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第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション
第四章 3 喫茶ジャンクション
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「暖かい……」
時間をかけて、あたしは身体を洗い流す。
湯船こそなかったけど、シャワーから出てくる暖かいお湯が、あたしの疲れをすっかり洗い流してくれる。
お風呂は元々好きだったけど、こんなに気持ちいいなんて思ったのは初めてだった。
ごわごわになってしまった髪を、いつもとは違う銘柄の、いつもとは違う香りのシャンプーとコンディショナーで綺麗にする。
泡でいっぱいにしたスポンジを身体の隅々までこすりつけると、さっきまで重りをつけてたみたいに怠かった身体が、生まれ変わったみたいに軽くなっていった。
最後にあたしの汚れも、暗い気持ちも吸い取った泡をしっかりとお湯で洗い流した。
「ふぅー」
シャワーのお湯を止めた後、あたしはここ数日で一番幸せなため息を漏らしていた。
決して広くないシャワー室。
喫茶ジャンクションの店舗は家を改造したような造りになっていて、みのりさんに案内してもらった店の奥には、小さなキッチンも仮眠に使えそうな四畳半の畳の部屋まであった。
表のお店ほど雰囲気が統一されてるわけじゃないけど、真新しい洗濯乾燥機が妙に不釣り合いに感じる脱衣所に、シャワーを浴び終えたあたしは人の気配を気にしながら出て行く。
洗面所兼用の脱衣所にはあたしが脱いだ制服はなくって、ビニールに包まれたままの真新しい下着と、みのりさんが着ていたのと同じ深緑のお店の制服、それからタオルなんかがカゴに入って置かれていた。
稼働している洗濯乾燥機の中を覗いてみると、制服が回っているのが見えた。
洗濯完了までの時間はまだかなりある。
制服は丸洗い大丈夫な奴だったから、アイロンを当てるのは諦めるとしても、しばらくすれば洗い終わりそうだった。
バスタオルで身体と髪を拭いて、たぶん用意してくれてたんだろうドライヤーで髪を充分に乾かしてから、好意に甘えて下着とお店の制服を身につける。
事務所スペースに出てみると、テーブルの上にはまさにいまそこに置いたみたいに湯気を立てる巨大と言えそうなサイズのカップがあって、それからお皿の上にはピザトースト、さらにおいしい匂いを漂わせるコーンスープがあった。
カチューシャじゃなくて、制服と同じ深緑のヘアバンドの位置を直しながらお店の方を覗いてみる。ちょうどそこを通りがかったみのりさんが、あたしが訊こうとしていることがわかってるかのように、大きく頷いてくれた。
焦げ茶色の木製の椅子に座ると、お腹が大きな音を立てた。
思えば昨日のお昼ご飯以来何も食べてなくて、いまのいままで気がつかなかったけど、お腹が空いてどうしようもないくらいだった。
お店で飲んだときよりさらに大きなカップの中には、なみなみとココアが注がれていた。
ひと口飲んで喉と胃に染み渡る優しい甘さに、ホッと息が漏れる。
分厚いパンにソースが塗られ、トマトとピーマンとベーコンやサラミなんかの具材と、それらをしっかりチーズが覆っている熱々のピザトーストは、ひと口食べてみるといろんな味が口に広がって、少し辛いソースとチーズの微かな甘みがおいしくて、涙が出てきそうだった。
添えられたスプーンでスープを掬って飲んでみる。家で飲むのより少しとろみの強いコーンスープは、すごく深みのある味で、いままで飲んだどんなスープよりもおいしかった。
ピザトーストとコーンスープを交互に口に運んで、両方ともけっこう量が多かったはずなのに、瞬く間に食べ終わってしまった。
お腹が満たされた後、まだ温かいココアは、お腹だけじゃなくて、頭にも染みこんでくるみたいに、ひと口飲むごとに思考もすっきりしていった。
お腹が空いてたからかも知れないけど、いままで食べてきたどんな料理よりも、このピザトーストとコーンスープとココアはおいしく感じた。
「ふぅ……」
大きく息を吐いて、元気を取り戻したあたしは椅子から立ち上がる。
