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第二章 登場! 正義の味方

第二章 登場! 正義の味方 3

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       * 3 *

 僕の目の前にあるのは、それほど大きくない工場の廃墟。
 鉄筋コンクリートではなくて、鉄骨に壁を貼り付けたような簡素な造りの工場は、使われなくなってからもう五年ほどが経っていた。
 元々あった会社が経営不振で倒産した後、何度か取り壊し計画は立ったそうだけど、土地の所有者が複数に渡っていて、費用面で問題が出て使われないまま風化しつつある。
 廃墟好きの人が訪れる程度だったらまだしも、少し前にオカルト方面で話題になったり、柄の悪い人々のたまり場になったりして取り壊しを望む声は小さくない。雑木林に隣接していて人目に付きにくい工場は、少し前に小火を出して以来金網のフェンスで覆われて人が入れないようになっていた。
 そんなフェンスもいつ穴を空けられるかわかったものじゃない。
 ということで、今日僕はこの工場を破壊するためにやってきていた。
 一般家屋、小さめのアパートと続いて、建造物破壊作戦はこれで三回目。
 まずは管制に慣れてみようと思って、僕自身は工場の外にいて、戦闘員十体とこの前生成した怪人アルクトゥルスを工場に入れて、そいつらの視界を利用しながら破壊を進めていく。
 ――うん、うまくなってる。
 目視しなくても変身スーツに送られてくる情報と間接視界だけで進めていく破壊は、一番最初のときとは違って、戦闘員が勝手に動き出すようなことはなく、ずいぶん慣れてきたのを実感する。
 英彦の言葉で思いついたのは、六月にあった防犯月間で募集していた自由課題のときに部活動の一環として調べた、近隣の廃墟マップだった。
 不況のあおりで倒産した会社が少なくなくて、数年も手つかずのまま廃墟となっている建物は多いとは思っていたけど、調べてみると予想以上にあることがわかった。
 たいてい次の利用目的が決まらないとか、立て替え費用が工面できないとかで放棄されたままになっている場所だから、僕が破壊してしまってもあんまり迷惑にはならない。
 悪の秘密結社の扱い方に慣れるためにも、僕はこうして建造物破壊に勤しんでいた。
『ダメですね』
 ナビゲーターは作戦には直接関与できないと言うことでアジトにいる樹里から、ダメ出しの通信が入る。
『そんなことな――』
 反論の言葉を返そうと思った瞬間、鉄骨を七割くらいしか切断できていない工場が、音を立てて崩れ始めた。
「あ……」
 崩壊はでも、建物の半分くらいがつぶれたところで止まってしまう。
「えぇっと――」
 ヘルメットの上から頬をかきながら、何がどうなったのかを考えてみる。
『鉄骨を切断する順番を充分に検討していませんでしたね? 首領。崩壊が始まる前に、最後は外から切断を試みるべきだったでしょう。戦闘員が三体、埋まってしまっています。早く救出してください』
『うん……』
 呆れを含んだ樹里の言葉を聞きつつ、崩壊に巻き込まれなかった戦闘員に指示して、生き埋めになってる戦闘員を救出する。
『警察車両の接近を確認。あと二分でそちらに到着の予定。……あとはご自身の武器で破壊してください』
『これ使いにくいんだよなぁ』
 警察が到着したからってたいしたことはないわけだけど、あまり問題を起こしたくはない。
 戦闘員の救出が完了したのを確認した僕は、手に持っていた短い杖のようなものを両手に構えた。
 先端に水晶玉でも取り付けられそうな台座は、空になっている。
