上 下
11 / 79
Third Chapter...7/21

幼年期の夢

しおりを挟む
 ……まだ僕が幼い頃。
 世界の悪意さえ知らない、無垢な子供だった頃の思い出には、
 隣で微笑を絶やさずこちらを見つめる、やはり無垢な少女がいた。
 僕らはいつでも一緒だった。年も一つしか違わなくて、幼稚園も小学校も一緒に通った。
 休みの日には買い物についていったり、近くの公園に遊びにいったりした。
 互いの笑顔を見るのが、とても幸福なことだった。
 僕はその時分から、本が好きだった。本を読んで、知らない言葉や世界を知るのが好きだった。
 そして、それを伝えられることが好きだった。彼女の目が期待に輝くのを見れば、それで心が躍った。
 青い薔薇には不可能という花言葉があったこと、それが作られたことによって夢叶うという花言葉に変わったこと。カブトムシの箱という、不思議な思考実験のこと。円周率という無限に続く定数があり、その暗記でギネス記録をとった日本人がいること……。自分でもその意味を理解しきれない言葉も沢山あったけれど、それは関係のないことだった。ただ少女と話し、楽しいと感じられることだけが、その時間の持つ意味だった。
 でも、それはやはり幼さの上に成り立った儚い輝きであって、ほんの少しの衝撃で脆く崩れ去ってしまうような日々に違いなくて。
 今はもう、あの子のことを思うことは出来ない。それは、昏く淀んだ記憶の底に漂っている。
 思い出さなくて済むようにと、深く沈みこませた思い出だ。
 それでもたまに……夢の中でその名を口にしている自分がいる気がする。
 音の消えた世界の中で、僕は意味もなく名前を呼んでいる。

 ……理緒りおという名を。





「住民への最終説明会を、永射さんがやるらしい」

 リビングに入るなり、父さんがチラシを手にそう呟いていた。向かいに座っている母さんは、へえ、と小さく相槌を打っている。

「おはよう」

 僕が挨拶すると、二人は僅かに顔をこちらへ向けて、同じようにおはようと言ってくれた。

「最終かあ。今まで三回くらい、説明会開いてたよね。結局渋る人もいたけど、もう出来ちゃったもんなあ」

「だな。まあ、総まとめとして必要なことを全て話してくれそうだから、行ってみるか。あんまり関係ないと思って、これまでは行ってなかったし」

 父さんは、引っ越してきて日が浅い真智田家が首を突っ込むのもどうかということで、今までの説明会には参加してこなかった。今回だけでも行ってみようと思うのは、自然なことだろう。

「それ、いつあるのかしら」
「三日後の火曜日だと。永射さんの家の近くにある集会場で、いつも通りやる感じだな」
「じゃあ夜ね。分かったわ、早めにご飯、作っておくことにしましょう」
「そうしてもらえるか」

 この流れからすると、僕も行くことが決まってしまっているのだろうな。
 集会場は、村で何か行事を予定しているとき等に、人々が集まっていた場所で、何十年も前からあったらしいのだが、永射さんが街にやって来てから、全面改修に取り掛かって、それまで木造だったのが、綺麗な鉄骨造の建物に変わったという。永射さんが責任者に就任したのが、五年ほど前のことらしいから、比較的最近のことなんだな。
 それにしても、責任者ってどういう立場なんだろう。公の役職があるのかな。今更ながら、永射さんのことはよく分からない。偉いのには違いないんだろうけど。
 朝食の後、しばらくは自室でテレビを見たり、スマートフォンをいじったりしながら過ごした。チャットが出来るアプリには、虎牙と龍美がフレンドに登録されていて、グループチャットのルームも作ってあるので、たまに通知が来る。さっきは龍美が『遅刻厳禁よ!』と念押しし、虎牙が了解の意を示すスタンプを送っていた。僕も虎牙と同じように、適当なスタンプを送信している。
 満雀ちゃんが登録されていないのは、この時代に珍しく、スマートフォンを持たされていないからだ。そればかりか、テレビもあまり見られないとか。久礼家はそんなに厳しいのかと、僕らは満雀ちゃんに同情したものだ。現代っ子がスマートフォンとテレビを奪われたら、楽しみの大部分が奪われたようなもんじゃなかろうか。人にもよるだろうけど。
 満雀ちゃんも、いつでも連絡をとれるようになればなあ。それは、皆が共通して抱いている思いだ。
 皆にあれこれ思われてる率は、彼女が一番多い筈。流石はお姫様。

