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第二章 カエデ

第二章 カエデ 4

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「ふわっ……」
 あくびをかみ殺しながら、俺は本のページをめくる。
 天井近くから床までの高さがある掃き出し窓から差し込んでいるのは、星明かりだけ。
 すっかり陽の落ちた屋内は、いまは机と壁に据えたふたつのオイルランプで照らしている。
 いまいるのは姫に用意してもらった、屋敷の二階にある客室のひとつ。
 机と簡単なテーブルセット、ローチェストとベッドの他には何もなく、他に何か置けるほどのスペースもない小さめの部屋。
 それでも屋敷の警備についている兵士は一階の雑魚寝部屋で寝泊まりしてるそうだから、個室がもらえるだけで充分優遇されてると言っていいだろう。
 トールは隣の部屋にいて、他にもいくつかある客室の廊下の他に、屋敷の裏手に向いたテラスでも繋がっていた。
 理科の実験のときにちょっとだけ使ったことがあるアルコールランプよりも明るい、匂いからすると植物油によるオイルランプは意外に明るくて、すっかり夜も更けたこの時間でもけっこう本が読める。
 王族の屋敷だからか、姫に好きに使って良いと言われた書庫には、娯楽ものの物語から、歴史書、伝説、知識書、この世界の教本など、様々な分野の本が、図書館ほど多くはないが一〇〇冊以上収蔵されていた。
 そのうちのいくつかを借りて部屋に持ってきて、夕食の後からぱらぱらとめくって読んでいた。
 トールと話ができたときもそうだが、明らかに日本語ではない文字を、俺は苦もなく読むことができた。女神ジョーカーがつくってくれたこの身体は、ずいぶんと便利だ。
 ただ内容的にはそれほど面白いわけではない、エディサム以外の地域を含む歴史書は、この世界を知るには良かったけどあくびが絶えなかった。
「はぁ」
 読書はまた明日することにして、俺はため息を吐きながら椅子から立ち上がった。
 元の世界の自宅よりも広く、洗濯物を干すどころかお茶だってできる広さのテラスに出てみる。
 煉瓦の胸壁の上に、たぶん金属だろう、厚く塗料を塗ってある桟に背を預け、俺は星空を見上げた。
 ――まだ、三日なんだよな。
 この世界にやってきてからはまだ三日しか経っていない。
 一昨日オークに襲われ、昨日トールと出会って、今日姫を助けた。
 毎日ゲームして、タイムセールに合わせてフィギュアやグッズの通販ページ見て、お腹が空いたら買っておいたものを適当に食べる。
 そんな生活を長く続けていたときは、時間の感覚は薄くなっていた。いまが何曜日で、何日で、こんな生活を始めてどれくらい経ったのかなんて、気にしてなかった。
 目を逸らしていた。
 変わりがなく、でもねっとりとしていて不快で、自分がどんどんダメなところに沈んでいくという感触が微かにあって、焦っていて、でもそこから抜け出す気力も出てこない日々。
 この世界に来てからは、一日が高校に入ってからの一年半よりも濃密で、時間の感覚は確かなのに、一瞬で過ぎ去ってしまったかのような、どこか遠い出来事のようなそんな乖離を感じていた。
「でも、なんか違うんだよなぁ」
 つぶやきとともに、俺は白い息を吐く。
 元の世界と同じ夏の終わり頃らしいこの世界は、たぶん深夜帯に入っただろうこの時間になると、姫にもらった服だけじゃちょっと肌寒い。
 目が慣れてきて、星明かりで辺りのものがけっこうくっきり見えてきている。四室の客室の掃き出し窓も、テラスの端にまとめられたテーブルセットも、色はよくわからなくても形は見えていた。
 昼間にあった夏らしい湿気もなくなり、乾燥してると感じるのに、俺は肌にねっとりとした感触を覚えてる。
 ――これは、元の世界から持ってきたものだ。
 怠惰で、目を逸らして生きてきた俺。
 この世界に来てからはトールの魂を解放し、姫や屋敷の人たちを助けたりと大活躍だ。
 でも違う。
 トールを女体化できたのは、ジョーカーとか言う女神に権能をもらったから。
 姫を救えたのはトールの力があったから。
