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涼暮つき

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第七章 青野日南子の場合

青野日南子の場合⑥

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   *  *  *
 
 日付けが変わり、年が明けた元旦の夕方。日南子はいそいそと巽の店へ行く準備を整える。準備と言っても、食事はあちらでご馳走になる為、唯一母が持たせてくれた菓子折りを忘れないようにするくらいだ。
 日付が変わって少し経った頃、巽が新年の挨拶の電話をくれた。
 ちょうど家族で実家から歩いてすぐの神社に初詣に出ていた為、すぐそばに両親も居たのもあり、ほんの少し言葉を交わしただけ。
「ちゃんと、電話とかくれる人なんだな……」
 そんなイメージなどなかっただけに、思い出しただけで顔がにやける。
 たった一本の電話だけでこれだけ幸せな気持ちになるなど、自分でも相当おめでたい自覚はある。
 今夜は繁やふく子ももちろんこちらに帰って来ているため、久しぶりに会えるのが嬉しい半面、今までただの常連客だった自分がふく子たちにとって“息子の恋人”という少し難しい立場になることに緊張をおぼえる。
「あー、なんか緊張してきたかも」
 そもそも、巽にそう紹介してもらえるのだろうか。
 以前ふく子に「うちにお嫁に来ちゃえばいいのよ」的なことを言われてはいるが、あれはあくまでも冗談まじりの言葉である。いくら今まで良好な関係を築いてきたとはいえ、本当の意味で歓迎されるかはわからない。
 コートを羽織り、手荷物を確認し玄関のドアを閉める。
 普段より、少し女らしい服装を心がけたのは、もちろん巽に見てもらいたいからもあるが“彼女”として少しでも心象を良くしようと言うあがき。
 そんなもの今更ではあるが、やはり好きな人のご両親に少しでも良くみられたいという乙女心。
「こんばんはー」
 あらかじめ巽から言われていたように、店の裏口のドアをノックすると「ちょっと待ってねー」といきなりふく子の軽やかな声がして、そのドアが開けられた。
「あの。こんばんは。……え、と、明けましておめでとうございます。今日はお招きいただきまして……」
 全てを言い終わらないうちに、日南子の顔を見たふく子が吹き出した。
「いやだー、青ちゃん。そんな堅苦しい。さ、入って入って! いくら近くても寒かったでしょう? 今夜も冷えるから……」
「あ。ふく子さん、これ……うちの母から」
「あら。いいの? いただいて。華月堂じゃない。青ちゃんのご実家の近所だったわよねー?」
 母親に持たされた菓子折の袋を掲げると、ふく子がそれを嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。ここの和菓子、お父さんも私も大好きなのよ」
「本当ですか? 良かった!」
「さぁ。早くご飯にしましょう? お父さん、すでに晩酌始めちゃってるけど」
 以前と変わらない温かな出迎えに日南子はホッと胸を撫で下ろした。

   * 

「……すっ、ご───い!! 豪華っ!!」
 ふく子に促されて厨房を抜け店に入ると、その中のひとつのテーブルの上にわかりやすいほど豪華なおせち料理が並んでいた。すでにテーブルについて一杯やっているふうの繁がこちらを見て「お先にやってるよ」とグラスを掲げた。
「青ちゃんも、ビールでいい? カクテル良きゃ、なんか作るけど」
「あ。今日はお茶いただけますか。お料理じっくり味わいたいし」
 カウンターの中にいた巽が訊ね、日南子はコートを脱ぎながら答えた。
「すごい豪華なおせちですね!」
「ああ。……お袋、毎年作り過ぎなんだよ」
「あら。いいじゃない? お正月くらい豪勢にしたって。ねぇ、青ちゃん?」
 ふく子が言い、日南子を席へと促した。
「雑煮もあるぞ。食うだろ?」
「はい。いただきます!」
 いつものように返事をしてハッとした。これじゃ、常連客の頃と変わってない。そんな日南子を見てふく子がクスクスと笑う。
「いいわねぇ~、青ちゃんのその返事。たくさん食べてって。そのために張り切って作ったんだから!」
 巽が急須に入った緑茶と自分の分のビールをテーブルに運んで席に着いた。
「おせちは、お袋が作るって決まってんだよ。ウチ」
「……そうなんですか?」
「ほら。巽もお父さんもだけど、こんな仕事だったでしょう? せめてお正月くらいは“作る”ことお休みさせてあげようって思って」
 ふく子がふふふ、と笑いながら答える。
「べつにいいんだけどな。好きで仕事にしてんだし」
「そりゃあそうなんだけどー。たまには手を休めるってことも大事でしょ?」
「さー、とりあえず食おうぜ」
 巽の言葉にテーブルに着いた全員が手を合わせた。
「「いただきます」」
 四人の声が温かく重なる。
 好きな人がいること。その人と食卓を囲むこと。その人の家族と食卓を囲むこと。
 好きな人と繋がって、家族になるってこういうことなのだろう。
「んー! 美味しいっ!」
 日南子の言葉にみんなが笑う。
 その笑顔を眺めながら思った。この人たちと食卓を囲むその一員に──いつか家族になりたい、と。
 
