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涼暮つき

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第三章 青野日南子の場合

青野日南子の場合⑤

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 巽と並んで店の前の大通りを歩く。こうして巽と並んで歩くのは何度めだろう。最初は妙に落ち着かない気持ちになったりしたものだが、いつの間にかそれにも慣れた気がする。
「──今日も蒸し暑いな」
「ですね」
「さっき、悪かったな。お袋が」
「──え、ああ。全然……」
 さっき、というのは店での会話の事だろう。日南子はなんでもない、というふうに笑って誤魔化した。
「悪気ないのは分かんだけどな。あんま言われんのはな──」
「ふふ。……でも、ふく子さんの気持ち、分かるような気がします」
「んあ?」
「巽さんみたいな人が、どうして一人なのかな、って」
 不思議だと思う。年齢的にも大人で、自分の店を持ちそれを切り盛りしている。人柄だって申し分ないし、ルックスだって悪くないどころかよく見れば顔立ちは整っているほうだ。この歳まで一人でいるような雰囲気の男性には到底見えない。
「はは。前、言ったろ? いろいろあんだよ、大人には」
 その、いろいろが知りたいと日南子が思うのは単なる興味本位から来るものなのだろうか。
「いろいろ、って? ……まえに、忘れられない恋したことあるって。それと関係あります?」
 日南子にしては随分突っ込んだ質問をしたと思う。以前そんな話になったとき、巽はそれに触れて欲しくはなさそうだった。昔から人が嫌がることはしないように避けて来たし、そういう空気は読んで来たほうだった。
 けれど、この時知りたいと思った。巽の経験してきた人生の一部、過去に何があって今の巽があるのかということを。
「それ。突っ込まない約束だろー?」
「……」
 分かってはいる。分かっていながら訊いたのだ。
「ごめんなさい」
 知りたいと思う気持ちと、それに触れて欲しくなさそうなやんわりとした巽の拒絶に心が揺れる。訊いておいてすぐに引き下がってしまったのはやはり、嫌な思いをさせてまで訊き出すことではないような気もするから。
 巽にとって、日南子はあくまでもただの近所の常連客にすぎない。そこまでプライベートに踏み込んだ事を知りたいと思うのは所詮日南子のエゴでしかない。
「青ちゃんは、いい子だな。……なんつーか、気ぃ使いだし」
 そう言った巽が柔らかく微笑んで、日南子の頭に触れた。ふわ、と頭の上に乗せられた手のひらから伝わる体温になぜか胸の奥がくすぐったい気持ちになる。
「それにしても無茶言うなー、うちのお袋は。青ちゃんだってこんなオッサンあてがわれちゃ堪ったもんじゃねぇだろ? 人の迷惑考えろっつーな」
 巽がふく子の言葉を思い出したようにクク、と笑いながら日南子の頭から手を離した。
 確かに、今まで考えもしなかった。日南子にとって巽はあくまでもお気に入りの店の気心知れた店主であり、それ以外のなにものでもないはずだった。
 けれど──、ふく子の言葉を意外なほどすんなりと受け止めていた自分に気づいた。確かに言われたことに対して驚いたのは事実。けれどそれは戸惑いとか理解不能な感情ではなく、何かあるべきものがあるべきところにストンとおさまったような……どこか納得してしまうような──、
「……青ちゃん? どうした?」
 巽が立ち止まって不思議そうに日南子を見つめた。日南子の住むマンション近くの交差点の角にある街灯に、その優しげな表情が照らされる。 
「大丈夫か?」
 巽の声が近くで聞こえてハッと、目の前の彼を見つめた。
「……だ、大丈夫です」
「本当か? なんかボーっとしてたけど」
「平気です! ……あのっ、暑くて! ……で、ついぼんやりとしちゃって」
