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【粗揉】圧力をかわし野望を濁す
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◇◇◇◇◇
龍峯茶園本店の初出勤は、聡次郎さんのご家族に挨拶をした3日後になった。
基本の始業は10時からだと言われたけれど、この日は9時に会社に来るように言われていた。
電車に乗り古明橋に着くと駅周辺は会社員で溢れている。普段平日の朝にオフィス街に来ることがないから、会社に向かうスーツを着た人たちと並んで歩くと自分も会社員になったような気になってしまう。
私がスーツを着たのは面接のときだけだ。契約社員として働いていたファーストフード店が閉店してから就職活動をした。けれど高卒で資格も経験もない私が採用されることはなかった。いつかは正社員にと思いながら、生活のために始めたカフェのバイトがいつの間にかメインになっていた。
ファーストフード店のときにもカフェでも、私が考案して採用されたメニューはあった。飲食業は嫌いではない。けれど販売業に飛び込むのは今回が初めてだ。
この契約に明確な期限が決まっていないなら、今の生活を送りつつ慣れたら新しい仕事を探そう。お茶屋なんて全く興味が無い。いずれ聡次郎さんとの契約が切れたら、すぐに新しい仕事を始めようと思った。
龍峯茶園のビルの前に着いた。言われたとおり正面からは入らず、駐車場を抜けて裏口からビルの中に入り、すぐ近くの扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
扉の向こうは本店の事務所だと聞いていた。中には月島さんと1人の女性がパソコンに向かって座っていた。
「おはようございます。三宅梨香と申します。今日からよろしくお願い致します」
「よろしくお願い致します」
月島さんも軽く頭を下げた。そうして座っていた女性が立ち上がった。
「本店店長の花山と申します。よろしくお願い致します」
私より10歳ほど年上だろう花山さんは見るからに厳しそうな人だった。目に迫力があるのはアイラインが太く濃く引かれているからだけではない。
「本店を任されていますが、仕事を教えるのは基本的には他のパートさんです」
そう言った口調も冷ややかだ。何となく歓迎されていないのが伝わった。
「わかりました」
「先に社長室に行ってください。社長と奥様が待っています」
そう言ったのは月島さんだ。
「社長室ですか?」
「エレベーターで15階に上がって左の部屋です」
「はい」
ということはこの間入った応接室の隣の部屋だろう。その部屋かとはっきり聞かないのは私が今日初めてここに来たことになっているからだ。花山さんの前で私が社長室の場所を知っているとは言えないのだ。
事務所を出るとエレベーターのドアがちょうど開き、中から聡次郎さんが出てきた。
「お、早いじゃん」
「おはようございます」
初めて会ったときと同じくスーツを着た聡次郎さんは以前と雰囲気が違った。整髪料などつけていなそうだったのに、今日はきっちりと髪が整えられている。
「俺も今日から龍峯の社員」
「そうなんだ……」
「専務として挨拶回りだよ。面倒だけど」
「え、聡次郎さんって専務なんですか?」
龍峯の社員になるとはいっても、まさか専務になるなんて思っていなかった。
「そうだよ。社長の弟だからってだけで、古参の社員を飛び越えてさ。お茶のこと、会社のことなんてちっともわからないのに」
またも聡次郎さんはバカにしたように笑った。本当にこの会社が嫌いなのだろう。そしてここで働くことになった自分も嫌いなのだとその笑顔が語っているように感じた。
「梨香は今どこ行こうとしてたの?」
「社長室です。お兄さんとお母様が待っているそうで……」
「そう。まあ頼むよ」
「はい……」
他人事のような言葉にほのかに怒りが湧いた。
「緊張してる?」
「はい……少しだけ」
「俺も」
聡次郎さんは私に向かって微笑んだ。不覚にもその笑顔に怒りが消えた。今までと違う環境に身を置くことが不安なのは聡次郎さんも一緒なのに、私に笑顔を見せてくれるから気持ちがほんの少し軽くなる。
