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第七章 青野日南子の場合
青野日南子の場合⑤
しおりを挟む「じゃあ、そろそろ……」
時計が九時をまわり、日南子は荷物を持って立ち上がった。
今日は“くろかわ”の営業日。これから昼の営業もあるため、仕込みや開店準備の邪魔をしてはいけないと、慌てて席を立った。
「ああ。それじゃ、またな」
普段とは違う店の裏口の鍵を巽が開けた。ドアを開けると、ほとんど融けてはいるが日の当たらない道路の端に昨夜の雪がほんの少し残っている。
「雪だるま作れなかったな」
巽がニッと笑った。昨夜の自分の思い出話を覚えていてくれたのは嬉しいのだが、やはり変わらない子供扱い。 ひとまわりの歳の差というものはやはりそういうものなのか。いつまでもこんな扱いがなんだか悔しい。
「もう! そこまで子供じゃないのに……」
そう言って唇を尖らせながら文句を言うと、ふいに近づいた巽が日南子の後頭部に手のひらを添え、そのままグイと引き寄せた。
そのまま重ねられた唇。さっき飲んだばかりのコーヒーの香りがフワと香ると同時に、今まで触れるだけだったそれが、一度離れてから深く重なる。
「……ん」
初めてされた長い大人のキスを、日南子は受け止めるだけで精一杯だった。
そっと離れた唇。軽く上がった息を整えようと小さく息を吐くと、巽が日南子を見て微笑んだ。
「──子供じゃないなら、次はこんなキスじゃすまねぇから」
「……え?」
その言葉の意味を察することができる程度には日南子も大人だ。一瞬にして顔が熱を持ち、たぶん真っ赤になっているであろう顔を両手で隠すと、それを巽に引き剥がされた。
真っ直ぐな巽の目が、今まで見たこともない男の目をしていることにドキドキする。
「なんか、巽さん余裕で狡い……」
やっぱり彼は大人だ。キスくらいなんてことない余裕な顔して。こっちは心臓がまるで別の生き物なんじゃないかと思うくらい忙しく暴れまわっているというのに。
「そりゃ。青ちゃんより歳食ってる分はな」
どんな彼も知りたいと思っているのに、いざ見たこともない顔を見せられると動揺してしまう。
「……私ばっかりいっぱいいっぱい」
「いいんだよ、そのまんまの青ちゃんで。……つか、俺も大概だし」
そう言って笑った巽の言葉に、安堵が広がる。
好きだと思う。この人のこういうところも。
「もっと見せてよ、いろんな顔」
「……巽さんのも見たいです」
「いいけど。幻滅すんなよ?」
そう言った巽の唇が再び日南子の唇に重なる。
知らなかった顔をまた知った。
あなたのキスがとても優しいこと。
恋人にはとても甘い言葉をくれること。
もっともっと見せて欲しい。
もっともっと見て欲しい。
そうして少しずつ特別になりたい。
あなただけの、特別に。
* * *
「ふぁ、……眠い」
久しぶりに帰った実家の炬燵でみかんを剥きながら年末のバラエティー番組を眺める。実家は日南子が一人暮らしをしているマンションから三駅ほどしか離れていないため、月に一度は顔を出している。久しぶりといっても月頭に顔を出しているため、ざっと一カ月ぶりというところだ。
両親の仲も良く、居心地もよい実家を出たのは、日南子自身少しでも自立をしたいと思ったから。
きっかけは些細な事。高校を卒業した友人たちが大学進学を機に一人暮らしをはじめ、彼女たちが日に日にたくましく成長している姿に触発された。
当時、家から通える範囲の大学に通っていた日南子には主に費用の面で家を出ることを許されるはずもなく、一人暮らしの許される条件と言うのが就職をして一人の社会人として独り立ちする、というものだった。
月に一度顔を出すというのも、実はその条件のひとつ。両親を安心させるため、というのもあるが、日南子は実家に帰ることを楽しみにもしている。
「ただいまー!」
玄関から声がして、母コートを着たままリビングに入ってきた。近所のスーパーに夕食の買い物に出ていた母親の手にはエコバックが提げられている。
「おかえりー」
「今日、美味しそうなエビ天見つけてきちゃった」
「あ。年越しソバの?」
「うん」
ふふ、と肩を揺らしながら嬉しそうに笑う母に微笑ましい気持ちになる。
今日は大晦日。日南子の勤めている店は大晦日まで営業。明日の元旦だけが休みで、新年二日から営業だ。年末年始などの大型連休も当然シフト制。日南子も新年早々出勤組だ。
「いつから仕事なの?」
母が来ていたコートを脱ぎながら訊ねた。
「今年は二日から」
「相変わらず大変ねぇ。お店もお正月くらいお休みしたらいいのにねぇ」
「いまどき普通だよ。どこのお店もお正月休みなんてほとんどないし」
「あら。昔はお正月って言ったら開いてるお店探すほうが大変だったくらいなんだから」
「それ。お母さん子供の頃の話でしょう?」
コンビニや二十四時間営業するような店が増える中、いまのような営業が当たり前になったのも時代の流れというやつなのだろう。