 不自然に思われないよう当たり障りのない理由でそれを誤魔化すと、巽がその言葉に同意するかのように頷いた。
「確かに暑いとそういうのもあんな。あと、疲れとかもあんのかもな? 仕事忙しいっつってたし。……悪かったな、お袋が何だかんだ引き止めて」
「いや、違うんですよ? それは全然!! ふく子さんたちに会えたの嬉しかったし!」
 精一杯の否定の意味を込めて胸の前で手をふるふると振った。ふく子たちに会えたのは心から嬉しかったし、それよりも何よりも“くろかわ”で過ごす時間が日南子の負担になることなど一切ない。負担どころか、息抜きになっている。この店は、巽は──どんなときも日南子を温かく迎え入れてくれる。
「──なら、いいけど。とりあえず、ゆっくり身体休めな?」
「はい。送ってくれてありがとうございました。おやすみなさい」
 そう言って小さく頭を下げると、巽が軽く手を上げてそれに応えた。
 日南子はマンションの目の前に立ち、今来た道を引き返していく巽の後ろ姿を見送った。
 次第に遠ざかり小さくなる巽の後ろ姿。その背中が角を曲がり、完全に視界から消えたのを確認して日南子はゆっくりと踵を返した。
「……迷惑だなんて、思わなかったのに」
 独り言のように小さく呟いて、小石を蹴った。
 ちゃんと彼に言えたら良かった。例え彼のほうがそれを迷惑だと感じたとしても、私はそんなふうには思わなかったと、ちゃんと言えたら良かった。
 そんなふうに思う程度に日南子には巽に対する好意はある。ただ、それがどういう種類の好意かどうかは別として。
 人として好き、それはあると思う。
 顔を見たらなんとなくほっとして、嬉しいとか思うのは、人としての好意か、はたまたそれ以上の感情か。
「……」
 ふく子の冗談とも本気ともつなかいなにげない言葉は、意外なほど日南子の心を大きく揺さぶった。
 どうしていままで考えもしなかったのだろう。
 日南子が“くろかわ”に顔を出すときはいつでも彼は日南子を温かく迎えてくれる。それも『いらっしゃい』という言葉でなく、まるで家族のように『おかえり』という言葉で。
 巽にとってそれが仕事だから、と言われればそれまでの事だが、あの温かな声と笑顔に迎えられて心がほっとしなかったことなど今の今まで一度もない。
 酔い潰れて店に一晩お世話になった時だって、思ったはずだ。
 この人の食事が毎日食べられたらどんなに幸せだろう、何気ない会話をしながらの食事に、誰かと一緒に生活していくってこういうことなんじゃないか、と初めてそういうことを意識できたんじゃなかったか。
「……私、もしかしたら……いろいろ間違ってるのかな」
 部屋に着くのとほぼ同時に、バックの中のスマホがピリリリ……と音を立てた。電話の相手にはすでに見当がついている。日南子が仕事を終えてマンションに戻って、帰ってからしなければならないあらかたの事を片付けてほっと一息ついている事が多いこの時間帯を意識して電話を掛けて来てくれる唯一の男性。
 手にしたスマホの画面に映る見知った名前を見つめながら、その電話に出ることにほんの一瞬の躊躇いを感じてしまったのは、今まで気づかなかった胸の奥に引っかかる“何か”の存在に気づいてしまったから。
「……もしもし。山吹くん?」
『あ、青野さん? もう部屋?』
 受話口から聞こえる山吹の声はいつもと変わらず柔らかい。
「うん。いま帰って来たとこで」
『あ。じゃ、掛け直したほうがいい?』
「ううん、平気。何してたの? 明日お休みだよね?」
 “お試しで”という条件付きのもと始まった友達からの交際。新鮮な気持ちと共に感じた心地よさ、これもまた恋へ繋がるきっかけのひとつだと信じていた。実際、彼に気持ちを打ち明けられ、素直に嬉しいと思ったはずだった。
 なのに、彼の声が少しだけ遠くに感じる。
 山吹は普段と変わらず優しいのに。いつもと変わらないその声色はこんなにも温かいのに──。