 僕の変身スーツの機能と組み合わせて使うその杖の名は、アルティメットハンマー。
 不可視の先端は、使うエネルギーの量によって距離と大小を調整できるかなり便利なハンマーとなる。でもインパクト部分が僕自身にも見えないアルティメットハンマーは、うまく命中させるのが難しい扱いにくい武器だった。
「こんなもんかな、っと!」
 少し強めの設定にして、だいたいの距離を予想しながら振り下ろすと、ちょうど残っていた廃工場の建物が、一気にぺちゃんこになった。
 さすがにその音が聞こえたんだろう。パトカーがサイレンを鳴らし始めたのを聞いて、僕は樹里に指示してアジトに転移した。

       *

 わずかにクリーム色がかった床と壁の廊下を歩く。
 天井も同じ色をしてるみたいだけど、照明の類があるようには見えないのに明るく光ってるからわからない。
 病院かなにかのような印象を受ける簡素な場所が、僕の悪の秘密結社ステラートのアジト。
 それらしい装飾をすることもできるという話は聞いてるけど、どういう方向性でやればいいのかわからないし、装飾するにもエネルギーを消費する。使うのに不便があるわけじゃないからどうでもいいかと思って、僕はそのままにしていた。
 廊下の途中にあるひとつの扉の前で、僕は立ち止まった。
 廊下にも床にも継ぎ目は一切ないけど、扉のある場所だけはその形に切れ目が入ってる。部屋名を示す表示もないそこは、変身スーツを通せば何の部屋なのかはわかる。
 成長室。
 そこはアジトの中でも重要な場所のひとつ。
 戦闘員を管制するのと同じ要領でアジトに指示を与えて開いた扉の中は、明るい照明で照らされたアジトの中で、唯一真っ暗な部屋だった。
 スーツの暗視機能で暗くても見通せるそこは、学校の教室ほどの広さがあるその部屋の真ん中に、人が三、四人が手をつないでやっと囲める太い木が生えていた。
 根をそこら中に張り巡らし、天井を突き抜けるように生えている木は、アジトの中でのキットの木の姿なのだそうだ。
 部屋に入った僕は、連れてきた戦闘員と怪人アルクトゥルスを木の周りに配置し、横たえさせる。
「これでいいの?」
 振り返って着いてきていた樹里に確認する。
「はい。それから自壊の指示を。それで残存エネルギーはアジトに吸収され、身体は肥料として取り込まれます」
 樹里の言う通りに、僕は六体の戦闘員とアルクトゥルスに自壊の指示を与える。何かが震えるような小さな音がした直後、戦闘員とアルクトゥルスは塵となって崩れた。
 戦闘員や怪人は原則として使い捨ての消耗品。エネルギー再供給型につくることもできるけど、効率を考えると使い捨ての方がいい。エネルギーが少なくなった戦闘員や怪人も、成長室で残存エネルギーを回収したり、崩れた身体は肥料にもなる。
 内包したエネルギーを使い尽くすか、いまみたいに自壊させると、戦闘員や怪人は塵と化す。主成分は炭素と水だそうで、もし警察なんかに捕らえられるようなことがあっても、自壊させてしまえば情報は取れないようになってるのだそうだ。
 ――うまく使ってやれなかったな。
 人の形をしていたものが崩れて小山のようになっているのを見ながら、僕はヘルメットの中で小さくため息を吐いていた。
 アジトを生成したときに最初からできていた戦闘員は今日で四回目の出撃。アルクトゥルスはまだ二回目だけど、とりあえずで生成した怪人だったから、エネルギー効率があまり良くなかった。
 アルクトゥルスは戦闘員よりもさらに力が強くて便利だったけど、他の戦闘員も含めて、うまく使えてやれたとは思えなかった。
 ステラートを結成してからもう一ヶ月。
 戦闘員や怪人の管制にはずいぶん慣れたと思うし、結社の扱いもわかってきたと思う。
 ――でも、何をすればいいだろう?