「じゃあ、ゆっくりできるのも明日まで?」
「うん。──あ、でもお昼過ぎには帰るから」
そう答えると、母が意外な顔をした。
「あら、珍しい。なにか予定でもあるの?」
聞かれて言葉に詰まったのは、それを母に言うべきかどうか一瞬迷ったから。
「……うん。夕方から彼のお家に呼ばれてて」
ごくごくさりげなく、母親がそれを聞き流してしまうくらいのトーンで答えたつもりだったのに、ここ数年娘の恋愛ごとの話題を欲しがっていた彼女がそれを聞き逃すはずもなかった。
「──彼、って言った!?」
目を丸くして嬉しそうにこちらに近寄って来たかと思うと、素早く炬燵に入り込んで日南子の次の言葉を待つ。
「言った……」
「日南ちゃん、彼氏できたの⁉ いつの間に⁉」
「……まだ付き合い始めたばっかりなの」
答えながら顔が熱くなる。正直、この手の話題を身内に突っ込まれることほど辛いことはない。
「やだぁー! 本当⁉ ね、ね。どんな人? いくつ? 何してる人? イケメン?」
矢継ぎ早に母親から質問を浴びせられてますます顔が熱を持つ。改めて彼の事を思い出し自分の“カレ”であるという事実に嬉しいやら恥ずかしいやらで母親の前だというのに挙動不審になった。
「そんな一気に聞かれても……」
「だぁって! 知りたいじゃないのよー! 日南ちゃんの初カレよ?! しかも、赤くなっちゃって可愛い!!」
「……」
正確には“初”ではないのだが、高校時代のそれは母親も知らないことでいわばノーカウント。ここで適当にあしらって誤魔化すのは簡単な事のような気もするが、真面目につきあっていることや、その本気度を知っていて欲しいと思うのはやはり今までの恋愛とはあきらかに違うことを実感する。
「──彼、黒川さんって言って、お店を経営してるの」
「お店って? どんなお店?」
「マンションの近くの定食屋さん。もう三年くらい通ってて……親しくなったのはまだ最近なんだけど」
実のところ、母親を一度だけ“くろかわ”に連れて行ったことがある。といっても当時はまだ一人暮らしを始めたばかりで様子を見に来た母親とたまたま一度行ったことがあった“くろかわ”に行ってみたというだけ。当時は繁やふく子が店を切り盛りしていたため、巽と母親の面識はない。
「相手の人、いくつなの?」
「……三十七歳」
母親の問いにそう答えると、案の定母親が驚いた顔をした。
母親の気持ちも分からなくはない。日南子自身もそこまで歳の離れた人をそういう対象として見る日がくるなどと、ほんの少し前までは考えもしなかったことだ。
「随分年上の人なのねぇ……」
「うん。……そういうの、気になる?」
「ただ、ちょっと驚いただけ。日南ちゃんももう大人だものね。好きな人くらい自分で選ぶわよね」
「うん」
初めて自分で手を伸ばして、必死の思いで掴んだ恋。この想いは揺るがない。
「私ね、初めてなんだ。こんなにも誰かといたい、って思ったの」
「日南子の事、大事にしてくれてるのね?」
「うん!」
そう返事をすると、母がフッと口元に手を当てて笑った。
「今の顔」
「え?」
「顔見たら嫌でもわかっちゃうものね。日南ちゃんがいま幸せかどうか」
「──どんな顔よ?」
「緩んだ顔しちゃってー!」
母が日南子の頬をキュッと指でつまみ、何度もムニムニ引っ張った。
「何するのー?」
「やー。なんか妬けちゃった。日南ちゃんにそんな顔させる男の人いるんだなーって思ったら」
「なに。妬くとか」
「寂しいもんなの! なんてったって大事な一人娘ですからね」
大事、などと改めて言われると照れくさい。けれど今なら分かる。親元を離れて自立して、両親が自分に掛けてくれた愛情の深さを身を持って知っているから。
傍にいるとその存在が当たり前になってしまうけれど、やはり離れてみると分かる。誰かが傍にいて支えてくれるということがどれほどありがたいかということが。
「また今度会わせてね、彼に」
「うん」
「日南ちゃんは彼のご両親に会ったことあるの?」
「うん。っていうか、ご両親のほうが良く知ってるかも。特に彼のお母さんとは仲良しで」
「え。何それ」
「その定食屋さん、元々ご両親がやってたお店だから」
「そっか。それじゃ安心ね、結婚しても」
なにげなく言った母の言葉にドキンとした。“結婚”とか、もちろん考えていないわけではない……むしろ日南子的には願ったり叶ったりなのだが、巽を急かすようなことはやはり避けたい。
「まだ。付き合い始めたばっかりだからそういうのはまだ先で……」
そう答えると母が笑いながら日南子の髪を撫でた。
「やぁねぇー? いいのよ、そういうのは二人のペースで。べつに急かしてるわけじゃないんだから」
「うん」
「お父さんにも報告しなきゃね? ビックリするわよー!」
「ふふ。そうだね」
いつか、そうなれたらいい。
だからその時まで焦らず、ゆっくり関係を深めていこう。
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