この満ち足りた匣庭の中で 一章―Demon of miniature garden―

至堂文斗

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Fifteenth Chapter...8/2

僕らの匣庭は欠け落ちた

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 冷たい床の感触。右頬の痛みで、目が覚める。
 ……僕は、何をしていたんだっけ。
 ジンジンと奥底から痛む頭を振りながら、僕は辺りの様子を伺う。
 真っ暗だった。
 ……次第に、記憶が蘇ってきた。そう、僕は鬼に追われて、病院の倉庫までやってきて、それから。

「……」

 僕は、鬼に殺されかけた――はずだ。
 頭の痛みは続いている。ここは死後の世界というわけではなさそうだ。目が慣れていないから、今は分からないけれど、僕はまだ倉庫にいるのだろう。床の埃っぽさも、それを裏付けている。
 でも、どうして生きているんだろう。

「……痛てて……」

 うつ伏せになって気絶していたせいか、身体の右半分が痛かった。特に、右頬の痛みが酷い。痕が残っているかもしれない。
 確かめようとして、僕は頬に手を伸ばす。
 ……すると、奇妙な感触があった。

「……?」

 ぬめるような、感触。
 或いは、カサカサとした、乾いた感触。
 そして、どこか生臭いような、息苦しくなる匂い。
 どうしてこんな、気持ちの悪い感触や匂いが……?
 自分の両手を眼前に広げて、じっと目を凝らして見た。
 その手のひらが。
 真っ赤に染まっていた。

「うッ……うわあッ!?」

 この赤は、一体なんだ。
 手のひら一杯に、赤色は纏わりついていた。
 べたつきと、錆びのような匂いをもった、それは。
 どう考えても、血液に違いなかった。

「な、んで……?」

 あの鬼が、僕の体のどこかを傷つけていったのか? それにしても、頭痛以外の痛みはない。血がつかないよう注意しながら体に触れて確認するけれど、怪我をしている箇所はなさそうだった。
 じゃあ、この血はどこから。誰から……。
 暗闇に、目が慣れてくる。
 だけど、目に映る光景が、奇妙に赤らんでいるような気がする。
 血を見たせいだと自分に言い聞かせ、とにかくこの場の状況を把握しようとした。
 何かが、散乱している。
 頭痛のせいで立ち上がれず、四つん這いになって、その何かに近づいていった。
 べちゃりと、嫌な感触があった。
 床に、赤い水溜まりが出来ていた。

「……!」

 いや、水溜まりなわけがない。
 これも――血だ。
 血だまりの、中央に目を向けた。
 そこに、
 貴獅さんの首が、転がっていた。

「うああああああぁぁあッ!!」

 虚ろな目がそこにあって。だらしなく開いた口からは、赤黒い血が垂れていて。切断面から、赤と白の斑模様が覗いていて。生臭い匂いが、一面に漂っていて。
 僕は這いつくばって、その生首から離れようとした。そこで、伸ばした手が別の物体に触れる。
 腕があった。
 色の変わった腕が、ごろりと転がっていた。

「ひっ……ひいいい……!」

 すぐ隣に、もう一つの腕が落ちている。飛び散った血液を辿れば、脚のようなものも見える。貴獅さんの身体が、その一部が、倉庫の中に散らばっている……!
 理解不能だった。
 僕が鬼に襲われて気を失ってから、この倉庫で一体何が起きたっていうんだ?
 まさか……まさか。
 貴獅さんまで、鬼の餌食になって、しまった……?
 滅茶苦茶だ。
 こんなの、滅茶苦茶だ……!
 目の前で、僕の知る人が。
 バラバラに解体されて、死んでいるだなんて。
 信じられる、はずがない……!
 一段と激しい頭痛に襲われた。
 また、痛みで視界が霞む。
 そのぼやけた光景の中に、鬼の姿が見えた気がして。
 僕は両手で、額を覆った。
 酷い匂いが、鼻を突く。……顔が、血で汚れてしまった。
 そこで僕は、自分が泣いていることに気付いた。
 この耐えきれない非現実に、涙が溢れていることに、ようやく気付いた。
 そして、その涙をゆっくりと拭って。
 拭った手の甲に、視線を落として。

「あ……あ、ああ……」

 それが、ただの涙ではなく。
 真っ赤に染まった血の涙であることに、ようやく……気付いた。

「…………」

 僕は。
 鬼の祟りを、理解出来たような気がした。
 そして、もう。
 全てはきっと、手遅れで。
 止まらない血の涙が、そのことを生々しく物語っていた。
 これは……鬼の祟り。
 人々を狂気に陥れる、邪鬼の祟りで。
 その赤い目に、僕もまた冒されて。
 僕の世界は、狂ってしまったんだね。

「……はは……あは、は……」

 ポケットに、硬い感触。
 そう……それが、全てなんだ。
 世界が赤い。
 ふらふらと歩み出た外は、暗く、けれども赤い。
 頭の中が、赤一色で満たされて。
 僕は、何もかもがもうすぐ終わることを、受け入れた。





 赤い月を、見上げていた。
 それは不思議と、とても美しく思えた。
 真っ赤に染まった満月。
 藍色の空に、その満月は大きく輝いていた。

 進まなくちゃ。
 萎えかけた足を、それでも懸命に動かして。
 僕は夏の夜闇の中を、歩き続ける。

 足に感覚はなく。
 いつの間にか靴もなく。
 そして、辿り着く場所もなく。
 それでも……歩き続けていく。

 ふと、頬を冷たいものが流れていった。
 それを冷たい指で拭った。
 指の上に残った一粒の雫は、
 あの赤い月と同じように、赤く滲んでいた。

 何度も何度も、繰り返し耳にしてきた伝承。
 狂い始めた世界でもがくうち、教えられた昔話。
 赤い満月が昇る夜には、
 全てが狂い、鬼が嗤う。

 そして今――世界は確かに、狂いの中にあって。

 赤く染まった、満月。
 赤く染まった、世界。
 赤く染まった、視界。
 赤く染まった――両手。

 ねえ……。
 狂ってしまったのは、世界が先なのかな。
 それとも、僕が先なのかな。
 今になってもまだ、その答えは分からない。

 でも……皆。
 これだけは、言えるんだ。
 例えこの小さな世界が滅茶苦茶に欠け落ちてしまった後でも、
 これだけは、決して変わらないと。

 この、ちっぽけな箱庭で、
 僕たちが過ごしたささやかな時間は、
 どうしようもなく愛おしく、
 そして、満ち足りたものだったんだよ、と――

 八月二日、午後九時。
 その日、僕らの箱庭は欠け落ちた。
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