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第三部 第三章 リミットオーバーセット
第三部 極炎(クリムゾン)の怒り 第三章 5
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* 5 *
肩と胸元が開いたシンプルなドレスを身につけた平泉夫人が、紅茶のカップをソーサーに置いてテーブルに戻したのを見て、執務室のソファに座る僕は深く頭を下げた。
「お願いしたいことがあります」
「リーリエちゃんから連絡があるなんて珍しいと思ったけれど、頼み事だったのね。貴方がここまでここまで頭を下げてくるなんて、リーリエちゃんのシステムの買い取りのためにお金を借りに来たとき以来ね。とりあえず、話を聞きましょうか」
ローテーブルに額が着きそうな僕の様子に動じることなく、夫人は冷たさすら感じる声で言った。
平泉夫人に大きな頼み事をするとき、嘘やごまかしは一切通用しない。
小さな金額や些末なことなら賭をしたり捨てるつもりで動くこともあるけど、大きな金額や事柄となると、常に損得勘定で判断する。
僕が人工個性を構築するために、それ用のシステムをショージさんが通っていた大学から買い取るとき、一度目のお願いは拒否されていた。その後、ショージさんと一緒に来て、HPT社に対してどれくらいの利益を与えられるか、どれくらい僕が稼いでいけるかを提示した上で許可が出たくらいだ。
損得の中には感情面も含まれるけど、感情だけで動く人ではない。
「僕の……、その、仲間の浜咲夏姫という子がいまトラブルに巻き込まれていて、父親の命と、彼女自身の身柄を奪われそうになってるんです」
できるだけ詳しく、僕はいまわかっていること、わかっている状況を平泉夫人に話す。
わかってることは決して多くないし、僕で調べられる範囲は広くない。それでもできるだけ細かく、エリキシルバトルのことは避けて話した。
「もし、助けられないという場合には、僕にできることを教えてくれるだけでも構いません。僕に何ができるか教えてください」
少し考え込むように、指を曲げて唇に寄せた平泉夫人。
目を細めて何かを思い出すようにしていた彼女は、ふっと笑って、僕を見て言った。
「先に確認させてもらいたいのだけど、その浜咲夏姫という子は、浜咲春歌さんの娘さんのこと? オリジナルヴァルキリーのナンバー四を持っているっていう」
「え? はいっ。そうです」
「そう。そうなのね……。芳野。事件の概要を送って頂戴」
「はい」
いつの間に被ったのか、相変わらずのヴィクトリアンスタイルな落ち着いたメイド服を着て、深緑のヘッド委がタイプのスマートギアを被った芳野さんが、装飾のあるワインレッドのスマートギアを平泉夫人に手渡した。
「なるほどね。概要だけだけど、だいたいのことはわかったわ。どうにかできるかはこれから調べてみないとわからないけれど」
ソファの後ろに立ってお腹のところで緩やかに手を組んで佇んでいる芳野さんとやりとりしていたらしい夫人は、スマートギアのディスプレイを跳ね上げてひとつ頷いた。
「お願いします。夏姫を助けてやりたいんです」
「私でどうにかできる可能性はあると思うわ。工事の元請けの会社、下請けの会社とそれに連なる孫請けの会社のリストを見てみると、だいたいどんな状況で何が起こったのかは、わかることがある。確認しなければならないし、相手をする規模がかなり巨大だから苦労はしそうだけどね」
そう言って微笑む平泉夫人に、僕は安堵の息を吐く。
夫人でどうにかできるというなら、安心できる。調べてどうにかなかなかったとしても、この人が調べたことを教えてもらえれば、僕ができることも見えてくるかも知れない。
ディスプレイを跳ね上げて険しい視線を夫人に向ける芳野さんのことが気にかかったけど、夫人はそれに柔らかい笑みを返すだけで、何も言わなかった。
視線だけでどんな意思疎通があったのかはわからないけど、たぶん大丈夫なんだろう。
「私は、春歌さんには何度も会ったことがあるのよ」
「そうなんですか?」
「えぇ」
目を細めて笑う平泉夫人の瞳には、どこか悲しげな色が浮かんでいた。
「ヴァルキリークリエイションには私も出資していたから、研究に携わっている人とも交流があったの。あの会社がスフィアエレクトロニクスに吸収される直前、いろいろ大変なことになったのには、私も関係があったのよ。建て直しに協力する会社を紹介できればよかったのだけど、それが上手くいかなくてね。成果をできるだけ上げてよりよい条件を引き出すために、あんなことになってしまったわ……」
「そんなことがあったんですか」
「えぇ。夏姫さんのいまの境遇は、私にも責任があると言えるのよ」
「いや、それは――」
「現実として、責任を私が感じているの。だから、今回の件については私ができる限りの協力させてもらうわ」
「ありがとう、ございます……」
――リーリエ、ありがとう。ちゃんと後でそう言ってあげないとな。