 トライアルピリオドのパスをとりあえず目指しているわけだけど、今日みたいに廃墟を壊して回ってるだけで、それはそれで悪の秘密結社らしいとは思うんだけど、このままでいいのかどうか、悩んでしまっていた。
「帰ろう」
「はい」
 樹里とともに廊下を歩いて、広間へと出る。
 天井が高く、教室三つ分ほどの広さのそこが、いつも僕がいる場所。
 一番奥手には王様が座っていそうな玉座があって、そこがアジトの中枢。玉座を破壊すると結社は解散となる。――そんなに簡単に壊れるものではないらしいけど。
 玉座には向かわず、僕はそのまま広間の比較的端にある転移室に入った。
 樹里がちゃんと着いてきてるのを確認してから、アジトに退出の指示を出した。


 広い公園には、そよ風に乗ってうるさいほどの虫の声が響いていた。
 九月も下旬になるとそよ風でも半袖のシャツから出ている腕には冷たくて、昼間はまだまだ暑いけど、夜にはすっかり秋の匂いがした。
 家に直接転移もできるけど、今日は何となく、アジトを退出した僕はキットの木を植えた公園に転移してきていた。
 時間はもう零時を回っていて、公園内の照明も消灯している。
 常夜灯が示す小さな光が導く中を、僕はすぐ後ろに着いてくる樹里とともにゆっくりと歩いていく。
「星はもうすっかり秋だね」
「そうですね」
 見上げてみると、たくさんの星が瞬いていた。
 夏の星座はすっかり西に傾き、秋の星座が空を彩っている。
 西に沈み行きながらも、ほんの微かに見えている天の川。
 外れの方と言っても、関東平野の中にあるこんな場所で天の川が見えるのは、僕が生まれた直後くらいにある県知事が制定した通称「流星法」、光害低減条例による効果だった。
 制定されてしばらく進捗のなかった流星法は、ふたご座流星群の流星雨と、連続して現れた大彗星により全国に広まり、ステラートブリッジ計画の発表を機に、国の法律となった。
 イルミネーションや夜間照明への規制と同時に導入された、光害対策型の街灯を普及させたのは、僕の父さんの貢献が少なくなかったと聞いたことがある。
 街中じゃうっすらとしか見えないけど、それでも肉眼で確認できる天の川は、父さんが実現させた夢のひとつ。父さんの夢の痕跡だった。
 ――僕は、何ができてるだろう?
 悪の秘密結社なんてすごい力を持ちながら、僕には何ができてるだろうかと考えてしまう。
 とりあえずはトライアルピリオドをパスすることが目的だけど、そのためには僕の悪を示さないといけない。
 パスした後にやりたいことがあるにはあるけど、夢へと至る道は曖昧で、本当にそれが僕の夢なのかどうかすら、疑問に感じることがあるほどだった。
 立ち止まって、僕は真上の星空を眺める。
 ――星海への架け橋は、僕の夢なんだろうか?
 星の世界へ行きたいと願った父さん。父さんの話を聞いていた僕も、行きたいと思っていたはずだった。
 それなのに僕は、なぜかそれを実感として感じることができない。
 死んでしまった父さんは抱いた夢のすべてを実現することはできなかったけど、着実に前に進んでいた。でも僕は、自分の夢の方向さえ、曖昧になってしまっている。父さんのようには、やっていくことが僕にはできないでいた。
 序文にあった「君の悪を示せ」という言葉に適うことを、できているという実感がない。
 こんなことを考えてしまうのは、秋の匂いを含んだ夜風に当たっているからだろうか?
