17 / 86
Third Chapter...7/21
秤屋商店
しおりを挟む
うっかり忘れるところだったが、そう言えばお母さんから買い物を頼まれていた。ポケットに手を突っ込んで、財布と買い物リストがあることを確かめる。秤屋商店は、ここから南の方へ進めば五分ほどだ。
病院帰りらしい何人かの人とすれ違い、挨拶を交わしつつ、私はゆっくりと歩いていく。夏は陽が高いから、四時過ぎになってもまだまだ陽射しは明るく、とても暑かった。
十字路を左に折れると、秤屋商店が見える。今日も千代さんは元気に店の前に立っていて、買い物帰りの客を送り出していた。
「こんにちは、千代さん」
「あ、龍美ちゃん。こんにちは」
私が挨拶をすると、千代さんは胸元で手を軽く振りながら挨拶を返してくれる。
「お買い物かな?」
「お母さんに頼まれちゃって。人使い荒いから」
「はは、そんなこと言わない。美味しいご飯食べさせてもらってるんだから」
「ま、そですね。お釣りももらえるし」
お金に釣られたのがよく分かる発言だったが、しまったと思ったときにはもう遅く、千代さんに笑われていた。
「で、今日の献立は?」
「シチューね。ビーフシチューのルーってはっきり書いてるもの。大事なもの忘れてるんだから」
「案外そういうものよ。あると思ってるものが実はないってこと、よくあるんだから」
お、千代さんにしては良いことを言う。確かに、そういう経験は私もよくあるかもしれない。
「まあ、八木さんがよく言ってることの受け売りだけどねー」
なんだそりゃ。感心して損した。
「よくこの店に?」
「機械部品に限らず、食料品なんかもよく切らしちゃうんだって。まだ大丈夫と思ってたんだけどって何度も聞いたわ」
「あの人、無頓着ですからねー」
研究熱心なのは真面目でいいところと言えるが、私生活をもっと充実させてほしいものだ。もう三十代らしいが、こんなところにいたら結婚だって危ぶまれるだろうし。
千代さんは……二十歳だから、八木さんとはちょっと合わないよね。
「八木さんって、昔はいくつも論文を書いてて、それなりに名前は広まってたみたいなんだけど。こういう街にいると、そんな情報はキャッチできないわね」
「それは場所というより、関心の問題な気もしますけどね」
実際、私も八木さんが書いた論文なんて見たことはない。きっと、読んでも難しすぎて理解できなさそうだ。それが何となく分かっているから、自分から知ろうと調べてみるようなことはしなかった。
「今はもう書いてないんですかね?」
「さあ……でも、こんなところにいたら、発表も出来ないんじゃない?」
「千代さん、結構満生台のこと悪く言いますね」
「えー、そうかな。まあ、都会に比べちゃうとやっぱりまだ見劣るし、かといって自然み溢れるってわけでもないし。途上の街よ、ここは」
「それは否定しませんけどねー」
途上の街、か。この街が最先端の技術を備えた医療都市になれる日は来るんだろうか。そんな日が来るのなら、一住民としてここにいたいものだけれど。
「ちなみに、八木さんだけじゃなくて、久礼さんも論文が有名になって、いくつかは出版されたって話も聞いたことがあるわ」
「ほえー。そりゃ、お医者さんですもんね。学校でも勿論書かされるだろうし、学会とかもあるんだろうし、書いてないわけがないか」
「噂だけど、ちょっとお医者さんらしくない論文まで書いてたそうよ。洋子さんが言ってた」
「お医者さんらしくない……?」
それはどういうものだろう。ひょっとしたら、イグ・ノーベル賞的なやつだろうか。目の付け所が変というか、そういう論文。
などと勝手に思っていたら、千代さんが口にしたのは、もっと意外なものだった。
「うーん。なんでも、残留思念についての考察だとか……」
「ん……ザンリュウ……シネン?」
専門的な医療用語かと一瞬勘違いしたが、明らかにそうではなかった。私でも知っている言葉だ。ただ、医療関係ではなく、オカルト関係で。
「信じられないでしょ。私も洋子さんが間違えてるんじゃないかと思ってるんだけどねー、それか、別の人のが紛れ込んでたか。著者名が久礼貴獅って書かれてなかったみたいだし、その可能性も高そうだわ」
「私も、流石に違うと思いますよそれは」
