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涼暮つき

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第一章 青野日南子の場合

青野日南子の場合⑥

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 それからしばらくして迎えた梅雨本番。嫌な湿気を纏った雨が連日のように続いている。
 早番で仕事を終えた日南子は、事務所の軒先で持っていた傘を広げた。
 パン、と勢いよく開く傘。紺地に白の水玉模様の布地にパラパラと雨粒が落ち、落ちた滴がまるで小さなビー玉のようにコロコロと傘の上を転がっていく。
【明後日の夜、よかったら食事でも行きませんか?】
 つい二日ほど前の昼過ぎ、日南子のスマホに入ったSNSのメッセージ。例の山吹晃成あきなりからのものだ。
 名刺を預かって以来、その日のうちに雪美の指南の元連絡を取り“友人から”という一番取っつきやすいところからのお付き合いがスタートした。
 お付き合い、といってもあくまで友人から。きっかけはあくまで婚活パーティーではあるが、付き合う付き合わないは結局のところ様子を見なければ分からないという点で双方が合意した。
「やっぱ、緊張するなぁ……」
 待ち合わせ場所は最寄り駅。お互い仕事帰りという事もあるが、山吹が予約してくれた店がちょうど駅の近くなのだそうだ。
 店のチョイスから待ち合わせ時間まで、全面的に山吹に委ねてしまった。その事を申し訳なく思っていたが「俺、こういうの決めるの好きなんで」と気さくに引き受けてくれた山吹の人柄を好ましく思った。
 駅の構内にある人気のカフェの近くの柱にもたれて彼を待つ。こんなふうに普段からよく連絡を取り合っている女友達以外の人間を待つなんて事自体が久しぶり過ぎてなんだかそわそわする。
 緊張を解き放つように大きく深呼吸。ピロリン、と手にしたスマホが間抜けな音を立てた。そんな些細な音に驚いてスマホを落としそうになり、慌てて両手でそれをキャッチする。
「──っと!」
 もう、どんだけ緊張してんの!
 と心の中で自身に突っ込みながら息をついたとき、見たことのある笑顔のスーツ姿の男性が向こうから日南子に近付いて来た。
「青野さん」
「あ……!」
「いま、スマホ落としそうになってなかった?」
 クスと笑いながら山吹が日南子の目の前に立った。
「……見られてました?」
「うん。青野さんの姿見えてメッセ送った瞬間だったから、俺ミスったかなって思って。ごめん、驚かせた?」
「いえ」
 会って早々、早速格好悪いところを見られてしまった。
「遅れてごめん。だいぶ待たせた?」
「いえ。私もついさっき来たところです」
 連絡先を交換して、時折電話で話したりもして。少しは彼との会話に慣れたつもりでいたが、実際会うとなるとやはり緊張してしまう。
 とりあえず、心を落ちつけて。自然に、自然に! 日南子は心の中で唱えた。
「あっれー? 敬語、外れてないじゃん」
「あ……!」
 何度か電話やメッセージのやり取りをして分かったこと。山吹は日南子よりひとつ年下の二十四歳。会話の口調やメッセージが“堅い”と指摘され、以来敬語を使う事を禁止されている。
 これが彼なりの気遣いなのは分かっている。話し言葉にもお互いの距離感は現れるもの。少しでも早く親しくなりたいからと、山吹が気を使ってくれているのだ。
「お腹すいてる?」
「うん。どちらかと言えばペコペコ」
 今度は意識的に敬語を外して答えた。そのことに満足したように山吹がにっこりと微笑んだ。
「青野さん。けっこう食べるほう?」
「どうかな? 人並みには……、いや人並み以上かな?」
「お。それ、飯連れて行き甲斐あるー! 俺、ガッツリ食う子好きなんだよね。ここの八階なんだけど、最近出来たイタリアンの店知ってる?」
「あー、名前なんだっけ? 友達から聞いたことある……」
「そこで、い?」
「うん。嬉しい。私も気になってた」
 山吹に促されて駅ビルの中へと移動する。
 いま、自然に話せてたよね? 久しぶりのデートは、ドキドキと緊張で心臓がやたらと忙しい。
 エスカレーターを昇りお目当ての店に着くと、山吹が出て来た店員に声を掛け、そのまま予約席へと案内された。真新しい店内は清潔感に溢れ、インテリアにも凝っておりお洒落な雰囲気を醸し出している。
 店内は比較的若い年齢層の客で溢れていて、やはり流行りの店なのだということが伺える。
「そこ、段気をつけてね」
「ありがとう」
 席に案内される途中の段差をさりげなく気遣ってくれるあたりも、こういったエスコート的な扱いが慣れていない日南子はいちいちドキドキしてしまう。
 たぶん山吹は慣れているのだと思う。こういったことに。
 ルックスも爽やかで、人当たりも抜群に良い。こんな男性が今こうして一人であることのほうが不思議だ。
「せっかくだし、いろいろ頼んでシェアしようか」
 山吹がメニューを広げながら提案した。
「いいですね! 私、トマト系のパスタ食べたいです」
「うん、それ俺も好き。て言うか、また敬語出てるから」
 山吹が楽しそうに笑った。
「あ、ごめん」
「ははっ。謝んないで。苛めてるわけじゃないし」
 山吹が終始話しやすい雰囲気を作ってくれているおかげで、緊張感すら心地よく感じる。こういう人が恋人だったら──、きっと楽しく過ごせるだろう。そんなことを思いながら彼との食事を楽しんだ。
 話題豊富な彼のおかげで、話す内容にも困る事はなかった。仕事の話。友達の話。家族の話。ごく普通に楽しいと思った。
 初めてのデートが、失敗か成功かと訊かれたら。たぶん、成功のうちに入れていいのでは……なんて思うのは日南子の思いあがりだろうか。