「悪って、なんだろう?」
 存在感は薄いのに、そこにいるのがはっきりとわかる樹里に、僕は星空を仰いだまま訊いてみる。
 この一ヶ月で取扱説明書は少し読んでみたけど、悪の秘密結社で何をしろ、といった指示は、一切書いていなかった。取扱説明書はあくまで取扱説明書で、何をすべきかについては、あの序文の一文しかなかった。
「その質問に対する答えを、わたしは持ちません」
 すぐ後ろから掛けられた言葉に、僕は振り向く。
 少し細められた樹里の瞳にどんな想いが込められているのか、僕にはわからなかった。
「答えは持たなくても、わたしにわかることがあります」
「どんなこと?」
 いつもの柔らかい笑顔ではなく、表情をこわばらせているわけでもなく、樹里はただ僕のことを真正面から見つめてくる。
「遼平さんは、ステラートの首領です。悪の権化です。遼平さんのわたしは目覚めました。だから、だから遼平さんには、遼平さんなりの悪がここに」
 言って樹里は僕の胸に手を当てる。
「必ずあります」
 果たしてその言葉はナビゲーターの機能としての言葉なのだろうか。それとも樹里の心からの言葉なんだろうか。
 わからない。
 けれどいまの僕は、その言葉でどこかに跳んで行ってしまいそうだった気持ちを落ち着けることができた。
「うん……。うん、ありがとう、樹里」
「はい」
 ほんの少し弾んだ声で応える樹里の笑みに笑みを返して、僕は家へと歩く。
 一週一キロ以上になるマラソンコースを四分の一ほど歩いて、二車線の道路に出てしばらく。作戦で遅くなるのがわかっていたから、照明を点けっぱなしにしてきた僕の家が見えてきた。
 携帯端末を使って鍵を解除して、玄関ドアを開ける。一歩家の中に踏み込んだ瞬間、僕は違和感に気がついた。
「あ、やばっ」
 見える場所に、アジトに転移する前と違ったところはない。それでも家の中の空気というか、雰囲気に、僕は微妙な変化があるのを感じていた。
「樹里――」
 と声を掛けて樹里を外に出そうとしたときにはもう遅い。
「ずいぶん遅かったのね、遼君」
 気怠そうな声とともにリビングに続く扉から現れたのは、綾子さん。
 八月の末に沖縄旅行に行って、一度帰ってきた様子はあったけど、そのまますぐにどこか遠くに出張に出てしまったらしい彼女は、僕の実の母親だ。
 連絡なしで飛び回ってるのはいつものことだけど、帰ってくるときも予告をすることなんてない。
「そちらはどちら様?」
 今更樹里を隠すこともできない。
 振り返って綾子さんのことを見ると、満面の笑顔を浮かべている彼女は、でも僕のことなんて見ていなくて、笑っていない目で樹里のことを見ていた。
 樹里が怒っているときは炎を背負ってるようになるけど、綾子さんが怒ってるときには寒気がするほどの冷気が吹き荒れる。
 背筋が凍り付くような悪寒を覚えながら、僕は綾子さんの言葉にどう答えようか、嫌な汗が垂れてくるのを感じながら考えていた。


 出張からついさっき帰ってきたばかりらしい。
 部屋着ではなく赤いスーツを着たままの綾子さんは、ソファに座って女王様かなにかのように高く脚を組んでいた。
 ローテーブルを挟んでその正面に立つ僕は、これから処刑を待つ囚人の気持ちだった。
「お待たせいたしました」
 綾子さんの指示でキッチンに行っていた樹里が、湯飲みをローテーブルに置いて急須からお茶を注ぐ。
 どこの流派だったか忘れたけど、茶道の看板を持つ綾子さんは、湯飲みを口に運んで微かに眉をひくつかせた。
 たぶん、僕が最初に樹里の食事を食べたときと同じ感想を抱いたんだろう。ここのところ僕は、ほとんど自分で食事をつくっていた。
「それで貴女は何者?」
「えぇっと、彼女は――」
「私はその子に訊いてるの」
 答えようとした僕をぴしゃりと制した綾子さんは、まだ一度も僕のことを見ていなかった。
