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第二章 黒川巽の場合
黒川巽の場合⑥
しおりを挟む本格的な夏の暑さがやってきた七月。気付けばその七月もすで半ばに差し掛かる。
昼の営業を終えた午後二時半過ぎ。夜の営業に必要な添え物の食材を切らし、徒歩で数分の近所のスーパーまでやってきた。
必要な食材を買い、ついでに買ったアイスバーを食ってから帰ろうと入り口付近の簡易ベンチに腰掛けた。
日よけの麦わら、袖を限界までまくったティーシャツに、短パン。黒縁眼鏡に髭面のいい歳の大人がアイスバーを咥える姿はさぞ滑稽に映ることだろう。
「……しっかし、暑いな」
深く被った麦わらの隙間から太陽を仰ぎ見る。じりじりと焼けつくような日差しにげんなりとした。
「あ!」
ふと近くで聞き覚えのある声がして顔を上げると、そこには見知った常連客の姿。普段は降ろしている顎より少し長い髪を、珍しく後ろでひとつに束ね、ラフなティーシャツに、踝より少し短いパンツいう出で立ちの青野日南子がそこにいた。
「巽さん⁉ びっくりしたーぁ! 何してるんですか、こんなとこで」
「見てわかんねー? ちょっと買い出し」
「青ちゃんは? こんなとこにいるってことは今日休みか?」
「ああ、はい。冷蔵庫空っぽで同じく買い出しに」
そう言ってニッと笑った日南子は、どうやら化粧を施していない。
「あっ! ……あんまり見ないで下さいね。今日、スッピンなんです」
まるで巽の思考を読んだように彼女が顔を半分隠しながら言った。
「ははっ。何言ってんだ。変わんねーじゃん、全然」
そういうと日南子が少し複雑な顔をした。変わんない、は言葉のチョイスを失敗したか? 一瞬そんな事が頭を掠めたが、事実化粧をしている彼女もしていない彼女も、ポイントメイクを除いて肌艶においてはさほど差がないように思える。
「巽さん。私だからいいようなものの、女の子に変わんないとか言っちゃダメですよ?」
日南子がたしなめるように言った。
「はぁ、何で?」
「女の子は少しでもかわいくなれるように頑張ってお化粧してるんですから!」
「そりゃ、そーなんだろーけど。化粧してるときと変わんないくらいスッピンもキレイだろっつー意味で言ったんだけど」
溶けかけたアイスを最後一口で舐め取りながら言うと、日南子がポッと顔を赤らめた。
「うわ」
ツツ……と口元に個体から液体に溶解したアイスの垂れた感触。
「げ。垂れた」
手の甲で口の周りを拭いながら、巽は甘ったるいバニラの匂いとベトベトとした感触に顔を歪めた。小さな子供のように服にそれをなすりつけて誤魔化そうかと思った瞬間、
「どうぞ」
目の前の日南子が、肩に掛けた小さなバックの中からハンカチを取り出して巽に差し出した。
「……悪い」
淡い花柄のハンカチを遠慮がちに受け取って口元を拭う。ふわりとほのかな柔軟剤の香りがした。
「サンキュ、な。今度洗って返すわ」
そう言って受け取ったハンカチを短パンのポケットにねじ込みながら立ち上がろうとすると、それを日南子が手で制した。
「あ?」
「ちょっと待って。巽さん」
目の前に立つ日南子の細い腕が近づき、その手が巽の顔に伸びたかと思うと、彼女の親指が顎をチョイチョイと拭う。
「髭についてました」
「──え、あ、」
「髭……思ったよりジョリジョリしてるー!」
ふふ、と楽しそうに笑った彼女にほんの一瞬ドキッとしたのを悟られないよう冷静を装いながら頭を掻いた。
時折見せるこの天然加減。悪気も他意もないのは分かるが、無防備この上なくて些か心配になる。
「あのなー、青ちゃん」
「え?」
「オッサンに気安く触んなよー」
そう。これは親切な忠告だ。
「……あ! 嫌でした?」
いやいや。そうじゃなくてだな。と、なんとも見当違いな返しに巽は大きく息を吐く。
「や。逆だよ。青ちゃんのが嫌じゃねーかって話」
すると日南子が一瞬驚いた顔をしてから、ふわりと笑った。
「そんなわけないじゃないですかー」
「……」
また天然発動。それ、聞く男が違えば勘違いされるからな、とは言えずに口をつぐんだ。なぜなら、そういう自身の発想こそが自意識過剰のような気がした。
べつに彼女の行動に意味はない。ただ、拭いきれていなかった口元のアイスが気になったとこからの親切心。
もし、これが逆の立場だったら──巽もやはり同じことをしたかもしれない。
「歩き?」
「私は自転車です。すぐそこなんで待ってて下さい。途中まで一緒にいいですか?」
「ああ」
返事を返すと、すぐ近くの駐輪場から赤い自転車を引いて日南子が戻ってきた。カラカラ…と自転車のタイヤが回る乾いた音。二人並んで家路に付く。
「車は? 乗んないんだっけ?」
「あ。免許はありますよ。でも滅多に乗らないんで……」
「へぇ。この辺田舎だから車ねぇと不便じゃね?」
「そうでもないですよ? 近場は自転車でなんとかなるし、仕事はバス通勤できて困らないし」
「他の買い物とか、どうしてんの。……なんか荷物んなるものとか」
「友達……緑や雪美さんと友達と買い物に出ることもあるし……。実家の車使って買いに出たり」
便利さに欲を言えばキリがないが、彼女は基本現状に満足しそれを楽しめるタイプなのだろう。
そういうところも、今どきの貪欲な若い女の子たちと日南子は少し違って見える。
ジワジワジワ……通りの街路樹の木の上からやたら騒がしい蝉の声が響く。ただでさえ暑いのに、この騒々しさは余計その暑さを増長させる。
「今日、ホント暑っちぃな」
「蝉の声は暑さ倍増ですよね」
同じように蝉の声を気にしていたらしい日南子が答えた。
「確かになー」
特に意味もない何気ない会話。こういうのを自然と続けられる距離感は悪くない。
「じゃあ、私、ここで──」
日南子がマンション手前の交差点のところで言った。
「おう。またな」
「はい。また」
そう言ってお互いそこで別れた。手にしたスーパーのビニール袋を反対の手に持ち替えて日南子の後ろ姿を見送っていると、ふいに彼女が振り返った。
そして俺の姿に一瞬驚いた顔をしてから、大きくこちらにむかって手を振った。さすがに同じように振り返すのは躊躇われ、片手をヒョイと挙げてそれに応えると、日南子が嬉しそうに微笑んでから再び自転車を引いて歩き出した。
「……なんだかな」
年甲斐もなく心の奥が小さく波立つ。
再び歩き出すと同時に、短パンのポケットの中のハンカチを無造作に取りだした。
このハンカチにも、伸ばした手にも、彼女の戸惑いは少しも感じられなかった。たぶん俺だけではない、誰が相手であったとしても彼女は同じことをしただろう。
「……いい子だな」
いい子だ。
可愛くもあるけどな。
けど。それだけだ。
うん。それだけ。
ジワジワとさらに頭上で響く騒がしい蝉の声。ますます気温が上がる午後。
ほんの少し妙な気持ちになったのは、きっとこのまともな思考を狂わす暑さのせいだ。そう言い聞かせ店までの道を額に汗を滲ませながらゆっくりと歩いた。
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