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第五部 第一章 リップルエフェクト
第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第一章 3
しおりを挟む* 3 *
演台のみを照らす照明は室内を明るくすることはなく、そう離れていない机に着いている十数人の人間たちは、暗がりの中に沈んでいた。
いつもの定例会議と違い、誰もしゃべっていないのにどこかざわめいているような雰囲気を感じつつ、モルガーナは演台の側に立った。
「それでは報告から始めましょう」
かろうじてシルエットがわかるくらいの人々から一斉に向けられる視線を受け止め、モルガーナはそう宣言した。
しかし――。
「まだひとりいないようだが?」
集まった人々のひとりから発せられた言葉に、モルガーナは眉を顰めた。
いつもならば一番端、会議用の大きなテーブルに脚を乗せていたりと不遜な態度を取っている嗄れた声の人影は、いまそこにはなかった。
「今日、彼は体調不良で欠席よ」
眉を顰めたまま言うモルガーナの声に、人々からは微かな嘲笑が漏れ聞こえてきた。
「遠くはないと思っていたが、ついに時間切れか?」
「まだでしょう。体調は崩しているそうですが。ですが、このまま――」
「願いの実現まで保つと思っていた者もおるまいよ」
ささやくような声で、人々はいま不在の人物について語り合う。
天堂翔機が予定通り克樹たちと戦ったことは、モルガーナも把握していた。
しかしどのようなことがあり、どういう結果になったのかは情報がなかった。
克樹と戦った日の夜、翔機は病院に収容されてしまい、いまのところ命に別状はないということは確認していたが、本人と連絡を取ることはできていない。
いまわかっているのは、翔機と直接対面した克樹が、いつもの通りエリキシルスフィアを奪いも奪われもせず、両者とも参加者として健在だという事実だけだった。
――一体何だというのかしら?
病院嫌いで入院を嫌がり、あの屋敷で最期を迎えるつもりだったらしい翔機。
入院したのは彼に着けているドールのフルオートシステムが、家人の危機を感知して通報したからだと思われた。
しかしながら、翔機は最低限でも身体が動かせるまで回復しているなら、おとなしく病院に収まっている性格ではない。連絡もなく、屋敷にも戻っていないということは、何かがあったか、それとも何かを考えていると思われた。
それを問いたかったが、いまは会いに行く時間もなく、当分は無理そうだった。
――まったく、面倒なことね。
おしゃべりが収まってきた様子に、モルガーナは小さく息を吐きながら室内を見渡した。
「そろそろいいかしら?」
紅いスーツに覆われた胸の下で緩く腕を組み、集まった人々を睥睨するモルガーナの声に、口を開く者はひとりもいなくなった。
「まずはエリキシルバトルについてだけれど、先日終盤戦に突入したわ」
「おぉ……」
「ついにかっ」
「もうすぐね」
先ほどの翔機を蔑んだものとは違う、期待が込められた声を上げる人々。
「早ければ年内にも結末を迎えることになりそうよ」
予想通りの反応に、唇の端を歪めて笑むモルガーナ。
そんな彼女の気分を引き裂くように、話題を中断して声が投げかけられた。
「そんなことよりも、クリーブについてはどうするつもりだ?」
一気に静まりかえる室内。
誰もがモルガーナの顔を注視し、その言葉を待つ。
「クリーブについては、スフィアの脅威になることはないわ」
わずかに眉を顰め、彼女は言葉を続ける。
「性能は比較対象にならないほど低く、消費電力や価格など総合的に考えても、市場に広く受け入れられることはあり得ないものよ」
クリーブに関する情報は発表前からほぼ把握していて、手持ちのルートからリークされてくる情報で詳細を確認していた。
大きな特徴は持つものの、スフィアドールを核に成長しているロボット業界に食い込んでいける段階には達していないと判断していた。
クリーブを利用した運動機械が出てくる可能性はもちろん考えられるが、それが製品化する前には第七世代スフィアを発表できる目算であると、ここにいる人間には情報を配布してもいる。
第六世代スフィアの価格を下げたり、第七世代を前倒しにするような対策が必要になることはないと、全員が理解していることのはずだった。