あのいつもポーカーフェイスで、見るからにリアリストな久礼さんが、残留思念なんてものを研究対象にするとは、信じがたい。それが実は、ということもなくはないだろうが、あまり有り得そうにはなかった。
「あはは、龍美ちゃんがオカルト好きって聞いてたから、つい余計な話しちゃった」
「って、誰から聞いたんですかそんなこと」
「これ以上口を滑らせたくはないんだけどなー。可愛いお姫様に、ちょっとね」
十分滑らせてますけど。……満雀ちゃんだったか、やはりもっと籠絡しないと駄目かな、なんて。
「こうして店番してると、色んな人の色んな話が聞けて面白いわ」
「千代さんの天職なんじゃないですか? 私はそう思いますよ」
「はは、お父さんの後を継がされただけだったけど、何だかんだで性に合ってるのかもしれないな。ちょっと、ホッとしてる」
そう話す千代さんの言葉には、嘘偽りはないようだ。眩しいばかりの笑顔を浮かべているのだから。
「お父さんも、お前なら安心出来るって言ってくれたし。こうなったら、この身が持つまで頑張ってかなっくちゃね」
「贔屓にしますからね」
と言っても、街に他のお店なんてないんだけど。
「ありがと。長話になっちゃったね。時間は大丈夫?」
「ええ、全然問題ないですよ。んじゃ、さっさと買い物して帰ります」
「どうぞどうぞ、遠慮なく見てってね」
「はーい」
それからすぐに買い物リストを引っ張り出して、商品を集めていったけれど、結局買い物にかかった時間は、話し込んだ時間の半分ほどでしかなかった。千代さんと盛り上がると、どうしても長くなってしまうなあ。
代金は千二百円ちょうどだったので、八百円の儲けだった。嬉しさが顔に出ていたのだろう、お釣りをもらうときに千代さんが笑い出しそうな表情になっていたのが恥ずかしかった。でも、私は八木さんと違ってポーカーフェイスを気取れないのだから、仕方なかった。
こうして長い外出はようやく終わり、私は小さな買い物袋を提げて、愛しの我が家へ帰り着くのだった。
病院帰りらしい何人かの人とすれ違い、挨拶を交わしつつ、私はゆっくりと歩いていく。夏は陽が高いから、四時過ぎになってもまだまだ陽射しは明るく、とても暑かった。
十字路を左に折れると、秤屋商店が見える。今日も千代さんは元気に店の前に立っていて、買い物帰りの客を送り出していた。
「こんにちは、千代さん」
「あ、龍美ちゃん。こんにちは」
私が挨拶をすると、千代さんは胸元で手を軽く振りながら挨拶を返してくれる。
「お買い物かな?」
「お母さんに頼まれちゃって。人使い荒いから」
「はは、そんなこと言わない。美味しいご飯食べさせてもらってるんだから」
「ま、そですね。お釣りももらえるし」
お金に釣られたのがよく分かる発言だったが、しまったと思ったときにはもう遅く、千代さんに笑われていた。
「で、今日の献立は?」
「シチューね。ビーフシチューのルーってはっきり書いてるもの。大事なもの忘れてるんだから」
「案外そういうものよ。あると思ってるものが実はないってこと、よくあるんだから」
お、千代さんにしては良いことを言う。確かに、そういう経験は私もよくあるかもしれない。
「まあ、八木さんがよく言ってることの受け売りだけどねー」
なんだそりゃ。感心して損した。
「よくこの店に?」
「機械部品に限らず、食料品なんかもよく切らしちゃうんだって。まだ大丈夫と思ってたんだけどって何度も聞いたわ」
「あの人、無頓着ですからねー」
研究熱心なのは真面目でいいところと言えるが、私生活をもっと充実させてほしいものだ。もう三十代らしいが、こんなところにいたら結婚だって危ぶまれるだろうし。
千代さんは……二十歳だから、八木さんとはちょっと合わないよね。
「八木さんって、昔はいくつも論文を書いてて、それなりに名前は広まってたみたいなんだけど。こういう街にいると、そんな情報はキャッチできないわね」
「それは場所というより、関心の問題な気もしますけどね」
実際、私も八木さんが書いた論文なんて見たことはない。きっと、読んでも難しすぎて理解できなさそうだ。それが何となく分かっているから、自分から知ろうと調べてみるようなことはしなかった。
「今はもう書いてないんですかね?」
「さあ……でも、こんなところにいたら、発表も出来ないんじゃない?」
「千代さん、結構満生台のこと悪く言いますね」
