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過去編
僕がトモと名乗った日 中編
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僕は摺木先輩を勝手に心の底から嫌っていたので、一年後驚くことになる。
その日は二次試験前日。不安が頭から離れなかった。
はじめて慣れない土地に一人でやってきていた。
雪の関係で明日は早めに電車に乗らなければならないとか、試験会場である大学までの道順を何度も見直し、受験票は落としてないかと鞄の中をチェックし、とにかく気が気でない状況にあった。
夕方、僕は予約していたホテルに到着した。
そのとき、同じタイミングでチェックインしに来た人物にあっと声をあげた。
「あの、もしかして摺木先輩じゃないですか?」
自分と同じくらいの年齢の人を探していたら、都合よく見覚えのある人がいるじゃないか。それだけの、軽い気持ち、すがりつきたい気持ちで声をかけた。
けれど彼はマフラーとマスクの奥から鋭敏な視線で僕を睨んできた。
「どちら様ですか」
「えっと、同じ高校、の……」
「高三?」
「はい」
「後輩か」
ポツリと漏らしたあと、彼はチェックインを始めた。僕も慌ててチェックインを済ませる。
僕のチェックインが終わると先輩は僕の手を引っ張ってエレベーターに急いで乗り込んだ。エレベーターで二人きりになると、彼がふぅっと溜息を吐いた。
今目の前にいるこの人は、首が見えなくなるほど黒髪を無造作に放置し、虚ろな目の下には隈が深く刻まれている。
一人で舞台に立っていた去年とはすごい変わりようだ。本当にあの人なのか?
「僕、人違いしてしまったんでしょうか」
「だったら?」
「謝ります」
エレベーターの扉が開き、先輩がキャリーバッグを引きながら外に出る。
こちらに振り返ると、マスクをはずして微笑した。
「謝らなくていいよ。人違いじゃないし。荷物を置いてロビーで待ち合わせでいいかな」
「はっ、……あっ」
返事しようとしたが、エレベーターが閉まってしまった。
しまった! ボタンを押しておけば!
その後、急いで部屋に荷物を置いてロビーへと向かった。
ホテルのロビーは丸い机と椅子が置かれていて、各々がくつろいですごしていた。
壁はガラス張りで、外の景色を楽しむこともできるが生憎の曇り空だった。やっぱり明日は雪か、と考えつつ、外の景色からロビー内へと視線を移す。
先輩の姿があったが、先程睨まれたこともあり、少し距離をおいたところからじっと観察してみた。
椅子に座り、先輩は英単語帳を眺めていた。他の受験生と何ら変わらない態度だが、妙に風格を感じる。先ほどまでマフラーやマスクで隠れていた顔全体を見て腑に落ちた。風格を感じるのは、歳不相応な目つきのせいだ。
先輩と目があった。バレバレだったらしい。
僕は駆け足で近寄り、「失礼します」と彼の向かいの席に着席する。
「どうぞ。何か飲むならあっちに自販機あったけど」
「いえ、大丈夫です」
「そう」
暫しの沈黙。彼は手元の英単語帳を眺め、僕は視線を泳がせていた。
何も話題が思いつかないのである。
前にもこんなことがあった。
恋愛に浮かれてる奴をバカにしてやろうと踏み込んだが、先輩だとわかった瞬間、何もできなかった。
今日も、先輩とわかった途端何も言えなくなってしまった。
情けなくて落ち込んでいる僕に、先輩が助け船を出してくれた。
「で、何の用?」
「あ、その、……先輩はどうしてここにいるんですか?」
「受験」
と手に持っている英単語帳を軽く上げてみせた。
「同じなんですね」
「ああ。今日ここに泊まってる受験生全員そうじゃないか?」
「なるほど……。一人だと明日のことばかり考えてしまって不安で」
「だろうな」
「先輩は落ち着いてますね」
「慣れてるから」
ダンス部としていつも人前に出ていた彼のことだ。慣れていて当然だろう。
それに僕の受験する大学は、彼からすれば余裕で合格圏内だ。そのぶん僕の合格がますます遠のいていくとしたら……。嫌だな。困るな。
「先輩って、昨年は難関大受験でしたよね?」
