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【幻影綺館 ―Institution of GHOST-】

29.もう届かない手

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「……あれ」

 チホちゃんの部屋の前まで行くと、ちょうど彼女が出てくるのに遭遇した。
 足取りはふらふらとしていて、顔色も蒼白なまま。あからさまに無理をしていそうなので、俺たちはすぐに駆け寄る。

「チホちゃん、大丈夫か?」
「……は、はい。もう大丈夫です。心配かけてすいません」

 チホちゃんはペコリと頭を下げ、

「私、寝ちゃってたんですね。みんな頑張ってるのに……」
「いいんですよ、そんなの。仕方ないんですから」
「……ありがとう、ございます」

 大丈夫、と口では言うものの、やはり体調は芳しくない。
 相談するにしても、一度部屋に戻らせてからにした方がいいだろう。

「チホちゃん、とりあえず部屋に――」
「み、みんな大変よッ!」

 俺の言葉は、廊下の向こうから聞こえてきた声にかき消された。
 この場にいないのはたった一人。これはランの声だ。しかも、相当慌てている。

「どうしたんだ、ラン?」

 ほとんど全速力で駆けてきたランに、俺は訊ねる。彼女は呼吸を整えることもせず、

「き……消え、てるの!」
「ま、待て待て落ち着け! 何が消えてるんだよ、一体」

 彼女の両肩を掴み、少しでも落ち着けるようにしてやる。
 ランは二、三度ほど息を整えた後、こう告げた。

「て……テンマくんの……体が」

 ……テンマくんの、体?

「何だって……!?」
「す、すぐ行く!」

 一体どういうことだ?
 この状況下で、テンマくんの死体が何故消える?
 いくら霊でも、死体を持ち去ったりすることにメリットなんて無いのではないか。
 まさかアヤちゃんが変貌したあの怪物のような存在がまだいて、死体を喰らったなんてことがあったりするのだろうか……?

 ――そのとき。

「え……?」

 シグレくんが、呆けた声を出した。
 いや、それ以外にも何かが聞こえた気がする。
 あまりにも小さく、弱々しい声。

「チホちゃん……?」

 一番近くにいたシグレくんが、その変化を最初に感じ取った。
 チホちゃんの体が、小刻みに震え出すのを。

「まさか――」

 助けて。
 そんな声が、聞こえた気がした。
 でも、それは最早聞き入れることのできない頼みだった。

「あ……がァッ」

 見開かれた彼女の目。
 それを突き破り、赤黒い二本の触手が急速に伸びていく。
 他にも彼女の肩から、腹から、肢から。
 アヤちゃんのときと同じように無数の触手が伸び、血飛沫が迸り。
 断末魔の声すら上げられずに、チホちゃんは――怪物と化した。

「チホちゃん!?」
「だ、駄目だ! チホちゃんも、もう……」

 どれだけ手を差し伸べようと、彼女が握り返すことはない。
 あるとしたらそれは、彼女だったモノの触手で。
 俺たちの命を絡めとろうとする、殺意あるもので。
 ヒトガタを形作った怪物は、俺たちに狙いを定めてにじり寄ってくる。
 ランが泣きながら近づいていくのを無理矢理止めて、俺は叫ぶ。

「逃げるぞッ!」

 捕まったらまず命はない。
 チホちゃんの最期に絶望している余裕すらないのだ。
 半ばランを引きずるようにして、俺は走り出す。
 それとほぼ同時に、ソウヘイとシグレくんも続いた。

「畜生……畜生ッ!」

 仲間が次々に死んでいく。
 ただ死ぬだけじゃない。アヤちゃんやチホちゃんは、あのような悍ましい姿になって。
 生き残った俺たちを襲うようになって。
 こんなの、ただのホラー映画じゃないか。
 バッドエンドが目に見えている、救いのないホラー……。

「あッ……」

 目の前を、何かが横切った気がした。
 勘違いではない。高速で前方に飛んでいったのは、怪物の触手の一部だった。
 何が起きたのかと振り返ると、怪物は体勢を崩し転がっていて。
 その体は、アヤちゃんの最期と同じように膨張を始めていた。

「これは……」

 変貌したばかりだが、すぐに限界がきたらしい。
 耐え切れなくなった肉体が、崩壊を始める。
 ブチブチと皮の千切れる音が響き。
 やがて大量の血と、触手の欠片とを撒き散らしながら、怪物は絶命するのだった。

「……何で、だよ……」

 血と肉片の海を前に、俺は歯を食い縛る。
 全力で地面に打ち付けた拳が、ジンジンと痺れた。

「なんで……こんな酷えことができるんだよッ!」

 安らかな眠りも。
 人としての尊厳すらも奪い去られ。
 バラバラになった体だけが、無残に転がって。
 どうしてこんな仕打ちを彼女らが受けなくてはならなかったというんだ?

「もう……やめてくれよおおお……ッ!」

 誰かも分からない、この惨劇の犯人に。
 俺は心の底から怒りを込めて、泣き叫ぶしかなかった……。





「無くなってる……な」

 テンマくんの客室にて。
 俺たちは、ランがもたらした情報の確認を行っていた。
 テンマくんの死体の消失。
 ランが話した通り、バラバラになった彼の死体は見事に無くなっていた。
 死の痕跡としてあるのは、床や壁に飛び散った血痕だけ。
 彼の頭部も四肢も、部屋のどこにも見当たらなかったのである。

「……まるで、遊ばれてるみたいだぜ。俺たちを混乱させて、どこかでそれを楽しんでるみたいだ」

 どうなってるんだよ、とソウヘイは悪態を吐く。常人の理解などとうに超えた現象の数々に、俺たちはすっかり憔悴しきっていた。

「持ち去られたんでしょうか。それとも、消滅したとか」
「全然分からない。それより……チホちゃんをあんな風にしちまったことが、辛え」
「レイジ……」

 馬鹿なことをしてしまった、と悔やむ。
 交代でもいいから、誰かがチホちゃんについていてやれば良かったのに。
 怪我をして動けない、眠ったままの彼女の傍に。
 ついていてやれば、こんなことにはきっとならなかったのに。

「それも、今考えても仕方ないことですよ。僕だって自分を責めたくなるけれど……今は、やめましょう」
「もっと辛くなるだけだから……な」

 シグレくんもソウヘイも同じくらい辛いはずだけど。
 それを堪えて、俺を慰めてくれる。
 そんなことを言われてしまったら、俯いてはいられない。
 無理矢理にでも気持ちを奮い立たせて、前を向かなくては。

「……今更だが、もう誰も離れないようにしよう。正直言って、俺たちの分かってることが少な過ぎて、何が命取りになるかすら分からねえ……だから、固まっていた方がいい」
「私もそう思う。一人ずつあんな風になってるってことは、一人になったときに何かがあった……そういうことだと思うし。それなら、皆でいたほうがいいはずだから」

 オレとランの言葉に、ソウヘイとシグレくんも頷いて同意を示した。
 二人もさっき手分けして探索していたことを思い返しているのだろう。
 チホちゃんのこともあるが、もし一人で探索しているときに自分が、或いは相棒が襲われていたら。
 犠牲者がもっと増えていたという可能性が、恐怖を感じさせないはずがない。

「少し効率は悪いけど、四人揃って探索に戻るとしよう。もうこれ以上、誰も死なずに生きて帰るために……」

 誰かの手を、もう二度と掴めなくならないために。
 俺たちは決して離れず、そしてこの館を生きて脱出するのだ。
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