「これだけネットが生活に浸透してたら、永射さんの方針も否定は出来ないよなあ」

 電波塔の稼働に反対している人たちも、きっと決まってしまえば利用することになる。結局はそうやって、社会は進んできたわけだ。良かったのかどうかはさておき。
 ネットサーフィンをしていると、色んなニュースが目に飛び込んでくる。あと一週間もせずにロンドンオリンピックが始まるということで、テレビもネットも、その話題が出ない日はない。日本に希望を届けてほしい、という言葉が飛び交っていて、ささやかだけれど切実な思いを、人々が選手に託していることが分かる。昨年の奇禍が残した傷は、少しずつ、癒えていっているのだろうか。
 そういえば、満生台の近辺では、過去に何度も地震が起きているという話を何度か聞いている。そういう過去があるからだろう、山へ入ってしばらく進んだところに、小さな観測所があるのだが、そこでは毎日、地下で起きている揺れを計測、分析しているらしい。国から派遣されてきたらしい、八木優やぎまさる という人が、日夜そこで満生台を調査しているのだ。
 確か、観測しているのは地面だけじゃなくて、天体のデータか何かも取っているらしいけれど。難しいことは、流石に分からない。

「龍美って、年上の男好きだからなあ。八木さんともよく話してた気がする。……とか本人の前で言ったら投げられそうだな」

 怖い怖い。
 休みの日の時間は過ぎるのが早く、ごろごろしているうちに昼食になる。母さんの声でリビングへ下り、また三人揃ってご飯を食べる。テレビ番組の天気予報では、全国的に雨のところが多かったが、幸いにも満生台の空は晴れ模様だ。とは言え、周辺地域は確率が結構高いから、曇ってきたら早めに帰った方が良さそうだな。
 昼食を食べ終わり、僕は部屋で準備を整える。小さなショルダーバッグに、ティッシュやらハンカチやらを入れておくだけだが。とりあえず、そんな身支度をすぐに終わらせると、玄関に向かってゆっくり靴を履く。

「よし、じゃあ行ってきます」
「はーい、行ってらっしゃい」

 母の声を背にして、僕は家を出た。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

暗闇の中の囁き

葉羽
ミステリー
名門の作家、黒崎一郎が自らの死を予感し、最後の作品『囁く影』を執筆する。その作品には、彼の過去や周囲の人間関係が暗号のように隠されている。彼の死後、古びた洋館で起きた不可解な殺人事件。被害者は、彼の作品の熱心なファンであり、館の中で自殺したかのように見せかけられていた。しかし、その背後には、作家の遺作に仕込まれた恐ろしいトリックと、館に潜む恐怖が待ち受けていた。探偵の名探偵、青木は、暗号を解読しながら事件の真相に迫っていくが、次第に彼自身も館の恐怖に飲み込まれていく。果たして、彼は真実を見つけ出し、恐怖から逃れることができるのか?

【連作ホラー】伍横町幻想 —Until the day we meet again—

至堂文斗
ホラー
――その幻想から、逃れられるか。 降霊術。それは死者を呼び出す禁忌の術式。 歴史を遡れば幾つも逸話はあれど、現実に死者を呼ぶことが出来たかは定かでない。 だがあるとき、長い実験の果てに、一人の男がその術式を生み出した。 降霊術は決して公に出ることはなかったものの、書物として世に残り続けた。 伍横町。そこは古くから気の流れが集まる場所と言われている小さな町。 そして、全ての始まりの町。 男が生み出した術式は、この町で幾つもの悲劇をもたらしていく。 運命を狂わされた者たちは、生と死の狭間で幾つもの涙を零す。 これは、四つの悲劇。 【魂】を巡る物語の始まりを飾る、四つの幻想曲――。 【霧夏邸幻想 ―Primal prayer-】 「――霧夏邸って知ってる?」 事故により最愛の娘を喪い、 降霊術に狂った男が住んでいた邸宅。 霊に会ってみたいと、邸内に忍び込んだ少年少女たちを待ち受けるものとは。 【三神院幻想 ―Dawn comes to the girl―】 「どうか、目を覚ましてはくれないだろうか」 眠りについたままの少女のために、 少年はただ祈り続ける。 その呼び声に呼応するかのように、 少女は記憶の世界に覚醒する。 【流刻園幻想 ―Omnia fert aetas―】 「……だから、違っていたんだ。沢山のことが」 七不思議の噂で有名な流刻園。夕暮れ時、教室には二人の少年少女がいた。 少年は、一通の便箋で呼び出され、少女と別れて屋上へと向かう。それが、悲劇の始まりであるとも知らずに。 【伍横町幻想 ―Until the day we meet again―】 「……ようやく、時が来た」 伍横町で降霊術の実験を繰り返してきた仮面の男。 最愛の女性のため、彼は最後の計画を始動する。 その計画を食い止めるべく、悲劇に巻き込まれた少年少女たちは苛酷な戦いに挑む。 伍横町の命運は、子どもたちの手に委ねられた。

