アフタヌーンの秘薬

秋葉なな

文字の大きさ
上 下
18 / 43
【揉捻】回転する想い

しおりを挟む

私は聡次郎さんの部屋を出るとエレベーター横の非常階段から1つ上の階に上った。17階の部屋のチャイムを鳴らすと中から社長夫人である麻衣さんが顔を出した。

「あれ、梨香さんどうしたの? 今日は聡次郎さんとお出かけなんじゃ?」

私よりも1回り近く年上だろう整った顔立ちの麻衣さんはサラサラなセミロングの髪を揺らして首をかしげた。

「実は今聡次郎さんの部屋でご飯作ってて、でも聡次郎さんの部屋には調理器具が全然なくて……申し訳ないのですがお借りしたいんですが……」

情けないほど暗い声で事情を話す私に麻衣さんは微笑んだ。

「聡次郎さん料理しないからね。何が必要かしら?」

「フライパンとフライ返しを貸していただければなんとかなります」

最低限それだけあればいい。ハンバーグは作れるだろう。

「ちょっと待っててね。中に入って」

麻衣さんに促され玄関に入って待たせてもらうことにした。
部屋の奥に入っていった麻衣さんに視線を向けると、ドアの向こうに少しだけ見えるリビングは綺麗に片付いている。
聡次郎さんの必要最低限のものだけあるシンプルな部屋とは違って、物はあるけれど整理整頓されている。

まだ子供がいない社長夫婦は跡継ぎ問題で悩んでいるのだとパートさんたちから聞いていた。この老舗企業も例に漏れず大変なのだろう。

子供がいないから麻衣さんは会社を手伝っているのかもしれない。店舗に関する事務処理全般を担い、本店店長である花山さんが休みの日は本店のサポートもしてくれている。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

麻衣さんはフライパンとフライ返しを持って戻ってきた。

「聡次郎さんが女の子を部屋に招くなんて初めてじゃないかな」

「そうなんですか?」

「今まで恋人はいたんだろうけど、家族に紹介したことはなかったみたい。慶一郎さんは梨香さんを紹介されたとき喜んでたの」

歓迎されているのは嬉しい。だからこそ、偽の関係が申し訳なく思うのだ。

「婚約してるならもう一緒に住んじゃえばいいのに」

「いえ、そこまでは……」

聡次郎さんと同棲なんてとんでもない。ストレスが溜まりそうで、それだけはどんなに大金を積まれても勘弁してほしい。

「龍峯でのお仕事も順調そうで良かったわ」

「そうでしょうか……」

「頑張ってね。聡次郎さんよりもお茶に詳しくなるくらいに」

「はい……」

知識はあってもお茶を淹れるのが下手な聡次郎さんよりは私の方が技術は上かもしれない。
今は淹れ方の他に川田さんから借りたテキストで製造工程や歴史、流通まで勉強し始めたところだ。

聡次郎さんの部屋まで戻ると相変わらずソファーでマンガを読んでいた。
私が戻ってきたのに気づいた聡次郎さんはちらっと私を見て小さく「ありがとう」と呟いた。たまにはお礼も言えるじゃん、と私は感心した。

思えば聡次郎さんにお礼を言われたことは少ない。契約を交わすと言ったときに「ありがとうございます」とビジネス感満載に言われたことならあるのだけれど。

「梨香、腹減ったー」

こういうところは子供だ。

「はいはい、作りますよ」

いい加減な返事をしながらIHコンロにフライパンを置いた。

ハンバーグの材料をこねているときも「今何してんの?」と聞いてくるし、小判型に丸めているときも「俺のでかくして」と口を挟んでくる。

「梨香、あとどれくらい?」

「まだ全然!」

フライパンでハンバーグを焼き始めて蓋をしたところだ。まだ数分かかるのに聡次郎さんも数分おきに話しかけてくる。

「気になるなら手伝って!」

「しょうがないな……」

聡次郎さんは渋々といった様子で立ち上がり私の横まで来た。

「何手伝うの?」

「ブロッコリーを洗って小房に分けて」

「はいよー」

適当な返事だけれど顔は嫌そうではない。老舗企業のお坊ちゃまがブロッコリーを洗うなんて滅多に見れない光景だろう。

「そういえば以前は家政婦さんがご飯を作ってたんでしたっけ?」

月島さんのお母さんも龍峯の家政婦だったと言っていた。

「家政婦が作ってくれるときもあったけど、食事は母さんがほとんどだったな。料理は得意みたいだし」

「そう……」

慣れ親しんだお母さんの料理と家政婦さんの料理。私の料理はそれにはとても及ばないのだろうと不安になる。
聡次郎さんに好かれたいわけじゃないけど、まずいご飯を作るのは申し訳ない。自分で自分の分を作るのは問題ないけれど、一流のものを食べていそうな聡次郎さんを満足させるものは作れる気がしない。



