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第五章 青野日南子の場合
青野日南子の場合⑦
しおりを挟む「──私の、どこがダメですか? 何がダメですか?」
「だから、青ちゃんがどうこうじゃなくて……」
巽を困らせているのはなんとなく分かるのに、みっともなく食い下がる事しかできない。
「どうしてダメなのか、どうして無理なのか……言ってもらえなきゃ──」
この恋を諦めることすらできない。
「青ちゃんの事は、すごくいい子だって思ってる」
“いい子”という言葉にやはり子供扱いされている気がしてしまう。巽にとって日南子はそういう対象ですらないのだろうか。そう思うと絶望的な気分になった。
「それは、そういう対象として見れないってことですか?」
「や。そういうわけじゃなくてだな──」
「じゃあ、どういう事?」
つい口調が強くなった。──まただ。こんなふうに巽を責め立てたいわけじゃないのに。
「……いっそ嫌いだって、そう言って貰えたほうがどんなに」
嘘だ。そんな事を言われたいわけじゃない。言われたい訳がない。
好きな人に、嫌いだなどと言われたい人間などいるわけがない。
「青ちゃん……」
カウンター越し、優しく響く巽の声。その静かな声ですら日南子の心を激しく揺さぶる。
カウンターの向こうに立っていた巽が、そっとこちら側にまわって日南子の隣に座った。俯いたままの日南子の様子を窺うように遠慮がちにその顔を覗き込む。
「ごめんな。狡い大人で」
「──っ」
本当に狡い。けれど、日南子を突き放したりできないのも彼の優しさであることを日南子はちゃんと知っている。
「青ちゃんとはさ──。このまんまただの定食屋のオッサンと大事な常連客でいたい。俺だって、青ちゃんの事は好きだけど──」
そこで巽が言葉を切った。それから困ったような顔をして言いにくそうに言葉を続けた。
「……その好きは、青ちゃんが欲しい好きとは多分種類が違う」
覚悟はしてたはずだった。心のどこかで相手になんてされてないって分かってた。
それでも何かしたかった。好きだって気持ちを知られないままこの恋にピリオドを打つなんて嫌だと思った。たとえ迷惑だと思われても、気持ちを伝えて潔く諦める覚悟を決めてここにやってきたはずなのに。
まだ、終われない──などと思ってしまう自分の往生際の悪さに呆れてしまう。
巽の困ったような顔に胸が痛む。困らせたいわけじゃないのに、こんな事をしていたら本当に嫌われてしまうのではないかと急に不安にかられる。
これ以上食い下がったら、巽に迷惑がかかる。店に来ないで欲しいと彼に思われるような存在にだけはなりたくない。
それだけは、怖い。このまま巽に会えなくなるのは──。
「……分かりました」
胸の中に渦巻いている気持ちを整理しつつ、少しずつ言葉を発した。
「ごめんなさい。困らせるようなこと言って……」
「や。青ちゃんが悪いんじゃないんだ。──俺のほうの問題で、」
「いままで通りでいたら、巽さんも今まで通りでいてくれます?」
そう訊ねると、巽がほっと息を吐いた。
「そりゃ、もちろん。……俺だって青ちゃんのことは、これでも大事に思ってるし。青ちゃんといるとほっとすんだよ。だから今まで通りここに来てほしい」
本当に狡い人だ。大事に思っているなんて言われたら、たとえそれに深い意味がなくとも、嬉しいと思ってしまう。巽にここに来てほしいなんて言われたら、それこそ喜んで通いつめてしまうだろう。
ダメだと分かってて傍にいるのと、ダメだと分かって距離をおくのと、一体どちらが苦しくないのだろう。 そんなことを心の中で天秤にかけてみるも、結局は、彼の顔を見たい、会いたいと言う欲に日南子は勝てる気がしない。
「……我儘言ってんの分かってる。けど、親父もお袋も青ちゃん来なくなったらすげぇ悲しむ。俺も、寂しいよ。だから」
「──はい」
ぐちゃぐちゃとした気持ちを全部胸に押し込めて、日南子は巽に精一杯の笑顔を見せた。
「私も、死活問題です。ここのご飯食べられなくなるのは」
出来る限りの明るい声で言った。
巽が日南子を見つめてぎこちなく笑う。
「ごめんな」
大丈夫。
「ごめん」
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
泣いたりなんかしない。いままで通りに、戻るだけだ。
大人になってからの失恋は、胸が潰れてしまいそうなくらいの痛みがあるって知った。この気持ちがいつか消えてなくなったりするのだろうか。いつかこんなこともあったね、って笑い話になったりするのだろうか。
カップに残った冷めたコーヒーをすべて飲みほして「ごちそうさまでした」と手を合わせて席を立った。最後に飲みほしたコーヒーはいつもよりずっと苦く感じた。
*
それからは、いろいろと簡単だった。