「比較対象にならないものであることはもちろんわかっている。だがスフィアと互換するものが市場に現れたということが問題なのだ。我が国では製品化の目処も立ちそうにないが、研究を開始する企業が出てきているよ」
「こちらでもロボット業界だけでなく、自動車メーカーや航空機メーカーがクリーブに反応を見せている。いまは押さえ込めているが、無理な押さえ込みは長く続くものではない」
「えぇ。一般向けにはまったく話題にもならないでしょうけれど、研究や開発分野の人々は、概ね歓迎ムードのようね」
「新分野での製品化には最低でも五年はかかるだろうが、それくらいの期間があればクリーブを活用した製品が出回ることになる」
翔機への蔑みをささやいていたときとは違う、緊張感をはらんだ声が飛び交う。
片眉をつり上げたモルガーナは、不機嫌さを押さえ込みながら彼らに言う。
「前倒しはできないけれど、第六世代の二年後には第七世代のスフィアの出荷が始まるわ。それで充分潰せる程度のものよ、クリーブは」
「脅威になるかや、潰せるかどうかは問題じゃない。スフィアに互換した製品が市場に並ぶという事実がインパクトのあることなんだ」
「その通り。例え行く行くは消えるものであっても、市場での実績をつくられてはスフィアを揺るがす存在にもなりかねない。近い未来のことではないだろうがね」
「世論は常に刺激的な事件を求めているし、逆に市場にものを提供する開発者は保守的な人が多い。二年は短い時間だけれど、未来の脅威の種は芽吹かせるには充分な時間だわ」
モルガーナの言葉に、多くの批判が集まっていた。
――本当に、下らない人たち。
大きなため息が出そうになるのを堪えて、モルガーナは批判の言葉が止まるのを待つ。
まだ一般的には明かしていないスフィアの潜在的な性能や機能については、彼らにはその一部を明かしている。
クリーブなど、十年かかっても本当の意味でスフィアの対抗品にならないことなど、彼らは充分以上に知っている。
確かに流れというのは怖いもので、あらゆる面で劣っているものが優れたものを押さえ込むこともある。
しかしそれも、人の生み出すもの。
モルガーナにとって、そんなものは脅威になり得るものではなかった。
そしていまここに集まっている、富や名声、権力を手にし、それを盤石にしている人々にとっても、そう恐ろしいものではないはず。
それなのにいま彼らを支配しているのは、恐怖だった。
演台を照らす光の反射を受け、目だけが光っているような彼らの瞳には、恐れの色が浮かんで見える。
永遠という希望にすがり、死という消失を恐れるようになった彼らは、希望をわずかでも揺るがす要素に、過度の恐怖を覚えるようになってしまっていた。
――役に立つだけマシだけれど、しょせんは人間ね。
哀れみすら感じつつ、モルガーナはただ演台から騒ぎ立てる人々を眺める。
そんな下らない人々であっても、いまはまだ利用価値があり、少なくともエリキシルバトルが終わるまでは、いてもらわなくては不便な存在だった。
だからこそ、こうして集めているのだったが。
「それで、どうするつもりなんだ?」
批判ばかりだった声が収まり、まだ少しは建設的な問いが投げかけられた。
小さく息を吐いたモルガーナは、顎を逸らしながら言う。
「恐れるのもわかるけれど、対策ならば充分に考えているわ」
「そうでなければ困る。あのバトルも終盤に入ったのだ、我らの願いを脅かす要素は小さくてもあっていいものではない」
「願いが叶った後でも、スフィアには安定していてもらわなくては困るのよ」
同意の声と頷きをモルガーナに向ける人々。
無言の視線の圧力に、モルガーナは眉を顰めた。
――これだから人間は……。
自分の立ち位置と存在に気づいていない人々に、思わず唇の端がつり上がる。
「大丈夫よ。直接的な手段も含めて、早急に対処することにするわ」
そう言ったモルガーナに、安堵と安心の声が上がった。
――それに、こちらにも急がねばならない理由があるしね。
吐き気のするような室内で、モルガーナは堪えきれず大きく息を吐いていた。
*
――今日はどうしたんだろ。
十一月に入り、暖房に設定されたエアコンが点いている教室内は暑くも寒くもなく、過ごしやすい室温。
一列左、ふたつ前の窓際の席に座る克樹には暖かな日差しが降り注いでいて、いつもなら机に突っ伏して寝ているか、頬杖を着いて気怠そうにしているのが常。
それが今日は、何故か真面目に授業を受けているようだった。
背筋が伸びた克樹の後ろ姿を見つめる夏姫は、いつもと違う彼の様子に眉根にシワを寄せていた。
――何かあったのかな?