心強い言葉をかけてくれる平泉夫人にまた深く頭を下げながら、僕はそう思っていた。
悩んで周りが見えなくなっていた僕に、夫人の存在を思い出させてくれたのはリーリエだ。褒めても褒めきれないほどに、あいつには感謝してる。
「ひとつ確認しておきたいのだけど、貴方にとって夏姫さんは、どんな存在なのかしら?」
唐突な質問に顔を上げると、平泉夫人は口元に笑みを浮かべながらも、その目は笑っていなかった。
下種な勘ぐりをしているのではなく、僕に夏姫を助ける理由を聞いているんだ。
「僕にとって夏姫は、いま一番大切な人です。……一度、振られてますけど」
「振られたのに、それでも大切なの?」
「はい。例え夏姫が億のことを好きでなくても、僕は彼女を助けたい」
「そう」
優しく微笑んだ平泉夫人は、ソファから立ち上がって、僕の隣に座る。
「よかった。本当によかったわ。貴方に大切だと言える人が現れたことが、嬉しいわ」
言いながら夫人は、僕の頭を柔らかな胸に抱き寄せる。
女性らしいその胸に包まれながら、何故だか僕は彼女に、母親を感じていた。
「百合乃ちゃんを失って、リーリエちゃんが生まれたけれど、貴方の心は固く閉じたままだった。それを、夏姫さんがほどいてくれたのね」
「はい」
「それでも貴方はあのバトルに参加し続けるのでしょうけれど、大切なものを守ることも、忘れないでいて頂戴」
「わかりました。……それと、なんですが」
夫人から身体を離し、深みのある黒い瞳に優しい色を浮かべる彼女を見つめる。
「本当はあんまり関わらせちゃいけないと思うんですけど、夏姫は、その、エリキシルスフィアを売ろうとしてるんです」
「スフィアを、売る? それだと参加資格を失うことになるんじゃないかしら? 夏姫さんの願いはおそらく、春歌さんの復活でしょう?」
「えぇ。でも、父親を助けるために、槙島猛臣って奴に売って、とりあえずのお金を得ようとしてます。売る前にそれを止めないといけないんですが……」
「そう。猛臣君に、ね。それについてもどうにかなるわ。彼はちょっとした知り合いなのよ」
「そうだったんですか」
スフィアドール業界には顔が広いと思ってたけど、あいつとまで知り合いだったとは、ちょっと驚きだった。
夫人がどうにかなるというなら、アイツのことも大丈夫なんだろう。
「それから、僕は夫人に、何をしたらいいですか?」
「そうね。どうにかできるかは、正直なところ夏姫さんのお父様が意識を取り戻せるかどうかが鍵になりそうだけど、そちらについても最善を尽くせるよう手配するつもりよ。私も、別に自分に利益にならないことをやるつもりはないわ。それなりの利益があると思ったから、貴方に協力するのよ。でも、そうね。貴方の頼みで私が動くからには、貴方にはそれなりの貸しをつけさせてもらうわ」
「それなりって、どんなことですか?」
「それは、そのうちにまた改めてお願いすることにしようかしらね」
唇に人差し指を当てていたずらな瞳をする平泉夫人。
返せることなら貸しはいますぐにでも返したいところだけど、夫人がそのうちと言うのだから、僕からは何もできることはない。
「大丈夫よ。貴方の希望に添えるよう、できるだけのことはやらせてもらうわ」
「ありがとうございます」
また胸に抱き寄せられて、僕は少しだけ、涙を零していた。
*
克樹が帰った後、平泉夫人は新しく淹れてもらった紅茶をひと口飲み、ソファの背後で控えている芳野に振り返った。
「芳野。事件のこと、背後関係などをもう少し詳しく調べて頂戴。人を使っても構わないから」
「わかりました」
「それと、安原の家に連絡を入れて頂戴」
「奥様。それは……」
跳ね上げていたディスプレイを下ろそうとしていた芳野が手を止め、困惑した視線を向けてくる。
「調べた段階で貴女にはわかっていたでしょう? 私ひとりでは解決し切れる問題ではないと」
「それは、わかっていましたが……」
「今回の件はあの業界ではよくあることではあるけれど、時期を考えれば突っ込みどころのある事件なのよ。本家の力を使えばスムーズに事が運ぶわ」
「確かにその通りだと思いますが……」
いつもは歯切れのいい言葉を使う芳野がはっきりとした返事をしない理由は、平泉夫人自身がよく理解していた。
夫人の結婚相手であった男の本家、平泉家と、夫人の実家である安原家は、関東において仇敵と言ってもいいくらいの関係にある。業界における派閥や政治的な方面での敵対関係であるが、その根は江戸時代よりもさらに昔に遡れるらしい。
発端としてはそれほど大きなことではなかったようだが、いま現在も多くの事柄で衝突し、敵対関係にある家の者との結婚は認められず、旦那は平泉家から、夫人は安原家から法的な意味でも絶縁されている。
夫人の祖父である現頭首からは二度と敷居を跨ぐことは許さないとまで言われていたが、克樹が持ち込んできた件を解決するためには、建設業界と繋がりの強い安原家から手を回した方が早く対応できる。
「例え克樹様からの願いとは言え、安原本家への連絡は無用な問題を引き起こしかねません」
