この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―

至堂文斗

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記憶編

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「……こうして」

 闇の中から響くような、それは声だった。
 八木優という男のこれまでが語り終えられ、舞台上の主役であったともいえる彼は満足げに笑った。

「当初外部から指揮を行う手はずであった私は、組織上層部に掛け合い自ら満生台へ赴く許可を得ました。理由はもうお分かりでしょうが、癌に冒された現実の体を捨て去り、魂魄だけの状態で生き永らえること……というわけです」
「何もかも……本当に、貴方の計画に沿って進んでいたと」
「沿っていた……と言われると、即答はし辛いですが。やはりシミュレーションと現実の動きは違うもので、イレギュラーは数多く発生しました。当初は誰かからマイクロチップを奪いさえすればいいと思っていたのに、久礼貴獅さんがセキュリティを勝手に強化してしまったせいで三人も殺す羽目になったり……ね?」
「貴方は……!」

 私は湧き上がってくる怒りのまま、声を荒げた。
 レッドアイの製作者である彼――八木優は、殺す羽目になったと口にしておきながら自身の手は汚さなかった。
 洗脳可能な子どもたちを利用し、レッドアイによる強制介入で目の前の人間を殺させたのだ。さっき目撃したあの場面から、それは最早明白だった。
 満雀ちゃんだって、多分それは理解しただろう。
 けれど、大切な親友が実行犯になってしまった事実は、確かなのだ。それがどれほど彼女を打ちのめしたか。
 その殺人劇を軽んじるなど――あまりにも人の心が無い。

「貴方の使った手段は姑息です。きっと支配者気取りだったんでしょうね……レッドアイという、満生台では万能のような力を行使できて。貴方はただプログラムを動かすだけで良かった。操られた人々が手を汚していった……。誰が、どれほど苦しむかなんて考えることもなかったんでしょう。人が狂い果てると伝わるこの街で、一番に狂っていたのは……貴方だったに違いない」
「ふふ……狂っている、ですか。それは研究者にとってはある意味称賛の言葉ともいえるでしょう。何せ魂魄という常人には理解し得ない領域に踏み込んでいるのですから……その世界で逸材になれるとすれば、なるほど常人であってはならない。狂人に見られなければ、識ることなどできない……」
「人の命や感情を軽んじることが、優れた研究者だとでも言うんですか? 貴方だって、家族を通して多くの感情に触れてきたはずなのに……どうして誰かの痛みを慮ることができないんですか……!」
「軽んじているつもりはないんですがね。WAWプログラムにおける信号領域の確立は、それこそ満ち足りた暮らしを達成できるものだと自負していましたし。殺害したのはGHOST所属の者だけ……魂魄はどうせ久礼さんが回収するし、し損ねても領域の作成まではこちら側に残留し続けるだろうと見越してのことです。誰一人、無駄にしようとはしていませんでしたよ」

 私は悟る。いや、あの日からGHOSTと向き合ってきてとっくに分かっていたことかもしれないが……こうした研究者と私たちは、まるで思考が違っている。見つめている世界が違い過ぎる。
 誰もが魂だけで生きることを良しとしているなんて、異常な帰結だと思うだろうことなのに。

「ただ、この領域が無限ループに陥ったことは最も想定外のことでした。本来の領域とは構成する魂魄が自由に描き出すもの……まさか主である満雀さんを含め、多くの人たちが謎の解明を望むとは」
「それこそ、普通の人は魂魄だけの世界なんて想定してませんから。自分たちに何が起きたのか……最後にそういう思考になるのは、むしろ当たり前だったんじゃないですか」
「無知ゆえに……なるほど、一理あります」

 八木さん――いや、八木はそこで気怠そうに溜め息を吐いた。

「全てを知っているからこそ、死を憂慮することもなかったわけですしね。魂魄だけで生きられる……初めからそうだと分かっていれば、このようなことにはならなかったか」

 そういう結論に達するわけでもないのだが……それについて論じるのは最早時間の無駄だろうと、私は諦めた。

「領域がループすることさえ無ければ、もう少し有意義な数年間を過ごせたんですがね……最後の二週間が記録され繰り返すという歪な構造となってしまったために、満雀さんだけでなく私もまた、誰かと接する際は寸分違わぬ演技をする羽目になった。久礼さんあたりと研究について論じたり、色々な可能性はあったはずなのに」
「貴方が満雀さんから権限を乗っ取って匣庭の領主になったところで、この構造は変わらないんじゃないですか? この街の誰もが、過去の二週間を彷徨い続けているのなら」
「その点については変わってみないと何とも言えないでしょう。それに重要なのはそこではなく、あくまで権限を私にしておくことです。上層部がこの領域を活用する際、他の人が権限を持っていたら都合が悪いでしょうし」
「上層部……」

 この男は、組織がいずれ信号領域を拾い上げに来ると信じているようだ。……そうか、だからこそ余裕たっぷりに振る舞っているわけだ。魂だけになっても、また組織に戻って研究生活を送ることができると思い込んでいるから。
 でも……流石にそれは楽天的な考えが過ぎないだろうか? だって、こんなにも時間が経過しているのに。
 杜村さんも満雀さんも、これほど長い間救われなかったのに。

「貴方は……六年間もアクションを起こさないGHOSTが、まだ満生台に来ると思っているんですか?」
「――何?」

 そこで、八木の表情が変わった。

「……六年、ですって?」
「ええ。今は二〇一八年八月……この領域が鎖されてから、ちょうど六年が経ちます。杜村さんも満雀さんも、私たちが来るまでたった二人で耐えてきたんです」
「ちょっと待ちなさい……光井さん、何かの間違いでしょう。この領域が動き始めてから、経過した時間はどれだけ長くとも三年ほどのはずですが」
「ああ――」

 ……そういうことか、と納得する。
 つまり、彼にも知悉していない部分があったわけだ。
 この信号領域は、杜村さんが魂魄分割によって中へ入ってきた三年前に動き出したこと。
 実際の時間としては、丸六年が経過していることを。

「事件を生き残った杜村さんは、日下敏郎という方の力を借りて、三年前に魂魄の半分をこちらへ移したんです。そこで初めて領域が機能し始めたから……貴方もまた、そこから意識を取り戻したというわけですね」
「……そんな、馬鹿な……」

 六年、と八木は呟く。それだけの長期間が示すのは、自身が既に組織の手から零れ落ちているという事実。
 安全な場所にいると思い込んでいたその地盤が、脆くも崩れ去った瞬間……。
 初めて人間らしい表情をしたな、と私は思う。
 この街に住む誰もがその恐怖を抱いていたことを、理解してほしかったが。

「三年ならまだ希望があると考えていましたか? でも残念、もう倍以上の年月が経っています。貴方はGHOSTからとっくに見限られているんだと思いますよ。いえ、WAWプログラムそのものが、もう」
「そんなことは――ない……!」

 強く歯を食いしばり、手を横薙ぎに振るいながら八木は反駁した。

「WAWプログラムも、レッドアイ・オペレーションも……完璧な計画だ。上層部からの評価も高かったし、予算も期日も十分過ぎるほどに与えてくれていた。幾つかの障害があったとはいえ、無事に八月二日を迎えられたのだし、そこまでは計画通りだった! この領域を――私を捨ておくなど、そんな」

 レッドアイを利用した洗脳を、彼は――GHOSTにおける計画名もそうなのかもしれないが――レッドアイ・オペレーションと名付けていたらしい。WAWプログラムと並行してそちらも進められ……首尾は良かったのだろう。
 けれど、GHOSTもまた常人の物差しでは測れない組織だ。八木はその点を見誤っていたといえる。
 奴らは目的を達成しようがしまいが、切り捨てるときは容赦なく人を、計画を、切り捨てられるのだ。

「組織の中でどれだけ地位が高かったのかは知りませんが、GHOSTの非道さを目にしてきた私からしたら、やっぱりかという感じですけど。……むしろ、自分に関することだけ都合良く信じ過ぎでは?」
「GHOSTは人類の正しき進化を目指しているんです。その進化を導けるような人材は必要とされる……当たり前のことでしょう。これまでがそうだった。今後もそうであるはず……あるべきなんですよ」

 ……捨てられたと信じたくない。ここで魂魄だけの存在となってしまった彼には、最早信じるしか術がないということか。

「……まあ、仮に。組織側からの救援が無かったとしても、私ができることはある。領域部門がひとまず目指すところは霊磁ネットワーク……このような信号領域を各所で作りインターネットのように行き来可能なようにするというものでした。レッドアイという通信プログラムも、いずれ魂魄を転送できるようにという目的を備えていましたし、もっと時間をかければ構想は現実のものとなるはず。ああ、そうだ……組織はその準備を優先しているんでしょう。新たな領域が生まれれば、私は、私たちは領域を行き来し生活できるようになる」

 まだそうした都合の良い解釈を述べながら、八木はニヤリと笑う。
 その笑みを、狂っていると言わず何と言おう。精神的に追い詰められていく彼の心は、真に狂乱しかけていた。

「そのために、この領域は確実に我が物としなくてはならない。そして障害は、必ず取り除かれなければならない……」

 八木の目が狂気に光る。
 赤い目をしていなくとも、それは狂い果てた男の眼光そのものだった。

「いずれ満雀さんの意識は消失するでしょう。それまでに、最も厄介な障害である貴方を消し去らなくては」
「くっ……!」

 私とて、諦めたわけではなかった。
 それに、満雀さんも諦めないと信じている。
 お前だって都合良く考えているじゃあないかと言われるかもしれないが……この物語をバッドエンドになんかしたくないのだから、当然のことだ。
 この匣庭に囚われた全ての魂が、真に解放される幕引きを願う。
 そのために、なるべく時間を稼ぎたかったのだ――。

「……む……?」

 暗闇の世界に、そのとき僅かに光が生じた気がした。
 いや、気のせいではない。遥か遠くの方ではあるけれど、それは確かに闇を灯した。

「……満雀さん……!」

 考えるよりも早く、体が既に動き出している。
 あの光はきっと、満雀さんに関わるものに違いない。

「おっと……逃がしませんよ」

 私の後を、八木が追いかけてくる。優男にしか見えないが、体格の差もあって少しずつ距離を縮められてしまう。
 追いつかれる――そんな恐怖が過ったものの、次の瞬間。

「なっ……!?」

 突如発生した謎の歪みが八木に衝突し、彼の体勢が崩れた。
 これは……もしかして。

「……今しかない……!」

 私はこの隙を見逃さず、全力で闇の中を走り抜ける。
 追いすがろうとする八木は、しかし再び何かの襲撃を受けてよろめく。

 ――ありがとう、満生台の人たち。

 必ず満雀さんを……皆を救ってみせるから。
 だからもう少しだけ、待っていて。
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