 俺は何ひとつ、俺自身の力や判断でできたことがあったわけじゃない。
「俺はこの世界に来ても、結局何もできてない……」
 高校に入ってからは、黙って、我慢して、ふさぎ込んで、逃げてるだけだった。
 つらい現実から、もう先のない未来から、目を逸らすことしかできていなかった。
 この世界でも何もできていない俺は、果たしてこんなところにいる意味は、姫に感謝されたり、トールに慕われたりする理由はあるのだろうか。
 そんなことばかりが頭の中に浮かんでくる。
 俺にはどうしようもなかった。
 どうすることもできなかった。
 できることなど何もなかった。
 俺の一七年間は無意味だった。
 そしてこれからも、無意味だ。
 前の世界に残してきた思いとか、後悔とかが心に押し寄せてきて、涙が出てきた。
 こんなんじゃいけないとわかっているのに、揺らいで見えなくなってる星空を見ていることしかできない。
 ジョーカーに助けてほしいと言われたけれど、たぶん俺には何もできない。彼女を助けることも、救うこともできるようには思えない。
 俺は、無意味な人間だから。
「何かひとつでも、できる人間になりたいなぁ」
 そんなことを、俺は満天の星空に吐き出していた。



 窓を開ける音の後、微かな足音が聞こえてきた。
 誰かがテラスに出たのはわかったが、誰なのかまではわからない。
 初めて使う柔らかなベッドは、どうにも寝心地が悪くていつまでも寝付けず、寝返りばかり打っていたトールは、耳を澄ませた。
 歩哨に立っていたり眠っていたりする兵士の息づかいは、すぐに判別できた。キッチンらしき方向から聞こえてくる作業のような音は、おそらくリディ。身体の小さいカエデの寝息は聞き取れなかったが、動いている様子も感じられない。
 何となく予感もあったが、おそらくテラスに出たのはタクトだと、トールは判断した。
 この時期のこの時間は、もうかなり冷え込むようになっている。
 部屋に入る様子も身体を動かしている様子もないタクトに、何をしているのだろうと思い、トールは就寝用にと渡された膝丈のワンピースの裾を整えながら、ベッドから抜け出した。
 掃き出し窓から見てみると、桟に背中を預けて顔を上に向けているのは、やはりタクト。
 一瞬どうしようかとためらった後、トールは思い切ってテラスに出た。
「こんな時間にどうしましたか? タクト」
「んっ!」
 突然声をかけたから驚いたのか、タクトは顔をごしごしと拭いてからトールの方に目を向ける。
「なんでもない……。ちょっと、星を見ていた」
「――そうですか」
 魔族が魔法を使えるように、妖精族が妖術を使うように、トロールにも種族としての能力がある。
 実際に持っている以上に膂力を強化することができるその能力は、聴覚や視覚もまた強化することができる。
 いまその力を使って夜でもかなりくっきりとタクトの顔を見ることができているトールは、彼の目尻に涙の跡が残っているのが見えていた。
 けれど、トールはあえてそれを指摘しなかった。
 ――タクトが言わないなら、わたしは聞かないでおこう。
 彼の心は、おそらくとても弱く、脆い。
 異世界からこの世界に来てしまってほんの数日しか経っていないこともあって、彼の心はいまその男らしいとは決して言えない身体よりも折れやすいと思えたから。
 何も言わず、トールもまた星空を仰ぐ。
「綺麗ですね。星空など、初めてまともに見た気がします」
「うん……。凄く綺麗だ。俺が元々住んでた世界では、明るい星が数えられるくらいしか見えなかったのに、ここでは星なんてか数え切れないほど見える」
「そうですね」
 タクトが先ほど落としていた涙のように、煌びやかな星々。
 トロールだったときの微かな記憶でも、オルグになってからも、星を見たのは方角を知るためだけだったように思う。
 何をするでもなく、ただ星を眺めるというのは、とても綺麗で、少し不思議で、そして嬉しかった。
 何より、タクトと一緒に星を眺められることが嬉しい。
 なぜそう思えるのかはよくわからなかったが、そう思えているのだから仕方がない。
「んー」
「どうかしましたか?」
「あー、うん。改めて見てみると、不思議なんだ」