   *

 会話も予想以上に盛り上がり、食事を終えて店を出るころには時刻は午後九時をまわっていた。
 初めてのデート、ここでサヨナラするべきか? それともどこか誘うべきか? ──そんな事を考えているうちにエレベーターが一階に到着していた。
「青野さん。明日仕事だっけ?」
「あ、うん。仕事」
「そっか。──じゃあ、あんまり遅くなるのも悪いよね」
 山吹が遠慮がちにそう言った。今夜は金曜。市役所勤めの山吹は当然土日が休みだが、サービス業の日南子は土日も仕事であることのほうが多い。
「土日ってたまに休めたりするの?」
「ああ、うん。月に一度か二度くらいは」
「じゃあ……今度はその貴重な土日休みに昼間からデートしない? ──もちろん、青野さんが嫌じゃなければ、だけど」
 少し照れくさそうに言った山吹に日南子は目を丸くした。まさか、今夜この場で次の誘いがあるなどと考えてもみなかったからだ。
「い、嫌なんて! そんなわけないです……! 私でよければ、是非っ!!」

 思わず意気込んで返事をすると、今度は山吹が目を丸くして、それから楽しそうにクスと笑った。

「ほーら。また敬語。つか、そんなりきまなくても」
「はっ」
 慌てて口元を押さえると、山吹がまた楽しそうに笑う。
「じゃあ約束! 次の休み決まったら教えて。どこ行くか計画立てようよ」
「はい」
「……また、敬語出てる」
「ええっ?! 返事の“ハイ”は敬語じゃないでしょう?」
「あ。それも、そう……か?」
 突っ込んだはずの山吹が眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「うん、そうだよ」
「そか」
 少しの間考えていた山吹が日南子の言葉に納得したように笑った。最初の頃の緊張もすっかり解け、一緒に過ごした数時間で普段の日南子自身のように振る舞えるようにもなってきた。
 山吹といると楽しい。こんなふうに思える男性とのデートは日南子にとって本当に何年かぶりの事だった。

   *

 バスターミナルの入り口付近で山吹と別れて家路につく。デートが楽しかったせいか、心なしか普段より足取りも軽い。
 バックの中からスマホを取り出すと、雪美から何件もSNSのメッセージが入っていた。初デートを前にあからさまに緊張していた日南子を気遣ってのメッセージが山のように。
「ふふ……雪美さんってば」
 家に帰ってゆっくり報告しよう。
 やって来たバスに乗り込んで、いつもの席に座って息を吐いた。雨は相変わらず降り続いている。やがてバスが出発。見慣れたはずの流れる景色も気分のせいかいつもと違って見える。
 その時、手の中のスマホが音を立てた。
【今日はありがとう。気をつけて帰りなよ。また連絡します】
 山吹からの用件のみの短いメッセージ。
 デート後のフォローまで完璧だ。日南子は口元を緩ませながら慌てて返事を打ち込む。
【私も楽しかったです。休みが決まったら連絡します】
 こちらも用件のみのメッセージを返した。返した瞬間、ハッとする。また敬語! と指摘されるだろうか。なんて思った瞬間再びスマホが音を立てた。
【おやすみ。また敬語(笑)】
 案の定。こんなやり取りもなんだかくすぐったくて──、でも思ったより心地よい。
 恋がしたい。もしかしたら、これがその第一歩になるのかもしれない。
「ふふ」
 誰かを思って胸が温かくなる、その声を聞くだけで幸せになれる。
 特別じゃなくていい。劇的じゃなくていい。そんなささやかで幸せな恋ができるようになるだろうか。


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