状況がわかっていても、芳野の表情は険しいままだ。
芳野と一緒に過ごすようになったのは、旦那が病死し、いろいろと起こった騒動にひと段落した頃合いだった。
放っておけば死んでしまうほどの不遇な立場にあった彼女を拾ったのは、一種の気まぐれであったが、教育をし、元々あった才を伸ばし、娘と言うほどには年齢が離れていないということもあったが、かたくなな彼女の意向により、メイドという立場で側にいてもらっている。いまは欠けることができない存在となった芳野とともに過ごした時間は、もう決して短いとは言えない。
そうした時間の中で、安原家からの有形無形の嫌がらせというべき妨害などがあったことは、芳野もまた充分に知っていることだった。
絶縁されているにも関わらず、助けを求めて連絡をし、拒絶でもされれば、これまで直接的ではなかった攻撃が、明確なものとなりかねない。
そうした危惧を抱いていることは、平泉夫人にもよくわかることだった。
「今回の件は安原の家にも利のあることよ。それはわかっているでしょう?」
「はい。わかっています。ですがやはり……」
「必要なことなのよ。この先のことも、考えればね」
「この先のこと、ですか?」
さすがにそれについては推測がつかないのか、小さく首を傾げながら訝しむように目を細めている芳野。
「ちょうど、タイミングだったのよ。克樹君の件については本家に連絡を取るための口実程度よ。もちろんボランティアで動くのでも、克樹君への貸しだけで動くのでもなく、本家への手土産として利用させてもらうし、本家はわずかながら勢力図を書き換えるくらいの利は得ることでしょう。そして私は、そろそろ本家の力を使わなければ、この先立ち回るのが難しいと思っていたところなのよ」
「それはもしかして、先日彰次様に話してらしたことについて、ですか?」
「えぇ、そうよ。これから先、私と、克樹君たちによって行うことになるでしょう、魔女狩りのことよ」
困惑に染まっていた表情を引き締め、芳野は厳しい視線を夫人に向けた。
「それはあまりに危険です。モルガーナという名の存在は、文字通り魔女と言うべき、強大過ぎる力を持っています」
「もちろん、わかっているのよ。もし、あの人がただ力を持った人間ならば、例え世界をどのように動かそうと、競合相手にはなっても、敵として相対する必要はないの。けれど、明確な意識を持ち、己の願いを叶えようとする魔女だというなら、世界から排除されなければならない。あの人の願いの根底にあるのは、魔女と呼ばれるにふさわしいものであると、私には感じられるしね。この先、あの人の存在が世界にとって、大きな不利益になる可能性が高い状況なのは、貴女も理解しているでしょう?」
「それは……、わかっていますが、魔女は危険です。あの人が本気になれば、奥様であっても簡単に排除されてしまうかも知れません」
「そうでしょうね。だからこそ、本家の力が必要なのよ。本家とそれに繋がる人々にとって魔女が敵となり得るなら、例え私に何があったとしても、対抗勢力を生み出すことはできるから」
「命懸けであると、そう思ってらっしゃるのですか?」
そう言った芳野は、いつもは絶対に見せることのない、出会った頃にしか見せなかった、泣きそうな顔をした。
出会った頃の子供に戻ったように顔を歪めて悲しそうにする芳野の頭を、夫人はソファから立ち上がって抱き寄せた。
「今日は泣く子の多い日ね。大丈夫よ。死にたいわけではないから」
微かに肩を震わせていた芳野が顔を上げる。
「本当ですか?」
「えぇ、もちろんよ。少なくとも貴女が結婚でもして、幸せになるまでは、私は死ねないわ」
「わ、わたくしはその、結婚など……。いつまでも奥様の側にいさせていただければ……」
慌てたように言う芳野に笑みをかけ、夫人は言った。
「私はね、許せないのよ。私にとって一番大切な人の死を冒涜した魔女のことを。それに命を懸けているのは、おそらく克樹君たちも同じ。私もそれくらいの覚悟を持っていなければ、魔女とは戦えないわ」
「……わかりました。わたくしは、奥様に全力を以て仕えさせていただきます」
「えぇ。お願いするわ。貴女がいないと、もう私はお茶を淹れることすらできなくって、困るのよ」
茶化したように言うと、芳野は他の人には見せることのない、華やかな微笑みを見せてくれた。
それに笑みで答えながら、平泉夫人は考えていた。
――けれどたぶん、魔女の首元にナイフを突きつけられるのは、貴方なのでしょうね、克樹君。
人より少し才能があって、人よりわずかに不幸な境遇にあり、そして何よりモルガーナと誰よりも深く関わってしまっている克樹。
モルガーナと直接対決をする資格を持つのは、自分ではなく、克樹の能力と、境遇と、覚悟があってこそだろうと、夫人は考えていた。
*
「ちょっと夏姫っ」
「克樹? ……ゴメン、アタシは、その――」
「いいから」
昼休みに入って、僕はそそくさと教室から逃げ出そうとする夏姫の手を取った。