簡単と言ってしまうのはやはり少し嘘臭いけれど、今まで通り振る舞うというのは、そこまで難しいことじゃない。今まで何気なくしていたことを、自然に演じる。演じるというと少し嫌な響きに聞こえるかもしれないけど、そうすることで関係を良好に保つのも大人の知恵。
それでも。
ふとした拍子に、彼に送ってもらった家までの帰り道、あんなことを話したこんなことがあった、などと思い出したり。
ふとした拍子に、必死に自分のもとへ駆けつけてくれた慌てた顔、抱き寄せてもらった温かな胸なんかを思い出したり。
ふとした拍子に──繋いでくれた手の感触や、そっと触れた手の感触を思い出したり。
ふとした拍子に──。
結局のところ何も消えてなくなったりしてないのを実感するだけ。
彼の前でさえ、いままで通りでいられればそれでいいのだ。
そうすれば巽は今まで通り笑ってくれる。そうすればごく自然に傍にいられる。
この数年間、生活の中に馴染んだ“くろかわ”との、巽との関係を断つことなど日南子にはできない。
職場から駅に向かいバスターミナルへと抜ける道沿いにタクシーの乗車レーンがある。ちょうど遅めの帰宅時間と重なるうえ、金曜ということもあり、普段より数多くのタクシーが停まっている。普段はほとんど待ち時間なしで乗ることができるタクシーにも列ができているのを横目で眺めながらバスの時間を気にして歩調を早めた。
「青ちゃん!」
どこからか声がして辺りを見渡すと、タクシーを待つ人の列の中にこちらに向かって大手を振る見知った人を見つけ、日南子は目を丸くした。
「え、……赤松さん?」
「今帰り?」
声を掛けられて、日南子は赤松の元に駆け寄った。彼は仕事帰りに“くろかわ”に顔を出すことが多いため、スーツ姿も見慣れた感がある。
「あ、はい。赤松さんもですか?」
「ああ。出張帰り」
赤松の足下には小型のスーツケース。この荷物の大きさからすると二、三泊といったところだろうか。
「青ちゃんも今から帰るんならついでに乗ってかない? まだ帰ってやんなきゃなんない事あるから黒川んとこ寄れねーけど、近くで降ろしてやるし」
「や。……でも、」
「何もしないよ。俺、紳士だし」
赤松の言葉に日南子は思わずフッと吹き出した。
「もう! そんな心配してません」
あの店で顔を合わせて時々話す程度ではあるが、あの巽の古くからの友人だ。その人柄は信頼できる。
「青ちゃん、いつもこの時間?」
「ああ……今日は遅番だったので。早番の時はもう一時間くらい早いです」
ふわ、と吹きぬけていく風がもう肌寒い。昼間はまだ気温の高い日もあるが、日が沈むと急に涼しくなるため、軽く羽織れる上着が手放せない。
「赤松さんは、出張どちらに行かれてたんですか?」
「神戸にちょっとね。前に一度行ったことがあったんだけど、久しぶりだったから観光でもしたかったんだけどそんな暇なくてさぁ」
「そうですよね。お仕事だと、やっぱりそうなっちゃいますよね」
日南子もたまにだが出張に行くことがあるが、仕事が終わったらとんぼ帰りだ。
「赤松さんは──、巽さんとは古くからの付き合いなんですよね?」
「ああ。古いっつっても十五年くらいかなぁ。職場の同期でな。──あ、あいつ昔俺と同じ会社にいたの知ってる?」
「はい。聞いたことあります」
「ああ見えて、結構優秀でな。突然会社辞めて店継ぐって言い出した時は驚いたよ。……まぁ、あいつにとっては突然ってわけじゃなく、ずっと考えてた事だったらしいけど」
ちょうど列の順番が来て、目の前に停まったタクシーの後部座席のドアが開き、先に乗った赤松に続いて日南子もタクシーに乗り込んだ。
「鶴巻町まで。途中でこっちの女の子降ろすから」
赤松がそう運転手に告げて、ドサッとシートに身体を預けた。
「……」
昔からの付き合いの赤松なら、巽の身に何があったのか知っているだろうか。本人が話したがらない事を、裏から手をまわすようなかたちで赤松に訊ねるのは卑怯な気もするが、もし赤松が話してくれるのならそれを聞いてみたい気がする。
「あの」
「ん?」
「赤松さんはご存じなんですか? 巽さんが過去に何か辛い思いをしたって……」
そう訊ねると、赤松が少し驚いた顔をして日南子を見つめた。
「あいつ、何か言ったの?」
「あ、いや──。言ったっていうか、……その、」
その経緯を説明するには、事を洗いざらい話さなくてはならなくなる気がして日南子は一瞬答えを躊躇った。
赤松がしばらく考えるような顔をしていたが、何か決心をしたかのように口を開いた。
「亜紀のこと、聞いたの?」
初めて聞く名前に、心臓がドキンとした。やはり巽の過去に特定の女性が関係していたという事実に落胆している自分に気づく。赤松から即座に名前が出てくるあたり、彼が“忘れられない恋”をした相手なのだろうということが想像できる。
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