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涼暮つき

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第一章 青野日南子の場合

青野日南子の場合①

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「それじゃ、青野あおのさん。お疲れ様です」
「あ。お疲れ様ー!」
 職場の同僚と別れて大通り沿いのバス停に向かう。ほんの少しだけカーディガンの袖口をめくり腕時計を確認。駅から出るバスの時間にあまり余裕がないことに気づいてその歩調を早めた。
「……お腹すいた」
 通りを歩きながらほとんど無意識に出た言葉。と、同時に腹の虫がキュルルンと鳴いた。
 ほぼ定刻通りに到着したバスに乗り込み、ほぼ決まった場所に座る。帰宅ラッシュを過ぎた午後七時五十分。バスの中にはスーツ姿のサラリーマンや制服姿の高校生がチラホラ。
 
 日南子ひなこはオリオン事務機という事務用品の小売店に勤務している。
 一昨日から続いているセールで連日大忙しだった。特に今日はセール最終日と言うことで来客が多く、普段の三倍は働いた気分だ。
 職場は駅から徒歩で十分程度。駅から自宅マンションまでは、バスで二十分ほど。普段、自宅の近くからバスに乗り駅に出る。駅から職場までは徒歩だ。
 マンションは築年数は古いが、比較的賑やかな大通りに面し、徒歩圏内に大型スーパーとドラッグストアがあり、利便性もよく、一人暮らしには快適な環境だ。
 バスを降りてすぐ目の前にある定食屋から、胃袋を刺激するいい匂いが漂ってくる。その匂いに反応するかのように再びキュルルンと腹の虫が鳴いて、日南子は紺地に白字で“くろかわ”と書かれた定食屋の暖簾のれんをくぐった。

   *
 
「こんばんはー」
「おー、青ちゃん、おかえり!」
 店の店主が日南子に気づいた。
 すっかり常連となったこの定食屋。カウンターの他、テーブル席が五席ほどのこじんまりとした店内は、日曜の夜ということで家族連れが多くテーブル席は満席だ。日南子はキョロキョロと辺りを見渡してから、空いていたカウンター席の隅に腰掛ける。実はここが日南子の一番のお気に入りの席なのだ。
 定食屋のカウンター席に座るお一人様女子なんて相当肝が据わっていると思われるかもしれないが、初めてこの店を訪れた時、偶然この席に座ることになり、思いのほかこの場所が居心地が良い事を知った。
「青ちゃん。今日の定食、きすのフライ。どうする?」
「わ。旬ですね! じゃあ、それで」
「了解」
たつみさん。あと生も。すっごく冷えたのが嬉しいです!」
「はいよー」
 店主とのこんなやり取りが自然なのは、日南子が三年ほど前からこの店に通い詰めているから。
 就職を機に一人暮らしを初めてすぐの頃、たまたま最寄バス停の近くという理由だけでフラリと立ち寄った定食屋。当時は先代──、つまり今の店主の両親が店を切り盛りしていたのだが、二年ほど前二人が店を畳む話になった時、脱サラした息子がこの店を継いだのだ。 
「今日、ふく子さんたちは?」
「ああ。親父と二人で町内会の旅行。熱海だってよ」
「へぇー。いいなー、熱海。温泉でのんびりとか最高ですよね」
「確かになー」
「ふふ」
 ふく子さんたちというのは、先代であるご両親。店を息子に明け渡し、郊外へ夫婦で転居。週末などはたまに店を手伝いにやって来る。
 昔からの常連さんも多いことから二人が店に顔を出すとお客さんたちも喜んでいる。かくいう日南子もそんな常連客のひとり。
「忙しそうですね」
「んー? もう料理出ちゃってるからそうでもない」
 巽がサーバーのコックを捻りジョッキにビールを注ぎながら答えた。
「はいよ」
 トン、と目の前に黄金色で満たされたジョッキが置かれる。
「ありがとうございます」
「ん。飯、待っててな」
 目だけで笑うと、巽が奥の厨房のほうへと姿を消した。
 
 この店の主人である黒川くろかわ巽は現在三十七歳。短髪の黒髪に、黒縁の眼鏡。一見無精のように見えるが整えられた顎髭あごひげ。その風貌とラフな服装が野暮ったくなく、妙にマッチしていて年齢より随分と若く見える。
 何でも以前彼が勤めていた会社は、大手の有名企業。そんな有名企業を辞めて三十代半ばにして急に家業を継ぐなど最初はどんな変わり者かと思っていたのだが、彼の人柄は申し分ない上、作る料理は先代のものと変わらず温かく懐かしく日南子の胃を癒した。
 それが、日南子が変わらずこの店に通い続ける理由。
 カウンターから店内を見渡すと、すっかり腹を満たされた客たちが揃って幸せな笑顔を浮かべている。
「ふふ……」
 分かる分かる。巽さんのご飯、美味しいもんね。そんなことを思いながら一人笑いをしていると、
「なーにニヤニヤしてんだ? はい、お待ちどうさん」
 いつの間にか横に立った巽が、膳をテーブルに置いて日南子の顔を覗き込んでいた。顎髭や風貌のせいで一見取っつきにくく感じるが、そんな彼の目はいつも優しい。それが日南子にとってこの店の妙な居心地の良さにも繋がっている。
「鱚定な」
「あ。ありがとうございます」
「旨いぜ。冷めないうちに食いな」
 知ってます。巽さんの作るご飯が美味しいのは。
「今日のも美味しそー」
 日南子は運ばれてきた膳を見て顔をほころばせ「いただきます」と言って両手を合わせた。

   *
 
 午後九時をまわり賑やかだった家族連れの客たちが次々と店を後にした。人気ひとけの減った店内が急に静かになる。バイトの男の子が客の去ったテーブル席を手際よく片付けている。店には日南子と、テーブル席に残った一組のお客だけ。
「何か飲む?」
 厨房から戻って来た巽が訊ねた。日南子はコクコクと頷きながら笑顔を返す。
「何がいい?」
「巽さんにお任せします」
「んじゃ、コーヒーでいい?」
「はい。いつもありがとうございます」
「青ちゃん、常連中の常連だしな」
 すっかり店が落ち着くと、巽はこうして日南子にこっそり飲み物を用意してくれる。まぁ、日南子だけが特別という訳ではなく、ある程度顔の知れた常連客なら誰にでも。
 そんな小さな心遣いも、この店の居心地の良さの理由。
「だって。巽さんのご飯おいしいんだもん」
 素朴で温かくてどこか懐かしい、いわばおふくろの味的な意味で。
「お財布に余裕があれば、毎日でも通いたいです」
「おー。嬉しいこと言ってくれんじゃん」
 日南子の言葉に巽がクシャと本当に嬉しそうに笑った。
 毎日。いや、本当。毎日彼の食事を食べられたならどんなに幸せだろう。


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