クラス中の奴らから注目されてるが、囃し立てる声も上がらない。いつも元気な夏姫が、ここのところ様子がおかしいのは誰の目から見ても明らかだったし、あれだけ彼女から側に来ていたというのに、僕から逃げるようにしてるのもわかっているからだろう。
「来てくれっ」
「あっ……。うん」
クラスの連中や、遠坂や近藤の視線に観念したのか、夏姫は振り解こうとするのを辞めた。僕から視線を外して床を見ている彼女の右手を左手で握り、廊下へと連れ出す。
まだ誰も来てない屋上まで連れてきて、僕は階段室の裏側の狭い空間に押し込むようにして夏姫の前に立ち塞がった。
つかまれていた手をさすりながら、彼女は僕から目を逸らして何も言わない。
「ゴメン、無理矢理引っ張ってきて」
「うぅん。いいけど……。でもアタシは、克樹に話すことなんて、ないよ」
「僕からは夏姫に話すことがある。――猛臣に、スフィアを売るのは少し待ってほしい」
険しい顔をして僕の瞳を見つめてくる夏姫。
苦しそうに、悲しそうに、迷っているような彼女の瞳を、僕は見つめ返す。
「それは……、無理だよ。もう約束したから」
「大丈夫だ。たぶんあいつからの連絡はしばらくはない」
「どういうこと?」
訝しむように眉を顰めた夏姫に、僕は笑いかけた。
相談したのは昨日だと言うのに、ついさっき平泉夫人から連絡が入っていた。
事はもう前に進んでいる。
「夏姫のお父さんは、まだ?」
「……うん。病院からは何の連絡もないよ。ここ何日か、病院に行けてなくて、詳しい経過は聞けてないけど」
夫人から入っていた連絡の中に、謙治さんが入院している病院の名前も書かれていた。ここからはずいぶん遠くて、時間もかかれば交通費もかさむような場所だ。
いろんなことを節約して生活してる夏姫には、病院といまの家を往復するのも決して楽じゃないだろう。
「病院のことも大丈夫だ。意識を取り戻して、容態が安定したら、近くのとこに転院する手はずは整ってるって」
「克樹が何かしたの? アタシは克樹に頼るわけには――」
「僕の力じゃないよ。僕の知り合いの、大人の力を借りたんだ」
「知り合い?」
泣きそうな顔をしてる夏姫は、本当にここのところ憔悴してしまっている。
目の下に隈ができてるのもそうだし、柔らかそうだった頬も明らかに痩けてしまっている。いつも僕が可愛いと思っていた彼女は、病的にと言えるくらいまで弱ってしまっていた。
そんな彼女のことは、もう見ていたくない。
「うん。知り合い。僕はいろいろと借りがあるんだけど、その人に相談したんだ」
「そんな……、アタシは克樹に迷惑かけるわけにはいかなくてっ、アタシがどうにかしないといけないのに! その人から、お金でも借りたって言うの?!」
「違うっ。大丈夫なんだ! たぶんだけど、請求自体がなかったことにできるって。それどころか、会社の方から治療費とか、そういうのを引き出せそうなんだ」
「そう……、なの?」
「うん。詳しい話は、またその力を貸してくれる人と会って話した方がいい。僕も詳しいことはまだわからないんだ。でもそういう風にできそうだって、連絡が来てる」
驚いたように小さく口を開いて、夏姫が震えていた。
まだはっきりと状況が把握できないんだろう。僕が何をして、事故のことがどうなるかとか、理解できないんだろう。
でももう大丈夫だ。夏姫がつらい目に遭う必要なんてない。
「そうなっても、アタシ、約束しちゃったから。エリキシルスフィアを売るって、はっきりと、約束しちゃったんだからっ」
「それも、そっちは本当によくわかんないんだけど、何とかなるんだって」
「……その、助けてくれる人も、参加者なの?」
「うぅん。違う。誘われたけど、断った人なんだ。僕とリーリエの、師匠、みたいな人かな。前に少しだけ話しただろ。平泉夫人って人なんだ」
身体が震えて、しゃがみ込みそうになってる夏姫の腰に手を伸ばして支える。
ただでさえ見た目以上に細く感じていた夏姫の身体は、制服の上からじゃわからなかったほどに痩せてしまっているように思えた。
「じゃあアタシは……、パパは……」
「うん、もう大丈夫だ。ああー、いや、何かまだ全部終わってるわけじゃないみたいなんだけど、どうにかなりそうだ、って段階にはなってるみたい」
「でも、でもアタシ、結局克樹に迷惑かけて……」
「いいんだ! それはっ」
涙を零れさせ始めた夏姫を、僕は抱き寄せた。
小さくなってる彼女を強く抱きしめて、耳元で囁くように言う。
「言っただろ、僕は夏姫のことが好きだ。夏姫は僕に迷惑をかけたくないって言うけど、それは僕も似たようなもんだ。夏姫がこうやって泣いてるのなんて見たくない。つらい目に遭ってほしくない。だから僕は僕の考えで動いたんだ。問題をなかったことにできる人に頼んだんだ」
「それでもアタシは結局、克樹に迷惑をかけてる」
「いいんだ。少しくらい迷惑をかけられるなんて、僕は気にしない。それよりも、勝手に僕の側から離れるなんて言うな。そっちの方がイヤなんだっ。僕の……、僕の側にいてくれ、夏姫」
僕の胸元から顔を上げた夏姫は、涙を流しながら笑って、頷いた。
