華の剣士

小夜時雨

文字の大きさ
上 下
158 / 221
番外編 ムニル過去編

碧色の鬼灯

しおりを挟む
 あの日から、ムニルは変わった。否、変わろうと努力をした。どうせ己はいつまでも囚われる身なのだ、と諦めることをやめたのだ。
 まず初めに、ムニルは妓主のもとに向かった。己の借金のこと、その残額と年季が明けるのはいつぐらいになるかということ、そういった今まで知ろうともしなかったことを尋ねたのだ。

「お前は身寄りもないし、ここで育ってきた。そういった事を一度も尋ねてこなかったから、私はお前はずっとここにいるつもりなのだと思っていたよ。しかしまぁ、人はいつまでも同じものを愛で続けるとは限らない。それはここにいる妓女にも必ず訪れることだ。それはお前も例外ではないと私は考えている。」

 ムニルは妓主の答えに拍子抜けした。たしかに、彼は契約通り仕事を行えば理不尽に扱うことはない。実力主義者で、稼ぎの良い妓女には新しい衣を与えるなど、待遇も良かった。
 しかし、ムニルと他の妓女が同じように扱われていると言うことは初めて知った。始めからムニルに価値を見出していた妓主以外の者は、ムニルなど得体の知れぬ化物でしかなかった。そのため、ムニルを引き取った妓主にはムニルを好きに扱う権利があるのだ、と勝手に思い込んでいたのだ。その思い込みによって、ムニルは自ら自由を奪っていた。
 妓主は呆けた顔のムニルを見、その事を察したようだった。

「お前は私に対して意を唱えることも、疑問を投げかけることもなかった。だから私は、お前は出来る限りここに残るものなのだと思っていたよ。しかし、そうではなかったようだ…。お前の年季はあと二年で明ける。それが過ぎればお前は自由だよ。ここに残るなり去るなり好きにすればいい。」
(あと二年…)

 ムニルは二年後、この花街を出た己の生活を想い描く。それは相変わらず、空白のようで、己が仕事をしているのか、泣いているのか、笑っているのか、そんなこともわからなかった。

(あの時は何もわからなかったけど…。でも、今から考えたって遅くないわよね。だってあと二年あるもの)

 突然妓館を飛び出して、己のこの先が分からず戸惑った時と、今は全く違う。時間もあるし、あの頃よりも教養がある。そして、分からないことは学べば良い。ムニルは今まで、己の価値を見いだせていなかったが、勉学や芸事についての自信はついていた。

(認めたくはないけれど…これも旦那様のおかげね)

 ムニルは何とも皮肉に思えて苦笑いをした。

__________________

「とうとう今日ですね。」

 ムニルが自室で布団の上に座り、顔を出し始めた朝日を眺めていると、そう背後から声がかかった。

「ええ、そうね」

 ムニルは声の主であるシウの方を振り返って笑んだ。心は驚くほどに凪いでいた。

(不思議だわ…。ここで生活するのも今日で終わりだなんて。)

 ムニルは身に纏っている豪奢な羽織物をに触れる。羽織りものには上質な絹が使われており、鮮やかな碧色に染め上げられていた。

「私、折角の晴れの日に言うのもあれなんですけど、ムニルさんがいなくなることがとっても寂しいです。」

 美しく、気丈で凛とした美少女へと成長したシウであったが、今、瞳は潤み、朝日を浴びて優しい光を帯びている。ムニルはこれがシウの本心である事をすぐさま理解した。ムニル自身も己の生き方の全てを変えてくれたこの少女に対しては思い入れは特別に深い。

「そうねぇ、私もあんたと離れることを寂しく思うわ…。そう考えると不思議なものね…。私は一生この閉ざされた偽りの華やな世界で、孤独なまま生きていくと思っていたもの。」
「そんな…。」
「でもそれを変えてくれたのはシウ、あなたなのよ」

 ムニルはシウの両肩に、そっと包み込むように手を置いた。じんわりとシウの温もりが掌に伝わる。シウは呆然とした表情を見せた。どうやら思いもしなかったようだ。

「私ですか…?」
「そう。私はあんたを見て、自由に行きたいと心から願うようになったの。ありがとう」
「そんな…。でも、ムニルさんが今こうして笑ってくれていると言うことは、私も嬉しいです。」

 そうやってはにかみながら答えたシウの瞳からはついに、涙がこぼれた。ムニルは慌てて涙を指で拭う。その指は思わず震えてしまった。

「泣かないでよ。そんなふうにされちゃ、私も泣きたくなるじゃない。」
「泣いてください。でないとなんだか不公平な気がします。」
「何よそれ」

 目に涙を溜めたまま、膨れっ面で不満気にそう訴えたシウが、いつもより幼く見えた。思わずムニルはそれが可愛らしくも感じて、笑いがこぼれた。泣きそうになったり、笑ったりと忙しい。
 幼子の相手をするように、黙ってシウの頭を撫でていると、しばらくして落ち着いた。シウも同じだったのだろう。涙は止まっていた。

「ひどい顔」

 ムニルは苦笑する。シウの目元の紅や、白粉は涙によって、どろどろと溶けて崩れていた。きっと己もも同じようになっているに違いない。

「ねぇ、シウ。あんたは年季が明けたらお母様のところに行くのでしょう?」
「はい」
「もしその時に困ったことがあれば、私はあなたの力になるわ。」
「…ありがとうございます」

 どうやって探すのだ、とそのような野暮なことをシウは聞かなかった。必要だと思えば、いつかは必ず出会うだろう。運命とは摩訶不思議なものであると、この花街の世界で十分知った。

(それに、私の姿はきっと目立つ…。探そうと思えば、すぐに足がつくでしょう)

 ムニルは無言で立ち上がった。そして、座敷の襖の前に立つ。

「じゃあ元気でね。いつか花街の外で会いましょう。」

 そう、シウに背を向けたまま別れを告げた。もう、彼女の顔を見る勇気はなかった。例え嫌な思い出ばかりのこの妓館であっても、多少なりとも心残りというものはあるのだ。
 ムニルはその思いを引き剥がすように、襖を開け、すぐさま後ろ手に閉めた。芸事の師範に、あれほどはしたないと言われていたことを破り、大股で足音を鳴らしながら木張の廊下を歩く。

(もう、振り返ったりなんてしない。私はもう、前に進もうと足掻くことしかしないんだから)

 暁の空はとうに白み、吸い込まれそうなほどに透き通った青が広がっているのだった。




しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります

真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」 婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。  そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。  脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。  王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。

もう散々泣いて悔やんだから、過去に戻ったら絶対に間違えない

もーりんもも
恋愛
セラフィネは一目惚れで結婚した夫に裏切られ、満足な食事も与えられず自宅に軟禁されていた。 ……私が馬鹿だった。それは分かっているけど悔しい。夫と出会う前からやり直したい。 そのチャンスを手に入れたセラフィネは復讐を誓う――。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです

白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。 ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。 「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」 ある日、アリシアは見てしまう。 夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを! 「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」 「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」 夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。 自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。 ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。 ※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

処理中です...