「頑張れ」
そう言った聡次郎さんは私の頭に手を置いて優しく撫でた。
「え?」
状況が飲み込めず驚いたときには聡次郎さんの手は離れ、私を残して事務所に入っていった。
今、頭を撫でられた……。
意外な行動に固まった。まさか聡次郎さんがあんなことをするなんて。
そうか、婚約者だもんね。頭を撫でるくらいはするよね。
そう納得して、既に閉まってしまったエレベーターのボタンを押した。
15階で降りると社長室だと思われるドアをノックした。
「どうぞ」の声に「失礼します」と言って入ると、中には応接室と同じくソファーとテーブルがあり、聡次郎さんのお母さんが座っていた。奥のデスクに座った慶一郎さんが立ち上がって「おはようございます」と笑顔を向けてくれた。
「おはようございます。今日からよろしくお願い致します」
2人に挨拶をするとお母さんが座るようにと促した。
「失礼します」
お母さんの向かいに座ると「早速ですが」と冷たい声を浴びせてきた。
「聡次郎と婚約していることは伏せて働いてもらいます」
「はい。わかりました」
言われなくてもそのつもりだった。ここで働く気は無かったけれど、働くとなったら全力で働く。聡次郎さんの婚約者だと知れたら働きにくいだろうなとは思っていた。
「他の社員やパートさんは梨香さんを新人のバイトさんだと思って接します。なので僕たちの呼び方も他の方と同じようにお願いします」
「呼び方とは?」
「例えば僕のことは社長で、母さんは奥様かな」
「ああ、はい」
「聡次郎は専務で、麻衣は……そのまま麻衣さんかな」
「麻衣さん?」
「ああ、僕の奥さん。あとで紹介するね。会社も手伝ってくれてるから」
慶一郎さんは照れたように笑った。ご結婚されているとは知らなかった。この家のことだから慶一郎さんも政略結婚かな、なんて憶測をしてしまう。
「でもみんななぜか奥さんとは呼ばないんだよね。麻衣さんって呼ぶんだ。本人もその方がいいみたいで。だから梨香さんも麻衣でいいよ」
「はい……」
満面の笑みの慶一郎さんはきっと奥さんのことが大好きなのだろうと思った。
「梨香さんには厳しく指導させてもらうのでそのつもりで」
お母さん、いや、奥様の言葉に不安を覚えた。聡次郎さんの婚約者だからって必要以上に厳しくされてはやる気も殺がれてしまう。
「母さん、余計なことはしなくていいんだ」
慶一郎さんの言葉に奥様は何も言わないけれど、きっとこの人は私に他の人以上に厳しい目を向けるだろう。
「書いてもらっていなかったアルバイト雇用契約書です」
慶一郎さんは立ち上がって私の前に1枚の紙を差し出した。
「読んで問題なければサインと印鑑をお願いします」
「わかりました」
月島さんの契約書よりも細かい字で難しい言葉の多い契約書に簡単に目を通し、名前を書いて持ってきた印鑑を押した。
「ではお店に戻ってください。今からお仕事スタートです」
慶一郎さんは聡次郎さんと違って穏やかで明るい。社長という肩書きのせいなのか、気分屋の聡次郎さんとはあまり似ていない。
「よろしくお願いします。ありがとうございました」
私は社長室を後にすると再び1階の事務所に戻った。事務所にはもう月島さんの姿はなく、聡次郎さんもいなかった。ただ1人花山さんだけが待っていた。
「では最初に会社を案内します」
花山さんに連れられて2回目の会社案内が始まった。月島さんに既に案内されているとは言えなかった。私は今日初めてここに来たことになっている。
階段で3階に上がると倉庫の横にある更衣室に案内された。
「着替えはこの中で。ロッカーに三宅さんの名前のプレートが貼ってあります。そこを自由に使ってください。私は外にいますから」
「はい」
淡々と話す花山さんが外に出て更衣室のドアが閉まった途端、自然と溜め息が出た。花山さんと話すと息苦しい気がする。威圧されているわけでもないのにそばに居ると苦しい。
ロッカーの中にはクリーニング店のビニールに入った濃い緑のエプロンと、真っ白いワイシャツが入っていた。既に穿いてきていた黒いパンツの上にワイシャツを着て、首にエプロンをかけて腰で紐を結んだ。