 食事を終えて、日南子はその後片付けを手伝うことにした。ふく子が運んできた食器類を厨房奥の洗い場で洗う。巽と食事をしたあと何度か片づけを手伝ったことがあったが、いつもは店のカウンターのほうで手早く済ませる為、奥の洗い場を使わせてもらうのは初めてだ。
「あ。青ちゃん、ざっとでいいわよ。今日量もあるからそのまま洗浄機突っ込んじゃうから」
 そう言ったふく子がざっと食器を水で流しながら、それをそのまま業務用の洗浄機の中に突っ込んで行く。
 巽はというと、眠気でうつらうつらし始めた父親の繁の為に二階の奥の部屋に布団を敷きに行っている。
「はー。お腹苦しい……」
 満足感と幸福感で、手を動かしながらつい思っていることが口を付いた。
「お腹いっぱいになった?」
「もう。信じられないくらい満腹です。美味しいお料理ご馳走様でした」
「ふふ。またいつでも一緒に食べましょ」
「……いいんですか?」
「いいに決まってるじゃない」
 ふく子が日南子を見つめて微笑んだ。
「ちょっとビックリしたのよ。巽が青ちゃんも呼ぶなんて言い出したから。……付き合ってるんだってね」
「あ。……はい。まだごく最近なんですけど」
 そう答えながらほっとした。巽が自分たちの事をちゃんと両親に話していてくれたこと。それだけで、いま巽と付き合えている事実が夢ではないのだと思える。
「ありがとね。青ちゃんが巽の傍にいてくれるなら安心だわ」
「ありがとうなんて、そんな──! 私が傍にいたいって半ば強引に……」
「そんな事ないでしょ。あの子以前に比べると随分変わったから」
 ふく子が、何かを思い出すような少し遠い目をした。
「──いろいろあってね。あの子がここ数年人に興味持つなんてことなかったのよ。でも、青ちゃんのことは何かと気に掛けててね」
「……」
 知らなかった。巽が自分を気に掛けていてくれていたことなど。
「たぶん、最初は私やお父さんが青ちゃんの事気に掛けてたから、その影響もあったのかもしれないけど……。なんていうのかな、たまにお店に行った時に二人のやり取りみててね。それが凄く楽しそうで。久しぶりだったのよ、巽のそんな顔見たの。だから、勝手に思ってた。巽が青ちゃんの事好きになってくれたらいいのに、って」
 知らなかった。ふく子がそんな事を考えていたことなど。
 思えば日南子が巽を意識し始めたのもふく子が冗談交じりに言った言葉が引き金だった。
「……ふふ。先に好きになったのは私の方ですよ。実は一度振られてますし」
 そう言って笑うとふく子が驚いた顔をした。
「そうなの⁉ ──こんな若くて可愛らしい子振るなんて何様なのあの子はっ!」
「そんなんじゃないですよ。……巽さんいろいろ考えてくれてたんだと思います」
 その言葉にふく子が真剣な表情を見せた。
「青ちゃんは──その。亜紀ちゃんのことも知ってるの?」
「──はい。いまもまだ苦しんでることも知ってます」
「……」
「だからこそ、傍にいたいんです。私なんかじゃ頼りないかもしれないけど、そういう巽さんの傍にいて苦しいときには私が支えられたらな、って──」
 自分が寂しいとき苦しいとき、この店の料理に、ふく子や繁、巽に支えられてきたように、巽が苦しいとき少しでも支えられるように。私が傍にいるよ、って言ってあげられるように。
「……青ちゃん」
 ふく子が日南子の肩に手を添えた。ふく子の手のひらも巽と同じように温かい。
「巽の事、よろしくね」
「いえ。こちらこそよろしくお願いします」
 そう言って深く頭を下げると、ふく子が日南子の両肩をポンと叩いた。
「ふふ。早くお嫁にいらっしゃい。私もお父さんも大歓迎よ?」
「……あはは。それは巽さん次第というか、」
「あら。巽だってそれくらい考えてるでしょう、さすがに。あの歳で、青ちゃんみたいな子と付き合うその重みはちゃんと分かってると思うわ」
「──だと、いいな」
 思えば最初の告白は“好きです”でも“付き合って下さい”でもなく「結婚したい」だった。
 あの時驚くほど大きく膨らんだ感情と衝動をなんと説明すればいいのだろう。
 この人のそばにいたい。もっと近づきたい。一緒に笑いたい。一緒にご飯を食べたい。その欲求の究極の形が「結婚したい」だった。
 その想いに、今も変わりはない。
 もっと、傍に──もっとその懐の中に行きたい。
 恋を知るまで、思ってもみなかった。自分がこんなにも誰かに執着し、欲してしまうなんて。

