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番外編 ムニル過去編
碧色の鬼灯
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あの日やってきた少女は、瞬く間に妓館に溶け込んだ。少女の名前はシウと言い、どうやら没落した武家の娘らしい。年齢にそぐわぬ礼儀作法を身につけていた理由は、きっと武家の娘として恥じることのないように徹底的に叩き込まれたためだろう。彼女は堂々としており、妓館に売られてなお、誇り高く凛としていた。
幼い頃に親に売られた少女たちは大抵心に傷を負う。しかしシウには擦れたようなところも、気を張り続けて疲弊しているような様子もない。そしてなにより、何者にも礼節を忘れずにいた。そんなシウに対して、ムニルは素直に感心していた。
「ねぇ、シウ。あなた、ここに来てまだ日が浅いけど、疲れていたりはしない?」
「はい!この通り元気ですよ。なんたって私の取り柄は健康と体力ですから。それに、ここは学ぶことが沢山あって張り合いがあります。」
シウはそう言って笑顔を見せた。ムニルはそうやって自然に明るく笑えるシウが眩しかった。ムニルは客への愛想笑い以外、笑ったことがなかったのだ。
(この子は私には無いものをたくさん持っているんだわ…)
シウと関わるたびに、己に足りないものを実感し、自身がなんとつまらなく空虚な者であるのかを知る。
「偉いわね。この生活が嫌だと思うことは無いの?」
ムニルは無礼を承知でそう尋ねてしまった。己は生まれた頃からここにいる。逃れられる運命でも無いのだからと、ずっと諦めながら生きてきた。他の者はどう思っているのか。そう興味が湧いたのは初めてのことだった。
「嫌だと思うこと…。確かに、嫌なこともあります。でも、それは今の私には避けて通れないことです。だから、もっとその先のことを考えるんです。」
「もっと先のこと…?」
「はい。年季が明けて、妓女ではなく1人の女の子として生活することとか、誰かを好きになって、結婚することとか…。あとは大富豪の女商人になるとか」
そう言って笑う彼女は、話している内容にそぐわぬ、年相応の表情にも見えた。おそらく、ムニルと話している中で一番の笑顔である。
「随分とたくさん夢があるのね。それに楽しそうだわ。」
「はい!何と言っても、年季さえ明ければ私達は自由なのですから!」
「私達…?」
シウを微笑ましく見ていたムニルは、ぴくりと肩を揺らした。
「はい。ここにいらっしゃるお姉様方は皆、年季が明ければ妓女を辞めることができるのでしょう?」
「え、ええ。そうね」
幸いこの妓館はこの花街の中で最も繁盛している。そのためか、年季が明ければ辞めることも可能であるし、その後の生活の足しに、上位の妓女であれば金銭を渡されることもあった。
しかし、その一方で花街の外の生活に馴染めず、花街へ戻ってきた女たちのこともムニルは知っていた。
その上、ムニルは花街の生まれである。そして何より、ムニルの母が背負っていた借金の肩代わりをしなければならない。その借金がどれほどのものなのか、正確には把握していない。そして、生まれてから一度も目にしたことのない母に大した情も持っていなかった。
ただこの身に起きることを淡々と受け入れて、流されて来た。そして曲がりなりにもムニルを拾い、育てたのは妓主だ。そのため、そもそもムニルには年季があるのかどうかも定かではない。例によって、どうせ一生己は籠の鳥だと決めつけて、諦めていた。
(少しくらい、聞いてみても良かったのかもしれないわね)
ムニルはこの花街の世界が己を縛っていると思っていたが、花街だけでなく、そこで育った自身でも縛っていたことに気がついた。皮肉な状況に、思わず笑いがこみあげそうになる。
「父上は亡くなって、母上とも離れることになってしまいましたが、私はいつかこの妓主一番の妓女になって母上を迎えに行くんです」
そうはにかみながら話すシウは、豪商になると言っていた時とは打って変わり、やや低く、力強い声だった。
(きっとこれがこの子の本音だわ)
ムニルは幼くも強かなその少女の横顔を眺めながら、そう考えた。
(この子は強い。私なんかよりもずっと。はっきりと生きることについて思い描いている…。)
おそらく己が変わることを望まなければ、己の人生はこのままだろう。ムニルはやっとその事を理解した。例え多くのしがらみがあったとしても、それを断ち切るきっかけはあるはずだ。その一つが、夜明けともに妓館を飛び出し、堀の向こうを目指したあの日だった。諦め続けたムニルは、ムニル自身の願いをあの時に手放したのだ。