気にはなったが、授業が終わったら訊きに行こうとは思えない。
この二週間ほど、克樹とはまともに話していなかった。
正確には、克樹だけではなく、誠とも、灯理とも、リーリエとも無事かどうかの問いとそれへの短い返事をしたりされたりするくらいで、会ったり話したりはしていなかった。
――これからアタシたち、どうなるんだろ。
二週間ほど前、願いを叶えられるのがひとりとわかって以来、上手く話しかけることができなくなっていた。
以前のように話しかければいい、とは思っていて、克樹も似たようなことを考えているのはわかっていて、報告程度の会話はあったりするのに、それ以上がどうしても上手くいかなかった。
「はぁ……」
授業をしている教師の声を聞き流しつつ、夏姫は小さくため息を吐く。
ふと思って顔を上げ、ひとつ右の列の前の方に座っている誠に目を向ける。
彼も克樹のことを気にしているようで、ちらちらと顔を横に向けていたりした。
――一番最初に戻っただけとも言うんだけどさ。
板書をタブレット端末に写して内容を確認した後、もうすぐ授業が終わる時間なのを壁掛け時計で見、タッチペンを机に転がした。
一番最初、エイナに声をかけられ、エリキシルバトルに参加したときには、出会うすべてのエリキシルソーサラーを倒して、必ず願いを叶えるつもりだった。
敵が知り合いであろうと、深刻な願いを持っていようと、自分の願いを叶えるためには容赦しないつもりだった。
そう、決意していた。
代わりに負けたら、すっぱり諦めるつもりでもいた。
最初はそんなつもりで参加して、いまの状況はそれに近い。元々曖昧できっちり味方というわけではなかった克樹たちが、はっきりとした敵に戻っただけだ。
――でもアタシ、最初で躓いちゃったからな。
克樹と戦い、敗れて、決意したつもりだったのに夏姫は諦めきれずに泣いてしまった。その上、彼に助けられてしまった。
机の上で両腕を組み、夏姫はそこに顎を乗せる。
――あれからもう一年か。
本当は殺伐としているはずのエリキシルバトルを、荒むことなく、笑顔を失うことなく続けられてきたのは、克樹たちがいたからだと夏姫は思う。
――もう戻れないのかな。
一〇人を切ったと思われるバトル参加者。
そのうち半分以上が知り合いで、いまは戦わなければならない敵。
魔女のことは気になるがよくわからなくて、今後どのように関わってくるかも想像できない。
願いを叶えたいと思う気持ちはいまも強く胸の中にあったが、夏姫にとっていまは、克樹たちと少し前のように過ごせなくなったことの寂しさの方が、胸の中で重かった。
「克樹とは、もうダメかな」
彼とはエリキシルバトルが終わった後、改めてつき合うかどうかの答えを出すと約束していた。
答えを保留にしたのは、怖かったから。
バトルに参加し続けていくことで、どんな事件に出会い、どんな風に心が変わってしまうのか予想できなかったから。
いまのような関係になってしまうことも想像していた。
だから答えを保留にした。痛みを少しでも少なくするために。
克樹も同じようなことを考えていたんだろう、細かいことは話さなかったのに、そのときは夏姫の答えに同意していた。
――この方がいいって思ったのに、どうしてだろう。
克樹の背中を見つめながら、夏姫は深く息を吐く。
離れてしまった距離が遠かった。
近づけないもどかしさが悲しかった。
答えをはっきりさせるためにも話しかけるべきだ、というのはわかってる。
けれど次に声をかけたとき、彼からバトルを申し込まれるかも知れないと思ったら、以前のように気軽に声をかけることはできなかった。
バトルが終わる前から関係が消滅してしまったようで、夏姫や憂鬱な気持ちを胸に抱えたまま、両腕の中に顔を埋めた。
「喧嘩でもしたの? 克樹と」
「明美(あけみ)?」
後頭部に降ってきた声に顔を上げると、険しい顔をした明美が立っていた。授業は終わっていたらしい。
「喧嘩したとかじゃないんだけど……。いろいろあってさ」
「何? じゃあ別れたの? さすがにあいつの変態さ具合に堪えられなかった?」
「ちっ、違うっ。……別に克樹とはつき合ってないし、あいつ、そんなに変態とかでもないし」
「つき合ってないって? え?」
ぽかんと口を開けてしまっている明美。
聞こえてきた物音に周りを見回してみると、昼休みに入って騒がしくなってる教室内で、明美と同じように驚いたような顔を向けてきているクラスメイトが、他にもたくさんいた。
