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第六章 黒川巽の場合
黒川巽の場合②
しおりを挟む「んあ? ……何すんだよ。まだ飲みかけだっつうの」
「本気か?」
思いの外訊ねた声が低くなって自分でも驚いた。それを訝しく思った赤松が眉根を寄せる。
「は? 何か不都合でも? 俺がどうしようとおまえに関係ねぇじゃん」
「──っ」
確かにそうだ。赤松が日南子に興味を持とうが、好意を持っていようが、巽がとやかく言う筋合いはない。赤松は悪い奴じゃない。むしろいい奴だ。一見軽く見られがちではあるが、浮ついたことをするような男ではないし、そういった面でも信頼はできる。
「何だよ? 何か問題あんのかよ」
「……」
問題はない、はずなのに、素直に応援してやる気持ちになれない自分は心が狭いのか──。それとも彼女に対するなんらかの執着か。
彼女の気持ちを受け入れられなかった時点で、自分以外の誰かと彼女が幸せになれることを考えてやるべきなのに。
赤松なら、相手に不足はない。彼女の心が動きさえすれば──なのに。
「問題ねぇなら、口出しすんなよ」
「……」
「それとも、何かあるわけ? 俺が行っちゃマズイ理由でも」
そう訊ねた赤松の探るような意味ありげな視線が、何もかもを見透かされているようで落ちつかない気持ちになる。
「──ねぇよ、べつに」
言葉に出してみてズクンと胸が痛んだ。──が、それを悟られないように何でもないという笑顔を赤松に見せる。こういう表情の作り方は、随分と得意になった。
「……あっそ。あくまでそういうスタンス崩す気ねぇってか」
「──」
「後で後悔すんなよ?」
「だから、意味分かんねぇ」
「知らねぇぞ? 大事なモンは自分の手でちゃんと掴まえとかねぇと。人のモンになった後じゃ遅せぇってこと」
赤松がビールをグイと飲み干し、少し乱暴にグラスを置いた。
「不慮の事故で死んだ亜紀と、目の前にいる子を混同してんじゃねぇっっつの。いいかげん分かれや。おまえと関わったことで亜紀が死んだわけじゃない。もう誰も同じ目になんて遭わねぇよ」
赤松が珍しく苛立ちを隠そうともせず言った。
「俺も明日仕事だし帰るわ」
そう言って席を立つと、代金よりだいぶ多めの金をテーブルに叩きつけるようにして赤松が店を出て行った。
*
あんなふうに店を後にしておいて、その二日後には赤松は何事もなかったように店に顔を出した。
少しくらい変な空気になっても、それを自然に修復できる程度には長い付き合いだ。こちらも何事もなかったように振る舞うのはお手の物。
向こうもあれから巽に突っ掛かって来るようなことはないし、会話も態度もまぁ普段通り。
ただひとつ、赤松がここに顔を出す頻度が劇的に変わったことを除いては。
「赤松さん、最近よく来ますね」
「何だよー? 来ちゃ悪いってか?」
「いや。そんなんじゃないすけどー。通いつめて何目的っすか」
富永が赤松の分のビールをグラスに注ぎながら訊ねた。
「べつに。普通に飯食いにだよ。コンビニ弁当ばっかじゃさすがに飽きる」
「へぇー? 赤松さん、料理とか出来そうじゃないすか」
「そりゃ、ちったぁ出来るけどな。俺は女にしか腕振るわない主義で」
「ははっ。ホントっすかー?」
二人のたわいない会話を聞きながら厨房に籠り腕をふるう。赤松は結婚していた頃も家事には協力的な方だった。元妻も仕事をしていたし、お互いにその辺は助け合っていたようだった。
一人になり、一通りの事は自分でやっていたとしても、自分一人だけの飯の準備と言うのはおざなりになりがちだ。料理というものはやはり食べさせる相手あってのもの。
カラカラ……と格子戸が開く音が聞こえたかと思うと、続いて「あ。うっす!」と富永の声。富永の声で分かる。それが新規の客か、ある程度顔の知れた客かどうかは。
