゃ広すぎる。ベッドもな」
一瞬、私が風邪を引いた夜、あのダブルベッドで寝たことを思い出した。私と聡次郎さんが一緒に住むということは毎日あのベッドで2人で寝るということだ。
「きっと奥様は反対されるよ?」
「そんなのどうでもいい。俺の生活に干渉される筋合いはないよ。母親でもな」
「でも……」
悩む私に聡次郎さんは「とりあえず今夜だけでも」と縋るような目を向けた。
「今夜……だけなら……」
私にしては勇気を出した言葉を聡次郎さんは満面の笑みで受け入れた。
今のアパートの契約もある。すぐに一緒に住む提案は受け入れられないけれど、ここまで迎えに来てくれた聡次郎さんを帰らせるのは申し訳ない気がした。
「荷物取って来るので待っててください」
「わかった」
部屋に帰った私は一泊分の荷物をボストンバッグに詰めた。明日は都合よく龍峯での勤務だ。今ではもう聡次郎さんの部屋から出勤しても社員の目を気にしなくてもいいのだ。
明日の着替えと歯ブラシと化粧水とメイク落としも。充電器にドライヤー、万が一体調を崩すといけないから常備薬を入れて……。
気がつけばバッグの中には一泊分以上の荷物が入っていた。今夜だけと言ったのに必要のない日用品を持っていこうとする自分がおかしい。
車に戻ると「大荷物だな」とパンパンに膨れたボストンバッグを見て聡次郎さんも笑った。
「女の子には色々あるんですよ」
「はいはい」
運転している聡次郎さんはとても機嫌がよさそうだ。
聡次郎さんと一緒に住むということに実感は持てない。過去の恋人とも同棲の経験はない。同棲したいと思ったこともないけれど、聡次郎さんとなら悪くはないと思えていた。
聡次郎さんの部屋に入っても緊張のあまり突っ立っていた。何度も来て食事をした部屋なのに、今日はいつもと違うように感じてしまう。そんな私に彼は「梨香、お茶」と言ってきた。
「自分で淹れてください」
「俺のは美味しくないんだよ」
「私のお茶だって美味しいとは言ってくれないくせに」
私の指摘に聡次郎さんは返事をすることなく「先に風呂入るから淹れといて」と言ってバスルームに行ってしまった。
ソファーの上にボストンバッグを置くと、もう勝手知ったるキッチンに立って準備をした。
お湯が沸くのを待つ間明日の朝ごはんを考えることにした。聡次郎さんの家でご飯を作ることも増えたから、冷蔵庫にはある程度の食材が入っている。
メニューを決めたところで聡次郎さんがバスルームから出てきた。
髪を濡らしたまま私の後ろに立ち、「お茶はあとでいいから風呂入ってこいよ」と言われ、忘れていた緊張感が戻ってくる。
「う、うん、入ってくる……」
今まで何度も聡次郎さんの部屋に来たけれど、いつもその日の内に帰ることが前提だった。でも今夜はもうこの部屋から出ないのだ。緊張しないわけがない。
ボストンバッグから下着やメイク落としを出したとき、パジャマを忘れたことに気がついた。
「パジャマ忘れた……」
「まじか、俺の貸そうか?」
「お願いします……」
「こんなに大荷物なのにパジャマ忘れるなんてうける」
「もう、自分でも呆れてるんだから笑わないでください」
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