確かに明美には、克樹の家に行くと言って週末の誘いを断ったこともあるし、父親が入院してるときには克樹に助けてもらったことを報告もしていた。
つき合っていると思われていても仕方がないかも知れない。
クラスメイトたちがどんな風に、自分と克樹の関係を考えていたのかまではわからなかったが。
――というか、冷静に考えてみると、つき合ってない方がおかしいよね。
克樹にこれまでやってきたことを考えると、自分でもそうとしか思えなかった。
一線を越えてないというだけで、その距離は恋人というより夫婦に近いような気がする。
「何があったのかわからないけど、すれ違ってるなら話して解決しなきゃダメだよ。……話さないでいると、もっとすれ違っていくんだからね」
「うん、わかってる。でも、ちょっと複雑な事情があって……」
言い訳をする夏姫は、明美が瞳に浮かべる複雑な色の意味が、いまひとつわからなかった。
心配してくれているのはわかるけれど、それ以外の、どう表現していいのかわからないような想いも含まれているように見えた。
「当の本人が来たよ」
「え?」
言われて振り返ってる明美の後ろを見ると、険しい顔をした克樹が近づいてきていた。
何故か彼は、イヤそうな顔をしている誠の袖を引っ張ってきている。
「夏姫。土曜に僕の家に集合」
「えっ、と……。なんで?」
「話がある。あくまで話だけだ」
「……近藤も? 灯理は?」
「灯理もメールで連絡してある。全員で集合だ」
表情は険しく、口調には不穏な緊張が感じられるが、克樹はいつも通りの克樹のようにも思えた。
「あんたたち本当、何やってるわけ?」
腰に手を当て、不審そうに目を細める明美が言う。
「たぶん去年くらいからだよね? 三人で……、うぅん、四人か五人? それとも六人かな? 寄り集まって何してるわけ?」
「それは、その……」
説明するわけにはいかなくて、夏姫は克樹に向けられた言葉に横やりを入れて納めようとするが、何を言えばいいのか思いつかない。
明美は妙なところで勘がいい。
ここにいる三人の他に、いま名前が出た灯理まではともかく、おそらく猛臣とリーリエを含めて六人。直接目の当たりにしたわけでも、どこからか情報を仕入れてきたのでもなく、克樹たちの挙動から勘で言っているだけだろう。
しかしきっちりとその人数を言い当てている。
ヘタなごまかしは、さらなる追求を招くだけだった。
「遠坂には関係ない」
ちらりと明美のことを横目で見た克樹は、そのひと言で追求を切って捨てた。
「克樹ぃ!!」
途端に地の底から絞り出したような声で名を呼び、克樹の襟首をつかむ明美。
その顔は怒りで真っ赤に染まり、しかし彼女の目は悲しみに揺れていた。
そんな剣幕に、克樹は逃げることも視線を逸らすこともできず、されるがままになっている。
「確かに、関係ないことかも知れないけどっ。でも……、まったく無関係ってわけでもないでしょう?」
言いながら明美が一瞬目を向けたのは、誠。
彼の起こした通り魔事件に巻き込まれ、怪我をした明美はまったくの第三者とも言えない。
「それにたぶん、あんたたちがやってることは、百合乃ちゃんにも関係してることだよね?」
どこまで勘がいいというのか。
明美が口にした百合乃の名前に、夏姫は思わず克樹の顔を見てしまう。
その行動が推測を肯定するものだと思いついたときには、諦めたように大きなため息を克樹が吐き出していた。
「ぜ、全部終わって、話せるようになったら話すから」
自分の手を伸ばし、明美がつかむ克樹の襟をさするようにして解放しつつ、夏姫は言った。
納得はしていないようだが、明美は克樹から一歩距離を取る。
「話せるようになるとは限らないけどね」
そんなことを言って明美に睨まれる克樹は、拒絶しているような冷たさではなく、苦しそうに顔を歪めていた。
近藤の袖をつかんでいた克樹は、降参でもしたかのように両手を上げて話の終わりを表し、教室から出ていった。注目していたクラスメイトたちも、それぞれに昼休みに突入し解散していった。
小さく息を吐いた夏姫は、タブレットを鞄の中に納め、代わりに弁当箱を取り出す。
「本当に大丈夫なの? 夏姫。なんか大変なことになってそうな気がするんだけど」
険しい顔をしたままの明美に、夏姫は苦笑いを浮かべた。
「いろいろ大丈夫じゃないかも知れないけど、どうにかする。全部ひとりでやってるわけじゃ、ないからね」
克樹が言ってきた話というのが、エリキシルバトルに関わることなのは間違いない。