「あ。赤松さんの隣でいいすか?」
富永の口調で、やってきたのはてっきり日南子かと思っていたが「なんだイケメン野郎かよー」という赤松のぼやきでその相手が違うことが厨房の中からでも分かった。たぶん灰原あたりだろうと想像がつく。
「悪かったですね。俺で。つか、俺ここいいんすか?」
「まぁ、いいや。仕方ねぇし」
「うわ。感じ悪っ」
「灰原さんもビールでいいすか?」
「ああ。車だからノンアルで」
思った通り。
元々は日南子を通じた顔見知り程度だった二人が、いつの間にか仲良くなっているあたりも、赤松の壁のない人柄のせいだろうか。人との距離を縮めると言う点に至っては、どう逆立ちしてもこの男に勝てる気はしない。
そう、きっと彼女との距離だってあっという間に──。
「こんばんはー」
そうしているうちに今度は日南子が店に顔を出した。
以前ほどではないが、それでも週に一度多ければ二度顔を出してくれている。カウンターに座っていた赤松が、いつも日南子が座っている席の椅子を引く。彼女も素直にそれに従いいつもの席に座った。
「お疲れっす、青野さん」
「あー、お疲れー」
日南子が灰原に答えた。
「また会ったね。青ちゃん」
「赤松さん。最近、よく会いますよねー?」
日南子が少し驚いたように言うと赤松が「ほんとな!」などと、しれっと答える。
「──」
なぁにが、ほんとな! だ。
知っている。この男が日南子目当てに店に通い詰めていること。以前は閉店間際にやって来て、ちょっと顔を合わせ、自分を介して話をする程度だったが、ここ最近は彼女が店に現れそうな時間、曜日を狙って店に顔を出し、確実にその距離を詰めにかかっているふうに映る。
「青ちゃん、ビール?」
俺が訊ねるより早く、赤松が彼女に訊ねる。おかげで俺の仕事と、特権が奪われつつある。
特権とは、彼女に「おかえり」と声を掛けてやれること。一人暮らしの彼女に、「家に帰って来たような気分になれるように」と両親が以前から彼女に掛けてきた言葉。それをいつの間にか巽自身が受け継ぎ、そうすることがごく自然なことになっていた。
巽は日南子におしぼりを差し出しながら小声で「おかえり」と言った。それに気づいた日南子が少し顔を赤らめながら笑顔で応える。
「……」
彼女に無理をさせているのだろうかと思うと、やはり心苦しさはある。
それでも、こうして定期的に彼女の顔を見たいと思うのは、巽自身のエゴか。
恋だの愛だのには興味がない──などと彼女を牽制しておきながら、彼女からの告白後、恋だの愛だのについてばかり……いや、目の前で何事もなかったように笑う彼女の事ばかりで頭がいっぱいな現実。
ラストオーダーの時間を過ぎ、店内には赤松と灰原、日南子という馴染みの顔触れだけが残った。
早い時間からやってきて、けっこうなハイペースで飲んでいた赤松の絡み酒が始まり、巽はそのグラスを取り上げた。
「青ちゃん。もう一杯飲も?」
「おい。飲み過ぎだ、赤松」
「うっせーなぁ。何だよ。こっちは気持ちよく飲んでるっつーのに」
もう少し早く止めるべきだったかと後悔するも、時すでに遅し。普段からテンションも高く酒にもさほど弱い方ではないが、許容量を超えると時々面倒な奴になることがある。
その一番厄介なパターンが、周りの奴らに絡むこと。自分が絡まれる分は慣れているが、灰原や日南子がその被害をこうむるのは友人として申し訳ない気持ちになる。
「もう終わりな。タクシー呼んでやっから、帰って寝ろ」
バシッと赤松の背中を叩くと、灰原と日南子が顔を見合わせた。
「悪いな。限度超えるとちょっと厄介なトコあって……」
「いや。全然いいすけど。赤松さん、コレでひとりで帰れます?」
「や。大丈夫だろ」
「俺、送りますか? ちょうど車だし方向も一緒ですし」