 何故か綾子さんは女の子には当たりが強い。理由は詳しく訊いたことがないから知らない。竜騎とか男だったら別に普通なのに、恋人というわけでなくても女の子を家に連れてきたりすると、理由もなくいまみたいにブリザードを吹き散らす。
 そんな彼女だったから、幼い頃から付き合いのある竜騎の妹も、マリエちゃんも、綾子さんがいないときにしか僕の家に来ることはない。
 彼女がそんな風になったのは、自分のことを母さんではなく「綾子さん」と呼ぶように言ったのと同じ頃。父さんが死んでしばらく経ってからのことだと思う。
「挨拶が遅れました。初めまして。わたしは樹里と申します」
 綾子さんのブリザードに身体を凍り付かせることなく、優雅な一礼とともに樹里が挨拶をした。
「樹里ちゃんね。私は綾子。遼君の母親よ」
「はい。お母様」
「綾子さんと呼びなさい」
「わかりました、綾子さん」
 睨み付けるような綾子さんの視線を、微かに笑みを浮かべる樹里は逸らすことなく受け止めてる。
 一触即発の雰囲気が漂うこの場から、僕は逃げ出したくて仕方がなかった。
「それで樹里ちゃんは何者? 貴女のような知り合いが遼君にいたなんて、私は知らなかった。いったいどこからいつ現れたの?」
「それは、その――」
 何かうまく言い訳をしようとした僕を、綾子さんは人を殺せそうな視線で黙らせた。
「わたしは……」
 口を開いた樹里は、珍しく言葉を濁らせる。
 気持ちを落ち着かせるように目をつむって、胸に軽く手を当てながら息を吸った樹里は、もう一度綾子さんの視線を受け止めて、言う。
「遼平さんはイメージドライバーを起動させ、悪の秘密結社を結成しました。わたしは遼平さんによって生み出された、彼とともにあるステラートのナビゲーターです」
 思わず上げそうになった声を飲み込む。
 ――それって秘密にしなくていいの?
 樹里の方を見てみると、彼女は綾子さんに揺るぎない視線を向けていた。
 さすがに驚いた様子の綾子さんは目を見開いてるけど、樹里から視線を外すことはなかった。
 ステラートの解散条件は僕の正体を晒すことだから、いまの樹里の言葉はそれには該当してない。と言っても間接的には僕がコルヴスだと言ってるのにも等しい。
 驚きの顔の後、何故か怖い笑みを口元に浮かべた綾子さん。無言のままずいぶん長い間樹里と見つめ合って、最後にどうしてなのか、少し悲しそうな色を瞳に浮かべた。
「じゃあやっぱりあのときホームセンターを襲っていたのは、遼君なのね」
「え?」
 さすがに今度は声を上げてしまう。
 言われる前からコルヴスの正体が僕だったことに、綾子さんは気づいていたってことなんだろうか。
「私が遼君の背格好や仕草を見間違えるわけがないでしょ? 旅先で流れてたニュースの映像見てただけだし、あんな格好であんなすごいことするなんて思ってもみないから、さすがに違う可能性もちょっとだけ考えてたけどね」
 何がそんなに寂しいんだろうか。
 樹里から視線を外して僕を見た綾子さんの笑みには、寂しそうな、悲しそうな色があった。
 樹里があっさり自分の正体をバラしたのにも驚いたけど、綾子さんがコルヴスの正体に気づいてたことにはもっと驚いてて、僕はその寂しそうな表情がどんな想いによるものなのか、思い至ることができない。
「それで」
 瞬きひとつで表情を引き締めた綾子さんは、僕の目を見つめてきた。
 吸い込まれそうな気がすることがある樹里の視線とは間逆の、圧力を感じるその視線を僕は逸らさないよう努力して受け止める。
「遼君はその悪の秘密結社? の力を使って、何をするつもりなの?」
 その質問に何か答えようとするけど、なにも言葉が出てこなくて一度開いた口をつぐんでしまう。
 自分の悪に迷う僕には、綾子さんの質問に答える言葉が見つからなかった。
 ――いやそもそも、質問自体がおかしい。