  *  *  *

「はー……。まだお腹いっぱい」
「ははっ。けっこう食ってたもんな」
 巽が目の前で楽しそうに笑った。
「ふく子さんのお料理が美味しすぎるんだもん。私、巽さんと付き合ってたらどんどん太ってく気がする」
「何言ってんだ。ちょっと太ったくらいがちょうどいいだろ、青ちゃんは」
 彼の両親がとっくに部屋へと引き上げた深夜。
 店内の壁掛け時計を見るとあと三十分ほどで日付けが変わろうとしている。もうすでに何杯目かわからなくなったお茶を飲みながら、二人たわいもない話をする。こんな些細な時間がとても幸せだ。
 巽が店内を見渡しながらさりげなく時計を見たのに気づいた。
「そろそろ帰んねーとだろ? 青ちゃん、明日仕事だろ?」
「あ……はい」
 でも遅番だから大丈夫、と続けようとした言葉が続けられなかった。
 この間はどうするか日南子の意向を訊いてくれたのに、今夜は、一択なんだ、と少し寂しい気持ちになる。
 実際今夜はふく子たちもいることだし、巽が明日仕事である自分を気遣っているのは分かるし、そう言われるのは仕方のないことだが、少し寂しいと思うのは事実。
「今日は……どうする? って聞いてくれないんですね」
 勇気を振り絞って、巽に聞こえるか聞こえないかくらいの微妙な声量で呟いた。──が、それはやはり巽の耳に届いていたようで彼が少し困った顔をした。
「……や。泊まってけ、って本当は言いたいとこだけど、親父らもいるし。部屋ないからな……」
「巽さんのお部屋あるじゃないですか」
「や。布団の余分がねぇの!」
「……いいのに。一緒で」
 思わず口に出た言葉の大胆さに気づいて慌てて顔を覆った日南子に、巽がますます困った顔をする。けれど、それは本気の困惑というよりはどちらかというと照れくささの困惑のように思えて、その困った顔に胸がギュッとなった。
「……俺はいいけど、青ちゃんが嫌じゃねぇかと思って」
「明日遅番だから、朝帰っても仕事は間に合うから……」
 そう言うと、巽が立ち上がってテーブルの上のカップを寄せてから、日南子の髪をクシャッと撫でた。
「わかった。青ちゃんがそこまで言うなら泊まってきな」
「……いいんですか?」
「断れるわけねぇだろ。俺だって嬉しいのに」
 照れくさそうに顔を歪めた巽の表情が、これまた日南子の胸にトスッと矢が刺さるのだった。

 
 


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