神水戦姫の妖精譚

小峰史乃

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第六部 第三章 レミニセンス

第六部 暗黒色(ダークブラック)の嘆き 第三章 2

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          * 2 *


 おそらく正六面体をしているだろう、黒い部屋の中でもひときわ黒い、まるで古墳やピラミッドの玄室を思わせる中央の石の塊に、イドゥンは近づいていく。
 大きさにして四メートル四方かそれくらい。近くから見る限り傷ひとつなく、巨大なサイコロにしか見えないそれは、空中を滑るようにイドゥンが近づくと、裂け目ができて、扉が開かれた。中に空間があるらしい。
「いったい、貴女はなんでそんな姿をしているんだ?」
「ふふんっ。さてな」
 生前の百合乃の姿をしているイドゥンにそう訊くが、意地悪そうに唇の端をつり上げるだけで、答えようとはしない。
 姿は百合乃そのものだが、やっぱり彼女は百合乃には思えない。
 気を抜けば膝を屈して、平伏してしまいそうな、そんな強い雰囲気を発している。
 できるだけ見ないようにしているのに、僕の心も奪い取っていきそうになる彼女のそれは、暴力的とも言えるカリスマ性。視界にいなくても彼女の存在を感じるだけですべてを委ねたくなるくらい、まさに神としか思えない圧倒的な気配を周囲に放っていた。
「わらわの神気に当てられて、それだけ我慢できる者も珍しい。さて、まずはこれを見てもらおう」
 言ってイドゥンが示したのは、石棺の中の広いスペースの中で、唯一置かれている、台。
 イメージさせるものがあるとしたら、アイランドキッチンの中央の台。
 それでなければ、生け贄を寝かせるための、祭壇。
 テーブルにしては低めで、ベッドにしては高いくらいの黒い台は、天板が左右にゆっくりとスライドして開き、中から何かがせり上がってきた。
「……これは? え?」
 中から現れたのは、そこにあるのが微かな光で見えているのに、存在していないかというほど透明度の高い、水晶玉。
 それがただの水晶玉でないことは、ひと目見て理解した。
 ――これが、イドゥンだ。
 水晶玉の隣で、浮き上がっていた身体を台の上に座らせた、百合乃の姿をしたイドゥン。
 それよりも強い存在感を、水晶玉から感じていた。
 たぶん水晶玉がイドゥンの本体で、百合乃の姿をした方は、分身とか、アバターとか、そういう感じの存在だと思われた。
「こっちが、貴女の本体?」
「本体というのとも違うな。それは近くにあるが、わらわの本体と呼べるものはもっと大きなものよ。わらわがこの世界に降臨するための、憑代(よりしろ)とでも言うべきもの、かね。こちらの、お前の妹の姿をした方は、お前と話をするためにつくった分け身、分神のようなものだ。さて、あまり時間に余裕があるわけではない。早めに話をしよう」
 百合乃の姿をしながら、百合乃とは似ても似つかない意地悪そうな笑みを見せるイドゥンは、勝手に話を始めた。
「これはいまはもう誰の記憶にも残っていない、遠い遠い昔。とある巫女の物語」
「……巫女?」
「あぁ、そうだ。いまは魔女と呼ばれている、哀れな女の物語」
 ニヤニヤとしたイドゥンの笑みに、僕はこれから始まる話が、モルガーナのものであることを理解する。
 魔女と呼ばれている彼女が巫女というのはあんまり繋がらないが、目の前にいる女神と、何か関連があるのかも知れない。
「遥か昔、この星のある地域には、世界の有り様を感じ、世界と交信する能力を持った、覡(かんなぎ)の一族がいた。人が文字を得る前から世界の相(そう)たる神を崇めている一族は、神の存在を感じながらも、一度もそれと対面したことはなかった。人が文字を得、己が生み出した新たな神を崇めるようになっても一族は変わらず、新たな神を信じる者たちによって排斥され、いつしか一族の数は減っていった。そうしてあるとき、一族最後のひとりとして生まれた女児は、神と対面することを強い願いとして抱いていた」
「……」
 世界を感じる、世界の相、神を崇める、といまひとつ繋がらない単語たち。
 関連性は感じるのに、バラバラな言葉に僕は眉を顰めていた。
「一族最後の巫女となった女児は成長し、たったひとりとなっても森の中にひっそりと住み、近隣の村や町と薄く交流しながら、世界と交信するための研究と実験をして過ごし、生活していた。彼女は巫女としての能力に優れ、普通の人間には得られない多くの知識を得ていた。才能にも恵まれた彼女は、自分の持てるものを人々に施し、多くの者たちから信任され、笑顔を振り撒きながら生きていた」
 いまの、まさに魔女という雰囲気からは想像もできない姿だった。
 その時代、まだ少女と呼べるくらいだったろうモルガーナは、そうした人間だったのかも知れない、としか思えない。あまりにも僕の知る魔女とはかけ離れた人物像だ。
「しかしながらあるとき、その地域に猛威を振るう疫病が発生した。巫女は人々に請われ、病を鎮めるために奔走したが、いくつもの村を荒れ地に変えるほどの勢いに、たったひとりの力では太刀打ちできなかった。そして近隣の人間の数が半分を割った辺りで、彼らは疫病の原因を森に住む不可思議な女に求めるようになった」
「……魔女狩り」
「お主たちの歴史に語れる魔女狩りとは、時代も地域も違うであろうが、似たようなものだな。いつの時代も、それがいまの時代であっても、不思議なこと、自分たちの力では及ばぬことに対し、手近なところに理由を求めるのは人間の常だよ。人間という、儚く、か弱い存在にとってはな」
 魔女狩りと言えば、中世後期から近代辺り、四〇〇から六〇〇年前くらいに行われていたものだったはずだ。もし異端審問とかにまで遡るなら、確か八〇〇年だかそれくらい昔の話だ。
 イドゥンが言うように、歴史に語られるものとは違うとしても、たぶんそうした時代に、モルガーナが生まれたということだけは確かだろう。
 数百どころか、もしかしたらモルガーナは、一〇〇〇年を超えて生きてきたのかも知れない。
「逃げることもできず捕らえられた巫女は、街の広場で火あぶりに処されることとなった。巫女は何故こんなことになったのかと悲しみ、ずっと願い続けていた神にまみえる願いが叶わなくなることを嘆いた。そして疫病の原因を理解せず、自分にそれを求めた人々を怨んだ。そして足下から焼かれ、燻され、死んだ」
「死んだ?!」
「あぁ、巫女は死んだ。その身体は焼け、人としての生命を保つことができないほどになった」
 僕の問いに、イドゥンはニヤつく笑みで答える。
 死んだはずのモルガーナは、僕が見る限り生きているように見える。
 一度死んだ人間が生き返る。
 それはつまり、生命の奇跡、エリクサーが使われたということだろうか。
「ただし、死に際に彼女は自分の命を賭して、己が願いを叶える最期の術を使った。願いは正しく叶えられ、わらわが降臨した」
 イドゥンの語ることが真実かどうかは、いまひとつわからない。
 真実だったと仮定すれば、モルガーナのことがだいたいわかる。いま、僕の目の前にいるイドゥンがここにいる理由も。
 でも一番わからないことがある。
 僕はそれをイドゥンにぶつけるよりも先に、彼女の方から問われた。
「神とは、いったいなんだと思う?」
「……それは、よく、わかりません」
「ふふんっ。まぁ、巫女でもなければ世界を感じることはできず、神というものへの理解がなくても致し方がない」
 得意げに笑うイドゥンは、僕に説明してくれる。
「神には主に二種類いる。ひとつはこの世界の中に生まれ、世界に干渉し得る力を、世界の中だけの限定的な力を持った、限定神。さほどの数はおらぬから出会うことも少なかろうが、魔女如きは限定神とは呼べぬな。お前の知る言葉で表現するなら、仙人といった、人間から神に近づいた、生命の限界を遥かに超えた力を持つ者のことを呼ぶ。それからもうひとつは世界神。世界神は世界そのものだよ」
「世界そのもの?」
「あぁ。世界神とは、この世界自体だ」
 限定神の方は、仙人と言われれば何となくイメージできる。
 モルガーナは、僕は彼女が何らかの力を使うところを見たことがあるわけじゃないからよくわからないが。
 世界神の方はまったくイメージが湧かない。
 世界そのものが神と言われても、僕には理解できない。
「そうだな。世界とはひとつのサイコロだと思えばいい」
 言いながら、百合乃の姿をした分神は、水晶玉を撫でるように触れ、それから僕に手の平を見せる。
 そこには透明な正六面体のサイコロが現れていた。
 ご丁寧に、見ている間に各面に数字の彫り込みが現れ、それぞれに違う色がついていく。
「世界とはその内側にあって唯一のもの。これ自体が神、世界神。ただし人間という、神に比べるべくもない矮小な存在には、世界そのものを感じ取ることはできない。覡の一族は普通の人間よりも世界を感じる力は強いが、それでもわずかばかりの差。世界の内側に生まれた、ほんのわずかな要素で構成される人間と、世界そのものである神とは存在の段階が、言うなれば存在の次元が大きく違うのだから、仕方のないことだ」
 さっきよりもまだ少し理解できるようなことを言ったイドゥンは、手の平のサイコロを台の上に放り投げる。
 思いの他ころころと転がり、6と彫り込まれた面を上にして、水晶のサイコロは止まった。
「人間を二次元の存在、平面しか見ることのできない存在だとするなら、人間にとって感知できるのは、立体である神の一面、たったひとつの相だけ。違う面を見ても別の神と認識してしまう。しかしながら、神とはこのサイコロのすべて、世界そのものであるから、別の神として見えていても、認識が違うだけで唯一絶対の存在。人間程度の存在には神のすべてを認識することはできない」
 なんとなくだけど、イドゥンの言葉の意味が理解できてきた。
 ひとりの人間が扱う、複数のアバターにも近いかも知れない。
 複数の名前と姿を持っていても、その正体はひとりだけ。ネットを通してしか認識することができないアバターは、正体である本人を知らない限り、複数の存在として認識できてしまう。
「本来、人間には世界のすべてを認識する術はない。世界が人間に認識されるためには、相を持つ必要がある。それが世界神。唯一絶対の存在でありながら、見せている面、持っている相によって複数の存在として認識されるもの」
「……だったら貴女が、イドゥンという、生命のリンゴの樹を管理する神としての相を持ったのは、なんでなんですか?」
「それが、願いであったから」
 僕の問いにそう答えたイドゥン。
 たぶんそれがこの話の核心。
 一度死に、自分の命を使って世界神の相を降臨させたモルガーナ。降臨した神がイドゥンの相を持つのは、彼女が関与しているのは明らかだった。
「願い?」
「そうだ。巫女は死に際して、生存を求めた。もっと生きることを望んだ。だからわらわは、生命の神としての相を持って降臨した。わらわのイドゥンという名前には意味がない。あの魔女が名づけただけで、世界そのものであるわらわには、本来名前などないし、一時的にしか存在できない相に名前など、たいした意味はない」
 小柄な身体で僕のことを蔑むような視線を向けてくるイドゥンに、僕はひとつの疑問を覚えていた。
「巫女は、モルガーナは一度死んだんだろう? それに彼女が願ったのは、神の降臨であって、生存は死に際に使った術とは別の願いであるはず。なんで、あいつはいま生きているんだ?」
「その通りだ、音山克樹。巫女は己が命を使い、願いを叶えた。それによりわらわが降臨した。わらわがイドゥンの相を持ち、あれがいまも生きているのは、わらわの降臨の余波に過ぎない」
「余波?」
「あぁ、そうだ。――お主は、エリクサーを何だと思う?」
「リーリエからは、世界に奇跡を起こすための権限だと聞いてるけど……」
「それも間違いではないが、エリクサーとあれが呼び始めたそれが、いったいどんなものかという、根本的なことだ」
「どういう意味だ?」
 イドゥンの言葉はいまひとつわかりにくい。
 言葉には複数の意味を含み、口にしたことには必ず裏があるような、そんな感じがある。
 これまでに語られたことでしか考えられない僕に、まだ語っていないことを質問し、弄んでいるように思えた。
「エリクサーとは、言うなれば世界神の体液だ。わらわがこの世界に降臨して相を持ったとき――、わらわが世界の内側に生まれたとき、あふれ出た羊水は一度死して肉体を失った巫女の身体の残り滓に降りかかった。そして巫女であった女の身体は、魔女として再生した」
 ――そうか。そういうことか。
 僕はモルガーナが、一度自分の望む願いを叶えたんだと思っていた。
 それは違っていたんだ。
 疫病の原因として焼かれ、死にたくないと思った彼女は、イドゥンの降臨によって溢れたエリクサーを浴びて再生した。一番に願っていた神との対面は果たされ、生存は、いまの不老の身体は能動的な願いじゃなかったんだ。
「くくくっ」
 そんなことを考えてイドゥンから視線を逸らしていた僕は、何かを思い出すように含み笑いを漏らす彼女を見る。
「再生した魔女が、一番最初にやったことはなんだか、わかるか?」
「一番最初にやったこと?」
「あぁ。奴はな、再生直後の溢れる力を使い、その場のすべての人間の命を奪った。己が処刑に立ち会った者たちを根絶やしにしたのだ。くくくくっ」
 それのどこに笑う要素があるのかわからないが、イドゥンは抑えきれないかのように嗤う。
 ――恨みで皆殺し、か。
 モルガーナのそうした部分は、少しだけだけどわかる気がした。
 僕もまた、百合乃を殺した火傷の男を殺すために、エリキシルバトルに参加しているのだから。
 そんなモルガーナに対して、僕には理解できないことがある。
 ――モルガーナのいまの願いは、なんだ?
 ずっと願っていた神との対面は果たされてる。死んだはずなのに、再生もしている。いまの彼女の願いは、わからなかった。
 天堂翔機の話していた、不滅というのはあるけれど、すでに願いを叶え終えているはずの魔女が、どうしてそれを願うのかまではわからない。
 だから僕は、イドゥンにそれを訊いてみる。
「モルガーナは再生して、貴女に会うという願いは叶えてるんだろう? だったらいまのあいつは、何のために生きてるんだ?」
「それはすでに奴の愛人から話を聞いているだろう?」
「不滅かも知れない、とは聞いてるけど、モルガーナの願いは限定神にでもなること、なのか?」
「星よりも大きな力を持つ限定神でも、この世界に生まれた存在に過ぎない。不滅とはほど遠いよ。限定神程度であれば、あの魔女ならばあと数万年も頑張ればなれるだろうがな」
 まだ笑いが収まらないらしいイドゥンだったが、唇を歪めて僕のことを見つめてくる。
「不滅って、なんだ?」
「そんなこと、問わずとも見ているではないか」
「見ている?」
「あぁ。いまお主は、不滅の存在を目の前にしているではないか」
 さっきとは違う、ニヤニヤした笑みを浮かべているイドゥン。
 彼女は世界神。世界がイドゥンという相を持った存在。
 モルガーナの願いが世界神になることだったとしても、それは不可能に思えた。何しろ世界神とは、たったひとつの存在なのだから。
「世界神は、唯一で絶対の存在なんだろう? モルガーナがいくら望んでも、なれるわけがない」
「そうでもないさ。人間に過ぎないあれには大それた願いだが、絶対に叶わないものではない」
 何がそれほどまで彼女を楽しませるのか。
 本当に楽しそうに、でも百合乃が見せる無邪気なものではなく、生命の女神でありながら、黒さを感じる笑みを見せるイドゥンは、言った。
「魔女の願いは、わらわとの、つまり世界との同化、なのだからな」


            *


 ――どうしてこうなった?
 モルガーナの目の前では、事前に装備していた武器をすべて失ったエイナが、握りしめた両の拳を構え、リーリエと対峙している。
 それを見たリーリエもまた、長刀を握り潰して消し、手刀を構えた。
 エイナとリーリエの力の差は、圧倒的だった。
 十分足らずの時間で、リーリエはエイナの持っていたすべての武器を破壊した。
 人間の目では追いきれないほどの速度で展開された激しい戦いの中で、エイナはリーリエのハードアーマーにわずかに傷をつけただけ。
 対するリーリエは、積極的な攻撃にはいまのところ出てきていないためエイナはほぼ無傷だった。しかしモルガーナの目から見ても、勝ち目のある戦いには思えなかった。
 ――どうして、こうなった?
 焦りを表に出さないよう努力しながら、モルガーナはその言葉を頭の中で繰り返す。
 リーリエがフォースステージに昇ってから、まだ一日程度しか経過していない。
 サードステージまでとは違い、存在がイドゥンに近づくフォースステージは、力が大きく増すことは過去の実験から推測できていた。
 けれども一気に増した力をこなせるようになるためには、長い時間が必要だと予想していた。
 実際、リーリエが積極的な攻撃をしてきていないのは、エイナに対する攻撃をためらい、全力を出していないと言うよりも、自分の力を測りかねて力を出し切れていない様子がある。
 しかしいま見た戦いの中で、リーリエはスフィアドールの、エリキシルドールの持つ力を大幅に超え、フォースステージで得た力を予想よりも使いこなしていた。
 サードステージのエイナに、勝つ方法などなかった。
 ――このままでは、あの出来損ないに私のエリクサーが……。
 エイナが負ければ、スフィアに貯まっているエリクサーは、リーリエに渡る。
 フォースステージの力を予想以上に使いこなしているとしたら、リーリエはエリクサーの使い方も、――願いの叶え方も知っているかも知れない。
 ――そうであれば、私の願いが!
 ギシリ、と音を立てて奥歯を噛みしめたモルガーナは、エイナに向かって叫ぶ。
「すべてを出し切って戦いなさい! エイナ!!」
 リーリエと静かに睨み合っていたエイナは、その言葉にわずかに振り向き、一瞬置いて頷きを返してきた。
 ――これでもし、勝てなかったら……。
 眉根に、鼻の頭にシワを寄せるモルガーナは、この先の可能性に唇を強く噛んでいた。
 拳の構えを解いたエイナは、体勢を低くしてリーリエに突っ込む。
 地に擦るほど前屈みになった彼女は、両手でヘリポートの表面を撫でる。
 リーリエと接敵した彼女が両手に持っていたのは、拳銃。
 予めヘリポートに仕込んでおいたそれを、ほとんど押し当てる距離でエイナはリーリエに発射する。
 連続した銃声。
 二丁の拳銃に仕込んだ貫通力の高い弾丸は、よほど装甲の厚いドールでもない限り、ハードアーマーを貫き、ダメージを与える。
「くっ」
 銃声が止んで見えたのは、リーリエによって銃身を払われているエイナ。
 銃による攻撃は不意打ちであったはずなのに、リーリエはそれにも完全に対応していた。
「エイナ!」
 驚いて固まっているらしいエイナに鋭い声をかけると、復活した彼女は大きく距離を取る。
 そのまま両手を床に着き、リーリエを睨みつけた。
 途端にリーリエを囲む位置にせり上がってきたもの。
 台座のようなそれから発射されたのは、ネット。
 一〇基の発射装置から打ち出されたそれは、すべてがコントロールウィップ。空色のドールを隙間なく囲み、絡みついていく。
 その仕込みは、それだけに留まらない。
 視界を奪ったと同時に、四方八方から加えられた、機関銃による銃撃。
 ヘリポートの床の外、箱や建物に隠して設置しておいた対物用の機関銃は八基。
 自動供給される弾帯のひとつを使い切るまで、ネットに包まれたフォースステージのドールに絶え間なく銃撃を加える。
 たとえ車両であっても、戦車ほどの装甲がなければ、穴だらけどころか、原型を留めなくなるほどの攻撃。
 ひとしきり続いた銃声が止み、ヘリポートの中央に残されたのは、大口径の弾丸によって引き裂かれた、ぼろ布のようになったネット。
 ネットはあくまで目くらまし。
 それに気を取られている間に機関銃による斉射で、リーリエを仕留める。
 武器による白兵戦、拳と脚による格闘戦、あってもナイフや針程度の投擲武器による遠距離戦程度で、本格的な銃撃戦の経験のないリーリエには、必殺の攻撃となるはずだった。
 モルガーナがリーリエをここに喚びだしたのは、直接戦闘では勝てなかった場合、最終戦場を想定し、事前に仕込んでいたこれらの仕掛けを使うため。
 エリキシルバトルは正々堂々とした戦いなどではなく、ソーサラーを直接攻撃して奪い取ろうと、買い取ろうと、切なる願いを持つ者が行動してのことならば問題はない。
 そう、ルールをつくったのは、モルガーナ自身なのだから。
 まだエリキシルソーサラーはリーリエの他にも残っていたが、エイナの敵ではない。
 いまリーリエを仕留めたことで、実質的な決着はついたと言えた。
 動かないネットの塊を見て、モルガーナは安堵の息を吐き出した、そのときだった。
 ネットを一閃する光が走った。
 そこから立ち上がったのは、空色のハードアーマーに傷ひとつつけていない、リーリエ。
 不機嫌そうな表情を向けてきた彼女に、頬を引きつらせつつモルガーナは叫ぶ。
「仕留めなさい!」
「はいっ」
 両手を床についたままのエイナの答えと同時に、六基の台座がせり上がる。
 仕込まれているのは散弾銃。
 エリキシルドールをそれだけで破壊できるほどではないが、広範囲に広がる散弾は、高速で動こうとも必ずやダメージを与える、はずだった。
 放たれたのは、六条の光。
 くるりと身体を回転させるリーリエから放たれた光は、散弾銃を仕込んだ台座に命中していた。
「小細工は全部把握してるから無駄だよ、モルガーナ」
 リーリエの静かな言葉に、モルガーナは息を詰まらせる。
「やりなさい、エイナ!!」
「ダメです……。機関銃も動きません。――すみません。わたしは、リーリエさんに、勝てません」
 仕掛けをコントロールするための接点から手を離し、エイナはうつむきながら立ち上がった。
 ――どうしてこうなった?
 計画はすべて、順調に進んでいるはずだった。
 たとえ最終勝利者がエイナでなくても、エリキシルバトルの終結と同時に充分な量のエリクサーが手に入るはずだった。
 ほとんどのエリキシルスフィアはセカンドステージ止りで、一部がやっとサードステージに昇る程度と予測していた。
 多少のエラーがあっても許容範囲で、決着が少しばかり違っても、予定した通りの結果が得られるはずだった。
 フォースステージだけは、完全に予想外の、修正しようのない問題。
「こんなことになるなんて……」
 両手で口を覆い、モルガーナは小さくつぶやいた。
 絶望。
 いまの彼女の身体を支配しているのは、そうとしか言いようのない感覚だった。
 それはかつて、生まれ育った場所で感じたものと同じ、言い表せない感情。釈明も届かず、逃げ出すこともできない、あのとき感じた深い嘆き。
 ――私は、ただひとつの願いを叶えたかっただけなのに……。
 そのために、長い時間を生きてきた。
 そのためだけに、すべてのことを仕込んできた。
 もうやり直しは利かず、タイムリミットも迫ったいま、モルガーナはただ、深い嘆きに涙すら出てこなくなっていた。
 ただ一体の、出来損ないの精霊に、積み重ねてきたすべてを、無駄にされようとしていた。
 ――それだけは認められない!
 心の中で叫んだモルガーナは、ひとつのことを決意する。
「下がりなさい、エイナ」
「ですが、まだ……」
「下がりなさいと言っている!」
 勝てない戦いを続けようとするエイナに強く言い、自分の元まで下がらせる。
「まだ決着はついてないよ、モルガーナ。邪魔しないで」
 太刀を取り出してゆっくりと近づいてくるリーリエを、モルガーナは睨めつける。
「貴女のような出来損ないの精霊如きに、エリクサーを渡すわけにはいかないのよ」
 言ってモルガーナは、自分の側まで下がってきたエイナの頭を鷲づかみにする。
「な、何を?!」
「そのままにしていなさい」
 振り向こうとするエイナを握力で黙らせ、モルガーナは彼女の頭部に内蔵されているエリキシルスフィアと、自分の意識を接続する。
「何するつもり?! モルガーナ! ……エイナ、いますぐ逃げて!!」
 何をするかに気づいたらしいリーリエが、太刀を両手に持って床を蹴ったときにはもう遅い。
「やめて! モルガーナ!! それだけはっ! それだけは貴女でも反則だよ!!」
「――集まれ」
 すぐ側まで接近してきたリーリエの叫びを無視し、モルガーナはエイナのスフィアを媒介とし、唱えた。
 その瞬間、エイナの身体が光り始めた。
 圧力を感じるほどにも強い光にリーリエは足を止め、叫ぶ。
「エイナ? エイナ?! ――なんで? モルガーナ! これは貴女が始めた戦いでしょう?!」
「戦いなどどうでもいい。私は私の願いを叶えるために、全力を尽くす。それだけよ」
 光を放つエイナの身体に、さらに光が集まる。
 建物の中からにじみ出、空を飛んで集まってくる光が、次々とエイナの身体に飛び込み、彼女の身体の光はどんどん強くなっていく。
「まだ……、まだわたしは……」
 エイナの微かな声も消え、辺りは昼間のそれよりも強い光に包まれた。


            *


「こいつぁ才能って奴なのかね」
 リーリエから送れてきた分子構造図から、不完全ながらもすでに初期の開発サンプルの製造が始まっていた。
 いまできあがっているのは高分子のひと塊といったもので、人工筋として使えるものではない。これから充分なサイズと形状のものの製造に入るかどうかを検討するための検査に入るが、その初期サンプルの検査速報が届いていた。
 関西にあるスフィアロボティクス支社の近く、通勤のために借りている部屋の二〇畳ほどのLDKで、黒いヘルメット型スマートギアを被り、ソファに身体を預けている猛臣は、届いたばかりのそれを見ていた。
 ディスプレイ内に表示した数字ばかりのデータは、驚くべき結果となっている。
 リーリエの構造図が製造可能だっただけでも驚きだが、開発が終了しているGラインの人工筋に比べ、二割は数字が高く、まだ人工筋サイズまで大きくしてからでしかわからないが、小さな手直しで更に伸び代がありそうだった。
 猛臣でも年単位でかかり、手こずっている人工筋の開発を、リーリエは公開済みの古い情報と、バトルによって得られた特性からの想像でやってのけた。
 これは彼女の才能と言っても過言ではない。
 猛臣が嫉妬してしまいそうなほどに、それは凄まじいものだった。
 Gラインの開発が終わった後に猛臣が参加する予定だったのは、まだ先と言ってもそう遠くはない第七世代スフィア向けの、ネクストラインの開発。
 リーリエのもたらした情報は、次世代コアを待たずして、Gラインの人工筋を旧式化してしまいそうな性能を持っている。
 もしこれを採用するとしたら、開発期間は一年以上短縮できるだろう。それによる費用の圧縮は、猛臣が直接触れる事柄ではないが、かなりの額になることは確かだ。
「ハンドユニットだけじゃ、釣りには足りなかったな」
 要求された人工筋とサブフレームに、手製マニピュレーターユニットを渡したが、そんなものでは対価に大幅に足りないほど、リーリエのもたらしたものは凄かった。
 ――だが、リーリエの奴は何を考えてるんだ?
 不精ヒゲの生えた顎をさすりながら、猛臣はスマートギアの透過型グラスの内側で目を細める。
 Gラインの人工筋を直接参考にしていないのであれば、リーリエの構造図はオリジナルのものとして、克樹の叔父が勤めるHPT辺りに持ち込んでも良かったはずだ。
 得られる利益はそちらの方が桁違いに大きくなる。
 確かにフォースステージに上がるまでに、現在得られる最高のパーツを揃えたかったのかも知れないが、それにしても焦っているようにも感じるリーリエの行動が、猛臣には腑に落ちなかった。
「何か理由があるのか?」
 つぶやきながらテーブルに手を伸ばしてコーヒーカップを手にした猛臣は、それが空になっていることに口元を歪ませる。
 すべてのエリキシルソーサラーが判明し、バトルの結末に向けて加速すると言っても、まるで将来を見ていないようなリーリエに、猛臣は眉を顰めていた。
「それだけの理由があるということなんじゃないですかね?」
 コトンと、テーブルに置かれた湯気の立つカップ。
 ヘルメット型スマートギアを脱いで見ると、テーブルの脇に立っていたのは、お盆を胸に抱いた、イシュタル。
 その柔らかい笑みに見つめられながら、空のカップの代わりに新たなカップに手を伸ばし、口元に寄せる。
 ――なんでなんだろうな。
 同じコーヒーを使っているはずなのに、どうしてここまで香りも風味も違うのだろうか。
 味も香りも記憶のものとは違うのに、懐かしさを感じるコーヒーをひと口飲み、猛臣は顔を上げる。
「久しぶりだな、穂波(ほなみ)」
「はい。お久しぶりです、猛臣さん。本当に大きく、立派になられましたね」
 そう言って嬉しそうな笑みを見せているのは、イシュタル。
 けれどそれが見せる立ち振る舞いは、猛臣が求めて止まない、ひとりの女の子のもの。
 槙島穂波(まきしまほなみ)。
 近藤や灯りから前兆現象の話を聞いたときから、自分にもそれが現れる可能性については考えていた。
 だから驚きはしたが、それを表に出すことは堪えられた。
 二歳しか違わなかったはずなのに、ずいぶん身長差があった生きていた頃の穂波と違って、いまは一二〇センチと小柄な彼女は、あの頃見せていたのと同じ穏やかな笑顔を向けてきていた。
「わたしを復活させるために、頑張っておられるんですね」
「あぁ。お前のことは必ず俺様が復活させてやる。幽霊みたいにイシュタルに取り憑かなくても、もうすぐお前自身の身体を与えてやる」
「ありがとう、ございます」
 少し首を傾げて、朗らかな笑顔で礼を言う穂波。
 シャンパンゴールドのハードアーマーと、金色の長い髪をし、攻撃的な爪を肩と膝に取りつけたイシュタルは、無骨すぎてかつての穂波とは大きく違っていた。
 けれどもその柔らかい表情と、猛臣を見つめてくる優しげで、母性を孕み、しかしどこか恐れ、怯えを宿している瞳は、確かに穂波のものだった。
 そんな彼女の瞳に影が差す。
「……どうして、わたしなどを?」
「いまの俺様がいるのは、お前がいたからだ」
 生前ならば言えなかったであろう言葉を、問うてくる穂波に対し、素直に言った。
 もし自分にも前兆現象が起こったならば、すべてのことを話そうと思っていた。素直になれなかったあの頃と違って、いまでも捻くれている自覚はあるが、言えないで後悔など、二度としたくなかった。
「俺様は、お前に与えてもらったからだ。槙島の家になかったものすべてを、お前から」
「わたし、から?」
 微かに声を震わせて言う穂波に、猛臣は大きく頷いて見せる。
 槙島家は実力主義の家。
 旧家であるため血筋を重んじる傾向も強かったが、何より評価されたのは、目に見える成果。
 学生時代のテストやスポーツの功績はもちろん、経営の才覚、発明品の成果と利益、地位や名誉など、誰の目から見ても明らかな結果を重要視し、それによって本家や分家に関係なく重用される。
 逆に事業の失敗や損害の計上に対しては厳しい評価が下され、その大きさによっては援助や支援のすべてを即刻回収されるなど、厳格な処分が行われる。
 頭首は常にその時代で最も優れた人物であり、血筋的にか本家の者が納まることが多かったが、分家の者を養子にとって据えることも珍しくはない。
 そんな無機質とも言える実力主義で様々な分野に勢力を伸ばし、栄華を誇った槙島家は、この四半世紀ほどの間に歪み、腐敗を始めた。
 ここ最近では足の引っ張り合いは目に見えるほどとなり、実力以上の評価に見せようとする欺瞞は当然のように行われている。さらには先代頭首は病死とされているが、その実は毒殺であり、犯人と目される人物数名は行方不明となっている。
 そんな親兄弟ですら信頼するに値せず、愛情ですら結果からしか得られない槙島本家に産まれた猛臣にとって、一族の中でも末席にあり、目立った才能もなく、親からも引き離された穂波だけは違った。
 彼女は笑みとともに接してくれ、自分もまだ幼い年頃にも関わらず、猛臣の身の回りの世話や、外の世界のことを教えてくれた。
 兄がふたり、姉がひとり、弟がひとりいる兄弟の中で、いま現在猛臣が最も目に見える評価を出し、一番次期頭首に近い人物とささやかれているが、家を出て仕事と学業に励んでいるのは、穂波にもらったものがいまも頭と胸にあるからだった。
 猛臣のいまを形づくっているものの多くは、穂波に与えてもらったものだったからだ。
 穂波の両親も、弟も存命であることは知っているが、彼女の葬式にも来なかった。
 大きな仕事で失敗し、身ひとつで家族ごと一族から叩き出された穂波の家族は、それでも葬式には呼んだが、自分の家族のことであるのに、ひとりも姿を見せなかった。
 もし穂波の復活が叶ったら、猛臣は槙島家を出、彼女の家族にも連絡せず、ふたりで生きるつもりだった。
「お前が好きだ、穂波」
 ソファから立ち上がり、穂波の前まで行って、彼女の瞳を真正面かから覗き込みながら、猛臣は言った。
 目を見開いた穂波は、唇を震わせ、猛臣から一歩距離を取る。
 大きく一歩近づき、さらに逃げようとする穂波の両肩をつかみ、猛臣は追い打ちをかける。
「穂波、好きだ。――これを言う前に死にやがって。俺様がどれだけ怒ったのか、わかってるのか? お前は。俺様のものになれ、穂波。俺様がお前を、生き返らせてやる。お前と一緒に生きてやる」
 逃げられなくなって、猛臣の言葉を受け止めることになった穂波は、笑んだ。嬉しそうに。
 それから、彼女は涙を流し、悲しそうに顔を歪ませ、うつむく。
「わたしは……、わたしは貴方を、騙していたんです」
「それで?」
「わたしは貴方を、利用するために、近づいたんです」
 涙に喉を詰まらせながら言う穂波。
 両親と弟が一族を叩き出されることになっても、穂波は強硬に槙島家に残ることを望んだと聞いている。
 その処遇が、猛臣の小間使いの立場。
 すでにその頃から将来を期待されていた猛臣に、頭首はその身を好きにして良いと言って、穂波と引き合せた。
 一族からの援助を受け、結果として損害を出しておきながら、身ひとつで叩き出されるならまだ優しい処分だ。中よりも厳しいとは言え、仕事さえ見つければ生きられるのだから。
 それでも一族に残るという選択は、人間扱いされない立場に落ちるということに等しい。
 さすがに表沙汰になるような事件を起こすのは問題であるが、それ以外のことであれば何をしてもいい、という意味を含めて、猛臣は穂波を渡された。いじめようと、慰みものにしようと、構わないという意味で。
 そうなることがわかっていながら槙島に残った理由を、穂波は一度として話そうとはしなかった。
「わたしが槙島に残れば、あのとき一番有望視されていて、歳も近い貴方の小間使いになると予想していました。そしてそれは、その通りになりました」
 顔を上げた穂波の瞳に浮かんでいるのは、罪悪感。
 猛臣は彼女の瞳を見、彼女の言葉を聞き、遮ったりはしない。
「わたしは貴方に、槙島以外の価値観を植えつけることで、貴方に反抗心を持たせようとしたんですっ。そうすれば……、そうすれば少しは、わたしの受けた屈辱を槙島の人間に与えられると思ったから!」
 涙を散らしながら猛臣の腕を振り払い、穂波は部屋の隅へと逃げる。
 そんな彼女に、彼はゆっくりと近づいていった。
「わたしが貴方に優しくしていたのも、すべて嘘です! 幼い貴方をコントロールするために、そうしていただけのことです!! なのに貴方は、わたしに酷いこともせず、側に置き続けてくれた……」
 泣きじゃくるように言う穂波の前に、猛臣は立った。
「小さかったからなんて、言い訳はできません。わたしは最初から、貴方を使って、槙島家に一矢報いるために、貴方に近づいたんですっ。――だから、だから……、ごめんなさい」
 深々と頭を下げた穂波。
 それに対して、猛臣は何も言わなかった。
 ただ目の前に立ってるだけの猛臣に、穂波は恐る恐る涙の跡の残る顔を上げた。
 それでも、猛臣は何も言わない。
 厳しく細められた視線に堪えきれなくなったのか、穂波がその場を逃げだそうとしたとき、猛臣は壁に手を着いてそれを阻んだ。反対側は、壁。
 逃げられなくなり、小動物のように小さくなって震える穂波を、猛臣は蔑みの視線で見下ろす。
「てめぇは、どれだけ俺様のことを見くびってやがんだ?」
 湧き上がってくる怒りを声に乗せ、猛臣は穂波に叩きつける。
「すみません! すみません!」
 背中の壁に身体を押しつけ、少しでも逃げようとする穂波に、猛臣は大きくため息をついてから、言った。
「気づいていないとでも思ったのか?」
「――え?」
「俺様が、てめぇのちっぽけな想いに、気づいていないとでも思ってやがったのか!!」
 目を丸くし、小さく口を開いている穂波。
 呆然とした顔で、彼女はつぶやくように言う。
「気づいて、いらしたのですか?」
「当然だろう! 俺様を誰だと思ってるっ。俺様はな、槙島猛臣だぞ!! 小間使いのてめぇが考えてることくらい、わからないとでも思ったのか!」
 息がかかるほど顔を近づけた猛臣は、穂波の涙に揺れている瞳を覗き込む。
「俺様はな、お前のそういうところも含めて好きになったんだよ。てめぇの全部をわかった上で惚れてたんだよ!! てめぇとだったら一緒に不幸になっても構わなかったんだ、俺様はっ。どこまでも一緒に行ってやるつもりだったんだっ。一度不幸になろうとも、俺様の力で、お前を幸せにしてやるつもりだったんだ!! ひとりで抱え込んで、悲劇のヒロイン気取ってんじゃねぇ!」
 喜ぶことも、悲しむこともできず、ただ圧倒されたように、穂波は目を見開いている。
「わたし、は――」
「もういい。何も言うな」
 言って猛臣は、穂波の唇を奪った。
 驚いて逃れようとする彼女の身体に腕を回し、抱き締める。
 その身体はスフィアドールで、イシュタルのボディであるはずなのに、柔らかく暖かい穂波の唇に、猛臣は貪りつくように唇を重ねる。
 長い、長いキスとなった。
 途中から諦めたように目をつむり、穂波もまた自分から求めるように背伸びをして、猛臣の身体に抱きついていた。
 唇とともに身体を離し、見つめ合ったふたりは、泣いていた。
 悲しさと、嬉しさと、やっと通じ合えた想いに、泣いていた。
「大丈夫だ、穂波。俺様がどんな方法を使ってでも、お前を復活させてみせる」
「猛臣、さん……」
 自分の涙を手の甲で拭った猛臣は、しゃくり上げている穂波の涙を親指で掬い取る。
 そして彼女に、優しく笑いかけた。
「わたし……、ちゃんと、話しておけは、よかったんですね……」
「あぁ。俺様も話せなかった。だから気にするな。もう大丈夫だ、穂波。必ずお前を復活――」
「違うんです」
 止まらない涙を流しながら、穂波は左右に首を振る。
「何が違うって言うんだ。リーリエとエイナは手強いが、次のアップグレードでイシュタルはさらに強くなる。あとはバトルアプリをチューニングすれば、勝ち目は――」
「そうじゃないんです」
 再び猛臣の言葉を遮った穂波は、猛臣の腕から逃れていく。
 捕まえようと近づいて手を伸ばした猛臣からさらに逃れ、穂波は言う。
「わたしも、貴方のことが好きです。猛臣さん」
 想いを口にしながら、彼女はくしゃくしゃに顔を歪ませている。
 嬉しさではない、悲しさを浮かべる瞳から流れ出す涙は止まらず、胸の前で組んだ手は、震えていた。
「最初は、貴方を利用するためだけに近づきました。貴方の思考を歪めることしか考えていませんでした。……ですが、乱暴で、捻くれている貴方は、取り組んだことに対しては常に真剣でした。わたしの父親や、わたし自身に足りないものがなんであったのか、思い知らされました。それを見ているうちに、――わたしは貴方を、好きになっていました」
 優しい微笑みを浮かべ、けれど涙が止まらない穂波は言う。
「わたしは、貴方のことが好きです。愛しています」
「だったらもういい。お前はそのエリキシルスフィアの中で待っとけ。俺様が必ず、お前を復活させてやる」
 抱き締めようと伸ばした猛臣の手から、穂波は逃げる。
「こんなことになるなら、最初から全部話しておけばよかった……。話してもらっていればよかった。あのときのわたしに、怒りを感じます。あのときの貴方を、叱ってやりたくなります」
「もういい。もういいから、穂波!」
「いいえ、ダメなんです」
 微笑むことすらできなくなった穂波は、両手で顔を覆ってぽたぽたと涙を零す。
「愛していました、猛臣さん。大好きでした、貴方が。けれどすべては、手遅れなんです」
 再び壁に追いつめた穂波に、猛臣は両手を伸ばす。
 顔を覆っていた両手を下ろし、笑みを浮かべた穂波は言った。
「わたしは幸せでした。貴方のおかげです。だから、さようなら、たけお――」
 言い終えることなく、唐突に穂波のアライズが解除された。
 猛臣がつかみ取ったのは、ピクシードールに戻ったイシュタル。
「なんだよっ。時間切れかよ! くそっ!!」
 イシュタルをつかんだままテーブルに近づき、そこに置いたスマートギアを取って頭に被った。
 エリキシルバトルアプリを立ち上げ、もう一度、もうほんの少しでいいから穂波と話せることを祈って、猛臣は唱えた。
「アライズ!」
 何も起こらなかった。
 手の中のイシュタルが光を纏うことはなく、動くこともない。
「なんだ?」
 もし、前兆現象がもう一度起きなくても、イシュタルは一二〇センチのエリキシルドールになるはずだった。
 それなのに、何も起こらない。
「アライズ! アライズ!!」
 繰り返し唱えても同じ。
 舌打ちした猛臣はイシュタルをテーブルに置いて、ステータスを確認しようとリンク状態を表示する。
「……なんだ? こりゃ」
 ログ上では先ほどまで接続されていたイシュタルとのリンクが、切断されていた。スマートギアから指示を出して接続しようとするが、リンクが確立されない。
「くそっ」
 悪態を吐いてLDKを出、廊下のすぐそこの扉を開いて作業室に入る。
 様々な機材やパーツと、作業用のデスクがあるその部屋の、メンテナンスベッドにイシュタルを寝かせ、ドールの状態を確認しようとしてみたが、やはりリンクが確立されない。
「……どうなってやがんだ?」
 メンテナンスベッドを使えば、電源が落ちた状態でも、異常が検出された状態でも、スフィアが正常であれば最低限のプロパティは取得できる。これまでメンテナンスベッドを使って状態を確認できなかったことなど、一度もなかった。
 イシュタルをデスクの上に寝かせ、改良の終わっているウカノミタマノカミを棚から手に取り、ベッドに寝かせる。
「こいつも、ダメか……」
 エリキシルバトルに使っていない手持ちのピクシードールをデスクから取り出してチェックしてみるが、どれも変わらない。
 どれひとつ、リンクが確立できなかった。
 一斉にピクシードールが、正確にはおそらく、スフィアが使えない状態になるなどあり得る事態ではなかった。
「どういうことだ?」
 立ち尽くすしかない猛臣がそうつぶやいたとき、スマートギアの視界にニュース速報を告げるアイコンが表示された。
 ――いまはそれどころじゃねぇってのに!
 スフィアドール関係の、とくに重要な事件等については、自宅のサーバを経由して通知されるように設定していた。
 作業時間に設定しているいまは、最重要に選別された通知しか届かないはずだった。
「なんだ、こりゃ?」
 仕方なくアイコンをタッチしてニュース記事を表示した猛臣は、思わず声を上げていた。
 個人の書き込みを皮切りに、ネットのニュース、テレビ番組の報道などで、次々とスフィアドールが使用不能になったと、報告が行われている。
 スフィアロボティクスからの発表は、ほんの少し前からの現象ということでまだだったが、一部スフィアドール関係の企業では調査中という公式発表も出始めていた。
 選別されたネットの書き込みを見ると、おそらくほぼ一斉に、ピクシードールはもちろん、フェアリードール、エルフドールなど、スフィアによって稼働しているすべてのスフィアドールが使用不能になっていた。
 見ている間に情報は広がり、事件は拡大し続けている。世界中に広がっていっているそれは、もう止めることなどできようもなかった。
「何が起こったってんだ……」
 そうつぶやいた猛臣だったが、ひとつだけ思いつくことがある。
 ――モルガーナの仕業か!
 エリキシルスフィアは、確実にモルガーナがつくったものだ。
 その他のスフィアも、エリキシルスフィアと同様にイドゥンの欠片によってつくられているのだ、モルガーナの支配下にあると考えた方が自然だろう。
 いまの事態を発生し得るのは、彼女しかいない。
「くそっ。なんてこった!」
 推測に過ぎないが、何かの理由でモルガーナはエリキシルバトルを強制終了したのだ。
 だから穂波は、手遅れだと言った。
 理由までは推測つかなかったが、関係してると思われるのはリーリエのフォースステージへの到達。それがモルガーナにとってすべてのスフィアの機能を停止させ、エリキシルバトルを強制終了させたことと、関係があるように思えた。
 ――もう二度と、穂波には会えないのか?
 リーリエやエイナに勝てる可能性が低いのは、自分でもわかっていた。
 けれどもエリキシルソーサラーであり続ける限りは、可能性はゼロではないと思って、この先もやっていこうと考えていた。
 願いが叶わなくなったのではないかという想いに苛まれそうになる自分の気持ちを奮い立たせて、猛臣はスマートギアで指示を出し、アドレス帳を開いて克樹への通話をコールした。


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