この満ち足りた匣庭の中で 三章―Ghost of miniature garden―

至堂文斗

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Seventh Chapter...7/25

痛ましい覚醒

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 何故だろうか。
 赤という単純な色を、久方ぶりに見た気がするのは。
 遠い意識の奥底、消し去られた断片のような何かが、俺を懐かしくさせる。
 現実の終わり……。
 手に入れようともがくほどに、光は零れ落ちていく。俺の願いなど常にそのような、馬鹿げた結末で。
 いっそ何もかもが消えた世界ならば楽なのだろうかと考えた日もあったはずだが……結局、楽などという言葉は幻のようなものだった。
 そうだ。先には何も無かったのだ。
 ……頭が痛い。感覚が少しずつ戻ってくる。全身を襲う倦怠感に苛まれ……俺は重い瞼を開いた。

「……ん……」

 ここは、どこだろうか。周囲はあまりにも暗く、記憶の混濁もあって自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなる。どうやら山中の雑木林にいるようで、枝葉が体に絡みついてくる気持ち悪い感触はあるのだが。
 それに、体はびしょ濡れで所々に擦り傷もある。耳に入る音は川の流れだけではなく、雨音も重なっているらしい。こんな場所で、いったい俺はどうして……。

「……あ」

 脳が少しずつ覚醒してきたようで、一番ショッキングな場面が浮かんでくる。それこそ鬼のような形相の永射が、俺を川の中へ放り込もうと引き摺っている場面……。
 そもそもどうしてそんなことになったのか。確か、俺は永射の素性を探るため、住民説明会の後に奴を尾行したのだ。それで……。

 ――殺せ。

「……っ!」

 頭の中で、あの瞬間の声がまた再生された。焼きついてしまったかのように、鬼の唸り声は思い出すまいとしても聞こえて来てしまう。あれは一体……。

「そうだ……永射は」

 外はまだ暗いし、相変わらず雨雲が覆っているものの、東の方が少しばかり明るくなり始めている気がする。夜明けが近いようだ。少なくとも六時間以上は気を失っていたことになりそうだが、奴はどうしたのだろう? 俺を殺すことは諦めて、帰っていったのだろうか。
 ……そう、奴は間違いなく俺を殺すつもりだったはずだ。罪が暴かれないという自信を持って、奴は俺を溺死させようとしていた。理由はハッキリしないが、少なくとも簡単には殺害を断念したりしないように思える。ありがたいことだが、俺はどうしてまだ生きているのやら。
 髪を引っ張られた痛みはまだ残っている。代わりに、あの頭痛は無くなっていた。緩々と首を振って、俺は立ち上がる。
 気を失う前から、どうやらそれほど移動はしていないらしい。川の音は付近から聞こえてくる。ただ、雨は強さを増してきており、当たり前のように流れは激しく、色は濁っていた。
 すぐに昨日と同じ場所まで戻ってくる。まだ暗いので視界が判然とせずもどかしいが、人気は確実にない。雨の中この場所に佇んでいるのは、俺一人だ。

「これは……」

 川べりの木柵が、一部破損していることに気付く。多分、昨夜は壊れていなかったはずだ。取っ組み合いのときに体重がかかって破壊されたのかもしれないが、だとすると柵が見当たらない以上、流されたということになる。

 ――まさか。

 最悪の予感に、俺は心臓が飛び出しそうなくらいの恐怖を覚えた。あり得ない……とは思いたいが、俺にはあの瞬間の明確な記憶がなかった。
 鮮明なのは、訳の分からない唸り声の記憶だけだ……。

 ――殺せ。

 そんな馬鹿なともう一度、今度は強く首を振って、身を翻す。とにかく予定外の事態で時間が経ち過ぎた。オヤジが心配しているのは間違いないし、まずは家に戻ることを考えよう。
 周囲は木々が生い茂っていて、正直なところどちらに進めば良いかも定められない。永射は恐らく、電波塔を何度も見にきていたために山中の移動も容易だったのだろうが、秘密基地以外の場所にほとんど行ったことがない、ましてや視界の制限された俺にはほとんど遭難と言ってもいいレベルだった。
 頼りになりそうなのは、川の流れと光の加減か。それなりに傾斜がある場所にいるので、南側……つまり街の方角は低い位置から木が生えているため遮蔽物が少ない。川も当然下に向かって流れているし、その二つを杖にすれば何とか戻れそうだ。
 落ちてしまわないよう細心の注意を払いつつ、俺は川下を目指して歩いていく。雨のせいで地面もぬかるんでいるので、亀のようなスピードだ。
 さっきの場所を除いては、木柵がちゃんと残っているのでそこは安心できる。十分、二十分とかけ、少しずつながらしっかりと、俺は山を下っていった。
 ……やがて、平坦な場所までやってくる。人里まで戻って来れたかと一瞬だけぬか喜びをさせられたが、そうではないようだ。この湿度、陰鬱さ……一度来ただけだがすぐに理解する。
 鬼封じの池だ。
 そう言えば、川の水はこの池に流れ着くのだったと思い出し、少しテンションが下がる。まだ道のりは半分といったところ。足が萎えかけているが、もう一踏ん張りしなければならない。
 おまけに、柵ももう無いので、目印にするなら道標の石しかなさそうだ。よもやあの石碑を名前の通りの意味で使うことになろうとは。

「サイアクの気分だな……」

 ふらつきながら、池の外周をぐるりと回っていく。朽ちた枝葉が絨毯のようになった地面は、ともすればそこから沈んでいってしまいそうな感覚すらあった。
 みしりと、枝を踏みしめる音。
 孤独な世界の中で、音はやけにうるさく聞こえて。
 雨の音も、絶え間なく続いて俺を苛立たせる。
 そして……。

「……何だ……?」

 それは、自然に視界の中へ収まった。
 池に浮かぶ、一個の物体。
 ただ、それがやたらと大きいものだから、こんな目でも奇妙に思えたのだろう。
 実際それは、水面に顔を覗かせた岩のようにも見えた。
 だが、決して岩ではない。
 大きな塊は、ゆらゆらと水面で揺れている。
 不可解な揺れ。
 心臓が脈打つ感覚。

「おい……」

 まさか、という言葉は、胸の痛みに押しつけられて出てこなかった。
 あり得ないと念仏のように唱えても、俺の目がしっかりと捉えている。
 頼りない目ではあるけれど、それでも。
 写した光だけは偽りでは無いから。
 雨降りしきる鬼封じの池で。
 ……永射孝史郎は、物言わぬ骸と化して浮かんでいた。
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