 自分の息子が悪の秘密結社の首領なんてことをやってるのに、そのことについて言及する様子はない。
 というか、樹里のことについても質問のひとつもしてない綾子さんが、どんな風に納得したのかは理解できない。
 ――そういう人だってことは知ってるけども。
 花屋を営み、華道家として、フラワーデザイナーとして一線で活躍する綾子さんは、女性向け雑誌で「ハイパーレディ」なんて言われて取り上げられることもあるそれなりの有名人だ。
 家ではだらしないこともある綾子さんが、いまみたいに帰って来ることが少ないくらい外に出るようになったのは、父さんが死んでからしばらくしてのこと。
 幼い僕にはわからない、いろんな事件とか悩みがあったらしい。それらを吹っ切った綾子さんは、好き勝手に生きると僕に宣言した。
 僕にも好きに生きろと言う綾子さんは、基本的に僕がやることに口を挟んでくることはない。
 トラブルを起こして学校に呼び出されるくらいじゃ怒ることさえほとんどない綾子さんの許容量は半端じゃないのは知ってたけど、まさかステラートのことにさえ受け入れてしまうなんて思ってもいなかった。
 圧力はあるけど、僕の言葉を受け止めようとしてくれてる綾子さんの目を見つめて、僕は口を開く。
「まだ、はっきりと目的が決まってるわけじゃないんだ。でもたぶん、僕は待っていたんだ。こんな風に、何かが変わるのを」
 すぐ隣にいる樹里に視線を向けると、目があった。わずかに目を細めて、彼女は笑む。
「だから、少なくともやりたいと思う方向がはっきりするまでは、僕はステラートをやってみようと思ってる」
 綾子さんはじっと僕のことを見ていた。
 僕の奥底を覗き込むように向けられていた目は、しばらくして閉じられる。何を考えているのか、わずかに頬をゆるめた後、綾子さんは顔を上げた。
「待っていて得られるなんて、よっぽどの幸運か、ドラマの中でしかあり得ないことよ。遼君は樹里ちゃんって幸運を手に入れたわけだけど。でもやるなら、やり遂げて見せなさい。迷うことも立ち止まることもあるだろうけど、できる限り悔いを残さないよう、遼君なりの全力でやりなさい」
「うん」
 なんでだろう。
 綾子さんは柔らかく笑んでいるのに、どこか疲れているようにも見えた。
 僕にはまだ、綾子さんがどんなことを考えているのか、よくわからなかった。
「ほーんと、最初は遼君が世界征服でも始めるんじゃないかと思ってわくわくしてたのになぁ」
「や、やらないよっ、世界征服なんて。いまは試用期間とかで期間とかいろいろ制限あるし」
「そうなの? その辺の話は樹里ちゃん、もう少し詳しく聞かせてくれる?」
「はい。あまり多くのことを話すことはできないとは思いますが、話せる範囲でなら」
 どんな心境の変化があったのか、幼馴染みの妹でも学校の友達でも、女の子と見ると敵意のようなものを向けていた綾子さんは、樹里に笑みを向けていた。
 ――いや、樹里が人間じゃないからかも知れないけど。
「でもいいじゃない、世界征服。どーせ世界なんて筋がねじ曲がってこんがらがってるんだから、一度ぶっ壊して整理するってのもありだと思うのよ。遼君が新しくつくる世界だったら、ちょっと見てみたかったなぁ。だったら人類抹殺とかやってみる?」
 なんでこう、僕の周りにいる人たちは世界征服とか人類抹殺とか、物騒なことを考える人ばっかりなんだろうか。
 テレビ番組の影響かもしれないし、もしかしたら、ステラートブリッジ計画が縮小されてしまうような、夢を追うことを忘れてしまった世の中だからかもしれないが。
「ま、もし遼君が人類抹殺に乗り出そうとするなら、止めはしないけど――」
 ソファから立ち上がった綾子さんが、楽しそうに、でも凄みのある視線で僕を射抜く。
「全力で敵対することになると思うけどね。私は私のやり方で、だけど」
「うっ……」
 敵に向けられるような視線に思わず一歩退いて身構えてしまった。
「ふふっ。ふたりは夕食は食べたの?」
「夕方に少し」
「わたしは……、その、食事は必要ありませんので」
「食べることはできるの?」
 綾子さんがこんな風に言うときは、それは誘いでなくて決定事項だ。できないことを無理強いするまでのことはしないけど、断るのは難しい。
「食べることはできます」
「ならいいわ。帰ってきたばっかりでまだ何も食べてなかったのよう。簡単なのちょっとつくって来るわ」
 キッチンに向かう綾子さんに、樹里が手を伸ばそうとして、止める。ためらうように戻される手の意味は、たぶん自分がつくると言おうとしたんだと思う。
「あぁ、遼君。明日から時間があるときは樹里ちゃんと一緒に食事をつくりなさい。意味はわかるわね?」
「うん」
 振り返ってそう言った綾子さんの言葉に応えて頷く。
 真意、という意味ではどう考えてるのかはわからなかったけど、とりあえずの意図はわかった。
「それとこれ。食事つくってる間にちゃちゃっと掃除してきて」
 ポケットから無造作に取り出して渡されたのは、小さな鍵。
 手のひらの中のそれがどこの鍵なのか、一瞬考えた後に思いついて、僕は「え?」と声を上げてしまう。
「食事も必要ないなら睡眠も必要ないとか言いそうだけど、四六時中遼君と一緒にいさせるわけにはいかないでしょ?」
 意味がわからない樹里が小首を傾げてるのを一瞬だけ見て、綾子さんは笑む。
「わかった。樹里、一緒に来て」
「はい」
「早めに終わらせて降りてきてね」
 綾子さんの声に送られながら、僕は樹里とともにリビングを出て二階に上がっていった。


 二階の一番奥の部屋を、綾子さんから預かった鍵で開ける。
 若干埃っぽい空気に鼻をくすぐられつつ、僕は扉のすぐ脇にある照明のスイッチを入れた。
「……ここは?」
 掃除機を手に提げながら着いてきていた樹里が、部屋の中を見て疑問の言葉を口にする。
 二階の部屋の中で一番広いその部屋には、窓際の一番奥に木の大きな机がひとつと、壁のほとんどを占領している本棚がひとつあるだけだった。
 それ以外には何もない。
 椅子もなければ、本棚には本の一冊も立ってない。机の中には紙一枚すらない。
「元は父さんの部屋だよ」
 持ち出すのが困難な机と本棚以外に何もないその部屋が、父さんの部屋だった。
 もちろん最初からこんな部屋だったわけじゃない。
「僕もその辺は良く知らないけど、父さんは古い家柄の出身で、亡くなったすぐ後、実家の人が全部持って行っちゃったんだ。本当に何もかも。端末の画像一枚も、残してもらえなかった」
 この部屋は基本的に綾子さんが掃除していて、僕は父さんが亡くなった後は、ほとんど入ったことがない。
 しばらく綾子さんが家を開けてる間に積もってしまった机の埃を、僕は絞った雑巾で拭き始めた。
 元々やりたいことがあって家を出たかったらしい父さんは、華道の先生の元で出会った綾子さんと付き合い初めて、そのまま駆け落ち同然で家を飛び出してしまったと言う話だった。
 その頃には綾子さんのお腹には僕がいて、一瞬すらためらうことがなかったという父さんは、実家をどうにか納得させた後、環境コンサルタントだったかの会社に入社した。流星法の普及に貢献したり、ステラートブリッジ計画に携わったりと、それができる知識と技術を持って、父さんは自分の好きなことを好きなように実現していった。
 好きなことをやっていたにしても、忙しすぎたんだろう。父さんが亡くなったのは、夜の道でハンドル操作を誤っての自損事故。疲れが溜まっていたんだろうなんて言われたそれは、本当にありふれた、良くある事故のひとつだった。
 でも父さんの遺体は家に帰ってくることはなかった。
 結婚するときには話が付いていたらしい。父さんが亡くなった直後、やってきた実家の人は父さんの遺体と持ち物のすべてを、その痕跡ひとつ残らず持っていってしまった。
 葬式を出せなかったのはもちろん、僕は父さんお墓すら知らない。
 無言のままの樹里は、掃除機の電源をコンセントに差し込みながらも、スイッチを入れることはなかった。
「父さんは本当にいつも、楽しそうにしてたよ。世界征服をするわけでも、物を壊してるわけでもなかったけど、世界を自分の夢の色に染めていこうとしてた父さんは、僕よりももっと悪の権化だったのかも知れないね」
 好きなことはやってるけど、父さんとはまた違って、人として壊れてしまってる気もする綾子さんは、元々奥ゆかしい性格をしていた。
 その綾子さんが僕に自分のことを「綾子さん」と呼ばせるようになり、自分の好きなことを好きなようにして生きると、僕にもそうしろと言ったのは、父さんのいた痕跡がなくなって、涙が枯れるほど泣いた後だった。
「僕は父さんのようにはなれないなぁ」
 机の上を拭き終わって本棚を拭き始めた手を止めて、僕は天井を見る。
 綾子さんは父さんの話を基本避けていたし、僕もあまり人に話すことはない。マリエちゃんにも話したことがない父さんの話を最後にしたのは、病気で母親を亡くしてすぐの竜騎だったと思う。
 すごく久しぶりなのに、父さんの話を口に出してみると、胸の中に込み上がってくるもので僕は泣きそうになっていた。
 ステラートをやりたいとは、いまでもあんまり強く思ってない。
 でも何かを成し遂げられるほどの、不可能がないというほどの力を手に入れても、僕は父さんのようにはできないことが、歯がゆかった。
 好きなことをして生きていいと綾子さんに言われてるのに、父さんのように夢を抱くことも、好きなことに突っ走ることもできない自分がやるせなかった。
「本当に、何も残っていないんですか?」
 喉の奥にこみ上げてきた固まりを飲み込んで、僕は柔らかく微笑んでいる樹里に振り返る。
 胸のポケットから携帯端末を取り出し、データの奥の方にある画像を呼び出して表示させた。
「似ていらっしゃいますね」
 クセのないさらさらとした髪が落ちてくるのを手で軽く押さえながら、少し屈んだ樹里が携帯端末に表示した画像を覗き込んでいた。
 真っ直ぐ前を向いて、硬い表情をしてるのに、どこか少し笑っているようにも見える父さんの写真。解像度の低いその写真は、父さんが勤めていた会社の人から送ってもらった、社員証用のものだった。
「でもわたしはやはり、遼平さんによって目覚めたナビゲーターで、遼平さんのためだけにあるのだと、そう思います」
「なんで?」
 端末から顔を上げて、樹里は僕に柔らかい笑みを見せてくれる。
「何故と問われても、実はよくわかりません。キットを芽吹かせたのが遼平さんだからなのか、それ以外の理由があるからなのか、自分でもよくわかりません。でも確かに、わたしは遼平さんのために生まれた存在なのだと、そう感じるんです」
 そんなことを思ったり感じたりするのは、樹里の身体が人間とほとんど同じだからなのか、ナビゲーターとして与えられた性格だからなのか、それともナビゲーターを含むキットそのものがそう考えているのかは、僕にはわからなかった。
 でも僕に向かって優しい笑顔を向けてきてくれる樹里を見て、僕は思う。
 ――トライアルピリオドくらいはパスしたいな。
 そのためにはまだ見つかっていない僕の悪を見つけないといけない。
 樹里が必ず僕の中にあると言ってくれる悪を、僕はしっかりと把握しなくちゃいけなかった。
「僕は僕の悪を見つけよう」
「はいっ」
 樹里の弾んだ声に僕の頬も緩んでいくのを感じる。
 トライアルピリオドは残り四分の三。少ないとは言えないけど、決して充分な残り時間とは思えなかった。

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