そんな彼女に笑みを返しながら、僕は強く、絶対に手放したくない大切な人の身体を、抱きしめ続けた。
肩と胸元が開いたシンプルなドレスを身につけた平泉夫人が、紅茶のカップをソーサーに置いてテーブルに戻したのを見て、執務室のソファに座る僕は深く頭を下げた。
「お願いしたいことがあります」
「リーリエちゃんから連絡があるなんて珍しいと思ったけれど、頼み事だったのね。貴方がここまでここまで頭を下げてくるなんて、リーリエちゃんのシステムの買い取りのためにお金を借りに来たとき以来ね。とりあえず、話を聞きましょうか」
ローテーブルに額が着きそうな僕の様子に動じることなく、夫人は冷たさすら感じる声で言った。
平泉夫人に大きな頼み事をするとき、嘘やごまかしは一切通用しない。
小さな金額や些末なことなら賭をしたり捨てるつもりで動くこともあるけど、大きな金額や事柄となると、常に損得勘定で判断する。
僕が人工個性を構築するために、それ用のシステムをショージさんが通っていた大学から買い取るとき、一度目のお願いは拒否されていた。その後、ショージさんと一緒に来て、HPT社に対してどれくらいの利益を与えられるか、どれくらい僕が稼いでいけるかを提示した上で許可が出たくらいだ。
損得の中には感情面も含まれるけど、感情だけで動く人ではない。
「僕の……、その、仲間の浜咲夏姫という子がいまトラブルに巻き込まれていて、父親の命と、彼女自身の身柄を奪われそうになってるんです」
できるだけ詳しく、僕はいまわかっていること、わかっている状況を平泉夫人に話す。
わかってることは決して多くないし、僕で調べられる範囲は広くない。それでもできるだけ細かく、エリキシルバトルのことは避けて話した。
「もし、助けられないという場合には、僕にできることを教えてくれるだけでも構いません。僕に何ができるか教えてください」
少し考え込むように、指を曲げて唇に寄せた平泉夫人。
目を細めて何かを思い出すようにしていた彼女は、ふっと笑って、僕を見て言った。
「先に確認させてもらいたいのだけど、その浜咲夏姫という子は、浜咲春歌さんの娘さんのこと? オリジナルヴァルキリーのナンバー四を持っているっていう」
「え? はいっ。そうです」
「そう。そうなのね……。芳野。事件の概要を送って頂戴」
「はい」
いつの間に被ったのか、相変わらずのヴィクトリアンスタイルな落ち着いたメイド服を着て、深緑のヘッド委がタイプのスマートギアを被った芳野さんが、装飾のあるワインレッドのスマートギアを平泉夫人に手渡した。
「なるほどね。概要だけだけど、だいたいのことはわかったわ。どうにかできるかはこれから調べてみないとわからないけれど」
ソファの後ろに立ってお腹のところで緩やかに手を組んで佇んでいる芳野さんとやりとりしていたらしい夫人は、スマートギアのディスプレイを跳ね上げてひとつ頷いた。
「お願いします。夏姫を助けてやりたいんです」
「私でどうにかできる可能性はあると思うわ。工事の元請けの会社、下請けの会社とそれに連なる孫請けの会社のリストを見てみると、だいたいどんな状況で何が起こったのかは、わかることがある。確認しなければならないし、相手をする規模がかなり巨大だから苦労はしそうだけどね」
そう言って微笑む平泉夫人に、僕は安堵の息を吐く。
夫人でどうにかできるというなら、安心できる。調べてどうにかなかなかったとしても、この人が調べたことを教えてもらえれば、僕ができることも見えてくるかも知れない。
ディスプレイを跳ね上げて険しい視線を夫人に向ける芳野さんのことが気にかかったけど、夫人はそれに柔らかい笑みを返すだけで、何も言わなかった。
視線だけでどんな意思疎通があったのかはわからないけど、たぶん大丈夫なんだろう。
「私は、春歌さんには何度も会ったことがあるのよ」
「そうなんですか?」
「えぇ」
目を細めて笑う平泉夫人の瞳には、どこか悲しげな色が浮かんでいた。
「ヴァルキリークリエイションには私も出資していたから、研究に携わっている人とも交流があったの。あの会社がスフィアエレクトロニクスに吸収される直前、いろいろ大変なことになったのには、私も関係があったのよ。建て直しに協力する会社を紹介できればよかったのだけど、それが上手くいかなくてね。成果をできるだけ上げてよりよい条件を引き出すために、あんなことになってしまったわ……」
「そんなことがあったんですか」
「えぇ。夏姫さんのいまの境遇は、私にも責任があると言えるのよ」
「いや、それは――」
「現実として、責任を私が感じているの。だから、今回の件については私ができる限りの協力させてもらうわ」
「ありがとう、ございます……」
――リーリエ、ありがとう。ちゃんと後でそう言ってあげないとな。
心強い言葉をかけてくれる平泉夫人にまた深く頭を下げながら、僕はそう思っていた。
悩んで周りが見えなくなっていた僕に、夫人の存在を思い出させてくれたのはリーリエだ。褒めても褒めきれないほどに、あいつには感謝してる。