ローテーブルにハンバーグのお皿と野菜を切ったり茹でたりしただけの簡単なサラダを載せ、インスタントのお味噌汁とご飯茶碗を置いた。

「いただきます」

1番にハンバーグに箸をつけた聡次郎さんを見つめた。

「……うまい」

「本当に?」

「うん。本当にうまい」

味わうように噛みながら微笑む聡次郎さんにほっとした。

「あ、飲み物を忘れていました」

冷蔵庫に入っていたお水でいいかと思ったのだけれど、聡次郎さんが「お茶淹れて」と言った。

「龍清軒でいいですか?」

「食器棚の真ん中の引き出しに他のお茶の葉も入ってるから、梨香が飲みたいものでいいよ」

食器棚の引き出しを開けると龍清軒の他に龍峯で扱っているお茶の葉が未開封の状態で入っていた。

「どれもまだ開いてないよ?」

「自分じゃ淹れて飲まないんだよ。梨香が飲みたいの開けていいから」

そう言われても1度封を切ってしまったお茶の葉は風味が落ちていく一方だ。聡次郎さんのように自宅でお茶を飲まない人にはもったいない。
開封され輪ゴムで留められている龍清軒も賞味期限はまだ持つけれど、いつ開封したものかわからない。

「そうだ、さっき買ったお茶を飲んでみよう」

お茶の雑貨店で買ったお茶の葉を今飲んでみたくなった。

「同じ普通煎茶でも水色は龍峯の商品の方がちょっと濃いかな」

実際に淹れてみた雑貨店のお茶は香りも龍峯のものよりも弱い。

「でも口に入れると香りは鼻に抜ける。濃い味の食事のときにはちょうどいいかも」

お茶を一口飲んで感想を勝手に話す私に聡次郎さんは笑っている。

「いつの間にかお茶に興味を持ったのな」

「まあ……龍峯で働いてたら自然と」

「初日には自信がないなんて言ってたのに」

「少しは勉強したから」

「どれどれ」

聡次郎さんは私の淹れたお茶を口に含んだ。

「……まあまあだな」

「またそれ?」

いつもと同じ感想だ。この人は私が何をどう淹れようと褒めたりはしない。
以前にも思ったけれど聡次郎さんはお茶が好きではないのかもしれない。もしくはお茶の味の違いがわからない人なのだろうか。

「聡次郎さんってどんなお茶が好きなんですか?」

「お茶は好きじゃない。コーヒーか、飲んでも紅茶。日本茶は元々好きじゃない」

やはりそうかと納得する。

「でもいつも私に淹れてって言ってくるじゃない」

お茶の淹れ方を知った初日から強制的に淹れさせて飲んだのに。

「梨香の練習のためだよ。俺の婚約者がいつまでもまずいお茶を淹れてたら格好がつかない」

「じゃあどうして龍峯に戻ったの? 格好がつかないと言うならいずれ別れる契約なんてしない方がいいし、飲料メーカーに勤めたままでも……」

そこまで言ってからしまったと口を閉じた。聡次郎さんや龍峯の事情は私には関係ない。契約をしているといっても、私が軽々しく聞いてはいけない事情があるのだと察していたはずなのに。

「すみません……余計なことを……」

「兄貴が大変だと思ったから」

聡次郎さんは静かに言った。

「兄貴は元々俺と同じでこの会社に興味はなかったんだ。でも創業110年のこの会社を維持しようと必死だ。俺はその助けになりたいと思ったんだ」

「そうなんだ……」

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

FLORAL-敏腕社長が可愛がるのは路地裏の花屋の店主-

さとう涼
恋愛
恋愛を封印し、花屋の店主として一心不乱に仕事に打ち込んでいた咲都。そんなある日、ひとりの男性(社長)が花を買いにくる──。出会いは偶然。だけど咲都を気に入った彼はなにかにつけて咲都と接点を持とうとしてくる。 「お昼ごはんを一緒に食べてくれるだけでいいんだよ。なにも難しいことなんてないだろう?」 「でも……」 「もしつき合ってくれたら、今回の仕事を長期プランに変更してあげるよ」 「はい?」 「とりあえず一年契約でどう?」 穏やかでやさしそうな雰囲気なのに意外に策士。最初は身分差にとまどっていた咲都だが、気づいたらすっかり彼のペースに巻き込まれていた。 ☆第14回恋愛小説大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございました。

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~ その後

菱沼あゆ
恋愛
その後のみんなの日記です。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

冷徹上司の、甘い秘密。

青花美来
恋愛
うちの冷徹上司は、何故か私にだけ甘い。 「頼む。……この事は誰にも言わないでくれ」 「別に誰も気にしませんよ?」 「いや俺が気にする」 ひょんなことから、課長の秘密を知ってしまいました。 ※同作品の全年齢対象のものを他サイト様にて公開、完結しております。

捨てる旦那あれば拾うホテル王あり~身籠もったら幸せが待っていました~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「僕は絶対に、君をものにしてみせる」 挙式と新婚旅行を兼ねて訪れたハワイ。 まさか、その地に降り立った途端、 「オレ、この人と結婚するから!」 と心変わりした旦那から捨てられるとは思わない。 ホテルも追い出されビーチで途方に暮れていたら、 親切な日本人男性が声をかけてくれた。 彼は私の事情を聞き、 私のハワイでの思い出を最高のものに変えてくれた。 最後の夜。 別れた彼との思い出はここに置いていきたくて彼に抱いてもらった。 日本に帰って心機一転、やっていくんだと思ったんだけど……。 ハワイの彼の子を身籠もりました。 初見李依(27) 寝具メーカー事務 頑張り屋の努力家 人に頼らず自分だけでなんとかしようとする癖がある 自分より人の幸せを願うような人 × 和家悠将(36) ハイシェラントホテルグループ オーナー 押しが強くて俺様というより帝王 しかし気遣い上手で相手のことをよく考える 狙った獲物は逃がさない、ヤンデレ気味 身籠もったから愛されるのは、ありですか……?

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

処理中です...