love*colors

涼暮つき

文字の大きさ
上 下
7 / 58
第一章 青野日南子の場合

青野日南子の場合⑦

しおりを挟む
 

 *

 バスを降りる頃には、朝から一日降り続いていた雨は小雨になっていた。
 バス停の目の前の“くろかわ”はまだ明りが点いている。ジャケットの袖口を少しだけめくり時計を見る。
 時刻は午後九時五十分。金曜の夜。そろそろバー営業が始まるころだ。
「今日は……やめとこ」
 そう呟いて日南子が歩き出したのと同時に、カラカラ……と店の入り口の格子戸が開いた。条件反射的に振り返ると、店先から出て来た人影が日南子に気がついて声を発した。
「おかえり。遅いじゃん、今日」
 声の主は言わずもがな店主の巽だ。その姿はちょうど光の加減でほの暗いシルエットでしかないが、聞き慣れたその声が誰であるかなど、常連客の日南子に分からないはずもない。
「ちょっと友達とご飯食べに行ってて……」
 当たり障りのない返事をした。なにもわざわざデートだったなどと巽に言う必要もない。
「おー、そっか」
 巽がそう返事をしながら店の外の暖簾に手を掛けた。
「あれ? ……もう、店じまいなんですか?」
「ああ。明日朝早くから法事あんだよ。今日はバー営業休み」
「そうなんですか……」
「あ。ちょい待ってな」
 そう言うと、巽が店の中へ身体半分入ったかと思うと、おそらくバイトの男の子に何か声掛けをしてから傘を片手に日南子に近寄って来た。
「途中まで一緒しねえ? 青ちゃん確かこの先のマンションだろ?」
「え?」
「俺は、煙草切れたからその先のコンビニまで」
 巽が傘を片手に煙草を吸うような仕草をしながらニッと笑った。
 巽とは週に何度か店で顔を合わせているが、こうして店の外で会うのは初めてだ。ましてや、こんなふうに肩を並べて歩くことも。
 雨は随分と小降りになったが、時折ビシャと水溜りが跳ねる。日南子の隣を歩いていた巽がさりげなく車道側にその立ち位置をスイッチした。そういう小さな気遣いが巽らしいと思う。
 肩を並べて歩いているうちに気づいたこと。普段カウンター越しの距離、同じ場所に立つということもないため気付かなかったが、思ったより巽の背が高い。
「なんか、不思議。巽さんと並んで歩くなんて。ずっとお店にいるイメージだから」
「ははっ、何だよそれ。俺だって出歩くよ、普通に」
 そりゃそうだ。巽だって普通にあの店で生活しているのだ。この辺りは比較的栄えた大通り。近所にはドラッグストアや大型スーパーもある。想像するに彼と日南子は生活圏が同じなのだ。
「ていうか、こんな近所に住んでて偶然でも会わなかったのが不思議なくらいですよね?」
「ほんとになー。特にそこのスーパーなんて出現率半端ねーけどな、俺」
「本当ですか? 私もけっこうな頻度で行ってますよー?」
「マジか。でも、アレか。行く時間帯が違うんだろな」
「今度巽さん見掛けたら声掛けちゃおーう」
「悪い。俺、知らんふりする」
「えー、酷い!」
 むくれた顔をすると、巽が不意に日南子の腕を掴んで引き寄せた。引っ張られた勢いでトンと鼻の頭が巽の胸にぶつかった。
 掴まれた腕、パーソナルスペースに完全に踏み込んだ距離で近づく身体。フワと鼻を掠める巽の匂い。
 その瞬間、キコキコ……と、自転車に乗った人影が日南子の横をすり抜けて行った。巽のおかげで接触こそしなかったものの、何もしなければぶつかっていたかもしれない。
「……雨で視界悪りぃから危ねぇな」
 そう呟いた巽の手がゆっくりと離れた。日南子は慌ててその身体を離す。
「……」
 ほんの一瞬のことに心臓が跳ねた。もちろん巽の行動に深い意味などない。ただ通りかかった自転車に接触しそうになった日南子を危険から回避させてくれただけ。
 なのにいつまでもドキドキとしておさまらない胸の鼓動の落ち着きのなさに思わず苦笑いが漏れる。
「巽さん。私、ここで──」
 日南子はそれを誤魔化すかのように、通りから奥に入る細道を指さした。
 通りを入って数メートルほどの煉瓦色の五階建てのマンションが日南子の自宅だ。
「ああ、この辺?」
「そこの煉瓦色の──、」
「そっか。いいな、コンビニ激近じゃん」
 巽が向かうコンビニは大通りをもうほんの少し歩いたところだ。
「巽さんのお店からもたいして離れてないじゃないですか」
「まぁ、そーだけど」
「それじゃ。……おやすみなさい」
 そう言って日南子は巽に小さく頭を下げた。
「おう。また店寄ってなー」
「はい」
 細道の角の所で巽と別れた。大きな傘をさした巽の後ろ姿をぼんやりと見送った。
「……帰ろ」
 くるりと身体の向きを変えて歩き出す。なぜか落ち着きを取り戻せない鼓動の早さに戸惑った。
 夜で良かった。雨が降っていて良かった。傘をさしていて良かった。
 左手で傘を支えながら、右手の甲で頬に触れた。ポツポツと傘に小さな雨粒が当たる。
「なにこれ……」
 顔が熱い。本当嫌になる。たかが一瞬腕を掴まれたくらいで。
 思ったより大きな手だった。力強い男の人の手だった。
「もー、どんだけ免疫ないのよ……」
 マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込むと日南子は扉が閉まるのと同時に小さく息を吐いた。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

冤罪から逃れるために全てを捨てた。

四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...