「ひとつ確認しておきたいのだけど、貴方にとって夏姫さんは、どんな存在なのかしら?」
唐突な質問に顔を上げると、平泉夫人は口元に笑みを浮かべながらも、その目は笑っていなかった。
下種な勘ぐりをしているのではなく、僕に夏姫を助ける理由を聞いているんだ。
「僕にとって夏姫は、いま一番大切な人です。……一度、振られてますけど」
「振られたのに、それでも大切なの?」
「はい。例え夏姫が億のことを好きでなくても、僕は彼女を助けたい」
「そう」
優しく微笑んだ平泉夫人は、ソファから立ち上がって、僕の隣に座る。
「よかった。本当によかったわ。貴方に大切だと言える人が現れたことが、嬉しいわ」
言いながら夫人は、僕の頭を柔らかな胸に抱き寄せる。
女性らしいその胸に包まれながら、何故だか僕は彼女に、母親を感じていた。
「百合乃ちゃんを失って、リーリエちゃんが生まれたけれど、貴方の心は固く閉じたままだった。それを、夏姫さんがほどいてくれたのね」
「はい」
「それでも貴方はあのバトルに参加し続けるのでしょうけれど、大切なものを守ることも、忘れないでいて頂戴」
「わかりました。……それと、なんですが」
夫人から身体を離し、深みのある黒い瞳に優しい色を浮かべる彼女を見つめる。
「本当はあんまり関わらせちゃいけないと思うんですけど、夏姫は、その、エリキシルスフィアを売ろうとしてるんです」
「スフィアを、売る? それだと参加資格を失うことになるんじゃないかしら? 夏姫さんの願いはおそらく、春歌さんの復活でしょう?」
「えぇ。でも、父親を助けるために、槙島猛臣って奴に売って、とりあえずのお金を得ようとしてます。売る前にそれを止めないといけないんですが……」
「そう。猛臣君に、ね。それについてもどうにかなるわ。彼はちょっとした知り合いなのよ」
「そうだったんですか」
スフィアドール業界には顔が広いと思ってたけど、あいつとまで知り合いだったとは、ちょっと驚きだった。
夫人がどうにかなるというなら、アイツのことも大丈夫なんだろう。
「それから、僕は夫人に、何をしたらいいですか?」
「そうね。どうにかできるかは、正直なところ夏姫さんのお父様が意識を取り戻せるかどうかが鍵になりそうだけど、そちらについても最善を尽くせるよう手配するつもりよ。私も、別に自分に利益にならないことをやるつもりはないわ。それなりの利益があると思ったから、貴方に協力するのよ。でも、そうね。貴方の頼みで私が動くからには、貴方にはそれなりの貸しをつけさせてもらうわ」
「それなりって、どんなことですか?」
「それは、そのうちにまた改めてお願いすることにしようかしらね」
唇に人差し指を当てていたずらな瞳をする平泉夫人。
返せることなら貸しはいますぐにでも返したいところだけど、夫人がそのうちと言うのだから、僕からは何もできることはない。
「大丈夫よ。貴方の希望に添えるよう、できるだけのことはやらせてもらうわ」
「ありがとうございます」
また胸に抱き寄せられて、僕は少しだけ、涙を零していた。
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克樹が帰った後、平泉夫人は新しく淹れてもらった紅茶をひと口飲み、ソファの背後で控えている芳野に振り返った。
「芳野。事件のこと、背後関係などをもう少し詳しく調べて頂戴。人を使っても構わないから」
「わかりました」
「それと、安原の家に連絡を入れて頂戴」
「奥様。それは……」
跳ね上げていたディスプレイを下ろそうとしていた芳野が手を止め、困惑した視線を向けてくる。
「調べた段階で貴女にはわかっていたでしょう? 私ひとりでは解決し切れる問題ではないと」
「それは、わかっていましたが……」
「今回の件はあの業界ではよくあることではあるけれど、時期を考えれば突っ込みどころのある事件なのよ。本家の力を使えばスムーズに事が運ぶわ」
「確かにその通りだと思いますが……」
いつもは歯切れのいい言葉を使う芳野がはっきりとした返事をしない理由は、平泉夫人自身がよく理解していた。
夫人の結婚相手であった男の本家、平泉家と、夫人の実家である安原家は、関東において仇敵と言ってもいいくらいの関係にある。業界における派閥や政治的な方面での敵対関係であるが、その根は江戸時代よりもさらに昔に遡れるらしい。
発端としてはそれほど大きなことではなかったようだが、いま現在も多くの事柄で衝突し、敵対関係にある家の者との結婚は認められず、旦那は平泉家から、夫人は安原家から法的な意味でも絶縁されている。
夫人の祖父である現頭首からは二度と敷居を跨ぐことは許さないとまで言われていたが、克樹が持ち込んできた件を解決するためには、建設業界と繋がりの強い安原家から手を回した方が早く対応できる。
「例え克樹様からの願いとは言え、安原本家への連絡は無用な問題を引き起こしかねません」
状況がわかっていても、芳野の表情は険しいままだ。
芳野と一緒に過ごすようになったのは、旦那が病死し、いろいろと起こった騒動にひと段落した頃合いだった。