緑がお茶の色を表しているのだろう。カフェの制服を見慣れているからシンプルな制服は私には似合っていない気がする。そのうちこれも馴染むのだろうか。
龍峯茶園本店の初出勤は、聡次郎さんのご家族に挨拶をした3日後になった。
基本の始業は10時からだと言われたけれど、この日は9時に会社に来るように言われていた。
電車に乗り古明橋に着くと駅周辺は会社員で溢れている。普段平日の朝にオフィス街に来ることがないから、会社に向かうスーツを着た人たちと並んで歩くと自分も会社員になったような気になってしまう。
私がスーツを着たのは面接のときだけだ。契約社員として働いていたファーストフード店が閉店してから就職活動をした。けれど高卒で資格も経験もない私が採用されることはなかった。いつかは正社員にと思いながら、生活のために始めたカフェのバイトがいつの間にかメインになっていた。
ファーストフード店のときにもカフェでも、私が考案して採用されたメニューはあった。飲食業は嫌いではない。けれど販売業に飛び込むのは今回が初めてだ。
この契約に明確な期限が決まっていないなら、今の生活を送りつつ慣れたら新しい仕事を探そう。お茶屋なんて全く興味が無い。いずれ聡次郎さんとの契約が切れたら、すぐに新しい仕事を始めようと思った。
龍峯茶園のビルの前に着いた。言われたとおり正面からは入らず、駐車場を抜けて裏口からビルの中に入り、すぐ近くの扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
扉の向こうは本店の事務所だと聞いていた。中には月島さんと1人の女性がパソコンに向かって座っていた。
「おはようございます。三宅梨香と申します。今日からよろしくお願い致します」
「よろしくお願い致します」
月島さんも軽く頭を下げた。そうして座っていた女性が立ち上がった。
「本店店長の花山と申します。よろしくお願い致します」
私より10歳ほど年上だろう花山さんは見るからに厳しそうな人だった。目に迫力があるのはアイラインが太く濃く引かれているからだけではない。
「本店を任されていますが、仕事を教えるのは基本的には他のパートさんです」
そう言った口調も冷ややかだ。何となく歓迎されていないのが伝わった。
「わかりました」
「先に社長室に行ってください。社長と奥様が待っています」
そう言ったのは月島さんだ。
「社長室ですか?」
「エレベーターで15階に上がって左の部屋です」
「はい」
ということはこの間入った応接室の隣の部屋だろう。その部屋かとはっきり聞かないのは私が今日初めてここに来たことになっているからだ。花山さんの前で私が社長室の場所を知っているとは言えないのだ。
事務所を出るとエレベーターのドアがちょうど開き、中から聡次郎さんが出てきた。
「お、早いじゃん」
「おはようございます」
初めて会ったときと同じくスーツを着た聡次郎さんは以前と雰囲気が違った。整髪料などつけていなそうだったのに、今日はきっちりと髪が整えられている。
「俺も今日から龍峯の社員」
「そうなんだ……」
「専務として挨拶回りだよ。面倒だけど」
「え、聡次郎さんって専務なんですか?」
龍峯の社員になるとはいっても、まさか専務になるなんて思っていなかった。
「そうだよ。社長の弟だからってだけで、古参の社員を飛び越えてさ。お茶のこと、会社のことなんてちっともわからないのに」
またも聡次郎さんはバカにしたように笑った。本当にこの会社が嫌いなのだろう。そしてここで働くことになった自分も嫌いなのだとその笑顔が語っているように感じた。
「梨香は今どこ行こうとしてたの?」
「社長室です。お兄さんとお母様が待っているそうで……」
「そう。まあ頼むよ」
「はい……」
他人事のような言葉にほのかに怒りが湧いた。
「緊張してる?」
「はい……少しだけ」
「俺も」
聡次郎さんは私に向かって微笑んだ。不覚にもその笑顔に怒りが消えた。今までと違う環境に身を置くことが不安なのは聡次郎さんも一緒なのに、私に笑顔を見せてくれるから気持ちがほんの少し軽くなる。
「頑張れ」
そう言った聡次郎さんは私の頭に手を置いて優しく撫でた。
「え?」
状況が飲み込めず驚いたときには聡次郎さんの手は離れ、私を残して事務所に入っていった。