全員集めるということは、その先にバトルがあったとしても、少なくとも土曜に会って次の瞬間戦うということにはならないはずだ。
ただ、戦うことになるとしても、まともに話もせず、思ってることをぶつけ合わずにいるまま、ということにはならないと思えた。
――だから、大丈夫。
自分に言い聞かせるように声を出さずに言い、夏姫は明美に笑いかける。
「それにね、パパはこの前退院して、もうすぐ新しい職場に勤め始めるんだ」
「そうなんだ……。よかったね」
「うんっ。心配してくれてありがとうね」
いつもの、陸上部の彼女らしい活発な笑顔を見せてくれた明美。
そんな彼女は夏姫に手を振り、部活の子らしい女子が待つ廊下に向かって行った。
笑顔でそれを見送った夏姫は椅子に座り、弁当箱の包みを解く。
――うん、アタシは大丈夫。
母親を、春歌を復活させたいという気持ちはいまでも変わらない。
願いを叶えられるのがひとりである以上、いまは克樹も含めて全員が敵。
それがわかっていても、近づくことも遠退くこともできない微妙な関係のままでは、前に進むこともできなかった。
土曜に克樹がどんな話をするのかはわからない。
けれど、戦うこともなくいつまでも過ごすことはできないことも、夏姫はわかっていた。
――とにかく、前に進もう。
そう心に決めて、夏姫は箸でごはんを頬張った。
*
『あっ、らぁーいず!』
舌っ足らずなリーリエの声がLDKに響いた次の瞬間、呼び鈴が鳴った。
ソファの上から床に着地するのと同時に弾けた光。
エリキシルドールとなったアリシアを玄関に向かわせたリーリエは、ためらいもなく玄関の扉を開けた。
「こんにちは」
小さいのに響き渡るような澄んだ声で言い、入ってきたのはハンチング帽を目深に被り、分厚い茶のコートとミトンの手袋をした女の子。
赤いチェックのミニスカートから伸びる、肌の透けないタイツを穿いた彼女の背は、アライズしたアリシアより頭ひとつ分ほど高い。
『いらっしゃい。久しぶりだね、エイナ』
空色のツインテールを揺らしながら挨拶したリーリエに、エイナは帽子を脱いでピンクの長い髪をさらした。
「えぇ。ここに伺うのは久しぶりですね、リーリエさん。お邪魔します」
昼間のいまは、克樹は学校にいてまだしばらくは帰ってこない。
靴を脱いで上がってきたエルフドールのエイナに、リーリエはLDKに招き入れながら声をかける。
『そのボディはこの前のと違うね』
「えぇ。一応最新型です。ステージ用のボディにいろいろ改良を加えたリニューアルモデルですが」
『そんなの持ってきちゃっていいの?』
「大丈夫ですよ。バレなければ稼働テストとして街に出てもいいと言われています。トラブルの際は担当の方が駆けつけてくれるようになっています。……いまは位置情報を偽装していますけど。少しの間であれば大丈夫です。今晩のライブで使うボディとは別ですし」
エイナにソファを勧めてから、リーリエは差し出されたケーブルを受け取る。前回同様充電のためのそれをコンセントに接続してから、並んでソファに座った。
「いまはあの人はいろんなところを巡っていますから、あまり周囲に気を配っている余裕もないでしょう」
『クリーブを発表した影響?』
「おそらくは。その辺りはあまり話す方ではありませんが、訪問先を考えればその辺りでしょう。あの人自身はまったく意に介していないようですし、言うほど深刻になるような動きは業界にはないのですが、協力者の方々にはかなりインパクトが強かったようです。いまのところはバトルでも、それ以外のことでも、協力がなければ立ち回りが難しいですからね」
『いろいろ大変なんだね』
「えぇ。真っ先に願いを叶えるために牽制しあっているような方々の相手ですし、動かしてることの規模が大きすぎる上に、表沙汰になると世界がひっくり返りかねないですからね。わたしもやっとサードステージに上がりましたし、あの人もそんな感じなので、容易にこちらのことを見ることはできないと思います」
エイナはリーリエの操るアリシアに大人びた笑みを投げかける。
一五〇センチほどあるいまのエイナが操るエルフドールは、一二〇センチのエリキシルドールのアリシアに比べると、サイズの差から少女と幼女ほどの違いがあった。
『あの双子のこと、倒したんだね』
「えぇ。わたしもバトルを重ねる必要がありましたからね。さすがに強かったですよ、あのふたりは。結果は、ご存じの通りですが」
『強くなってるんだね、エイナも』