放っておけば死んでしまうほどの不遇な立場にあった彼女を拾ったのは、一種の気まぐれであったが、教育をし、元々あった才を伸ばし、娘と言うほどには年齢が離れていないということもあったが、かたくなな彼女の意向により、メイドという立場で側にいてもらっている。いまは欠けることができない存在となった芳野とともに過ごした時間は、もう決して短いとは言えない。
そうした時間の中で、安原家からの有形無形の嫌がらせというべき妨害などがあったことは、芳野もまた充分に知っていることだった。
絶縁されているにも関わらず、助けを求めて連絡をし、拒絶でもされれば、これまで直接的ではなかった攻撃が、明確なものとなりかねない。
そうした危惧を抱いていることは、平泉夫人にもよくわかることだった。
「今回の件は安原の家にも利のあることよ。それはわかっているでしょう?」
「はい。わかっています。ですがやはり……」
「必要なことなのよ。この先のことも、考えればね」
「この先のこと、ですか?」
さすがにそれについては推測がつかないのか、小さく首を傾げながら訝しむように目を細めている芳野。
「ちょうど、タイミングだったのよ。克樹君の件については本家に連絡を取るための口実程度よ。もちろんボランティアで動くのでも、克樹君への貸しだけで動くのでもなく、本家への手土産として利用させてもらうし、本家はわずかながら勢力図を書き換えるくらいの利は得ることでしょう。そして私は、そろそろ本家の力を使わなければ、この先立ち回るのが難しいと思っていたところなのよ」
「それはもしかして、先日彰次様に話してらしたことについて、ですか?」
「えぇ、そうよ。これから先、私と、克樹君たちによって行うことになるでしょう、魔女狩りのことよ」
困惑に染まっていた表情を引き締め、芳野は厳しい視線を夫人に向けた。
「それはあまりに危険です。モルガーナという名の存在は、文字通り魔女と言うべき、強大過ぎる力を持っています」
「もちろん、わかっているのよ。もし、あの人がただ力を持った人間ならば、例え世界をどのように動かそうと、競合相手にはなっても、敵として相対する必要はないの。けれど、明確な意識を持ち、己の願いを叶えようとする魔女だというなら、世界から排除されなければならない。あの人の願いの根底にあるのは、魔女と呼ばれるにふさわしいものであると、私には感じられるしね。この先、あの人の存在が世界にとって、大きな不利益になる可能性が高い状況なのは、貴女も理解しているでしょう?」
「それは……、わかっていますが、魔女は危険です。あの人が本気になれば、奥様であっても簡単に排除されてしまうかも知れません」
「そうでしょうね。だからこそ、本家の力が必要なのよ。本家とそれに繋がる人々にとって魔女が敵となり得るなら、例え私に何があったとしても、対抗勢力を生み出すことはできるから」
「命懸けであると、そう思ってらっしゃるのですか?」
そう言った芳野は、いつもは絶対に見せることのない、出会った頃にしか見せなかった、泣きそうな顔をした。
出会った頃の子供に戻ったように顔を歪めて悲しそうにする芳野の頭を、夫人はソファから立ち上がって抱き寄せた。
「今日は泣く子の多い日ね。大丈夫よ。死にたいわけではないから」
微かに肩を震わせていた芳野が顔を上げる。
「本当ですか?」
「えぇ、もちろんよ。少なくとも貴女が結婚でもして、幸せになるまでは、私は死ねないわ」
「わ、わたくしはその、結婚など……。いつまでも奥様の側にいさせていただければ……」
慌てたように言う芳野に笑みをかけ、夫人は言った。
「私はね、許せないのよ。私にとって一番大切な人の死を冒涜した魔女のことを。それに命を懸けているのは、おそらく克樹君たちも同じ。私もそれくらいの覚悟を持っていなければ、魔女とは戦えないわ」
「……わかりました。わたくしは、奥様に全力を以て仕えさせていただきます」
「えぇ。お願いするわ。貴女がいないと、もう私はお茶を淹れることすらできなくって、困るのよ」
茶化したように言うと、芳野は他の人には見せることのない、華やかな微笑みを見せてくれた。
それに笑みで答えながら、平泉夫人は考えていた。
――けれどたぶん、魔女の首元にナイフを突きつけられるのは、貴方なのでしょうね、克樹君。
人より少し才能があって、人よりわずかに不幸な境遇にあり、そして何よりモルガーナと誰よりも深く関わってしまっている克樹。
モルガーナと直接対決をする資格を持つのは、自分ではなく、克樹の能力と、境遇と、覚悟があってこそだろうと、夫人は考えていた。
*
「ちょっと夏姫っ」
「克樹? ……ゴメン、アタシは、その――」
「いいから」
昼休みに入って、僕はそそくさと教室から逃げ出そうとする夏姫の手を取った。
クラス中の奴らから注目されてるが、囃し立てる声も上がらない。いつも元気な夏姫が、ここのところ様子がおかしいのは誰の目から見ても明らかだったし、あれだけ彼女から側に来ていたというのに、僕から逃げるようにしてるのもわかっているからだろう。
