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涼暮つき

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第八章 黒川巽の場合

黒川巽の場合②

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 結局、そのあとしばらくして日南子から電話が入り、それに気付いて赤松を連れて店を後にした灰原の気遣いに感謝する事になった。
 彼女から飲み会の事は聞いてはいたものの、時間を気にせずに楽しみたいから、と日南子は最初からタクシーで帰る予定であった。年末の大雪の夜の事もあり、何かの用事で遅くなるような時には連絡をするようにと彼女に言ってあった。
 まるで娘の帰りを心配する父親のようだと自分でも思うが、それだけ日南子のことが心配だということ。あの夜のような思いはもうしたくない。
 約束通り連絡をくれた日南子に「迎えに行っていいか」と訊ねると、彼女がそれを快諾してくれたのをいいことに、巽は今、駅まで車を走らせている。
 少し前までは、想像もしていなかったこと。今までの相手からも頼まれれば迎えに行くくらいのことはした覚えがあるが、自分からそんなことを言いだす日が来るとは。
 信号が青に変わり、巽はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 駅の送迎レーンに車を着けると、それに気づいた日南子が友達らしき女性に手を振ってこちらに小走りに掛けて来た。
 顔が見える位置までやって来たかと思うと、嬉しそうに手を振る日南子の姿がやたら可愛いと思う辺り、自分の色ボケ加減に思わず苦笑いをする。
 助手席にに手を伸ばしドアを軽くあけてやると、日南子が躊躇いもなくそこに乗り込んだ。
「ビックリした。迎えに来てくれるなんて……」
「ああ。たまたま店ひまで早く閉めたんだよ」
「タクシーで帰る気満々だったのに、巽さんから迎えに行こうかなんて言うから──」
「ダメだった?」
「ダメなんじゃなくて、嬉しいんですー! 喜んでるんです……じゃなくて喜んでるの! 今日会えるって思ってなかったし」
 そう言って本当に嬉しそうに笑った日南子にこちらまで嬉しい気持ちが伝染する。