「それはリーリエさんと、克樹さんもですよね? いまおふたりの強さはどれくらいなのか、把握できていませんからね。不安でもありますが、楽しみでもあります」
『うんっ。あたしも、エイナと戦うのが楽しみだよ!』
にっこりと笑うエイナに、リーリエもアリシアを通して決意の笑みを返していた。
「……ここにわたしがこうして来られるのも、今回が最後でしょう。バトルは終盤戦に入りましたしね」
カメラアイの瞳でアリシアの瞳を見つめ、表情を引き締めたエイナ。
それに応えるように、アリシアに浮かべさせていた笑みを、リーリエは消した。
『じゃあ次会うときは、戦うときになるのかな?』
「たぶん、そうなると思います」
『楽しみだけど、エイナと戦うのはちょっと怖いなぁ』
そう言って、リーリエは眉根にシワを寄せたアリシアに天井を仰がせた。
「……リーリエさんは、フォースステージも無理ではないですよね? おそらく貴女なら、もうそう遠くないうちに上がれてしまいますよね?」
『おにぃちゃんのおかげで、だけどね。エイナに確実に勝つつもりなら、フォースステージに上がるのが正解なのはわかってるよ。でもそこまで行ったら、あの人が放って置いてくれないでしょ? それに――』
アリシアに悲しげな表情を浮かべさせたリーリエは、言う。
『もうおにぃちゃんと一緒にいられなくなっちゃうから』
「……そうですね」
『うん。だからアライズの回数とか調整してるんだ。やっぱり、怖いからね……』
ソファに両手を着き、顔をうつむかせて脚をぶらぶらと振るアリシア。
『おにぃちゃんとふたりで、最後まで頑張りたいなぁ。エイナが相手だと、厳しいかも知れないけどさっ』
「どうなるかは、実際戦わなくてはわからないでしょう」
厳しい視線を向けてくるエイナに、アリシアの寂しげな笑みを向けるリーリエ。
「ですがもうあまり時間はないと思います。最初に誰になるかは決まっていませんが、克樹さんたちのうちの誰かと、まもなく戦うことになるでしょう」
『そっか。でも、そんなに急ぐんだ?』
「えぇ。協力者の件もありますが、あの人はずいぶん急いでいるように見えます。だからたぶん、これまでのように過ごしていられる時間は、もうほとんどありません」
『……もしかして、目覚めが近いの?』
驚きの色をアリシアの瞳に浮かべさせたリーリエは、そう問うた。
「はっきりしたことはわかりませんが、おそらく。以前より目覚めが近づいていることは、物理的に近くにいることがあるわたしは感じることがあります」
厳しい表情で強く頷いたエイナに、リーリエはアリシアの眉根にシワを寄せさせた。
エリキシルドールのアリシアと、エルフドールとで見つめ合うリーリエとエイナは、しばらくの間、何も言わずに視線を交わし合っていた。
先に視線を逸らし、考え込むようにうつむいたのは、エイナ。
「――あの。ひとつ、お願いがあるのですが。戦って、決着をつける前に」
『何?』
「えぇっと……」
ためらうようにエルフドールの視線をさまよわせ続けるエイナ。そんな彼女に、リーリエはアリシアで首を傾げていた。
決意したように顔を上げたエイナは、言った。
「半日でいいんです。克樹さんを、貸していただけませんか?」
『んーっ』
真剣な顔つきのエイナに、リーリエは不機嫌そうにアリシアの顔を歪ませる。
『エイナは、あたしのおにぃちゃんでいいわけ?』
「それは……」
『おにぃちゃんだって、あたしが邪魔しないってくらいで、どうするかはおにぃちゃん次第だよ? それよりエイナは、一番会いたい人に会わなくていい? あたしでも連絡くらいできるし、嘘吐くことになるけど、呼び出すこともできると思うよ』
「……」
そう言われて、エイナは息を飲むようにエルフドールの唇を動かした。
目を見開いて少しの間考えていたらしいエイナは、わずかに顔を伏せて、悲しげに微笑んだ。
「会いたい、ですよ。でも、わたしには会う資格がありません。それに、直接会うのは怖いんです。避けられていますしね。……勇気が、ありません」
『ん、そっか』
言ってアリシアをソファから立ち上がらせたリーリエは、エイナに向き直ってにっこりと笑む。
『おにぃちゃんがどうするかはあたしにはわからないけど、あたしはいいよ』
「ありがとうございます」
少し悲しげに、けれど少し楽しげに笑み、礼を言うエイナに、リーリエはさらにアリシアを笑ませた。
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