華の剣士

小夜時雨

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失われていたもの

空白の期間

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「あんた、もう気分は悪くないかい?」

 チェヨンがリョンヘの顔を覗き込むようにして尋ねた。

「ああ、さっきまでの吐き気や痛みが嘘みたいだ。ただ…。」

 リョンヘは瞳を揺らす。そこから動揺が見て取れた。そして彼は静かに息をつく。

「…。昔、の記憶が戻ってきたかもしれない…」
「ええっ!?」

 リョンヘの言葉に皆一様に驚いた。彼の記憶は十年前を境に、消えてしまっていた。その際街に忍んで出かけていたので、城下で何かに巻き込まれたのは皆想像がついていた。その上リョンヘは王族の血をひく者ならば皆持っている、獣を操る力さえもその時に失ってしまったのだ。

「じゃあ、なぜ記憶がなくなったのかもわかったの?」

 ハヨンはおずおずとそう尋ねる。彼にとっては恐かった体験かもしれないが、獣を操る力までもが失われたあたり、何か重要なことが関わっているように思えた。

「あれは…。…城に帰ろうとした時、誰かに背後から襲われたんだ。とっさに避けて、野良犬に協力してもらって、何とか退けたんだけど、その後に…。後に…」

 リョンヘの息を呑む音が聞こえる。彼の両目は目一杯見開かれていた。

「あれはイルウォンだ…」

 ハヨンはその衝撃の事実に固まる。彼はリョンヘの双子の兄、リョンヤンの教育係でこの国の宰相だ。そして…

「イルウォン様…?私も、戦で戦った相手が、彼だったような気がする…。意識が朦朧としてたから、あやふやだけど…」

 その時、イルウォンのあの冷たい手を、見るたびに起こった悪寒を思い出す。ハヨンとリョンヘは呆然としたようにお互いの目を見つめていた。

(あれはもしかして、本能的に敵視してたんだろうか…。)
「ちょ、ちょっと待って。私を置いて行かないでちょうだい。そのイルウォンっていうのは誰?」

 ムニルが焦ったようにそう尋ねる。チェヨンも怪訝な表情を見せていた。

「イルウォンは…この燐の国の宰相だ。そして、リョンヤンの教育係でもあり、俺たちが生まれた頃には既に城に勤めていた。」

 リョンヘは掠れた声でそう言った。イルウォンは彼にとっては最も親しい臣下の一人であった。その衝撃は図り知れない。

「宰相ねぇ…。まぁ、そんなところだと思ったよ」
「…なぜ、そう言い切れるんだ?」
「あの魔物はこの国を、そしてこの人の世を手中にしたいと思っている。そのためには出来るだけこの国の権力者になることを重視するはずだ。王族が機能しなくなった時、指揮を取れるのは宰相だからね。そしてあんたを襲った理由はあんたが王族の中でも獣の操る力が特に強かったことと、リョンヤンに比べて健康だったからだ。」

 チェヨンの最後の言葉に、首をかしげる。

「リョンヘの力が強いから邪魔だったのはわかるんだけど、健康だからって理由はなぜ??」
「それは体の弱い王子なら、体調不良の王子への助力を建前に政治の主導権を握れるからさ。」

 ムニルの問に対しても、老婆の答えは明快だった。より傀儡の王として相応しいのはどちらかとイルウォンは二人の王子が幼い頃に、早々に判断したようだ。

「なら父上を弑逆し、理不尽な徴兵で民を苦しめ、人を物のように扱う私の敵は…幼い頃から傍にいたイルウォンという事だ…」

 リョンヘの口調はいつになく硬く、平坦で、怒りと動揺をひたすら抑えようとしているようにも感じられる。その場はしばしの間重たい沈黙に支配された。

「…それにしても、どうして今リョンヘの記憶が戻ったのかしら。」

 ムニルはその重たい沈黙を破るためにか、そうぽつりと呟く。

「記憶が戻る前に、何か思い出すような要因があったのかねぇ。」
 
 流石の老婆も心当たりはないらしい。彼女が腕を組み、うーん、と言いながら考える姿はなかなか珍しい。

「さっき二人に何があったわけ?」

 ハヨンはムニルの問いに詰まる。

(まさか、泣いてたのを慰めてもらったって、そんなこと恥ずかしくて言えない)

 先程の事を考えていると、気恥ずかしくなってきた。頬が熱を帯びたことが自分でもわかる。

「えーっと、私がちょっと落ち込んでたから、励ましてもらってた。」

 ハヨンはそう誤魔化すように早口で答える。自分が変な行動をしていないか、思わず三人の反応をちらりと見た。



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