「えー、そうかな。まあ、都会に比べちゃうとやっぱりまだ見劣るし、かといって自然み溢れるってわけでもないし。途上の街よ、ここは」
「それは否定しませんけどねー」
途上の街、か。この街が最先端の技術を備えた医療都市になれる日は来るんだろうか。そんな日が来るのなら、一住民としてここにいたいものだけれど。
「ちなみに、八木さんだけじゃなくて、久礼さんも論文が有名になって、いくつかは出版されたって話も聞いたことがあるわ」
「ほえー。そりゃ、お医者さんですもんね。学校でも勿論書かされるだろうし、学会とかもあるんだろうし、書いてないわけがないか」
「噂だけど、ちょっとお医者さんらしくない論文まで書いてたそうよ。洋子さんが言ってた」
「お医者さんらしくない……?」
それはどういうものだろう。ひょっとしたら、イグ・ノーベル賞的なやつだろうか。目の付け所が変というか、そういう論文。
などと勝手に思っていたら、千代さんが口にしたのは、もっと意外なものだった。
「うーん。なんでも、残留思念についての考察だとか……」
「ん……ザンリュウ……シネン?」
専門的な医療用語かと一瞬勘違いしたが、明らかにそうではなかった。私でも知っている言葉だ。ただ、医療関係ではなく、オカルト関係で。
「信じられないでしょ。私も洋子さんが間違えてるんじゃないかと思ってるんだけどねー、それか、別の人のが紛れ込んでたか。著者名が久礼貴獅って書かれてなかったみたいだし、その可能性も高そうだわ」
「私も、流石に違うと思いますよそれは」
あのいつもポーカーフェイスで、見るからにリアリストな久礼さんが、残留思念なんてものを研究対象にするとは、信じがたい。それが実は、ということもなくはないだろうが、あまり有り得そうにはなかった。
「あはは、龍美ちゃんがオカルト好きって聞いてたから、つい余計な話しちゃった」
「って、誰から聞いたんですかそんなこと」
「これ以上口を滑らせたくはないんだけどなー。可愛いお姫様に、ちょっとね」
十分滑らせてますけど。……満雀ちゃんだったか、やはりもっと籠絡しないと駄目かな、なんて。
「こうして店番してると、色んな人の色んな話が聞けて面白いわ」
「千代さんの天職なんじゃないですか? 私はそう思いますよ」
「はは、お父さんの後を継がされただけだったけど、何だかんだで性に合ってるのかもしれないな。ちょっと、ホッとしてる」
そう話す千代さんの言葉には、嘘偽りはないようだ。眩しいばかりの笑顔を浮かべているのだから。
「お父さんも、お前なら安心出来るって言ってくれたし。こうなったら、この身が持つまで頑張ってかなっくちゃね」
「贔屓にしますからね」
と言っても、街に他のお店なんてないんだけど。
「ありがと。長話になっちゃったね。時間は大丈夫?」
「ええ、全然問題ないですよ。んじゃ、さっさと買い物して帰ります」
「どうぞどうぞ、遠慮なく見てってね」
「はーい」
それからすぐに買い物リストを引っ張り出して、商品を集めていったけれど、結局買い物にかかった時間は、話し込んだ時間の半分ほどでしかなかった。千代さんと盛り上がると、どうしても長くなってしまうなあ。
代金は千二百円ちょうどだったので、八百円の儲けだった。嬉しさが顔に出ていたのだろう、お釣りをもらうときに千代さんが笑い出しそうな表情になっていたのが恥ずかしかった。でも、私は八木さんと違ってポーカーフェイスを気取れないのだから、仕方なかった。
こうして長い外出はようやく終わり、私は小さな買い物袋を提げて、愛しの我が家へ帰り着くのだった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
暗闇の中の囁き
葉羽
ミステリー
名門の作家、黒崎一郎が自らの死を予感し、最後の作品『囁く影』を執筆する。その作品には、彼の過去や周囲の人間関係が暗号のように隠されている。彼の死後、古びた洋館で起きた不可解な殺人事件。被害者は、彼の作品の熱心なファンであり、館の中で自殺したかのように見せかけられていた。しかし、その背後には、作家の遺作に仕込まれた恐ろしいトリックと、館に潜む恐怖が待ち受けていた。探偵の名探偵、青木は、暗号を解読しながら事件の真相に迫っていくが、次第に彼自身も館の恐怖に飲み込まれていく。果たして、彼は真実を見つけ出し、恐怖から逃れることができるのか?
