アフタヌーンの秘薬

秋葉なな

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【中揉】廻り乾く心

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退勤時間の午後8時。閉店作業を終えタイムカードを押し、事務所の麻衣さんに挨拶してビルを出ようとしたときスマートフォンが鳴った。応答すると、聡次郎さんの声が耳に馴染む。

「今本社に戻ってきた」

「お疲れ様です」

心なしかお互いに機嫌のいい声を出している気がする。付き合い始めたというだけでこんなにも変わるのかと驚く。

「会いたい……」

思わず私からそう告げた。

「俺もだよ」

聡次郎さんの優しい声が心地いい。

「今家にいるから来て」

「うん。今行く」

通話を切ってエレベーターに乗り16階のボタンを押した。途中の階で止まって残業をしている社員が乗ってきたら不審に思われるかもしれないけれど、誰にも邪魔されることなく16階に止まった。玄関のチャイムを押すとすぐにドアが開き、スーツのままの聡次郎さんは私の顔を見るなり腕を取ると中に引き込んだ。

「聡次郎さん?」

玄関に引っ張り入れられドアが閉まると、私の体は聡次郎さんの腕に包まれた。

「会いたかった……」

耳元で囁かれて体が疼く。だから私も聡次郎さんの耳元で「私も、数時間会えないことが寂しかった」と囁いた。

「弁当食べれなくてごめん」

「いいよ。また作ってくるから」

「今日の弁当は夕飯として食べるよ」

その言葉に私は「あ……」と呟いた。

「聡次郎さん……お弁当はその……」

「まさか俺の分も食べちゃったの?」

冗談ぽく笑う聡次郎さんに申し訳なさが増す。

「そうじゃなくて……月島さんに……」

「明人に?」

「聡次郎さん何時に帰ってくるかわからなかったから、代わりに……」

「明人にあげちゃったってこと?」

聡次郎さんの声は先ほどと打って変わって怒りがこもっている。

「なにそれ。俺のために作ったのに?」

「ごめんなさい……」

「そういうことかよ」

「え?」

急に私を抱きしめる腕の力が弱くなった。

「やっぱり明人が好きなんだ?」

「はい?」

聡次郎さんの言葉が理解できなくて間抜けな声が出てしまった。

「梨香は最初から明人ばっか見てたもんな」

「そんなことは……」

「どんなときも明人には笑いかけて、明人の言うことには素直に従ってきたよな」

先ほどまでの甘い雰囲気が一切感じられない、冷たい声に体が震える。

「そんなことないって! 月島さんのことは何とも思ってないよ!」

負けじと言い返すけれど、聡次郎さんは私の言葉など耳に入らないようだ。

「明人に近づきたいから弁当渡したんだろ」

「そんなわけない!」

「どうだか」

さっきまでの聡次郎さんとはまるで別人。契約を交わした頃の怖い人に戻ったようだ。怒っている理由が子供のようで、どうフォローしたらいいのか戸惑う。

「梨香はさ、俺のことなんて本当はどうでもいいんだろ。明人のそばにいたいから俺と契約したんじゃないの?」

「………」

これは否定できなかった。確かに始めは月島さんとの距離が近づくのではと期待したこともあった。

「今だって実は明人のそばにいたいから俺のことを好きなふりをしてるんじゃないの?」

思わず聡次郎さんの肩を押して離れた。

「そんなわけない!」

「俺を利用したんだろ」

「聡次郎さんには言われたくないよ!」

利用したのはどっちだ。理解しがたい偽装婚約に巻き込んだのはどっちだ。

至近距離で怒りをぶつけ合う。こんなことになるなら月島さんにお弁当を渡さなければよかった。月島さんに恋愛感情はない。容姿が素敵だから惹かれたのは確かだけれど、一緒に過ごした時間が私の気持ちを動かしたのだと聡次郎さんには伝わらない。

「いいこと教えてやるよ。明人には彼女がいるんだよ」

そう言った聡次郎さんの顔は私をバカにする意地悪な顔だ。

「だから明人が梨香を好きになることなんて絶対にない」

言葉でも私を押さえつけようとする聡次郎さんに恐怖を感じた。

「残念だったな」

私を好きだと言った口が私を傷つける言葉を吐いている。今度は私が泣きそうになる。その潤んだ目を見ても聡次郎さんは冷たい顔で私を見下ろした。

「聡次郎さんをただ利用してるだけだったら今この部屋には来てない!」

「………」

私の言うことなんて信じないと聡次郎さんの目が言っているようだ。それでも私は誤解を解きたくて必死になった。気持ちが通じ合ったと思ったらもう言い合いなんて馬鹿げている。

「私の気持ちは月島さんにはないの!」

「………」

「月島さんのことなんて何とも思ってない……」

「もう明人の名前を言うな」

一層冷たい声に私は口を噤んだ。
涙が溢れそう。そう思ったとき聡次郎さんの体が再び私を包み、唇が強く私の唇に触れた。驚いて離そうとしたけれど聡次郎さんの手が私の頭の後ろに回り、唇が離れられないよう押さえられた。

「ん! ……ん!」

腕で押しても聡次郎さんは離れない。ならば唇を噛んでやると口を開いた隙に聡次郎さんの舌が口の中に侵入してくる。

「っ……やっ……」

キスの合間に抵抗しても言葉にならない。私の気持ちを無視した強引さについに涙が頬を伝った。涙が聡次郎さんの頬にもつき、濡れた感触でやっと我に返った聡次郎さんは唇を離した。

「放してください」

今度は私が冷たく言った。ゆっくりと体から聡次郎さんの腕が離れ、私は乱れた呼吸を整えコートの袖で涙を拭った。
見上げた聡次郎さんの顔も不安で涙が溢れそうになっている。

「私、中途半端な気持ちで聡次郎さんに抱かれたわけじゃない……」

押し倒されて抵抗しなかったのは聡次郎さんが好きだったから。

「でももうやめましょう……初めからうまくいかないんです」

「梨香……」

「失礼します」

振り返って玄関のドアを開け外に出た。聡次郎さんは手を上げて私を引きとめようとしたけれど、その手に気づかないふりをした。後ろでドアが閉まっても1度も振り返らないでエレベーターに乗った。
龍峯のビルの外に出て駅まで歩いたけれど、聡次郎さんが追いかけてくる気配はなかった。

これで終わった。
聡次郎さんとの新しい関係は始まってすぐに終わったのだ。



◇◇◇◇◇



龍峯を退職することに決めた。もう聡次郎さんの近くにはいられない。今では大好きになってしまった日本茶の仕事から離れるのは惜しいけれど仕方がない。興味を持てることが見つかっただけでも私の人生に大きな影響があった。それだけは聡次郎さんに感謝している。

龍峯に出勤すると事務所には麻衣さんしかいなかった。花山さんは午後からの出社だという。
退職したいと言うのなら花山さんよりも麻衣さんに伝えたかったので好都合だ。花山さんに言ったらどんな嫌みを言われるか憂鬱だったから。

「おはようございます……」

「おはようございます。梨香さん、顔色が良くないけど大丈夫?」

「そうですか?」

思わず両手で頬を触った。確かに体はいつも以上にだるいしぼんやりする。今朝は起きるのも辛かった。

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