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涼暮つき

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第六章 黒川巽の場合

黒川巽の場合④

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 ふと気付くと、震えていた手を温かな日南子の手が包み込んでいた。事故のニュースが流れていたテレビは消され、日南子がただただ心配そうに自分の様子を窺っている。
 彼女の手のぬくもりがじんわりと巽の手を温め、不思議な事にその手の震えが次第に治まりつつある。彼女は何も言わなかった。何も言わず、ただ巽の手をギュッと握りしめて──そこで思い出した。
 この感覚を巽は知っている。
 熱を出して寝込んでいた夜、巽の手を包み込んでくれていた手。あの時もそうだった。彼女の手のぬくもりに救われた。ただその体温を感じているだけでほっとした。
 そうだ。あの時──ぼんやりとではあるが夢から目覚め、目の前に映る日南子の姿にほっとして彼女を抱きしめたことを思い出した。
 亜紀じゃ、なかった。
 ほっとして抱きしめたのは夢の中の亜紀じゃなくて、日南子だったのだ。
 目の前にいるのが亜紀じゃなく、日南子であることに心から安心したのだ──。
「巽さん」
 日南子の心配そうな声に静かに顔をあげた。今にも泣きだしそうな顔。けれど、その手は依然巽の手を握りしめたまま。
「巽さん、大丈夫ですか? 顔色が……」
 まるで自分を気遣うようにいつの間にか消されたテレビ。まるで自分がこうなった原因を分かっているかのような──。
「……思い出してしまうんですね」
 日南子が巽を見つめ、労わるような優しい口調で訊ねた。
「え……」
 巽が唖然としていると、彼女が申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい。赤松さんに、聞いちゃったんです……亜紀さんのこと」
「──!」
 巽は驚いて日南子を見つめる。
「あのっ、赤松さんは悪くないんです! 私が無理矢理聞きだしたんです……巽さんの事知りたいからって……ごめんなさぃ……」
 日南子の語尾がだんだんと小さくなるあたり、彼女なりに相当な罪悪感を感じているのだろう。
 無理矢理聞きだしたなどと言っているが、彼女が面白半分の興味本位でそれを赤松に訊ねたのではないということは、彼女の性格からして明白だ。
 普段なら、赤松に対して余計な事を言うなと怒りの感情が湧いてくるところだが、相手が日南子だからか今回に関しては不思議とそういう感情は湧き上がらなかった。
「──そっか。青ちゃん知ってたんだな」
 心のどこかで、日南子になら知られてもいいと思っていたのかもしれない。自分に真っ直ぐな気持ちをぶつけてくれた彼女に対して、核心部分を濁すことは本当の意味で誠実だとは思えない。
 最初から、正直に言えばよかったのかもしれない。彼女がこんなふうに罪悪感を感じることがないように。
「ごめんな。ちゃんと言うべきだったのにな……」
 そう呟くと日南子がふるふると頭を振った。
 いつの間にか巽の手の震えは完全に治まっていた。日南子がそれに気づいたように力を込めていた手を緩める。けれど、その手はやはり離されることなかった。
「未だに、あんだよな。こういう事故のニュース見ると……なんていうかフラッシュバックみたいな。俺は、現場を直接見たわけじゃねぇし、そこまで大袈裟なもんじゃねぇけど──。事故のあった日、テレビで事故現場の映像見て俺は何もできず立ち尽くすだけで──」
 あの時は、それくらいショックだった。何が起こっているのか頭で情報を整理することすらできなかった。

≪──死亡が確認されたのは、≫
 アナウンサーが淡々と読み上げる亜紀の名前。
 初めて知った。ショックのあまり頭が真っ白になるということ。あれほど絶望的な気持ちになったのは生まれて初めての事だった──。