「というと?」
「えっと、あそこと、あそこと、あの辺り」
「ん? どこでしょう?」
 タクトの指さす方向がよくわからなくて、テラスの外側を向いた彼の後ろに立ち、両肩に手を乗せる。
 触ってみると、細いようでいて、少し堅く、思ったよりも広いその肩に、なんだか安心を覚えた。
 すぐ近くにある髪から香ってくる彼の匂いに、なぜか身体が震えそうになった。
「……あそこと、あそこと、あそこ。それからあの辺りと、あとあれかな? 他にもいろいろあるけど」
「はい」
 少し緊張した声になりつつも、彼の指さす方向を確認していく。身体の向きを変える彼の動きに合わせて、トールも動いていく。
「たぶん、見たことがあるんだ」
「見たことがある? というと?」
「んー」
 一日目、タクトは気を失ったまま夜を過ごし、二日目は暗くなりきる前に洞窟で一緒に眠った。
 ここに来てたった三日で、まだ夜空を眺めたことなどなかったはずなのに、見覚えがあるというのがよくわからない。
「俺もそんなに知識があるわけじゃないけど……。学校の授業と、小学校の頃――幼い頃にキャンプ……、キャンプ……。野外で寝泊まりしたときに、父親に星の配置と名前を教えてもらったんだ」
「はい」
 いまひとつわからない言葉もあったが、口籠もりつつも説明してくれるタクトに、トールは余計な言葉を挟まない。
「ベテルギウス、シリウス、プロキオンで冬の大三角形。それから三つ星とリゲルがあって、微かだからわからないけど、あそこにちょっと白っぽく見えるのがオリオン座大星雲。天の川がぐうっと流れてて、こっちにあるあれはアンドロメダ銀河、だと思う」
「星に、それぞれ名前があるのですか」
「全部じゃないけど、明るい星のほとんどには。それとあれは、北極星」
「はい。それはわかります。ほぼ必ず北を向いている星で、もう誰に教わったか覚えていませんが、柄杓と牙の形に並ぶ星から探す方法も知っています。あれにも名前があるのですか?」
「うん。俺の世界ではあれをポラリスって呼んでた」
「ポラリス……」
 よくわからなかったが、何となく凄いと思えた。
 心臓がドキドキと高鳴っていて、寒いはずなのに身体が熱くなっているのを感じた。
 ――無能なわたしと違って、やはりタクトは凄い。
 そんなことを考えながら、トールは彼とともにじっと北極星を見ていた。
 いつの間にか、会話が途切れていることに気づかないほどに、じっと。
「……俺は、無意味な人間だな」
「タクト?」
 ぽつりと零された彼の言葉に、トールは彼の肩越しにその顔を眺める。
「何でもない」
 そう言って顔を逸らすタクトの肩をつかんで、無理矢理身体ごと振り向かせる。
 それでも顔を逸らそうとする彼の、目尻に残っている涙の跡を、トールは親指で拭った。
「先ほど泣いていたのは、そのことを考えていたからですか?」
「……」
 沈黙し、口を少し尖らせながら視線を逸らすタクト。
 幼い子供がするようなことをするタクトに、笑みが漏れてきてしまったトールは、肩から彼の頬に手を移し、視線すら逸らせないようにする。
「前にも言いました。わたしはタクトに救われました。タクトが救ってくれました。それがジョーカーという神に与えられた権能を使ったのだとしても、わたしとの出会いが偶然であっても、わたしの願いが貴方の願いと寄り添うことができたからこそ、わたしの魂は解放されたのです」
「そう、かも知れないけど……」
「カエデを救ったこともそうです。面倒から逃れることしか考えられなかったわたしと違い、タクトはカエデを、そしてリディや屋敷の者たちを救いたいと考えました。戦ったのがわたしなのも確かです。ですが救いたいと、救うと判断したのは貴方です、タクト」
「……」
 まだ揺れている彼の瞳。
 どういう言葉を使えば、いま考えていることが伝わるだろうか。想いを彼に知らせることができるだろうか。
 ――わたしは、やはり無能だ。
 上手い言葉が思いつかず、トールは心の中で悪態を吐く。
 ――いや、でも、少しだけ、いまならばわかる。