 *  *  *

 いつのまにか八月に入り、連日のように猛暑日が続いている。
 ジーワ、ジワジワ、と店の入り口のドアが開くたびに聞こえる蝉の声。近くの小学校のプール帰りの子供たちがまだ生乾きの髪をなびかせながら賑やかに通りを歩いて行くのを眺めながら雪美が呟いた。
 ちょうどお昼時と言うことで店内には数人の客しかいない。
「夏だね……」
「来週から、お盆休みですもんね」
 オリオン事務機も、事務職の社員たちは当然お盆休みを迎えるが、店舗勤務の社員たちは前半後半に分かれ休みを取り、不足分は翌週以降消化していくという決まりになっている。
「青野、お盆予定はー?」
「とりたてて。……とりあえず実家に帰るくらいですかねぇ」
 実家、と言っても電車で二駅な上、頻繁に顔を出してはいる為、帰省に対しての特別感は殆どない。
「雪美さんは?」
「友達とバーベキュー。高校の時仲良かった子と毎年集まってんのよ」
「わー! いいですね! いかにも夏のイベントって感じで楽しそう!」
「あんた、そういうのないの?」
「普段から遊んでる子が高校の時の子だし、大学も地元だったからこういう時でなきゃ! って特別感もあんまりないというか……」
「地味ねぇ。彼氏とお泊まりデートでもすりゃいいじゃないのよ。ウチは連休なんてなかなか取れないんだから」
「あは……確かにそうですよねぇ」
 たぶん世間一般の恋人たちというものは、雪美の言うような過ごし方をするのだろう。
 あの遊園地デート以来、デートといってもお互い休みが合わず食事に行く程度。山吹と会えば楽しいし、好意を嬉しいと思う気持ちに嘘はないのだが、彼といるとなぜか同時に巽のことを考えるようになった。
 
   *

 帰りのバスに揺られながらぼんやりと窓の外を見つめる。今日は早番。街がだんだんと薄暗くなって、昼間の景色が夜の色に染まって行くこの時間帯が好きだ。
≪──次は、渡瀬町。お降りの方は降車ボタンを……≫
 車内のアナウンスが終わる前に、ピンポンとボタンを押す。
≪次、停まります≫
 そうして次第にバスが減速し、日南子はゆっくりと席を立ちバスを降りた。
 ブロロロロ……と重たい排気音とともに走り去っていくバス。バス停の目の前の“くろかわ”に明りが灯っていないのは今日が店の定休日だから。ふと、店の入り口のところに張り紙があるのを見つけて、日南子は店の前に駆け寄った。
【八月十日から十六日、お休みをいただきます】
「へぇ。けっこう休むんだ……」
 多分巽の字であろう、予想以上に達筆な筆文字でそれは書かれていた。そういえば、店の暖簾の“くろかわ”の文字も似た筆跡だった気が。これも巽が書いたものだろうか、今度訊いてみよう……そんなことを考えながらマンションへと歩き出した。
 そういえば、去年も一昨年も、お盆休みには長いこと店を休業していた。年末も正月も定休日以外はほぼ無休に近い営業をしているというのに。

 大通りからマンションまでの細道に入ったところで、ふいに後ろに人の気配を感じて振り向いた。
 真後ろに少し不自然な距離感で、パーカーのフードを目深に被った若いとも中年ともいいきれない印象の男。一瞬、身の危険を感じたのは、先日ふく子たちが話していた事件の事を思い出したから。
「……っ、」
 思わず声を上げそうになったが、その男は日南子を追い抜くと足早に先へと歩いて行った。
「……だよね。びっくりした」
 声を上げなくて良かった。それこそ自意識過剰というものだ。ほっと胸をなでおろしてマンションの階段を昇った。
 世間では女性や弱者を狙った悪質な事件が増えてきているとはいえ、そうそうその手の事件に巻き込まれるようなこともない。
 用心するにこしたことはないが、過剰過ぎても問題だ。


 
 
   
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