1 / 58
第一章 青野日南子の場合
青野日南子の場合①
しおりを挟む「それじゃ、青野さん。お疲れ様です」
「あ。お疲れ様ー!」
職場の同僚と別れて大通り沿いのバス停に向かう。ほんの少しだけカーディガンの袖口をめくり腕時計を確認。駅から出るバスの時間にあまり余裕がないことに気づいてその歩調を早めた。
「……お腹すいた」
通りを歩きながらほとんど無意識に出た言葉。と、同時に腹の虫がキュルルンと鳴いた。
ほぼ定刻通りに到着したバスに乗り込み、ほぼ決まった場所に座る。帰宅ラッシュを過ぎた午後七時五十分。バスの中にはスーツ姿のサラリーマンや制服姿の高校生がチラホラ。
日南子はオリオン事務機という事務用品の小売店に勤務している。
一昨日から続いているセールで連日大忙しだった。特に今日はセール最終日と言うことで来客が多く、普段の三倍は働いた気分だ。
職場は駅から徒歩で十分程度。駅から自宅マンションまでは、バスで二十分ほど。普段、自宅の近くからバスに乗り駅に出る。駅から職場までは徒歩だ。
マンションは築年数は古いが、比較的賑やかな大通りに面し、徒歩圏内に大型スーパーとドラッグストアがあり、利便性もよく、一人暮らしには快適な環境だ。
バスを降りてすぐ目の前にある定食屋から、胃袋を刺激するいい匂いが漂ってくる。その匂いに反応するかのように再びキュルルンと腹の虫が鳴いて、日南子は紺地に白字で“くろかわ”と書かれた定食屋の暖簾をくぐった。
*
「こんばんはー」
「おー、青ちゃん、おかえり!」
店の店主が日南子に気づいた。
すっかり常連となったこの定食屋。カウンターの他、テーブル席が五席ほどのこじんまりとした店内は、日曜の夜ということで家族連れが多くテーブル席は満席だ。日南子はキョロキョロと辺りを見渡してから、空いていたカウンター席の隅に腰掛ける。実はここが日南子の一番のお気に入りの席なのだ。
定食屋のカウンター席に座るお一人様女子なんて相当肝が据わっていると思われるかもしれないが、初めてこの店を訪れた時、偶然この席に座ることになり、思いのほかこの場所が居心地が良い事を知った。
「青ちゃん。今日の定食、鱚のフライ。どうする?」
「わ。旬ですね! じゃあ、それで」
「了解」
「巽さん。あと生も。すっごく冷えたのが嬉しいです!」
「はいよー」
店主とのこんなやり取りが自然なのは、日南子が三年ほど前からこの店に通い詰めているから。
就職を機に一人暮らしを初めてすぐの頃、たまたま最寄バス停の近くという理由だけでフラリと立ち寄った定食屋。当時は先代──、つまり今の店主の両親が店を切り盛りしていたのだが、二年ほど前二人が店を畳む話になった時、脱サラした息子がこの店を継いだのだ。
「今日、ふく子さんたちは?」
「ああ。親父と二人で町内会の旅行。熱海だってよ」
「へぇー。いいなー、熱海。温泉でのんびりとか最高ですよね」
「確かになー」
「ふふ」
ふく子さんたちというのは、先代であるご両親。店を息子に明け渡し、郊外へ夫婦で転居。週末などはたまに店を手伝いにやって来る。
昔からの常連さんも多いことから二人が店に顔を出すとお客さんたちも喜んでいる。かくいう日南子もそんな常連客のひとり。
「忙しそうですね」
「んー? もう料理出ちゃってるからそうでもない」
巽がサーバーのコックを捻りジョッキにビールを注ぎながら答えた。
「はいよ」
トン、と目の前に黄金色で満たされたジョッキが置かれる。
「ありがとうございます」
「ん。飯、待っててな」
目だけで笑うと、巽が奥の厨房のほうへと姿を消した。
この店の主人である黒川巽は現在三十七歳。短髪の黒髪に、黒縁の眼鏡。一見無精のように見えるが整えられた顎髭。その風貌とラフな服装が野暮ったくなく、妙にマッチしていて年齢より随分と若く見える。
何でも以前彼が勤めていた会社は、大手の有名企業。そんな有名企業を辞めて三十代半ばにして急に家業を継ぐなど最初はどんな変わり者かと思っていたのだが、彼の人柄は申し分ない上、作る料理は先代のものと変わらず温かく懐かしく日南子の胃を癒した。
それが、日南子が変わらずこの店に通い続ける理由。
カウンターから店内を見渡すと、すっかり腹を満たされた客たちが揃って幸せな笑顔を浮かべている。
「ふふ……」
分かる分かる。巽さんのご飯、美味しいもんね。そんなことを思いながら一人笑いをしていると、
「なーにニヤニヤしてんだ? はい、お待ちどうさん」
いつの間にか横に立った巽が、膳をテーブルに置いて日南子の顔を覗き込んでいた。顎髭や風貌のせいで一見取っつきにくく感じるが、そんな彼の目はいつも優しい。それが日南子にとってこの店の妙な居心地の良さにも繋がっている。
「鱚定な」
「あ。ありがとうございます」
「旨いぜ。冷めないうちに食いな」
知ってます。巽さんの作るご飯が美味しいのは。
「今日のも美味しそー」
日南子は運ばれてきた膳を見て顔をほころばせ「いただきます」と言って両手を合わせた。
*
午後九時をまわり賑やかだった家族連れの客たちが次々と店を後にした。人気の減った店内が急に静かになる。バイトの男の子が客の去ったテーブル席を手際よく片付けている。店には日南子と、テーブル席に残った一組のお客だけ。
「何か飲む?」
厨房から戻って来た巽が訊ねた。日南子はコクコクと頷きながら笑顔を返す。
「何がいい?」
「巽さんにお任せします」
「んじゃ、コーヒーでいい?」
「はい。いつもありがとうございます」
「青ちゃん、常連中の常連だしな」
すっかり店が落ち着くと、巽はこうして日南子にこっそり飲み物を用意してくれる。まぁ、日南子だけが特別という訳ではなく、ある程度顔の知れた常連客なら誰にでも。
そんな小さな心遣いも、この店の居心地の良さの理由。
「だって。巽さんのご飯おいしいんだもん」
素朴で温かくてどこか懐かしい、いわばおふくろの味的な意味で。
「お財布に余裕があれば、毎日でも通いたいです」
「おー。嬉しいこと言ってくれんじゃん」
日南子の言葉に巽がクシャと本当に嬉しそうに笑った。
毎日。いや、本当。毎日彼の食事を食べられたならどんなに幸せだろう。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
【書籍化確定、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる