神水戦姫の妖精譚

小峰史乃

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第五部 終章 マイソロジー

第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 終章

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   終章 マイソロジー


            *


 チェストの引き出しを開けた夏姫は、ブラウスのボタンを外しながらしばし考え込む。
 ――今日は、克樹のとこ行かない方がいいのかな。
 昨日、ニュースを見てから呆然として、何もできなくなっていた克樹。
 無理矢理せき立てて服も着替えさせず、ベッドに押し込んで家に帰った。今日の朝早くに見に行ってみたら、ずっと同じ格好で、眠ってすらいないようだった。
 学校に行くことはできなさそうな克樹を残して登校したが、昼頃に夫人の収容された病院がわかったから行ってくるというメールが入っていた。
 平泉夫人の容態ももちろん気になっていたが、夏姫は自分にとって身近な、克樹のことが気になっている。
 唇を引き結び、開けた引き出しの中も見ずに夏姫は彼のことを思う。
 学校帰りに彼の家に寄ってみると、リーリエにはまだ帰っていないと言われ、昨日何があったのかを訊いても答えてもらえなかった。
 克樹のことが気になりながらもバイトを終え、アパートの部屋に帰ってきた夏姫は、どうするべきか考えてしまう。
 彼のことだから、夕食はまともに食べていないだろう。
 それどころか、昼食も、つくって置いておいた朝食も食べたかどうか怪しい。
 気持ちが沈んでいるときは食事を摂る気力も、摂ろうという発想もなくなってしまうのは仕方ないが、それではダメなことは、自分の父親が生死の境を彷徨ったときに、夏姫が感じたことだった。
 ――たぶん、平泉夫人は克樹にとって、母親みたいな存在だったんだろうな。
 振り返った夏姫は、机の上の充電台に置いてある、春歌が残してくれたブリュンヒルデのことを見つめた。
 克樹の両親については、彼があまり話したくなさそうにしていたのもあって、詳しくは知らない。
 けれど彼と出会って一年ほどが経っているにも関わらず、一度も家に帰ってきたことはなく、帰ってくるという話も聞いたことがなかった。
 叔父の彰次が保護者になっていることを考え合わせると、家族として成立していないのはわかる。
 そんな中にあって、呼び出されたりもしているけれど、呼んでくれて話を聞いてくれ、何かと心配してくれる平泉夫人は、克樹にとって両親よりも大きな存在であろうことは想像に難くない。
 家族と言うほどには接近せず、お互い一線を引いたつき合いをしてはいるが、もしかしたら平泉夫人は克樹にとって、彰次やリーリエ、そして夏姫よりも距離の近い人物なのかも知れなかった。
 そんな夫人がいま、生死の境を彷徨っている。
 その事実は、克樹をあれほど憔悴させるに足るものだったのだろう。
 ――やっぱりもう一度、克樹のとこに行ってこよう。
 もう遅い時間だが、外着に着替えようとしていたとき、チャイムが鳴った。
「誰だろ」
 ブラウスのボタンを留め直しながら玄関に近づいていき、セールスだったら無視しようと思いつつドアスコープで訪問者を確認する。
「克樹?!」
 扉の向こうにいたのは、朝よりも少しマシに見えたが、暗い顔をした克樹。
 急いで鍵を外して扉を開けると、夏姫に目を向けているのに、夏姫のことを見ていない彼は、声もかけずに部屋に入ってくる。
 靴を脱ぎ捨て、ふらふらと部屋に入っていく克樹を追って、玄関の鍵をかけた夏姫は部屋に戻った。
「どうしたの? 克樹っ」
 部屋の真ん中で座り込んでしまった彼に強めの口調で呼びかけてみるが、顔を上げはしたが、その口からは何も言葉が出てこなかった。
「ねぇ!」
 強い声を出してみても、泣きそうに顔を歪め、唇を震わせるばかりで、克樹は何も言ってはくれない。
 何かがあったのだとしたら、まずは話を聞かなくてはならない。
 自分のとき、何も言えないでいたのに、克樹は言葉を引き出してくれた。
 彼ほど上手くはできないけれど、とにかく話を聞いて、それからでなければ自分に何ができるかが考えられない。
「もしかして、夫人は……」
「それは、まだ」
 ふと思いついて口にした言葉に、克樹は返事をくれた。
 そこからとにかく言葉を引き出そうと、夏姫は彼に問う。
「平泉夫人の容態は、じゃあいまはどうなの?」
「まだ、わからない。あと一回手術が必要なんだけど、容態が安定しないからどうにもできてない。何か変化があったら、芳野さんかショージさんから連絡もらえるように言ってある」
「そっか」
 少し詰まりつつも、克樹はしっかりした口調で話してくれた。
 彼の正面に座り、何もできない夏姫はぎこちなくあったけれど、笑いかける。
「じゃあ、待ってるしかないね。すぐに駆けつけられるように、食事摂って、ちゃんと寝ないと」
「うん……」
 夏姫の笑みでも、克樹の表情の曇りは晴れない。
 昨日からの一日で、頬がこけてしまっている感じすらある克樹は、さらに暗い表情になる。
「……他にも、何かあったの?」
「……」
「昨日、残りふたりのエリキシルソーサラーがわかった、って言ってたよね。そのこと?」
「……」
 夏姫の言葉に大きく目を見開いた克樹は、でも何も言わずに視線を逸らす。
「リーリエ! 昨日何があったの?!」
 克樹が答えてくれないならと、夏姫はリーリエに声をかける。
 昨日の様子から考えるに、克樹だけではなく、リーリエも残りのエリキシルソーサラーについて知っている様子があった。
「……リーリエ?」
 反応のないリーリエにもう一度声をかけてみるが、返事の声すらなかった。
「全部、家に置いてきた。携帯もネットは切ってある」
 つらそうな顔でそんなことを言う克樹の耳には、スマートギアを被っていないときはいつも着けているイヤホンマイクがなかった。
 ポケットから取り出した携帯端末は、通話オンリーのモードになっていると表示されていた。
「何が――」
 言いかけて、夏姫は言葉を止めてしまった。
 夏姫はこれまで、克樹のことを情けない奴とか、イヤな奴だと思ったことはあった。
 けれども、一度も弱い人だと思ったことはなかった。
 泣いている姿も見たことはあったが、夏姫にとって克樹は、最初からずっと、強い人だった。
 それなのにいまは、顔をくしゃくしゃにし、子供のように弱々しく身体を震わせている。
「僕はもう、何を信じればいいのかわからない……」
 そんなことを言う彼に、夏姫はかけるべき言葉が見つからない。
 決して全部を肯定できるような性格はしていないが、それでも夏姫を、他のみんなを引っ張ってくれた克樹は、その芯に強いものを持っている人だった。
 彼を支えていたのは、平泉夫人や彰次などの大人たち。
 そして何より、姿はなくても常に側にいた、リーリエだった。
 それがいまは、夫人の先行きは見えず、自分からリーリエとの関係を断っている。
 ――何か、あり得ないことがあったんだ。
 何かがあったことだけはわかったが、具体的な内容まではわからない。
 そしていま、子供のように涙をぽろぽろと落とす克樹に、問うことはできなかった。
「大丈夫だよ、克樹」
 言いながら夏姫は克樹の隣に身体を寄せ、彼の肩を抱き寄せる。
「アタシだってエリキシルバトルの参加者だから、克樹とも戦うこともあると思う」
 嗚咽を必死で堪えている克樹の顔を覗き込み、夏姫は笑んでみせる。
「でもね? 克樹。アタシは克樹に、絶対嘘は吐かないよ。戦って、どっちかが勝っても、どっちかが負けても、アタシはずっと、克樹と一緒にいるよ」
「夏姫……」
「だから、大丈夫。安心して、克樹」
 そう言った夏姫は、克樹の頬に手を添える。
 震える彼の唇を、自分の唇で塞いだ。
「ね? 大丈夫だから」
「夏姫!」
 しがみつくように覆い被さってきた克樹に押し倒される。
 胸に顔を埋めて泣く彼を、抵抗することなく、夏姫は両腕を回して抱き締めた。
「好きだよ。愛してるよ、克樹」
 涙に濡れた顔を上げた克樹に、もう一度キスをする。
 克樹の不安を少しでも引き受けられるように。
 克樹への想いをできるだけ伝えられるように。
 長い口づけを終え、やっと涙が止まった克樹に、夏姫は微笑みを浮かべた。
 そして彼に、頷いて見せた。


             *


 そこは広大な広間だった。
 高い天井から降り注ぐ照明は明るかったが、床も、壁も、光を吸い込んでいるかのように黒い。
 壁には等間隔に大きな調度品か何かが据え置かれている。しかし黒に沈むそれらは、明るい照明の下にあっても、輪郭がはっきりしていなかった。
 空気は冷たく、静かで、少しも動いていない。
 黒い床には黒い色で、細かな文様が描かれている。
 その文様を踏みしめ、現れた人物。
 赤いスーツを身に纏うモルガーナ。
 広場に姿を見せた彼女は、その中心へと高らかなヒールの足音を響かせながら向かっていた。
 中央にあるのは、四角い石の塊。
 小型の家ほどもあるそれは、まるで墓石のようだった。
 巨大であるのに傷ひとつ、つなぎ目ひとつない黒い立方体の側までたどり着いたモルガーナは、それに手をかざした。
 途端、重々しい音とともに、石壁の中に石壁が入り込むようにして、内部への入り口が現れた。
 照明もないのに天井が仄かに光るそこにモルガーナが入ると、入り口は振動とともに閉じられた。
 狭い部屋のようになっている石塊の中あったのは、ひとつの台。
 やはり黒いその台は、人が寝そべることができるほどに大きい。
「まさか、まだ早いはず……」
 胸騒ぎに駆られて、彼女はこの場所を訪れていた。
 眉根にシワを寄せ、モルガーナが台に手を着くと、天板がふたつに割れた。
 左右に移動していく天板の代わりに、その下からせり上がってきたもの。
 水晶玉。
 人の頭ほどもある、黒い台に乗せられた水晶玉は、目を凝らさなければそこにあるのがわからないほどに透明度が高い。
 オリジナルコア。
 スフィアに内蔵されているクリスタルのすべては、このオリジナルコアの子種。
 小型にしたとか、模倣したとかではなく、スフィアコアはオリジナルコアの欠片でできている。
「貴女は、もう目覚めているの?」
 まるで人に話しかけるように、モルガーナはオリジナルコアに話しかける。
 しかし冷たく光を反射するばかりで、コアから返事はなかった。
 小さく息を吐いたモルガーナは、脇に置いてあった金色のハンマーを手に取る。
 細かな文様のような、文字のようなものが隙間なく書き込まれたハンマーを頭上まで振り上げ、目をつむった彼女は小さく口の中で何かを唱える。
 そして、振り下ろした。
 澄んだ音が響いた。
 硬い金属と、硬い石とがぶつかり合う音。
 どんな楽器よりも美しく、破壊的な音を響かせながらも、オリジナルコアはほんの微かにも傷ついてはいない。
「やはり、もう無理ね」
 ハンマーを置き、痛む右手を左手でさすりながら、モルガーナはそう呟く。
 オリジナルコアを砕くことができなくなったのは、ひと月ほど前から。
 砕いた欠片の使い方を思いついたのは半世紀近く前。
 粉々に砕いてもしばらくすれば形状も、サイズも元に戻るオリジナルコアから欠片を採取し、スフィアのコアとして利用してきた。
 スフィアは、第一世代からそのコアは変わっていない。
 コアを包む外身の改良と、描いたシナリオに沿った演出によって性能や機能が変わってきただけだった。
 しばらくの間は生産できるほどの在庫はあるが、欠片が採取できなくなったことで、そう遠くないうちにスフィアの出荷は止まる。
「もう時間がないわね」
 じっとオリジナルコアを見つめるモルガーナは、複雑な表情を浮かべる。
 スフィアが生産できなくなることなど、たいした問題ではなかった。
 それよりも、オリジナルコアを砕けなくなった理由の方が問題だった。
「もうすぐ、目覚めるのね」
 そう言ったモルガーナは、オリジナルコアを愛おしそうに撫でる。
「まだもう少し時間があるでしょう。けれど、早く決着をつけなくては……」
 独り言を漏らしたモルガーナは、オリジナルコアに手をかざして台の下に収納し、玄室のようなその部屋から出る。
「まだ目覚めていないとしたら、いったい誰が私の計画に介入しているというのかしら……」
 目を細め、顎に手を当てて考え込むモルガーナ。
 入り口だった壁から裂け目が見えなくなったのを確認してから、彼女は広場の出口に向かって歩き始めた。



 遠退いていた足音も消えた。
 灯りのなくなった玄室の中は、完全な闇。
 しかし光のないその場所に、光が漏れ出てきた。
 隙間のないはずの台から漏れ出る、真っ白な光。
 オリジナルコアが発した光。
 そして、光とともに声が溢れた。
「ふふふっ。もうすぐよ、もうすぐなのよ」
 姿なき者の声は、少女のような若々しさと、楽しげな色を乗せ、玄室の中に響く。
「もうすぐ終わりなのでしょう? だったら、もっと楽しくしましょう。もっと、もっと!」
 狂気にも似た激しさを持つ声は、誰ひとりいないその場所で言葉を紡ぐ。
「ねぇ、魔女。貴女も見ているだけではつまらないでしょう? だから貴女も、貴女の戦いをしてちょうだい。必死に、必死に戦ってちょうだい!!」
 聞く者のいない場所で言い、光とともに漏れ出る声は、ひたすらに笑っていた。


             「撫子(ラバーズピンク)の憂い」 了
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