この満ち足りた匣庭の中で 二章―Moon of miniature garden―

至堂文斗

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Eleventh Chapter...7/29

血塗れの覚醒

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 ――ズウゥ……ン……――

 頭の中で、微かに響くもの。
 それは、鬼の唸り声か、それとも。

 ――ズウゥ……ン……――

 ……私には理解のできないもの。
 ただそれは、私の脳を食い破りそうなほどの、痛みを伴って――

「……う……うぅ……」

 耳鳴りがするほどの頭痛に、私の意識は覚醒した。
 地面を叩く雨の音が、やたらとうるさく聞こえてくる。
 冷たい床。冷たい雨。
 私は、降りしきる冷雨の中で気絶してしまっていたようだ。
 記憶が混乱して、直前までのことがすぐに思い出せない。
 確かそう、私は……。

 ――鬼。

 目の前に、鬼がいた。
 あれは、見紛う事なき本物の鬼だった。
 私は、鬼の魔の手から逃れるために、必死で抵抗して。
 割れんばかりの頭痛に負け、意識を手放したのだ。
 ……体が酷く冷えている。
 水たまりの中、俯せで倒れていたのだから当然だ。
 全身は最早、下着までずぶ濡れでどうしようもない。
 後で風邪を引くのは覚悟しておかないといけないだろう。
 ……それにしても……。
 嫌な臭いがした。
 生臭く、鼻につくような臭いだ。
 空はまだ闇夜。私が気絶してから、それほど時間は経っていないのか。
 暗過ぎて、ほとんど何も見えない状態だった。
 せめて、スマホのライトを。
 そう思い、私は俯せのまま手探りでスマホを探す。
 傘は近くにあるようだが、スマホは見つからないし、WAWプログラムの計画書もない。
 ああ、もしかしたら早乙女さんに奪われてしまったのかもしれない――。

「――え……」

 手が、何かを掴んだ。
 ぐにゃりと、奇妙な感触。
 力を込めれば、潰れてしまいそうなほどの柔らかさで。
 気味の悪いぬめりがあって。

「ひッ!?」

 細長い管のような。
 蛇腹状のそれは。
 壁に寄りかかった何かからはみ出たもの。
 脳がそれを理解することを拒絶する。
 けれども、一度動いた視線はハッキリと映像を捉え。
 私はそれが。
 早乙女優亜さんの死体であることを、認識した。

「嫌ああああぁああああッ!!」

 壁にもたれかかる早乙女さんの亡骸。
 苦悶の表情を浮かべたその腹部には。
 ざっくりと大きな裂傷があって……そこから内臓の大部分が、はみ出していた。
 だから、私が闇雲に掴んだのは。
 早乙女さんの臓器で……。

「やだ、やだやだ……嫌……ッ」

 目の前の光景を受け入れたくなくて、両手で顔を覆い。
 その血腥さで、私は更に悲鳴を上げる。
 臓器を掴んだ私の両手は血に染まり。
 その手で触れた顔さえも、真っ赤に染まったことは明白だった。

「ああぁあ……!」

 嗚咽を漏らしながら、私は水たまりで両手を洗う。
 でも、洗っても洗っても。
 赤い色は綺麗には消えなくて。
 ああ、そうなんだ。
 この水たまりには、もう沢山。
 彼女の血が混じってしまっているんだ……。

 ――何で? 何がどうなって、こんなことに?

 先ほどまでの頭痛は鎮まってきた。
 けれど代わりに、訳の分からない異常事態に気が狂いそうになる。
 目の前が、赤い気がする。
 それは、意識を失う直前も同じだった。

「……落ち着け」

 雨が、私を洗い流す。
 雨が、私の頭を冷やす。
 どうしてこうなったのか、考えなくてはならない。
 私がこんな状況に陥った訳を、理解しなくてはならない。
 私は近くの壁に背を預けて、座り込む。
 それから、状況整理を始めた。