このまま眠ってしまいたい気持ちもあったけど、そういうわけにもいかない。
あたしはいまの歪んでしまっている状況を、どうにかしなくちゃいけない。
禄朗がいまどうしているかを、知るために。どんなことになっていたとしても、禄朗ともう一度会うために。
その方法はたぶん、あたしのことを憶えてくれていたみのりさんが何か知っているんじゃないかと思った。
短い廊下を抜けてお店の方に顔を覗かせると、あたしはびっくりした。
ついこの前はひとりもお客さんがいなかったのに、今日は満席どころじゃない騒ぎになっていた。
テーブルを挟んで向かい合って座るグリフィンとイグアナが、クリームソーダの飲み方について激しい言い合いをしていた。
お店の片隅で巨大なジョッキに刺さったストローをすすっている痩せたドラゴンは、ひと口飲むごとに人生に疲れ切ったみたいなため息を漏らしている。
人だと思うけど、全身金属の鎧で覆っている騎士みたいな人は、スープをスプーンで掬って兜を被った口元まで持っていって、そこで固まっていた。
他にも動物や妖怪や妖精や、いろんなお客さんがいて、椅子が足りないどころか歩く隙間を探すのすら難しいくらい、お店は盛況だった。
そんな間を優雅な動きですり抜けているみのりさんは、注文を伝票に書きつけたり、できあがった料理や飲み物をお客さんのところに持っていったりと、忙しそうに立ち回っている。
「すみません、アイリスさん。今日は見ての通りお客さんがいっぱいになってまして」
注文を書き付けた伝票をマスターに差し出したみのりさんは、あたしに気づいて側までやってきた。
「どうしたんですか? この前はあんなだったのに」
「今日はちょっと特別なんですよー」
言ってみのりさんは笑む。
「えぇっと、その、色々お世話になってしまって……。食事までいただいてしまって……」
「いいんですよ。でもちょっと、落ち着くまで時間がなさそうなんですよー。少し待っていていただけますか? お店が落ち着く頃には洗濯も終わっていると思いますし」
「それはいいんですけど……」
どうせなら、とちょっと思った。
せっかくいまお店の制服を着ているんだし、お手伝い程度だけど飲食店のアルバイトは少ししたことがある。この盛況さをどうにかできるかどうかはわからないけど、手伝いくらいはできそうだと思った。
あたしの考えを読んだみたいに、笑みを浮かべたみのりさんが言う。
「お店が落ち着くまで、お手伝いをお願いしてよろしいですか? アイリスさん」
「――はい」
そう言ってもらえたことが嬉しくて、あたしは渡された伝票を手に、早速手を挙げてるお客さんのところに駆けつける。
お店は本当に、お客さんが入れ替わり立ち替わりやってきて、かなり長い時間すごいことになっていた。
*
「お疲れさまです」
言ってみのりさんが差し出してくれたのは、ブラックのコーヒーだった。
いつもなら砂糖とミルクを入れるコーヒーを、今日はそのままでひと口飲んでみる。
甘いココアもすごくおいしかったけど、酸味と渋みがあって、でもほんの微かに甘みを感じるコーヒーは何も入れないままでもおいしかった。
最後のお客さんが帰ったのは、ついさっきのこと。
お手伝いを始めた頃はまだ少し明るかった外は、クローズの札をみのりさんが掛ける頃には、すっかり暗くなってしまっていた。
次々と洗い物を進めるマスターは、やっぱり存在感が薄くて、カウンターの席に座ってるあたしのことをちらりと見るけど、何も言うこともなく、表情を変えることもなく、忙しく手元を動かしていた。
あたしの隣に座るみのりさんも、さすがに少し疲れたような笑みを浮かべている。
「いつもはこんな感じなんですか?」
「いえいえ。常連のお客さんもいますし、いろんなお客さんも来て忙しいときもありますが、今日みたいなのは特別ですよ」
「何かあったんですか?」
両手でコーヒーのカップを包むようにして口元に運ぶみのりさんは、「んー」と少し考えるように声を上げる。
「アイリスさんには話しておいた方がいいですね。この世界は、歪みが大きくなりすぎたので、もうすぐなくなってしまうんです」
「え?」
――世界がなくなってしまうって、どういうことだろう?