「例えば、この国の王はカエデに魔王の討伐を命じ、カエデはいまいる兵士や、今後到着する軍隊を使役して魔王と戦います。魔王が無事討伐できた場合、その功績は兵士だけのものでしょうか? それとも、カエデや、王が占有する功績となりますか?」
「いや……、兵士だけとか、姫とか王様だけの功績ってわけじゃないと思うけど……」
「はい。わたしもそう思います。兵士にも、カエデにも、そして何かしがらみがあるようですが、大本の命令を出しただけの王にも、等しくではないでしょうが、それぞれの功績となることでしょう。だったら、それはわたしとタクト、そしてタクトと姫の間でも同じです」
「同じ?」
 彼の瞳から揺らぎが薄れていく。
 つたない言葉しか出てこないことにもやもやとした気持ちは残っているが、それでもタクトに伝わっていることが嬉しい。
「もう少し言えば、わたしの力の多くは、トロールの頃のものを多く引き継いでいます。鍛え、よく食べていることもありますが、大きく強い身体はトロールの特性でもありますし、本来持っている膂力以上の力が出せ、刃にも負けないほど皮膚を強靱にできるのも、トロールが持っている身体強化の能力に寄るものです」
「トロールにはそんな能力があるんだ」
「はい。トロールの特性と能力で戦っているわたしは、何もできない、何も為していないことになるでしょうか?」
「そんなことはない。トールの力はトールのものだ」
「だからです、タクト。貴方の権能は、貴方の力です。そしてそれをどのように使ったかが、貴方の為してきたことになるのです」
「トール……」
 泣きそうにも見えていたタクトの瞳に、光が戻る。
 その輝きは、美しい。
 偶然であっても、自分の魂を解放し、救ってくれたタクトには、前を見て生きてほしいと思う。
 ――これは、わたしのただのわがままかも知れない。
 そんなことも思う。
 けれども、タクトとともにずっと、一生でも一緒にいたいと思うトールは、彼が口元に浮かべ始めた笑みが嬉しくて仕方がなかった。
「貴方はそれでは満足せず、その先を求めるならば、これから頑張りましょう」
「これから?」
「はい。権能の使い方を学び、それ以外の、例えば身体を鍛えるなどして、もっと力を付けていくのもいいのではないかと思います」
「力を付ける、かぁ……」
 苦々しげな顔をして目を逸らすタクト。
 どうやら身体を鍛えるのが苦手らしいことはわかったが、できればタクトにはもっと筋力を付けてほしいと思う。
 高い筋力は、ただそれだけで魅力的だ。
「できるならタクトには、わたしに負けない筋力を付けてほしいと思います」
「いや、トロールの特性に勝てる筋力って、無理じゃないか?」
「そうかも知れませんが、やはり男というのは、力が強いことが魅力のひとつです。すぐには無理でも、少しずつ頑張りましょう。わたしも一緒に鍛えますから」
「はっ、はははっ……。で、できる限り……」
 乾いた笑い声を上げているタクトだが、少しはやる気があるらしいことに、トールは嬉しくて笑みを漏らしていた。
「最初にも言った通り、わたしはタクト、貴方の眷属です。常に貴方とともにあります。貴方とともにあり続けます。貴方を裏切ることはありません。貴方が望み続ける限り、わたしは貴方の側におります。だから、一緒に歩いて行きましょう」
「……うん。わかった、トール。これからもよろしく」
「はい!」
 ニッコリと笑ったタクトに、トールも笑みを返す。
 嬉しくて、嬉しすぎて、抱き締めてしまいたかったが、できなかった。
 タクトの笑顔に、どうしてか彼の身体に伸ばそうとした腕が止まって、抱き寄せることができない。
 だからトールは、そっと指を軽く曲げた右の掌を彼に見せた。
 その手に自分の左手を重ね、指と指を絡め合う。
 ――なんなのでしょう? これは……。
 握り合わせた手と手に、トールの心臓は戦っているときよりも高鳴っているように思えた。
 どうしてそんなに鼓動が速くなっているのかがわからなかったが、苦しくも、不快でもなかった。
 暗い星空の下で笑っているタクトの顔が、なぜか眩しく見えた。
 トールはタクトの手と、ずっとずっと、触れ合っていたかった。
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