 ――早乙女優亜さんが、死んだ。

 それだけは確かなことだ。
 如何に否定したくとも、明白な証拠が――死体が、目の前に倒れている。
 血の海が、目の前に広がっている。
 ……早乙女さんは、地下室の鍵がないことに気付いたのだ。
 だからあちこち探し回って、もしかしたらとここに来たのだろう。
 そして、私が地下室から出てくるのを目撃した。
 私が犯人だと思った早乙女さんは、更に私がWAWプログラムの計画書を持っていこうとしているのも察して、それを阻止しようとした……。
 ここからだ。
 突如として私は頭痛に襲われ、ふと顔を上げれば早乙女さんは鬼とすり替わっていた。
 鬼は私に危害を加えようとするかのように手を伸ばし――私は震える両手で、それを振り払った。
 後は、痛みのせいで意識を失い。
 目覚めたときにはもう、早乙女さんは死んでいたのだ。
 私の意識がなくなっている間に、全てが終わっていた。

 ――この手。

 私が彼女の臓器に触れたのは、片手だけだった。
 なのに、私の両手が血にまみれていた。
 それは、何故?
 理由は一つしかない。
 私は意識がない内に、もう片方の手を血に染めるような何かをしたのだ。

「じゃ、じゃあ……」

 有り得ない、と全力で否定したかった。
 けれど、私の記憶は全くの空白だった。
 だから、分からないのだ。
 私が早乙女さんに危害を加えたことを、明確に否定する根拠がないのだ……!
 意識がない状態で、私は彼女を殺したのか?
 それだけでは飽き足らず、彼女の腹部を斬り裂いて、内臓を引き摺り出したのか?
 そんな、馬鹿な。
 そんなことが、有り得てたまるか……!

「……凶器」

 そう、凶器が無いじゃないか。
 私は気付いて、ぐるりと周囲を見回す。
 やはり、ナイフなど切開に使われたと思しきものは見当たらない。
 でも、その代わりに異様なものを発見した。

「……あぁ……」

 壁一面にべったりと付けられたそれは。
 早乙女さんの血液をインクにした、血の手形だった。
 ボロボロに崩れ、煤けた壁の一定の高さに。
 不規則に手形が付けられているのだ……。

 ――これは、私じゃない。

 手形を見たとき、私は何故か確信にも似た思いを抱いた。
 でも、それがどうしてだったのかは自分でも分からない。
 ただ……多分だけれど、手の大きさとか、そういう雰囲気が違っていたのだ。
 だから、あの手形が私の付けたものではないと直感した。
 思えば、私のスマホも結局はどこにもないし、WAWプログラムの計画書だって無くなっている。
 私が気絶している間に、第三者が来た可能性は極めて高かった。
 私も、一歩間違えれば殺されていたのかもしれない……。

「……はあ」

 辛さを吐き出すように、一つ溜め息。
 私はこれから……どうすればいいだろう?
 家族に助けを求める? それでもいいとは思う。
 でも……この状況では、私が早乙女さんを殺したと疑われるのは確実だった。
 手形も雰囲気が違うように見えるだけで、私の犯行を客観的に否定するまでの材料にはなりそうにない。
 例えばこの瞬間を誰かに目撃されれば、私は完全に黒と認定されるだろう。
 ああ……そうなんだ。
 私は今、虎牙と同じような状況に立たされたのだ。

 ――帰れない。

 虎牙は、親代わりである佐曽利さんを頼っていた。
 でも私は、両親に全てを打ち明ける気にはなれなかった。
 決して信頼していないわけじゃない。もう一人のタツミとして、愛されていることは理解している。
 だから……だからこそ、迷惑をかけたくなかった。
 姿を晦ましたところで、それも迷惑をかけることにはなるだろう。
 けれど、娘が殺人犯かもしれないのに、匿い続けなければならない方が絶対に負担だ。
 そこまでのことを、両親にはさせられない。
 私は……あくまでも仁科龍美。本当の娘の、コピーなのだから。
 ふらりと、私は立ち上がる。
 濡れ鼠になった体で、それでも傘は差して。
 闇夜の中を、ゆっくりと歩き始め。
 今は途方も無く遠くに感じる我が家を目指すのだった。
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