今、頭を撫でられた……。
意外な行動に固まった。まさか聡次郎さんがあんなことをするなんて。
そうか、婚約者だもんね。頭を撫でるくらいはするよね。
そう納得して、既に閉まってしまったエレベーターのボタンを押した。
15階で降りると社長室だと思われるドアをノックした。
「どうぞ」の声に「失礼します」と言って入ると、中には応接室と同じくソファーとテーブルがあり、聡次郎さんのお母さんが座っていた。奥のデスクに座った慶一郎さんが立ち上がって「おはようございます」と笑顔を向けてくれた。
「おはようございます。今日からよろしくお願い致します」
2人に挨拶をするとお母さんが座るようにと促した。
「失礼します」
お母さんの向かいに座ると「早速ですが」と冷たい声を浴びせてきた。
「聡次郎と婚約していることは伏せて働いてもらいます」
「はい。わかりました」
言われなくてもそのつもりだった。ここで働く気は無かったけれど、働くとなったら全力で働く。聡次郎さんの婚約者だと知れたら働きにくいだろうなとは思っていた。
「他の社員やパートさんは梨香さんを新人のバイトさんだと思って接します。なので僕たちの呼び方も他の方と同じようにお願いします」
「呼び方とは?」
「例えば僕のことは社長で、母さんは奥様かな」
「ああ、はい」
「聡次郎は専務で、麻衣は……そのまま麻衣さんかな」
「麻衣さん?」
「ああ、僕の奥さん。あとで紹介するね。会社も手伝ってくれてるから」
慶一郎さんは照れたように笑った。ご結婚されているとは知らなかった。この家のことだから慶一郎さんも政略結婚かな、なんて憶測をしてしまう。
「でもみんななぜか奥さんとは呼ばないんだよね。麻衣さんって呼ぶんだ。本人もその方がいいみたいで。だから梨香さんも麻衣でいいよ」
「はい……」
満面の笑みの慶一郎さんはきっと奥さんのことが大好きなのだろうと思った。
「梨香さんには厳しく指導させてもらうのでそのつもりで」
お母さん、いや、奥様の言葉に不安を覚えた。聡次郎さんの婚約者だからって必要以上に厳しくされてはやる気も殺がれてしまう。
「母さん、余計なことはしなくていいんだ」
慶一郎さんの言葉に奥様は何も言わないけれど、きっとこの人は私に他の人以上に厳しい目を向けるだろう。
「書いてもらっていなかったアルバイト雇用契約書です」
慶一郎さんは立ち上がって私の前に1枚の紙を差し出した。
「読んで問題なければサインと印鑑をお願いします」
「わかりました」
月島さんの契約書よりも細かい字で難しい言葉の多い契約書に簡単に目を通し、名前を書いて持ってきた印鑑を押した。
「ではお店に戻ってください。今からお仕事スタートです」
慶一郎さんは聡次郎さんと違って穏やかで明るい。社長という肩書きのせいなのか、気分屋の聡次郎さんとはあまり似ていない。
「よろしくお願いします。ありがとうございました」
私は社長室を後にすると再び1階の事務所に戻った。事務所にはもう月島さんの姿はなく、聡次郎さんもいなかった。ただ1人花山さんだけが待っていた。
「では最初に会社を案内します」
花山さんに連れられて2回目の会社案内が始まった。月島さんに既に案内されているとは言えなかった。私は今日初めてここに来たことになっている。
階段で3階に上がると倉庫の横にある更衣室に案内された。
「着替えはこの中で。ロッカーに三宅さんの名前のプレートが貼ってあります。そこを自由に使ってください。私は外にいますから」
「はい」
淡々と話す花山さんが外に出て更衣室のドアが閉まった途端、自然と溜め息が出た。花山さんと話すと息苦しい気がする。威圧されているわけでもないのにそばに居ると苦しい。
ロッカーの中にはクリーニング店のビニールに入った濃い緑のエプロンと、真っ白いワイシャツが入っていた。既に穿いてきていた黒いパンツの上にワイシャツを着て、首にエプロンをかけて腰で紐を結んだ。
緑がお茶の色を表しているのだろう。カフェの制服を見慣れているからシンプルな制服は私には似合っていない気がする。そのうちこれも馴染むのだろうか。
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