「来てくれっ」
「あっ……。うん」
クラスの連中や、遠坂や近藤の視線に観念したのか、夏姫は振り解こうとするのを辞めた。僕から視線を外して床を見ている彼女の右手を左手で握り、廊下へと連れ出す。
まだ誰も来てない屋上まで連れてきて、僕は階段室の裏側の狭い空間に押し込むようにして夏姫の前に立ち塞がった。
つかまれていた手をさすりながら、彼女は僕から目を逸らして何も言わない。
「ゴメン、無理矢理引っ張ってきて」
「うぅん。いいけど……。でもアタシは、克樹に話すことなんて、ないよ」
「僕からは夏姫に話すことがある。――猛臣に、スフィアを売るのは少し待ってほしい」
険しい顔をして僕の瞳を見つめてくる夏姫。
苦しそうに、悲しそうに、迷っているような彼女の瞳を、僕は見つめ返す。
「それは……、無理だよ。もう約束したから」
「大丈夫だ。たぶんあいつからの連絡はしばらくはない」
「どういうこと?」
訝しむように眉を顰めた夏姫に、僕は笑いかけた。
相談したのは昨日だと言うのに、ついさっき平泉夫人から連絡が入っていた。
事はもう前に進んでいる。
「夏姫のお父さんは、まだ?」
「……うん。病院からは何の連絡もないよ。ここ何日か、病院に行けてなくて、詳しい経過は聞けてないけど」
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いろんなことを節約して生活してる夏姫には、病院といまの家を往復するのも決して楽じゃないだろう。
「病院のことも大丈夫だ。意識を取り戻して、容態が安定したら、近くのとこに転院する手はずは整ってるって」
「克樹が何かしたの? アタシは克樹に頼るわけには――」
「僕の力じゃないよ。僕の知り合いの、大人の力を借りたんだ」
「知り合い?」
泣きそうな顔をしてる夏姫は、本当にここのところ憔悴してしまっている。
目の下に隈ができてるのもそうだし、柔らかそうだった頬も明らかに痩けてしまっている。いつも僕が可愛いと思っていた彼女は、病的にと言えるくらいまで弱ってしまっていた。
そんな彼女のことは、もう見ていたくない。
「うん。知り合い。僕はいろいろと借りがあるんだけど、その人に相談したんだ」
「そんな……、アタシは克樹に迷惑かけるわけにはいかなくてっ、アタシがどうにかしないといけないのに! その人から、お金でも借りたって言うの?!」
「違うっ。大丈夫なんだ! たぶんだけど、請求自体がなかったことにできるって。それどころか、会社の方から治療費とか、そういうのを引き出せそうなんだ」
「そう……、なの?」
「うん。詳しい話は、またその力を貸してくれる人と会って話した方がいい。僕も詳しいことはまだわからないんだ。でもそういう風にできそうだって、連絡が来てる」
驚いたように小さく口を開いて、夏姫が震えていた。
まだはっきりと状況が把握できないんだろう。僕が何をして、事故のことがどうなるかとか、理解できないんだろう。
でももう大丈夫だ。夏姫がつらい目に遭う必要なんてない。
「そうなっても、アタシ、約束しちゃったから。エリキシルスフィアを売るって、はっきりと、約束しちゃったんだからっ」
「それも、そっちは本当によくわかんないんだけど、何とかなるんだって」
「……その、助けてくれる人も、参加者なの?」
「うぅん。違う。誘われたけど、断った人なんだ。僕とリーリエの、師匠、みたいな人かな。前に少しだけ話しただろ。平泉夫人って人なんだ」
身体が震えて、しゃがみ込みそうになってる夏姫の腰に手を伸ばして支える。
ただでさえ見た目以上に細く感じていた夏姫の身体は、制服の上からじゃわからなかったほどに痩せてしまっているように思えた。
「じゃあアタシは……、パパは……」
「うん、もう大丈夫だ。ああー、いや、何かまだ全部終わってるわけじゃないみたいなんだけど、どうにかなりそうだ、って段階にはなってるみたい」
「でも、でもアタシ、結局克樹に迷惑かけて……」
「いいんだ! それはっ」
涙を零れさせ始めた夏姫を、僕は抱き寄せた。
小さくなってる彼女を強く抱きしめて、耳元で囁くように言う。
「言っただろ、僕は夏姫のことが好きだ。夏姫は僕に迷惑をかけたくないって言うけど、それは僕も似たようなもんだ。夏姫がこうやって泣いてるのなんて見たくない。つらい目に遭ってほしくない。だから僕は僕の考えで動いたんだ。問題をなかったことにできる人に頼んだんだ」
「それでもアタシは結局、克樹に迷惑をかけてる」
「いいんだ。少しくらい迷惑をかけられるなんて、僕は気にしない。それよりも、勝手に僕の側から離れるなんて言うな。そっちの方がイヤなんだっ。僕の……、僕の側にいてくれ、夏姫」
僕の胸元から顔を上げた夏姫は、涙を流しながら笑って、頷いた。
そんな彼女に笑みを返しながら、僕は強く、絶対に手放したくない大切な人の身体を、抱きしめ続けた。
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