よくわからなかった。
地球が滅亡してしまうとか、宇宙が消えてなくなってしまうとか、そういう感じではないような気がした。
でも同時に、何となくわかるような気がした。
「このお店は喫茶ジャンクション。人と人が出会う交差点。そして人とモノが、時としてはモノとモノが出会う場所なんです。歪みの大きいこの世界では、普段では行き交うことのできない存在同士が出入りすることもできます。もうすぐなくなってしまうこの世界だから、今日はいつもと少し違う、特別な日だったんです」
やっぱりみのりさんの言うことがわからないような、わかるような気がした。
「世界がなくなってしまったら、このお店はどうなるんですか?」
「それはお気になさらなくても大丈夫です。わたしは未来予報士。世界に対して横幅を持って存在しています。そしてこのお店も、必要に応じて必要な世界に存在しています。だから、世界がどうなろうとあまり気にする必要はないんです」
微笑むみのりさんの言葉に、あたしは首を傾げることしかできない。
「でも、アイリスさんはそういうわけにはいきません」
少し真面目な顔をするみのりさん。
「アイリスさんは、この世界がなくなるときに、巻き込まれて消えてしまうと思います。それでも特別問題があるわけではありません。ここはひとつの強い願いによって生まれた分岐世界。この世界の分岐元となった世界はそのままですし、いまここにいるアイリスさんが消えるだけです。その場合、完全に分離を終えていない元の世界にはなんら影響がない、ということになります。元の世界は、元の通り、いまのこの世界の影響を受けずに存在し続けます。それでアイリスさんが問題ないのであれば、ですが」
――あたしが、消える?
どういうことなのかよくわからなかったけど、何となく、それでもいい気がした。
もうどうせあたしはこの世界で存在をなくしてしまっていた。
みのりさんが憶えてる他は、誰もあたしのことを憶えてなかった。
このお店も、みのりさんも消えてなくなってしまうというなら、あたしもそれと一緒に消えてしまってもいい。そう思えていた。
――でも本当に、消えてもいいのかな?
ほんの数日の間に、いろんなことがあった。
禄朗のことを忘れていたなんて、いまから考えれば信じられない。
自分が、この世界のほとんどの人たちから忘れられてしまったなんて、つらくて堪えられなかった。
忘れることも、忘れられることも、こんなにつらいことなんだと、あたしは初めて知った。そのことを感じることができた。
この世界で禄朗を見つけることはできてないけど、いまこうして感じてることは、失いたくないと思った。
「……戻りたいです。元の、世界に」
「本当に戻りたいですか? この世界であったことは、つらいことばかりだったんじゃないかと思います。それでもその記憶を、その想いを、失いたくないと思いますか?」
「はい」
カップに落としていた顔を上げて、しっかりとみのりさんを見つめる。
「元の世界に戻ったとして、どういうことになっているのかは、たぶんもういまのアイリスさんならわかっているんじゃないですか?」
「それでも、あたしは戻りたいんです」
あたしのことをじっと見つめてくるみのりさんの視線を、しっかりと見つめ返す。
忘れることも、忘れられることも、嫌だった。
たぶん禄朗にどんなことがあって、この世界にいないのか、この世界に何がなくなってしまっているのか、それはもうだいたいわかっていた。
この世界を生み出した願いの正体に、気づき始めていた。
それでも、あたしは自分のいるべき世界に戻って、いまの想いを抱き続けていたかった。
「それならもう、アイリスさんには自分のやるべきことがわかっていると思います」
言ってみのりさんは、エプロンのポケットから何かを取り出す。
それは鍵。
制服のポケットに入れっぱなしにしてあった、学校の屋上の鍵だった。
「制服はもう洗い終わって、アイロンもかけておきました」
「ありがとうございます」
あんなにお店が忙しかったのに、いつの間にそんなことをしていたんだろうとちょっと思って、顔がほころんでしまう。
みのりさんから受け取った鍵を少しの間眺めて、握りしめる。
もう一度彼女のことをしっかり見て、それから言った。
「本当にありがとうございました。いつか必ず、約束のケーキを買ってここに来ます」
「えぇ。大丈夫ですよ。すぐにまた、会うことができますから」
微笑むみのりさんに、あたしも笑みを返す。
「行ってきます。また」
「はい。また。行ってらっしゃいませ」
みのりさんの言葉を背に受けて、あたしは制服に着替えるためにお店の奥へと走った。
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