「……分かってんだよ。いつまでも過去に囚われてちゃいけないってのは」
 そう呟くと日南子が再び巽の手をギュッと包み込む。その手は細くどちらかといえば頼りないくらいなのに、なぜこんなにも巽の心を温めるのだろう。
「けど、忘れることもできない──」
 たぶん、この先ずっと。永遠に。
「──巽さん」
 日南子がゆっくりと顔をあげて巽を見つめた。それから静かに言葉を続ける。
「忘れる必要なんて……ないんじゃないですか?」
 彼女が珍しくハッキリとした強い眼差しを巽に向けた。
「私、──赤松さんから巽さんのこと聞いた時思ったの」
「──え」
「大事な人の事、忘れられなくて当たり前です。私だって、もし巽さんと同じような事があったらたぶんそれを一生忘れられない……。でも、思うんです。辛いことを思い出してしまう夜、一人だったら不安に胸が押し潰されてかもしれない。でも誰かが傍にいたら少しは救われるかもしれない。大丈夫だって思えるかもしれない。……そういうの積み重ねて少しでも気持ちをラクにそれと付き合ってくことできないかなって」
 日南子が静かに訊ねた。
「いま、巽さん辛いですか? さっきまで凄く手が震えてました。でもいま、それ治まってますよね……? こんなふうに、私が少しでも巽さんの辛さ軽減できないですか?」
 巽は未だテーブルの上で重ねられた手を見つめる。確かに救われた。この温かな手のぬくもりに。
「巽さんが、私のこと嫌いだ、顔も見たくないっていうんなら仕方ないです。でも、私の気持ち嬉しいって言ってくれました。もし、亜紀さんのことだけが私を遠ざける理由なら……そんな理由で遠ざけて欲しくない……」
 逸らすことができないほどの真っ直ぐな瞳。どうして彼女はここまで自分なんかに──。
「私は、巽さんから見たらまだまだ子供みたいに映るかもしれない。確かに大人になりきれてはないけど、そこまで子供でもない……自分がこの人だって思った人との恋に何があったって私は後悔しない。何もしないで、あの時ああしてたら、こうしてたら──そんなふうに思う方がずっと辛いです」
 日南子が言ったやらないで後悔するなら──という言葉には巽自身にも重なることがあった。
 亜紀との結婚も、チャンスならいくらだってあった。もっと早く行動を起こしていたら、ああしていたら。こうしていたらという後悔をここ数年の間何度してきたか分からない。
 日南子が巽の手をそっと離した。
 「ごめんなさい。私また──」
 日南子がハッとしたように両手で顔を覆った。彼女の顔がみるみる赤くなり、慌てて席を立つとすでに空になったカップをシンクへ運ぶ。
 巽もカップの底に少しだけ残るすでに冷たくなったコーヒーを飲みほして席を立ち、いまだキッチンのシンクの前に立ちつくす日南子の背後に近づいた。
「変なこと言ってごめんなさい。あんまりしつこいと嫌われちゃうかな……」
 背中を向けたままカップを洗う日南子の小さな肩が少しだけ震えている。その震える肩を見つめているだけで、必死に抑え込んだはずの気持ちが溢れそうになる。
 こんなにも真っ直ぐに自分を想い気持ちを伝えてくれる彼女に、心が揺れないわけがない。
 もう誰も近づけないと決めていた。
 もう誰にも恋しないと決めていた。
 けれど、人間の感情など決め事だけで簡単に縛れるものじゃない。
「──なるわけないだろ。嫌いになんて」
 そっと日南子に近づいて、シンクの中に空になったカップを置いた。
 そのまま後ろから彼女の肩を抱きしめると彼女の身体がピク、と動いた。けれど彼女は巽を拒否することなく、遠慮がちに巽の腕に手を添えた。
 嫌いになるどころか、知れば知るほど思わずこんなことをしてしまうほどに心が揺れる。巽はそっと日南子の頭に頬を寄せた。
「あったかいな、青ちゃんは」
 ずっと握りしめていてくれた手も。抱き寄せた肩も。鼻をくすぐる柔らかな髪も。彼女自身の心も。
 すべてが温かくて傍にいるだけでほっとする。
 この気持ちが何なのか──もうとっくに気付いている。
「巽さん」
「悪りぃ。……少しだけこのままで、い?」
 返事の代わりに日南子の手が巽の腕をキュッと掴む。もう少しだけ、彼女の温もりを感じていたかった。
 彼女のほうが自分より余程大人だ。
 ただ真っ直ぐ前を見て、自分の気持ちに真正面から向き合っている。
 それに引き替え、いつまでも過去に囚われてそれを理由に自分の気持ちから目をそむけ、逃げることばかりを考えている。こんな今の自分を見て、亜紀は天国で呆れているかもしれない。
「巽さん……私はいなくなったりしません」
「……青ちゃん」
「巽さんが許してくれるんなら、ずっとずっとそばにいるから──だからっ……」
 そう言った日南子の言葉に胸が締め付けられる。
「──っ」
 ずっと誰かにこう言って欲しかったのかもしれない。
 あの日からずっと──。
  
   *  *  *

「あ。巽! そのお米ついでに米櫃入れちゃってくんないかしら」
「はいよ。つか、この水は?」
「あー、それはそのへん放置で」
「……相変わらず雑だな」
 翌週の定休日。いつものように母親に頼まれた買い物をし、それを届けに隣町の両親の住むアパートまで車を飛ばした。最近はネットスーパーやら、パソコンでなんでも注文できるうえ、きちんと配達までされる世の中だが、巽の両親はその辺に疎い。
 車に乗らなくなってからというもの、箱買いのペットボトルや米類など重量のあるものに関しては、巽がそのつど買い出しに出かけてはアパートまで届けている。
「あんた、お昼食べてくでしょ?」
 母親のふく子が訊ねた。
「ああ」
「お父さん、あと十分もすれば帰って来る筈だからそしたらご飯にするわね」
 父親の繁は、近所の共同農園で栽培している野菜の様子を見に行っているらしい。引退後始めた趣味が意外にも楽しそうでなによりだ。さっきも頼まれていた肥料を畑まで届けて来たところだ。 
 両親の仲は良好。なんだかんだと言い合いをしながらもお互いを分かりあい、譲りあい、連れ添って早四十年。元々他人であった二人が惹かれあい家族になり、時々派手な喧嘩もしながらこうしていまも良好な関係を築いている。漠然とした夫婦像を思い描くとしたら、たぶん両親を思い浮かべるのだろう。
「なぁ」
「んー?」
「なんで親父と結婚したんだ?」
 部屋のチェストの上に置かれたデジタル時計はちょうど昼をまわったところ。リビングのテレビをつけ、テーブルの上に無造作に置かれた新聞を広げながら訊ねるとふく子が怪訝な顔をした。
「何よ。いきなり」
「や。ちょっと気になって」
 見合いで結婚したという慣れ染めは、ずいぶん昔に聞いたことがあったが、どうして親父だったのだろう。
「お父さんとは、お見合いで知り合ったのよ。ほら、昔はそういうの多かったのよねー」
「それは聞いたことある」
「え? 何よ。じゃあ、何が知りたいわけ?」
「や。なんでお袋は親父を選んだかってこと」
 そう言うと、台所に立ったまま振り返ったふく子がなにやら含みを持たせた笑顔を巽に向けた。





 


 
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