もしもし、お母さんだけど

歩芽川ゆい
ミステリー
ある日、蒼鷺隆の職場に母親からの電話が入った。 この電話が、隆の人生を狂わせていく……。 会話しかありません。

秋月真夜は泣くことにしたー東の京のエグレゴア

鹿村杞憂
ミステリー
カメラマン志望の大学生・百鳥圭介は、ある日、不気味な影をまとった写真を撮影する。その影について謎めいた霊媒師・秋月真夜から「エグレゴア」と呼ばれる集合的な感情や欲望の具現化だと聞かされる。圭介は真夜の助手としてエグレゴアの討伐を手伝うことになり、人々、そして社会の深淵を覗き込む「人の心」を巡る物語に巻き込まれていくことになる。

【連作ホラー】幻影回忌 ーTrilogy of GHOSTー

至堂文斗
ホラー
――其れは、人類の進化のため。 歴史の裏で暗躍する組織が、再び降霊術の物語を呼び覚ます。 魂魄の操作。悍ましき禁忌の実験は、崇高な目的の下に数多の犠牲を生み出し。 決して止まることなく、次なる生贄を求め続ける。 さあ、再び【魂魄】の物語を始めましょう。 たった一つの、望まれた終焉に向けて。 来場者の皆様、長らくお待たせいたしました。 これより幻影三部作、開幕いたします――。 【幻影綺館】 「ねえ、”まぼろしさん”って知ってる?」 鈴音町の外れに佇む、黒影館。そこに幽霊が出るという噂を聞きつけた鈴音学園ミステリ研究部の部長、安藤蘭は、メンバーを募り探検に向かおうと企画する。 その企画に巻き込まれる形で、彼女を含め七人が館に集まった。 疑いつつも、心のどこかで”まぼろしさん”の存在を願うメンバーに、悲劇は降りかからんとしていた――。 【幻影鏡界】 「――一角荘へ行ってみますか?」 黒影館で起きた凄惨な事件は、桜井令士や生き残った者たちに、大きな傷を残した。そしてレイジには、大切な目的も生まれた。 そんな事件より数週間後、束の間の平穏が終わりを告げる。鈴音学園の廊下にある掲示板に貼り出されていたポスター。 それは、かつてGHOSTによって悲劇がもたらされた因縁の地、鏡ヶ原への招待状だった。 【幻影回忌】 「私は、今度こそ創造主になってみせよう」 黒影館と鏡ヶ原、二つの場所で繰り広げられた凄惨な事件。 その黒幕である****は、恐ろしい計画を実行に移そうとしていた。 ゴーレム計画と名付けられたそれは、世界のルールをも蹂躙するものに相違なかった。 事件の生き残りである桜井令士と蒼木時雨は、***の父親に連れられ、***の過去を知らされる。 そして、悲劇の連鎖を断つために、最後の戦いに挑む決意を固めるのだった。

シグナルグリーンの天使たち

ミステリー
一階は喫茶店。二階は大きな温室の園芸店。隣には一棟のアパート。 店主やアルバイトを中心に起こる、ゆるりとしたミステリィ。 ※第7回ホラー・ミステリー小説大賞にて奨励賞をいただきました  応援ありがとうございました! 全話統合PDFはこちら https://ashikamosei.booth.pm/items/5369613 長い話ですのでこちらの方が読みやすいかも

幽子さんの謎解きレポート

しんいち
ミステリー
オカルトに魅了された主人公、しんいち君は、ある日、霊感を持つ少女「幽子」と出会う。彼女は不思議な力を持ち、様々な霊的な現象を感じ取ることができる。しんいち君は、幽子から依頼を受け、彼女の力を借りて数々のミステリアスな事件に挑むことになる。 彼らは、失われた魂の行方を追い、過去の悲劇に隠された真実を解き明かす旅に出る。幽子の霊感としんいち君の好奇心が交錯する中、彼らは次第に深い絆を築いていく。しかし、彼らの前には、恐ろしい霊や謎めいた存在が立ちはだかり、真実を知ることがどれほど危険であるかを思い知らされる。 果たして、しんいち君と幽子は、数々の試練を乗り越え、真実に辿り着くことができるのか?彼らの冒険は、オカルトの世界の奥深さと人間の心の闇を描き出す、ミステリアスな物語である。

処理中です...