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Tenth Chapter...7/28

外鯨美波②

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 広めたくもない俺の名前は、しかし着実に浸透しているようで、不良どもに絡まれる機会も多くなっていった。中学生の喧嘩と言っても、そんなに可愛いものではない。下手をすれば凶器すら向けられるレベルだ。悪意に子どもも大人もないと、つくづく思わされる。
 まだ、本気で殺意をぶつけてくる相手には遭遇したことがないけれど、いつかは出遭ってしまうのではないかと内心怖い。高校はどこか遠い場所に行きたいなと考えているが、施設を動くことはできるのだろうか。盈虧院は全国にいくつかあるそうなので、可能なら転院したいものだ。
 もう少し、上手い生き方を見つけるべきだ。もうすぐ自分は、あの施設を抜け出して、何とか一人で生きられる大人になるのだから。
 そんな思考の中、ふと外鯨の顔が浮かぶ。
 あいつも上手い生き方ができればな。
 俺がここからいなくなったら、あいつは少し残念がるのだろうか。まさか、それでいじめに屈したりはしないだろうけれど。
 今の俺は、不思議なことに彼にとっての抑止力を果たしている。そんな役割、好んでやりたくはないというのに。

 ――ありがとう、ございます。

 ただそれだけの言葉が、こうも棘のように刺さろうとは思っていなかった。ある意味では、暴力よりも強い力だ。
 俺もまだまだ未熟者だった。

「気持ちの問題かもしれないけど、学校にいるのが少し楽になった気がするんだ」
「俺は相変わらずつまんねえさ」
「勉強も、面白いところなら面白いよ?」
「個人の感想ってやつだろ」

 外鯨は、週にニ、三度は会いに来た。特に決まった場所で休んでいるわけではないのに、こいつは何となくの感覚で居場所を見つけてしまうらしい。まあ、毎度結構探し回ってはいるのだろうが。
 勉強、か。生憎俺は一通り体験した上で見切りをつけているし、今のところ面白いと思えるようなところはなかった。
 外鯨は、何が気に入ってるのやら。

「僕は国語とか? お話を読むのは割と好きだし」
「にしちゃあ、むしろそっちの点数は低いじゃねえか」
「あはは、ぐうの音も出ないや」

 国語は明確な正解がないこともあるわけで、こういう優等生タイプにとっては難しい部分もあるのかもしれない。数学や化学はいつも満点近いんだよな。

「……医者を目指してるからねえ。理系は特に頑張らないといけなくて」
「医者? 凄えな」
「うん、凄いんだ。凄くなくてもいいのに」
「……そうか」

 そういえば、親が良い職に就いているという話は聞いていた。多分、こいつの親も医者や医療従事者で、子どもにも同じ道を進ませようとしてる、みたいな感じなのだろう。
 子どもにとっては、とんでもない重圧だ。
 なるほど、そんなエゴの塊みたいな大人には、自分の陥っている状況なんて言えないし言いたくもない、か。経験はせずとも理解は出来た。

「好きなことだけ頑張れるなら、まだ希望はあるんだけどねえ」
「仕方ねえさ。それが人生ってやつだろ」
「あは、悟ったみたいなこと言うね」
「諦めてんだ」

 諦めるのもいいね、などと彼は呟く。でも、それは多分ネガティブな意味合いではない。
 言葉を変えれば、それは吹っ切れるということだ。きっと、こいつが憧れる生き方はそんなもので。

「おい、どこにいやがんだ、義本ぉ!」

 ふいに階下から、そんな怒鳴り声。
 やれやれ、俺も諦めないといけないらしい。

「怪我しないでくださいね、義本さん」
「……分かってら」

 風そよぐ屋上から、空気の澱んだ校舎へ。
 溜め息を一つ吐いて、俺はまた対峙する。
 何もかもを吹っ切れるのはまだ先だ。
 俺だっていつか、生き方を肯定できるようになりたいさ。

「さ……かかってきな」

 今日も今日とて、拳は振り下ろされる。





「……盈虧院って、どういうところなのかな」

 外鯨からそんな質問受けたのは、彼と知り合って三ヶ月ほど経った頃だろうか。もう随分前から気になっていたようだが、センシティブなことだからと、中々口に出せなかったようだ。
 その話題を挑発に使われることばかりだったので、真正面から訊ねられるのは新鮮だった。不思議なもので、苛立ちも全くない。
 知りたいと思って聞いてきてくれることは、何だか自分の重石を引き受けてくれるような感覚がしたのだ。
 ほんの少しだけ、悪くはないと思う。

「まあ、名前がえらく難しい以外は普通の児童養護施設だと思うが。ただ、何だろうな……割と嫌な目に遭ってる奴が多い印象もある。それは子ども側の問題だろうし、盈虧院の特徴と言えるかは分からんけどよ」
「嫌な目に」
「壮絶な虐待があったり、ハンディキャップがあったり……ただ単に身寄りが無い、と言う奴は少なかった。盈虧院側もそういう深刻な子どものセーフティネットを意識してるのかもな」

 盈虧という言葉の意味を調べてみたこともある。月の満ち欠け……それを人生にでも喩えたつもりかと考えたこともあった。
 だとすれば、俺たちは満ちることを望み続ける新月なのだろうか、なんて。

「……僕ね。医者を目指してるって話したでしょう」
「ああ、親の意向だとか何とか」
「納得はしてなかったんだ。自分の中で折り合いもつけられてなかった。でも、ちょっとだけ理由を見つけられた気がして」
「……ふうん?」

 外鯨は、眩しそうに空を見上げる。

「医者になると決めたのなら……せっかくなんだ。社会的だとか身体的だとかあるけれど、弱い立場とされている人たちに手を差し伸べられればなって」
「それこそ孤児とか、か」
「まあ、今の法体系じゃ実現は出来ないんだろうけどね」

 いくらか補助的な法はあったとしても、外鯨の理想論とはかけ離れている。
 彼の夢は、まるで漫画の世界のようだ。
 夢みるだけなら確かに、どれだけ見ようが構いやしないが。

「その夢の何分の一かでも叶えばいいんだよ。ちゃんと足跡は残せたことになるから」
「……偉いんだか、馬鹿なんだか」
「いいでしょ、これが僕なりの諦めだよ」

 馬鹿と天才は紙一重とも言うんだっけか。なるほど、そういうのは際どいものなのかもしれない。
 なら、是非とも天才の側へ傾いてほしいものだ。俺なんかと連んでいても、時間の浪費だぞ。

「僕、義本くんから色々と学ばせてもらってるから。話をしてくれるだけで嬉しいよ」
「俺がねえ……」

 その不思議な感覚に、それこそ諦めを抱いている自分がいて。
 けれど、やはり諦めるべきではなかったのだと、自分は不幸しか呼び込まないのだと、程なくして俺は後悔することになる。
 永遠に消えることのない、痛みとともに刻まれる後悔を。
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