カウンターで半分伏せっている状態の赤松を見かねてか、灰原がそう申し出てくれた。
灰原は一見、クールで人に興味なさそうな顔をしているが、意外と情に厚い。以前も店で赤松に絡まれながらもそれを上手くかわして、結局最後まで面倒を見てくれた。
「いや。……でも悪いだろ。前もこいつ迷惑掛けたし」
「や。一度も二度もたいして変わんないすよ。大丈夫です。うーんと恩着せてあとで高級焼肉でも奢ってもらいますから」
こうして何でもないというように厄介事を引き受けてくれたりする様も、嫌みがなくとてもスマートだ。ルックスもさることながらこの男はさぞかしモテるだろう。
「……じゃあ。頼んでいいか? 俺からもちゃんと灰原くんにフォロー入れろって言っとく」
「お願いします。高級焼き肉強調しといてください」
「了解。じゃ悪いけど頼むな」
そう言うと灰原が頷いた。隣にいた日南子も灰原を見て笑顔を見せた。灰原と赤松が店を出て行くのを見送り、
「私も、そろそろ帰りますね」
そう言ってそそくさと店に戻る日南子の後ろ姿を追い掛けると、彼女はカウンター席の上に残っていたグラスを一つにまとめて下げてくれていた。
「青ちゃん。いいってそんなんしなくて」
「あ。私が気になっちゃうだけなんで」
そう言って笑った日南子が、カウンターの上を軽く拭いてから布巾を片付けた。きっとこういう子なのだろう。
友人の家などに行っても最後の最後、片づけをして帰るような習慣が小さいころからついているような。なんとも彼女らしいな、と思い、無意識に笑みが零れる。
「ごちそうさまでした」
彼女がバックから財布を取り出し、代金分の紙幣を置いて微笑んだ。
「送るよ」
久しぶりに言った言葉に、彼女が少し戸惑いの表情を見せる。自分と二人きりになることに抵抗があるのだろうと、複雑な彼女の気持ちを推し量ることはできるが、だからといって彼女をこの夜道の中一人で帰すのは避けたい。
「心配だから。送らして。……な?」
彼女が微笑んでからコクンと小さく頷いた。
自分の元からの帰り道、彼女を危険な目に遭わせたくはない。あの時は未遂で済んだものの、彼女が自分に助けを求めて来たあの時の怯えた表情はいまでも目の奥に焼きついている。
店を出て通りに出ると、フワと冷たい風が吹き抜けた。あの秋祭りの晩よりも、さらに秋の気配が強まっている。
「……もう、寒いくらいですね」
「ああ。冬も近いな」
隣を歩く日南子の髪がサラサラと揺れた。肩につくか付かないかだった彼女の髪も、いつの間にか肩のラインを越えている。それだけ月日が流れたということだ。
去年の今頃は、そんなことを気に留めたこともなかった。いつの頃からだったのだろう。彼女の事を去年までとは少し違う気持ちで見るようになったのは。
気づけば、その頃から知らず知らずのうちに彼女のことを意識し始めていたのかもしれない。
「それにしても。灰原くんいいやつだな」
そう言うと、日南子がその言葉の意味を理解したように微笑む。
「そうなんですよ。見掛けに寄らず世話焼きなとこもあって。彼が新人時代にいっしょに仕事してたんですけど、真面目で仕事もできるし。後輩なんですけど頼りになるっていうか……」
「ああ。年齢よりもずっと大人な気がするな」
「赤松さんも、すごくいい人ですよね。酔うと絡むってのはちょっと意外でしたけど」
「あれ。青ちゃん、あいつのああいうの見んの初?」
「はい。何回か一緒に飲んだ気がしましたけど、あんなの初めて見ましたよ」
「そうだったか」
思ったより普通に話せているのは、日南子の気遣いのおかげか。彼女とのこうしたたわいのない会話は不思議と無理に話すことなくても続いて行く。こういうところも、彼女といる心地よさに繋がっているのかもしれない。
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