 付き合い始めてまだ一カ月にも満たないが、以前とは少し変わったことがある。
 日南子の口調が意識的に、変えられている。歳が離れているのを気にしてか、元々そういう性格なのか、一向に俺に対する堅苦しい敬語が抜ける様子のない彼女に、巽が頼んだこと。
 もっと普通に話してくれたほうが嬉しい。敬語なんか使うな──と。
 それに対する努力をしてくれているのか、たいぶ敬語抜きで話してくれるようになったが、時折それが出るのはまぁ御愛嬌。それはそれで可愛らしく、アワアワしている彼女を見るのが楽しいのもあり黙認している。
 せっかく付き合うようになったのだから。
 恋人になったのだから。いつまでも気を使われてその距離が縮まらないのは歯痒いものだ。
 どちらかというと性格的に遠慮がちな日南子だからこそ、自分の前でくらい“素”で居て欲しいし、少しくらい我儘を言って欲しい。
「さっき、赤松と灰原くん来てた」
「え? そうなんですか──じゃなくて。そうだったの?」
 早速の言いなおし。これ、ペナルティー付けたら面白いかもな、などと悪戯心が芽生えてくる。
「二人とも元気でした?」
 これもアウト。けれどいちいち上げ足を取っていたら会話が進まない。そこはスルーしてやる程度には自分も大人だ。
「ああ。俺も会うの久々だった。赤松んトコは仕事忙しいらしくてな」
「そうなんですね。……私も灰原くん久しく会ってないなぁ」
「今日、アレか? 前、店にも来た白川さんたちと?」
「ああ、うん。雪美さんと──事務の女の子たちと四人で。みんなお酒強いんですよー。同じペースで飲んでるとこっちが潰れちゃう」
 そう言った笑った日南子の顔や首元がほんのり赤い。
「飲み過ぎてない?」
「うん。ちゃんとセーブした」
「そか」
 ご機嫌な口調に彼女がその飲み会を楽しんでいたことが分かる。
 日南子といると忘れていたことを思い出す。好きな女が隣で笑っている。そんな些細な事で自分自身も幸せになれるのだという、当たり前のことを。
「ね」 
 信号待ちの交差点、停まった車の中で日南子がこちらをチラ、と見、何か言いたげな表情をしている。
「あ?」
「あのね。……長居はしないから、お店ちょっと寄ってもいい?」
「ああ。いいけど……明日も仕事だろ? 少しだけな」
「うん」
 お互いの仕事柄休みも合わず、付き合うようになってからも、たまにどこかに飯を食いに行くとか、日南子が仕事帰りに店に寄るとかが唯一の合う手段で、いわゆる二人きりの時間というものがあまり取れずにいる。
 あらかじめ休みを取るとなると、どうしても日南子が自分に合わせる形になり、月ごとのシフト制のため、かなり早い段階でその申告が必要になる。
 思うように会えないこともあり、こうした隙間時間で会うことを、日南子が望む限り巽は聞き入れるようにしている。
 店に着くと、裏口の鍵を開け日南子を中へ通す。先に入った日南子がカウンターの電気を点けた。
「なに飲みたい? そーいや、お袋にハーブティー貰ったんだった」
「え? なんのハーブ?」
「……なんだっけなぁ」
 そう呟きながらカウンターの戸棚を探すと、なんとなく見覚えのある包みを見つけ、それを引っ張り出した。
「あ。カモミールだ」
「じゃあ、それにする」
「つか、こっち系あんまよくわかんねーんだよな。青ちゃん知ってる?」
「職場の近くのハーブショップで飲んだことある。……自分で入れてみていい?」
 そういった日南子が入れ換わりにカウンターに入り、ティーポットの中にスプーンで測ったハーブを入れる。日南子がコーヒーマシンに手を掛けたとき「やけどすんなよ」と声を掛けると、彼女が頬を小さく膨らませてこちらを見た。
 しまった。また子供扱いだと、怒られるだろうか。
 べつに子供扱いしているつもりはないが、自分よりひとまわりも年下の彼女につい過保護になってしまうのはなぜだろうか。
「あ。いい香り。巽さんも飲む?」
「じゃあ。少しだけ」
 カウンター越しになにげなく日南子を見つめる。ポットを支える日南子の細い指が、俯いた長い睫毛が、少しだけ開いた形のいい唇が、巽の胸をざわめかせる。
 ただ、それと同時に安心もする。彼女が傍にいてくれるだけで。
 日南子が淹れてくれたハーブティーの香りが半分照明を落とした店内に広がる。
 差し出されたカップを受け取ると、彼女が巽の隣に座った。
「──来月って、仕事忙しいのか?」
 巽が訊ねると、日南子がカップを両手に持ったまま少し不思議そうな顔をした。
「……あ、いやな? 休み取ってどっか行かねーかと思って」
 そう言った瞬間、日南子の目が大きく見開かれたかと思うと、嬉しそうに何度も瞬きをして微笑んだ。
「行きたい!」
「そか」
 予想通りの反応ではあるが、こう素直に喜んで貰えると嬉しいものがある。普段、まともなデートもしてやれない分、せめてこれくらいはと、年が明けてからずっと考えていた事だ。
「巽さんお休み取れるの?」
「ああ。第三なら日曜も休みだし、連休も取れるけど」
 自営業であるため、本来休みなどは何とでもなるのだが、日南子がそれに遠慮してはいけないと思い、敢えて不自然でない休日を提案した。
「連休! ……じゃあ、ちょっと遠出して一泊とかできる?」
「ああ。青ちゃんがいいなら」
「ふふ。楽しみー! さっそく行けそうなとこ考えよーっと! 緑とか雪美さんにお薦め聞いてみる」
 正直意外ではあった。日南子自ら泊まり、などと言い出し、それを喜ぶとは。彼女にとってはおそらく初めての彼氏との旅行であろう、それに浮かれて肝心な事を忘れているのかもしれないが。
「泊まり、平気なのか?」
「え? なんで? ……巽さんとたくさん一緒にいられるの嬉しいもん」
 何の曇りもないキラキラとした目で見つめられ、大人げなくよこしまな事ばかりを考えていた自分を恥じたくなった。
 傍にいてくれればいい。隣で笑ってくれていればいい。
 そう思うのは事実だが、少しでも触れてしまえばやはりその先を望んでしまうのは男の性。
 キスすら初めてだと言っていた日南子に当然男性経験があるはずもなく。いくら大人の女だとはいえ、初めて男に抱かれるのにはそれなりの勇気と覚悟が必要なはずだ。だからこそ、日南子を部屋に泊めたことはあるが、未だ手を出してはいない。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、嬉しそうな笑顔を向ける日南子に思わず力が抜ける。
「そろそろ送る」
「あ……はい」
 時計を見て腰を上げると、日南子もそれにつられるように立ち上がった。ついさっきまで来月の休みの事で楽しそうにしていたその顔が曇るのが少し心苦しい。
 日南子が遅くまでここにいるのを許すのは、基本彼女が次の日が休みの時だけ。お互い独り暮らしとはいえ、どちらかの部屋へズルズルと入り浸るのを避けているのは、やはり大人としてのケジメ。
 真面目に将来を考えて付き合うと決めたからこそ、大事にしなくてはいけないものもある。
「……寒っ」
 裏口から通りへ出ると、日南子が肩をすくめながらコートの襟を立てた。
「マジ寒みぃな……」
 小さく呟くと、日南子が巽の口から出た白い息に目を細める。
「すごい! 息、真っ白……」
「そりゃ、こんだけ冷えりゃなー」
 いくら温暖な地域とはいえ、真冬の気温は流石に身体に堪える。日南子が肘にバック引っ掛けたまま両手を口元にあてて息を吐く。彼女の小さく細い指が、小さく震えているのを見て、咄嗟にその手を掴んだ。
「……巽さんの手、あったかい」
「さっきまで部屋ん中いたのに、なんでこんな冷えてんの」
「私、冷え症なんだもん」
「ああ。女子は多いな」
 たわいのない話をしながら夜道を歩く。以前と少し違うのは、並んで歩く二人の手がさりげなく繋がれていること。そうこうしているうちにあっという間のマンションに着いてしまうのも以前と何も変わらない。
 何度も並んで歩いた夜道。いまではこの道を一人で歩くことのほうに違和感を感じてしまうほどだ。
「それじゃ、な」
「はい。おやすみなさい」
「ん。おやすみ」
 繋いでいた手を離すとき、どうしても最後が離れがたい。俯いた日南子の頭を見つめていると、彼女がゆっくりと顔を上げて巽を見つめると、何かに気づいたようにこちらに手を伸ばした。
 彼女が伸ばした指がそっと巽の唇に触れる。
「……血」
 そう言われてハッと自分でも指で唇に触れた。
「ああ。コレ? 乾燥するとたまに切れんだよ」
「痛そう」
「たいして痛くねぇよ」
 慌てて日南子の手を引き剥がした。
 年甲斐もなくドキドキとする。この歳になって、ただ触れられただけでこんなにも落ちつかない気持ちになるなど誰が想像しただろうか。







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