(なんて馬鹿なのかしら。そしてそれを教えてくれたのが私よりも幼い女の子だなんてね)
ムニルは薄く笑みを浮かべながら、己に語りかける少女の話に耳を傾けるのだった。
幼い頃に親に売られた少女たちは大抵心に傷を負う。しかしシウには擦れたようなところも、気を張り続けて疲弊しているような様子もない。そしてなにより、何者にも礼節を忘れずにいた。そんなシウに対して、ムニルは素直に感心していた。
「ねぇ、シウ。あなた、ここに来てまだ日が浅いけど、疲れていたりはしない?」
「はい!この通り元気ですよ。なんたって私の取り柄は健康と体力ですから。それに、ここは学ぶことが沢山あって張り合いがあります。」
シウはそう言って笑顔を見せた。ムニルはそうやって自然に明るく笑えるシウが眩しかった。ムニルは客への愛想笑い以外、笑ったことがなかったのだ。
(この子は私には無いものをたくさん持っているんだわ…)
シウと関わるたびに、己に足りないものを実感し、自身がなんとつまらなく空虚な者であるのかを知る。
「偉いわね。この生活が嫌だと思うことは無いの?」
ムニルは無礼を承知でそう尋ねてしまった。己は生まれた頃からここにいる。逃れられる運命でも無いのだからと、ずっと諦めながら生きてきた。他の者はどう思っているのか。そう興味が湧いたのは初めてのことだった。
「嫌だと思うこと…。確かに、嫌なこともあります。でも、それは今の私には避けて通れないことです。だから、もっとその先のことを考えるんです。」
「もっと先のこと…?」
「はい。年季が明けて、妓女ではなく1人の女の子として生活することとか、誰かを好きになって、結婚することとか…。あとは大富豪の女商人になるとか」
そう言って笑う彼女は、話している内容にそぐわぬ、年相応の表情にも見えた。おそらく、ムニルと話している中で一番の笑顔である。
「随分とたくさん夢があるのね。それに楽しそうだわ。」
「はい!何と言っても、年季さえ明ければ私達は自由なのですから!」
「私達…?」
シウを微笑ましく見ていたムニルは、ぴくりと肩を揺らした。
「はい。ここにいらっしゃるお姉様方は皆、年季が明ければ妓女を辞めることができるのでしょう?」
「え、ええ。そうね」
幸いこの妓館はこの花街の中で最も繁盛している。そのためか、年季が明ければ辞めることも可能であるし、その後の生活の足しに、上位の妓女であれば金銭を渡されることもあった。
しかし、その一方で花街の外の生活に馴染めず、花街へ戻ってきた女たちのこともムニルは知っていた。
その上、ムニルは花街の生まれである。そして何より、ムニルの母が背負っていた借金の肩代わりをしなければならない。その借金がどれほどのものなのか、正確には把握していない。そして、生まれてから一度も目にしたことのない母に大した情も持っていなかった。
ただこの身に起きることを淡々と受け入れて、流されて来た。そして曲がりなりにもムニルを拾い、育てたのは妓主だ。そのため、そもそもムニルには年季があるのかどうかも定かではない。例によって、どうせ一生己は籠の鳥だと決めつけて、諦めていた。
(少しくらい、聞いてみても良かったのかもしれないわね)
ムニルはこの花街の世界が己を縛っていると思っていたが、花街だけでなく、そこで育った自身でも縛っていたことに気がついた。皮肉な状況に、思わず笑いがこみあげそうになる。
「父上は亡くなって、母上とも離れることになってしまいましたが、私はいつかこの妓主一番の妓女になって母上を迎えに行くんです」
そうはにかみながら話すシウは、豪商になると言っていた時とは打って変わり、やや低く、力強い声だった。
(きっとこれがこの子の本音だわ)
ムニルは幼くも強かなその少女の横顔を眺めながら、そう考えた。
(この子は強い。私なんかよりもずっと。はっきりと生きることについて思い描いている…。)
おそらく己が変わることを望まなければ、己の人生はこのままだろう。ムニルはやっとその事を理解した。例え多くのしがらみがあったとしても、それを断ち切るきっかけはあるはずだ。その一つが、夜明けともに妓館を飛び出し、堀の向こうを目指したあの日だった。諦め続けたムニルは、ムニル自身の願いをあの時に手放したのだ。
(なんて馬鹿なのかしら。そしてそれを教えてくれたのが私よりも幼い女の子だなんてね)
ムニルは薄く笑みを浮かべながら、己に語りかける少女の話に耳を傾けるのだった。
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