【連作ホラー】伍横町幻想 —Until the day we meet again—
至堂文斗
ホラー
――その幻想から、逃れられるか。
降霊術。それは死者を呼び出す禁忌の術式。
歴史を遡れば幾つも逸話はあれど、現実に死者を呼ぶことが出来たかは定かでない。
だがあるとき、長い実験の果てに、一人の男がその術式を生み出した。
降霊術は決して公に出ることはなかったものの、書物として世に残り続けた。
伍横町。そこは古くから気の流れが集まる場所と言われている小さな町。
そして、全ての始まりの町。
男が生み出した術式は、この町で幾つもの悲劇をもたらしていく。
運命を狂わされた者たちは、生と死の狭間で幾つもの涙を零す。
これは、四つの悲劇。
【魂】を巡る物語の始まりを飾る、四つの幻想曲――。
【霧夏邸幻想 ―Primal prayer-】
「――霧夏邸って知ってる?」
事故により最愛の娘を喪い、 降霊術に狂った男が住んでいた邸宅。
霊に会ってみたいと、邸内に忍び込んだ少年少女たちを待ち受けるものとは。
【三神院幻想 ―Dawn comes to the girl―】
「どうか、目を覚ましてはくれないだろうか」
眠りについたままの少女のために、 少年はただ祈り続ける。
その呼び声に呼応するかのように、 少女は記憶の世界に覚醒する。
【流刻園幻想 ―Omnia fert aetas―】
「……だから、違っていたんだ。沢山のことが」
七不思議の噂で有名な流刻園。夕暮れ時、教室には二人の少年少女がいた。
少年は、一通の便箋で呼び出され、少女と別れて屋上へと向かう。それが、悲劇の始まりであるとも知らずに。
【伍横町幻想 ―Until the day we meet again―】
「……ようやく、時が来た」
伍横町で降霊術の実験を繰り返してきた仮面の男。 最愛の女性のため、彼は最後の計画を始動する。
その計画を食い止めるべく、悲劇に巻き込まれた少年少女たちは苛酷な戦いに挑む。
伍横町の命運は、子どもたちの手に委ねられた。
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
秋月真夜は泣くことにしたー東の京のエグレゴア
鹿村杞憂
ミステリー
カメラマン志望の大学生・百鳥圭介は、ある日、不気味な影をまとった写真を撮影する。その影について謎めいた霊媒師・秋月真夜から「エグレゴア」と呼ばれる集合的な感情や欲望の具現化だと聞かされる。圭介は真夜の助手としてエグレゴアの討伐を手伝うことになり、人々、そして社会の深淵を覗き込む「人の心」を巡る物語に巻き込まれていくことになる。
Mary Magdalene~天使と悪魔~
DAO
ミステリー
『私は血の様に赤い髪と赤い目が大嫌いだった。』『私は真っ赤に染まる姉さんが大好きだった』
正反対の性格の双子の姉妹。 赤い髪のマリアは大人しく真面目。 青い目のメアリは社交的なシスコン。
ある日、双子の乗船した豪華客船で残虐非道な殺人事件が起きるのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる