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第七部 第一章 サイレントレベリオン
第七章 無色透明(クリアカラー)の喜び 第一章 3
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「ん、大丈夫かな」
姿見に映っているのは、肩甲骨を少し超えてるくらいの髪。
いつもはポニーテールに結っているが、下ろすとけっこう長い。というより、そろそろ美容院で毛先を揃えたい。
見るだけでなく手櫛で髪の乾き具合を確認し終えた夏姫は、住んでいるアパートと同じくらいの広さの部屋を歩き、窓際に置かれたベッドに入った。
やっとこの頃、極貧生活を脱して色使いなどに趣味を持ち込めるようになった、まだ殺風景さのある夏姫の部屋と違い、壁紙やカーテンはもちろん、小物なんかもピンク色やクリーム色で可愛らしく彩られたここは、百合乃の部屋。
百合乃の希望通りに、買い物に行って夕食をつくって、お風呂も頂いていた。
一度アパートに帰って取ってきた柄物のパジャマを着た夏姫は、掛け布団に顔を半ば埋めつつ、息を吐く。
「お邪魔しまぁーす」
見慣れない天井を眺めていると、そう言って夏姫の隣に潜り込んできた、百合乃。
ツインテールにしていても夏姫よりも長い空色の髪を、いまは軽くまとめているだけの彼女は、身体がくっつくほど側に寄ってきて、ニッコリとした笑みを見せた。
――似てる……。でも、違う。
いま夏姫の目の前で笑っているのは、リーリエではなく、百合乃。
似ているどころか外見はリーリエも百合乃もアリシアだったのだから、まったく同一。
幼さが強くて、幼いながらもいろいろなことを背伸びするように考えていたリーリエと違って、話してみると百合乃はリーリエよりももう少し大人びて感じる。
それでも同じ顔をして、同じ笑みを浮かべる百合乃に、ついこの間まで話をして、笑い合ったり言い合いをしていたりしていたリーリエのことが思い浮かんでしまう。
「大丈夫ですか? 夏姫さん。当たってるところ、痛かったりしません?」
「ん、大丈夫だよ」
密着するほどではないが、布団の中で当たっている百合乃の身体には、硬いと感じる部分がある。
細くて骨張っているから、では済まないその硬さに、夏姫は彼女が人間ではないことを意識する。
百合乃の身体はエリキシルドール、アリシア。
ハードアーマーは外しているが、空色の髪だけでなく、大人のそれよりもふた回りほど大きい手や、アライズすることによって見た目には人間に間違えるほどになっていもソフトアーマー越しのフレームの硬さは、人間ではあり得ないものだった。
「じゃあ、電気消しますね」
「うん」
夏姫の考えを読み取っていそうな気がするのに、気にしていない様子の百合乃の声に応えるのと同時に、リモコンで操作もしていないのに部屋の灯りが消えた。
「本当、夏姫さんの料理、美味しかったですよー。おにぃちゃんが夏姫さんを好きになるのもわかります」
「……料理の味で好かれてるの? アタシ」
部屋を暗くしたのに百合乃はまだ眠るつもりはないらしく、話しかけてきた。
「それだけじゃないと思いますけど、料理はおにぃちゃんに対しては強い武器になりますね。あぁ見えて寂しがり屋で、愛に飢えていますから、おにぃちゃん。美味しい家庭料理なんて食べたら、イチコロです」
「んー。確かにそんな感じはするかも」
詳しくは聞いていないが、ある程度話してくれた克樹のこれまでの境遇を考えればそういうところはあると思うし、これまでにそうだと感じることもあった。
暗さに慣れてきた目で百合乃の方を見て見ると、彼女は楽しそうな笑みを口元に浮かべていた。
「素人料理だから、たいしたことはないんだけどね」
「でもたぶん、勉強してますよね?」
「まぁね。バイトしてる喫茶店で基礎的なとこ教えてもらったり、現場見てたりするし」
「料理をつくるような仕事をするつもりなんですか?」
「そこまでは……、考えてないかな? でも料理するのは好きだし、調理師の免許は取ってみようかな、って思ってるから、大学は家政系のとこ進むこと考えてるかなぁ」
「いまよりもさらに料理の腕上げたら、本当におにぃちゃんは夏姫さんを手放せなくなりますねー」
どこまで本気で言っているのか、百合乃は口元に指を添えてクスクスと笑う。
声はこれまで聞いていたリーリエと同じ。
姿も同じで、けれどリーリエほど砕けていない口調で、どこかしら大人びている百合乃。
――やっぱりリーリエは、もういないんだ。
似ていても違う百合乃の様子に、夏姫はリーリエの消失を感じる。
それを強く感じているのは、自分よりも克樹や、いまこうして笑って見せている百合乃の方だろうとも思う。
「結婚、するんですか?」
「――え?」
唐突にそんなことを言われて、夏姫は返す言葉を失う。
「さっきの告白見たら、おにぃちゃんもそうだけど、夏姫さんもそれくらいおにぃちゃんのこと好きみたいなので」
「えぇっと……、まだそこまでは、考えてない、かな? ほっ、ほら、アタシも克樹もまだ高校生だし……。それにあいつ……」
話してる間に冷静になり、さらに沈んでしまった気持ちで、夏姫はぽつりと漏らす。
「けっこう、モテるみたいだし」
「そうなんですよねー。それはあたしもけっこう不思議なんですよ?」
応じてくれた百合乃は、わざとらしく大きなため息を吐く。
「影がある、って言えば聞こえはいいんですけど、正直おにぃちゃんのはただのオタクで、根暗なだけなんですよ。人間不信気味だし、他の人にあんまり興味持たないし。でも、あたしには優しいおにぃちゃんだったから、そういうふと見せる優しさみたいなのに騙される子が多いみたいなんですよー」
「酷い言われようだね、克樹」
「仕方ないですよ。あたしはおにぃちゃんの妹ですし、あたしの友達を何人か、酷い言葉で振ったりしてますから」
「そんなことしたことあるんだ、あいつ……」
エリキシルバトルが始まるまで存在すら知らなかった克樹のことは、最初に戦いを挑む前に少し評判などを聞いて回ったことがあった。
オタクで根暗、エッチな発言で嫌われてる、という評価が大半だったのに、女子の中にはほんの何人か、積極的な行動に出るほどではないにしても気にしてる様子の子がいた。
エリキシルバトルが始まってからは、自分はもちろんのこと、灯理に好かれたり、エイナとデートに行っていたりする。関わり方は夏姫たちとは違うが、平泉夫人もいる。
思い返して見ると、克樹の側には多くはないが常に女の影がある。特定の属性を持った女性をピンポイントで惹きつける要素を持っているのかも知れない、とも思う。
「まぁでも、おにぃちゃんは寂しがり屋で愛に飢えてるクセに、表向きは人を寄せつけませんから、ちょっと強引なくらい積極的な女の子じゃないとダメなんです。それに単純でもあるんで、美味しい食事ってエサを上げていれば、必ずおにぃちゃんは懐きます」
「……確かにね。無理までは言わないけど、つくりに来れる日は、毎日でも来てほしいみたいだし」
「そういうのはちゃんと口に出して言わせて、躾けないとダメです」
「躾けないといけないんだ」
「はい。犬とかと一緒です、そういうところは」
夏姫の中にある克樹の印象と、百合乃が話す彼にギャップがあって、思わずふたりで笑ってしまう。
しばらく笑った後、百合乃は目をつむり、黙り込む。
眠ってしまったわけではなく、笑みを浮かべていた口元が引き結ばれ、歪められ、奥歯を噛みしめてつり上がる。
それから、小さく息を吐くように開けられた可愛らしい唇から、声が発せられた。
「正直、あたしは驚いたんです」
「驚いた?」
「はい。おにぃちゃんが、……笑えるようになっていたことに」
微かに光って見える百合乃の瞳には、複雑な色が浮かんでいた。
悲しいとか寂しいとかのマイナスの感情も、嬉しいとか安心といったプラスの感情も、克樹に向けたものなのか、自分に向けたものか、それ以外なのかもわからなかったが、ない交ぜになっているようだった。
「あたしはできるだけ後腐れがないように、おにぃちゃんとお別れした、つもりです。でも、それでもあたしが死んだ後のおにぃちゃんのことが心配でした。荒れ狂って復讐に走るか、自分の周りを無差別に攻撃してしまうか、逆に無気力になって沈んでいってしまうんではないかと、想像してたんです」
嬉しさと寂しさが一緒になった笑みを口元に浮かべ、百合乃は続ける。
「ちょっと病的で危ない感じで、自意識過剰だとも思いますけど、あたしはそれくらいおにぃちゃんに愛されてると思ってましたし、同じくらいあたしも、おにぃちゃんのことを愛してましたから」
克樹が百合乃のことを深く愛しているのは、ほとんど話してくれていなかったが、夏姫は感じていた。
克樹の回りで嫉妬するような相手がいるとしたら、積極的過ぎる灯理よりも、常に側にいたリーリエよりも、もういなくなってしまっているのに誰よりも深いところに居続ける百合乃だと、思うこともあったくらいに。
「いまのおにぃちゃんがいるのは、ずっと気にかけてくれていたショージ叔父さん、それから敦子さんがいたこと、エリキシルバトルを通して出会ったたくさんの人たちのおかげだと思います。何よりいつもおにぃちゃんと一緒にいてくれたリーリエの存在が大きかったはずです。でも、それよりも何よりも、夏姫さん――」
布団の中で、エリキシルドールの大きな手が、夏姫の手を包む。
「貴女が、おにぃちゃんと出会ってくれたことが、一番だったんだと思います」
「そんな……、アタシなんてたいしたことないよ? ヒルデを直してもらったり、大変なときは助けてもらったり、むしろアタシは克樹に助けてもらってばっかりだよ? それに、克樹は素っ気なさそうに見えるけど、本当は凄く優しくて、頼りになるし……」
「うん、おにぃちゃんはそういう人です。でもそういうとこを出せる相手と、夏姫さんと出会ったことが、いまおにぃちゃんが笑っていられるようになった理由です。リーリエでも、他の誰かでも、おにぃちゃんを笑わせることはできなかったんです。夏姫さんこそが、おにぃちゃんを笑顔にしてくれた人です」
「そう、なのかな?」
「はい。そうです。絶対です。おにぃちゃんが人を好きになれる人になっていて、告白しちゃうくらい好きな人ができて、あたしは本当に嬉しかったんです」
暗くても見える百合乃の笑みに、夏姫は笑みを返す。
――でも……。
笑っている百合乃の瞳に浮かんでいる小さな光に気がついた。
「でも百合乃ちゃん。百合乃ちゃんだって、これか――」
言おうとした言葉を遮るように胸に強く頭を押しつけてきた百合乃に、夏姫は口をつぐんだ。
「言わないでください、夏姫さん。それは、言わないで……」
夏姫の胸に顔を埋めたまま、絞り出すように言う百合乃。
彼女の瞳に浮かんでいたのは、寂しさ。
それから、虚無。
夏姫が彼女に言おうとしたのは、彼女のこれからのこと。未来のこと。
今日みんなで集まって話したのは、これまであったことだけだった。これからどうするかについてはほとんど話さなかった。
克樹も百合乃も、未来の話を避けているように感じた。
「夏姫さんが言いたいことはわかります。わかりますけど、それはたぶん、難しいんです」
「……難しい、の?」
「はい」
百合乃の声は震えていた。
彼女の肩は、声以上に震えている。
人間としてではなく、エリキシルドールのボディに復活した百合乃。
彼女はいま、魔女に狙われている。
いますぐではないかも知れない。けれど確実に、魔女との決着をつけなければならない時が来る。
決着をつけた後の時間。
克樹たちとの未来を、彼女は拒絶していた。
難しいと言った理由はわからない。何かの確信があるのか、はっきりした理由があるのかも夏姫にはわからない。
それでも未来の話を拒絶した百合乃は、夏姫の胸の中で小さな嗚咽を漏らしている。
「あたしは、あたしにできることを、全力でやるだけです」
「ん……。そっか。わかった」
年下の女の子であるはずの百合乃に、翻ることのない決意が籠もって聞こえる言葉を告げられて、夏姫はそう応えることしかできなかった。
だから夏姫は、小さく震えている百合乃の身体を、布団の中で強く抱き締めた。
*
朝食のメニューは味噌汁と焼き鮭、生卵に海苔と、割とスタンダードな内容。
朝から脂ののった鮭はちょっと重めだったが、いい焼き加減のそれは美味しかった。
起きてすぐシャワーを済ませ、急ぎ目に朝食を摂って自宅に帰っていった夏姫は、冬らしく低めの朝日ががっつり差し込んでくるこのLDKにはもういない。
いつもより早めの朝食だったために、僕は時間的にも気分的にもゆっくりとして、ちょうど淹れ終わったコーヒーをカップに注ぎ、牛乳をたっぷり入れてダイニングテーブルに置いた。
僕と、百合乃の分を。
「ありがと、おにぃちゃん」
「うん」
「やっぱり夏姫さんの料理は美味しいねぇ」
「朝のくらいだったら、僕でもできるけどな」
「夏姫さんに習ったから? 手際は敵わないよね」
「……まぁな」
起きてから夏姫に結ってもらった空色のツインテールを揺らして笑み、懐かしい想い出のあるブラウスとミニのスカート姿の百合乃の正面に座って、僕はひと口コーヒーを飲む。
同じようにコーヒーを飲み、僕の言葉を待つように微笑みを浮かべて沈黙した百合乃に、問う。
「これから先、どうするつもりだ?」
「魔女さんと戦うよ」
一瞬のためらいもなく、答えた百合乃。
昨日は話題に出せなかったこと。
でも、いつまでも逃げてはいられないこと。
百合乃は復活した。けれど彼女は人間じゃない。
モルガーナの当面の野望は潰えたと思う。しかしながらたぶん、完全に潰せたわけではないだろう。
僕の、モルガーナへの想いも残ってる。
百合乃の方も、考えてることがあるだろう。
モルガーナとの決着は、必至の状況だ。
――だったとしても……。
わかりきっている状況。
避けることができない対決。
それがわかっていながらも、微笑みを浮かべている百合乃の顔を見ながら、言う。
「僕は百合乃、お前がもう一度死ぬかも知れない戦いに、連れていきたくはない」
「……」
僕の言葉に何も応えず、百合乃は先を促すように口を閉ざしている。
「リーリエは消滅した。百合乃、お前はリーリエの願いによって復活した、あいつの望みそのものだ。できれば僕は、もう二度と戦いたくない。いろいろと問題があるのはわかってる。でも、それでも僕は、どんな方法を使ってでも、どんな状況になるとしても、お前と一緒に静かに暮らしていきたい。……リーリエの叶えたかった願いは、たぶんそういうことだから」
僕は本心からそれを願う。
人間として復活できなかった百合乃。
それでも彼女はいま、僕の目の前に存在している。こうして向き合って、話ができている。
リーリエの願いはたぶん、僕のことを想ってのものだ。僕の幸せを、百合乃の幸せを願って、叶えられたものだ。
だったら僕は、できる限りリーリエの願った通りにしたい。
百合乃と静かに生きていくことが、それに一番近いものだと思える。
嬉しそうに目を見開き、頬を緩ませる百合乃。
感じた幸せを噛みしめるように目を閉じた彼女は、けれど笑みを浮かべていた唇を引き結ぶ。
「それはね、無理なんだよ、おにぃちゃん」
「なんでだ?」
百合乃の答えの理由を、僕は静かな口調で問う。
「あたしの身体は、スフィアドール。そうである限り、あたしは魔女さんの追跡から逃げることはできないんだ。宇宙の果てにでも逃げない限り、魔女さんは追いかけてくると思う」
「……無理、なのか」
「うん。それにね、女神様もたぶん、あたしの存在を許してくれない。女神様の妖精として復活したあたしは、自然にはあり得ないくらいの力がある。いまは女神様はまだ封印されてるけど、それが完全に解けたら、あたしのスフィアはいつでもガラス玉にされちゃう。ずっと静かに暮らすことなんて、絶対無理なんだ」
「そっか……」
悲しそうな笑みを浮かべてる百合乃の返事は、だいたい予想していたものだった。
僕がいくら強く望んだところで、モルガーナやイドゥンに敵うはずもない。魔女と女神の思惑ひとつで、百合乃との時間なんて簡単に壊されてしまう。
僕という存在も、僕の願いも、その程度にちっぽけなものだ。
「それにね、たとえあたしが人間として復活できてたとしても、魔女さんは追いかけてくると思うんだ」
「どういうことだ?」
もし百合乃が完全に人間として復活できていたなら、スフィアの場所を探知できるだろうモルガーナの力は及ばない。人間の身体ならスフィアに貯まるエリクサーもないわけで、追いかけてくる理由も消滅している。
――いや、でもモルガーナは、そうするだろうな。
「魔女さんは、とっても執念深い人だよ。何百年もかけて、自分の願いを叶えようと動いてきたくらいだもん。そんな人が、自分の思ってない形で願いを叶えられないようにされちゃったら、絶対に怨む。生きてる限りはずっと、追いかけてくる」
「だろうな。魔女の力がなくても、あいつは世界にかなり影響を与えられるような奴みたいだし、本当に宇宙の果てまで行かない限りは、逃げ切れないだろうな」
「うん」
椅子から立ち上がった百合乃は、僕の側までやってくる。
座ったままの僕は、彼女から向けられる視線に自分の視線を重ねる。
「すぐに魔女さんが襲ってこないのは、スフィアを全部使えなくしちゃったことで大変なのもあるだろうけど、たぶんいまは準備してるから」
「準備?」
「うん。リーリエがあたしを復活させたことでたくさんのエリクサーがなくなっちゃったけど、それでもエイナさんのスフィアにはかなりの量がある。どうにかしてでももっとエリクサーを集めようと、魔女さんはいろんなことをやろうとしてるんだと思うんだ。本当にもう全部ダメになって、あの人の願いが叶わなくなったんだとしたら、真っ先にあたしとおにぃちゃんを襲いに来ただろうからね」
「それがわかってたのか? 百合乃には」
「あたしには、っていうか、リーリエとエイナさんには、かな? そうなるだろうって予想を、リーリエが残してくれてたの」
僕から視線を外し、深くうつむいた百合乃。
彼女が復活してから、まだ二日と経っていない。
復活を想定してリーリエがたくさんの情報を残してくれていたらしいことはわかる。
でもいまはまだ、本当だったら混乱して、前後不覚になっててもおかしくないくらいのはずだ。
そして何より、一度も直接話したことはなくても、百合乃にとって誰よりも大切な存在であるはずのリーリエを失ってから、そう時間が経っていない。
思うところはいろいろあるだろう。
僕には百合乃の想いのすべてを想像することも、理解してやることもできない。
けれども彼女がいましてほしいことはわかる。百合乃の兄である僕は、知っている。
椅子から立ち上がって、うつむいている百合乃を優しく抱き寄せる。
百合乃は僕の服を強くつかんで、すがりついてくる。
いつもそうだった。
つらいことや悲しいことがあっても、百合乃は泣かない。表情に見せることはあっても、泣くことは滅多になかった。
どうしても堪えられないときは、僕の胸で声を上げずに泣くんだ。
ハードアーマーをつけていなくても、エリキシルドールの決して柔らかくはない、けれども小さく、細い身体を僕は強く抱き締める。
「ゴメンな、百合乃」
どれほどの言葉を尽くしても言い切れないことを、僕はそのひと言に籠めて、言った。
「ごめんなさい、おにぃちゃん」
わずかに震える声で、百合乃も謝ってくる。
強く、強く百合乃のことを抱き締めて、それに応えるようにしがみついてくる百合乃と、しばらくそのままでいた。
どれくらいそうしていただろうか。
身体を離した百合乃は両手で目元を拭った後、顔を上げた。
もう悲しい色も、辛そうな色も浮かんでいない瞳は、揺るぎもしていない。
そんな瞳を見、僕は言った。
「モルガーナと、決着をつけよう」
リーリエと一緒にいたときにはできなかった決断。
後悔をしてももう遅い。
それを理解したいまは、僕は前に進むことを、これから百合乃とやるべきことを、口に出して告げた。
「うん。魔女さんと戦おう」
頷きとともに言った百合乃は、笑んだ。
「大丈夫だよ、おにぃちゃん。あたしはね、おにぃちゃんと一緒なら、無敵だよ」
確かスフィアカップに出場するときにも言われたことがある言葉。
僕は百合乃に、力強く頷きを返していた。
*
――やられたわ。
決して広いとは言えない会議室。
大きな円卓に並べられた椅子のひとつに座り、左手で配られたタブレット端末を見ていたモルガーナは、口を出さずにそう悪態を吐いた。
老齢の域に入っている人物は三分の一ほど、残りはまだ若いと言える年代が多い、会議室に集まっている人々は、スフィアロボティクスの社長を筆頭とする会社幹部たち。
場に合わせて地味な濃紺のタイトスカートのスーツを纏うモルガーナは、ちょうど正面に座っている社長を睨みつけた。
「平泉夫人、生きていたのね……」
隣に座る人にも聞こえないほどの小さな声で、モルガーナは思わずつぶやいていた。
厳しく潜められた表情が多い中で、社長である壮年の男は、表情を引き締め、決意の籠もった目をし、先ほど口にした言葉をもう一度告げた。
「我が社は不要な部門を売却し、コンパクト化した上で、再建を目指します」
克樹たちを倒し損ねてから、十日余りが経っていた。
つまり、すべてのスフィアが使用不能になってから、十日。
客や協力企業からの問い合わせや苦情はいまなお大量に寄せられていたが、対応の初動はひと段落している。
しかしながら何がどうなったわけでもなく、スフィアの停止理由はいまも不明で、調査中となっている。
そんな状況での社長の宣言。
即座に感じたのは、黒真珠の女傑、平泉夫人の影だった。
「まだ大半のことは決定ではなく、草案の段階ですが、手元の資料の通りに多くの部門を売却、ないし独立させ、コンパクト化を図ります」
資料に合わせて行われる社長の説明に、悩ましげなうめきを上げる者はいても、反論の言葉は上がらない。
この十日、スフィアを調査していた技術部門は、二度とスフィアの機能を復活させることはできず、突然機能が停止した理由は不明、という中間報告を提出している。
実質、スフィアドールという、ロボット業界の中でも一分野でしかなく、しかし現在最大の勢力にまで成長していた市場の壊滅が宣言されていた。
けれどまだ十日。
何かを結論し、次のことを決め、動き出すには時期尚早だ。
それなのにすでに売却する部門、施設などの草案ができている。その後どうしていくのかについて決定ではないにしろ、計画されている。
その影に平泉夫人を感じずにはいられなかった。
――あの人ならば、この短い間にこれだけのことを実現可能な計画として立案できる人脈を、揃えられてもおかしくはない。
スフィアロボティクスには、本業にはほとんど関係ない部門や子会社がたくさんある。
それらは押さえておきたい特許や技術、経験のためであったり、今後事業を展開していく可能性がある分野への先行投資であったりした。
そうしたものを収容しても問題ないくらいに、スフィアロボティクスには勢いがあった。
スフィアが停止したいま、それらを切り離さなければならないのはわかるが、社長の提示した資料は、十日で検討したにしてはあり得ないほどに精密なもの。
――いや、あの人のことだから、この状況すら想定して、すべてを進めていたのかも知れないわね。
急いだ様子のあるクリーブのことを考えると、そうであると思えた。
克樹たちを取り逃がした日から今日まで、エリクサーをかき集めるために様々な計画と下準備を進めてきた。終わりを迎えたスフィアロボティクスのことなど気にしていられないほどに。
その隙を突かれた形だった。
――まさか、生き残ってるばかりか、刃向かってくるなんてね。
確認は取っていない。けれど、平泉夫人の生存は確実。
死ぬ以外の未来はなかったはずの彼女に何があったのかはわからない。
しかしいま、彼女が生きて、死にかけたにも関わらず敵として立ち塞がっていることだけは、確信していた。
資料の説明を続けながら、眉を顰めたモルガーナに、社長は厳しい視線を向けてきていた。
――いったい、いつから彼と接触していたのか。
現スフィアロボティクス社長は、モルガーナ自身が育ててきた人物ではない。
社長に据えるほんの数年前から、必要な経験を積むよう手をかけてきてはいた。スフィアロボティクスの社長ができるほどに有能な人物であるからこそ、手間暇かけた。
経営者としては有能で、業務にも理解がある彼はしかし、技術的にはまったくの無能と言っていい。
天堂翔機のように経営者としても有能で、天才と呼べるほどの技術者は、歴史的にも希少。それに計画が最終段階が近づいていたその時期、現社長のような人物の方がコントロールしやすいと思われた。
――けれど、違ったようね。
「今後、我が社はヒューマニティパートナーテックと協力し、スフィアドール市場の建て直しを図る」
その社長の発言に、小さいながらも幹部たちの間でどよめきが起こった。
それもそのはず、市場における協力企業のひとつであったHPT社は、クリーブの発表により、これまであり得なかった初めての競合企業となった。市場で初めての敵だった。
社長の発言に幹部たちが動揺するのは当然のことだ。
HPT社との協力の要因になったであろうクリーブ。
そんなものはモルガーナの計画の中で想定外であり、スフィアの代替となる技術の開発は不可能ではないことはわかっていたが、あと半世紀は出てくるはずのないものだった。
それがいま性能が低いとは言え発売にまで至ったのは、音山彰次という人間を見誤っていたから。
才能があることはわかっていながら、彼への監視を怠っていたから。
自分の失態に、モルガーナは奥歯を噛みしめる。
「いま説明した今後の改変については主要株主への説明と承認が必要ですが、この方向で会社が変化していくことは、決定事項として考えておいていただきたい」
説明を終えた社長の締めの言葉に、会議室内には大きなため息が方々から聞こえてきた。
――すべては、平泉夫人を殺しきれなかった私の失敗ね。
それこそが今回スフィアロボティクスに起ころうとしている変革の原因。
彼女の息の根を完全に止めていれば、スフィアの停止によりある程度のことは起こっても、ここまでのことは起こらなかったはず。想定外の事態にまでズレることはなかったはず。
モルガーナは小さく息を吐き、歯を食いしばる。
――しかしいまは、もう終わった会社や業界のことよりも、エリクサー収集の方が重要よ。
スフィアロボティクスの重要性は、予定よりも多少早まりはしたが、スフィアの停止によりほぼゼロになった。
いまスフィアロボティクス総本社ビルが建っている埋め立て地の造成が始まる前に移設した封印の神殿は、そう簡単には移動できないが、イドゥンの封印が遠くなく解けることを考えれば大きな問題とはならない。
それよりも、いまは可能な限り、多くのエリクサーを集めるための方策を進めることの方が重要だった。
会社にとっては重要で、しかしモルガーナにとっては茶番のような会議室の中を見渡し、幹部たちの暗い顔を眺める。
まだ席に座らず立っている社長に目を向けると、彼は射貫くような視線を向けてきていた。
「会社のコンパクトに伴い、役員についても大幅に減らすことになります。会社の分割にも関係するため、正式には中期計画が決定する際の発表となります。しかしながら――」
発言を再開した社長の視線に気づき、会議室全員の視線がモルガーナへと集まる。
「技術顧問。スフィアの開発に深く関わっている貴女については、年内を以て解任といたします」
――全員、この場で殺してやろうかしら。
社長のその言葉に、モルガーナは一瞬そんなことを思いついた。
エイナを呼べば、それは容易く達成される。
「あまり時間がないのはわかりますが、年内一杯で、顧問室を明け渡していただきたい」
言われると同時に、モルガーナは立ち上がった。
睨みつけるわけではなく、真っ直ぐな視線を向けてきている社長。
それを見つめ返すモルガーナは、くるりと踵を返した。
――これが、貴女の私への反撃なのね。
重要性を失ったスフィアロボティクスにもたらされた変革。
平泉夫人からモルガーナへの反撃であるそれは、実質的な効果を求める意味よりも、精神的な攻撃を狙っての意味合いが強いものだろう。
――でもいま重要なのは、エリクサーを集めることなのよ。
この場で全員を始末することは容易い。しかし、そうすることに意味はなく、計画に対する悪影響があるばかりだ。
いまはまだ、状況を荒立てる段階にはない。
社長と、そして幹部たちの視線を背中に受けながら、モルガーナは無言のまま会議室の扉を開け、廊下へと出た。
――私は、必ず世界との同化を達成する。
スフィアロボティクスでの活動は、すでに終わっている。
けれども平泉夫人に、人間に刃向かわれるのは、屈辱だった。
それでもいまやるべきことは、感情に任せて行動することではない。
決意を胸に、モルガーナはいまやるべきことを行うため、高らかに靴音を立てて廊下を歩く。
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新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
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