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記憶編

満生台に生きた魂魄の軌跡②

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 牛牧高成の一人息子がこの世を去ったのは一九九二年、彼が生を受けてから十九年という、あまりに若い死だった。
 息子の名は洋一よういちといった。彼は高成が二十二歳のときに生まれた子であったが、その出産もまた悲劇的であり、難産の末に妻は亡くなっていた。だからこそ、洋一は高成にとって妻の形見であり大切な宝物だったのだ。
 そんな洋一に病という魔の手が這い寄って来たのは、彼が十三歳になった時のことだった。成長期に伴い周囲の友人は逞しくなっていく中、自分だけは筋力も強くならないばかりか、運動するとすぐに疲れてしまうようになっていたのだ。最初は運動が苦手な体質なのかもしれないと自分を納得させていた洋一だが、体力測定で前年より悪い結果を出してしまった時点で何かがおかしいと考えを改めた。
 高成はその当時から優秀な医師であったので、洋一が自身の悩みを打ち明けた際、決して軽率に扱ったりはしなかった。年齢にそぐわない体力の低下……一体どんなことが考えられるだろうかと真剣に考え、そして自身の働く病院での検査を提案するに至った。
 話が大きくなり不安になった洋一だが、医師として尊敬している父の提案を拒否したりはしなかった。最先端の設備が揃った大病院で一通りの検査を行った洋一。そして浮かび上がった病名は、親子に深い絶望を与えるような重病なのだった。

「ALS……ですって?」

 父、高成の驚愕した様子に、言葉の意味を知らない洋一もそれが単純な病でないことは察せられた。
 何かとんでもない病気に罹っているのだと、彼は心臓を鷲掴みにされるような思いだった。

「ええ……息子さんはどうされます? いや、一緒に聞いてもらったほうがいいでしょうね」
「……その方がいいでしょう。理解しなければならない病気だ」
「はい。ALS……正式には筋萎縮性側索硬化症という病名ですが、これは筋肉が次第に萎縮していき体を動かすことが困難になるというものです。筋肉の病気と思われがちですが、この原因は脳や脊髄の神経にあって、未だ完全には解明できていません。治療法も確立されておらず、完全に治すという方法はまだ」
「治らない、病気なんですか……?」

 洋一も、そこまでを聞いて病気の深刻さを理解した。現代の医療では解明しきれていない、不治の病。
 どれほど大変でも進行するまでに治せればいい、と思いながら聞いていたが、最後に伝えられた言葉はその思いを無残にも裏切った。

「もちろん、医療も日々進化しています。今日治らないものが明日治るという可能性もありますから……決して、悲観しないでください」

 医師は洋一を元気づけようと、そんな言葉を告げてくれる。しかし、それはきっと定型文のようなものでしかなく。
 どれだけ取り繕おうとも、現段階で治る見込みの無い病であるという事実に変わりはなかった。
 ALSはその進行に個人差があり、早ければ二年ほどで死に至る例もあれば、十年ほど生きていられる例もあるという。換言すれば、それは最長十年しか生きられないという余命宣告を受けたようなものであった。
 まだ十三歳の少年が。

「希望を持ってください」

 そんな励ましは何の力にもならなかった。
 ただ、目の前には死と言う名の暗黒が口を開けているだけに思えてならなかった。

 ALSの発見自体は早期であったため、洋一はほんの僅かな期間だけ、通常通りの学校生活を送ることが許された。しかし、季節が移り替わる頃にはもう体力が衰え始めており、入院せざるを得ない状態まで悪化してしまった。最終日、友人たちが寄せ書きを贈ってくれたものの、それはかえって自らの境遇を認識させられるようで悔しくなった。
 唯一彼が良かったと思えたことは、父親との時間を増やせたことだろうか。優秀な医師である父、高成は常にその腕を必要とされていて、家に帰るのが夜遅くになったり、或いは昼夜逆転することさえあったのだ。身近に親族が多かったので洋一が不便を感じること自体は無かったのだが、やはり父といられる時間が少ないというのは多感な時期において寂しいものだった。それが病によって埋められたというのは、何とも皮肉な話である。
 高成は仕事中、時間を見つけては何度も洋一の様子を見に来るようになった。洋一を担当する医師や看護師たちもそれを邪険にはしなかったし、泊まっていっても構わないという許可すら出してくれた。協力的な同僚に感謝しながら、高成はずっと洋一との時間を大切にし続けた。
 病はゆっくりと、しかし確実に洋一の体を蝕んでいった。治療法が見つかることもないまま一年以上の時が経ち、洋一は自力で立つことも困難になりつつあった。
 ベッドから出たいときは車椅子に乗り、風呂や排せつなども補助を受けながらという生活の変わりように、彼の心はどんどんと打ちのめされていった。
 そんな折、高成はALS患者に対するアプローチとして、こんな話を耳にする。補助装具を用いて移動などの能力を維持する試みがあるのだと。補助装具は身体の一部を欠損した患者に対する義肢などが一般的であったが、動かすのが困難になった肉体を補助するような装具も研究されているというのに高成は期待を持った。
 そして彼が連絡を取ったのが、仕事上で交流するようになっていた佐曽利功という男だったのである。
 当時、佐曽利はまだ義肢装具士のベテランというほどではなかったが、それでも高成からすれば信頼できる実績を有していた。加えて人柄も良く知っていたので、どうか息子のために力を貸してくれないかという相談に相成ったのだ。
 無論、佐曽利はそれを快諾した。彼は正式に依頼される仕事の傍ら洋一の補助装具も製作し、高成が想定したよりも短期間で仕上げてくれた。完成した装具を洋一に付けてもらうと、自力での歩行が可能になるまでは行かなかったものの、車椅子に自分から乗るという程度までは能力を補助することができたのだった。
 この補助装具のおかげで、洋一は病状の悪化による移動への負担をしばらくは軽減させられた。とはいえ、あくまでそれは何とか体を動かせる間の手段でしかなく。
 筋力そのものが失われゆくに従って、補助装具の効果もまた薄れていってしまった。

「電動式の義肢というものも存在する。彼に対しても、何か電動式の装具を作れないか検討してみよう」

 進行する病に、佐曽利は諦めることなくそんな提案をしてくれた。牛牧は友の厚意に感謝しつつも、ただ病が息子の体を蝕んでいくのを見ているだけの自分に嫌気がさすようになっていた。
 自分にできることはないのか。悔しいがALSは自身の医療知識の範囲外であるし、そもそも自分は医師で、治療法を考えるような存在ではない。根本的な解決については、どうしても待つ以外の選択肢は無かった。
 せめて自分があの子のためにしてやれることは。悩んだ末、高成は息子の望むものを可能な限り与えてあげようと考えた。食べたいものがあれば、相談の上ではあるが病院の方で上手く調理してもらったり、読みたい本や見たい映画などがあれば買ってきてあげたり。初めのうちは洋一も喜んでくれたので高成は嬉しかったが、途中で彼ははたと気付いてしまう。……これではまるで、救いの無い者へせめてもの施しを与えているようではないか、と。
 けれど、他には何もできなかったのだ。
 だから、その結論を否定することもできず……彼は、葛藤の只中に追いやられた。
 そして洋一も、少しずつその態度を変化させていた。
 諦念……彼もまた、生きている間にやれることをやっておきたい、そんな風に考えるようになっていったのだ。
 だから、一通りの願いを聞いてもらった後、彼はこんな頼みをした。
 どこか静かな場所で、父と二人過ごしてみたい、と。
 その言葉が、牛牧を満生台へと誘うことになったのである。
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