「よく知ってるな……。そうだよ。今年はここ。余裕で合格できるなんて思ってないけど」
自分の気持ちが見透かされた気分だ。思わず乾いた笑いがこぼれて背筋を伸ばす。
先輩が小さく溜息を吐いた。
「俺のこと知ってる奴がいるから驚いた」
「そうですか」
「ていうか会ったことある?」
「ない、と思います。僕が一方的に知ってるだけです」
「ふぅん」
興味なさそうに相槌を打たれた。
今になって僕がこの人に話しかけてしまった意味が分からない。
この人はめちゃくちゃできる人じゃないか。自尊心を粉々にするために話しかけたんなら、僕もいよいよ受験勉強で頭がおかしくなってしまったか。
恥ずかしくなってきて、僕は平身低頭した。
「すみません」
「何のこと?」
「僕、知ってる人がいない県外を受けたくてここ選んだんですけど、いざひとりで受験すると思ったら不安になって、知ってる顔が見えたから話しかけちゃったんですけど先輩の邪魔しちゃってますよね。すみません」
「……え?」
「えっ?」
「そのためじゃないの?」
「へ?」
「それ目当てで話しかけてきてるのかと」
「は?」
「え?」
僕は目を見張り、先輩は目を瞬いた。
去年、先輩にイライラした覚えはあるが、受験勉強をしていたら気にならなくなった。いなくなれば赤の他人だからだ。顔と名前すら思い出さなくなることだってある。
先輩は人気者だったから思い出せたが、あと一年遅ければ忘れていたかもしれない程度だ。
でも、わざわざ彼がそう漏らすということは、考えられることはひとつ。
「もしかしてですけど、そういうことされたことあります?」
「だったら?」
答えることができなかった。目の前の先輩が当たり前だとでも言いたげに返したことに不快感を覚えた。
蘇るのは昨年の文化祭。
先輩が一人で立っていた姿。
あの文化祭がどうか思い出作りと称して彼の受験を邪魔する建前でなかったことを願わずにはいられない。
言葉に詰まっていると、先輩は英単語帳を閉じてこちらに目を向けた。
「ま、たいしたことじゃない」
固まっている僕と違い、彼は気怠そうに頬杖をついた。
「人間、分相応な生き方しないと痛い目に遭うってことだな」
「だから先輩はここを受験するんですか」
「ああ」
「分相応に生きるために受験先を変えたと?」
「そう思う?」
凡人の僕には有名税の実体験がないので、何とも言えない。
漫画キャラならと仮定してみれば、数作品の登場人物が脳内に浮かぶ。
完璧主義のキャラはいつだって完璧を求めるし、プライドを持っているので諦めない印象が強い。
とするならば、先輩は分相応な生き方を理由に受験先を変更しないと考えられる、か?
僕が口を開く前に「まさか」と彼は冷笑した。
「うんざりした。それだけだよ」
その冷たい笑みに一瞬、心が押しつぶされそうになった。
僕は視線を落として彼の言葉を心のなかで反芻し、何に対してうんざりしたのかが抜け落ちていることに気がついた。
自分自身に対して嫌気が差したのか。それとも周囲の、社会に対しての幻滅か。
どちらにせよ、この人は嘲てみせたのだ。
僕は意をけして面を上げた。先ほど抱いた去年の文化祭の真相を確かめたくなった。
が、やめた。彼の手持ち無沙汰になった手がかすかに震えているのが気になる。さっきから顔色もよくない。
「ちょっとすみません」
立ち上がり、有無を聴かずに先輩の手に触れる。
「熱くないですか?」
「さあ。自分ではあまり感じないけど」
「本当ですか? じつは風邪引いてたりしません?」
「……連日寝不足かな」
「ちょっと来てください」
「大丈夫だよ。電車で仮眠とったし」
「カードキー貸してください、ほらはやく」
僕は先輩を強引に引きつれ、彼の部屋に押し入る。先輩が追い出さないようにこれまた強引にカードキーを取り上げ、僕の部屋から体温計を持ってくると熱があることが判明した。
その日は二次試験前日。不安が頭から離れなかった。
はじめて慣れない土地に一人でやってきていた。
雪の関係で明日は早めに電車に乗らなければならないとか、試験会場である大学までの道順を何度も見直し、受験票は落としてないかと鞄の中をチェックし、とにかく気が気でない状況にあった。
夕方、僕は予約していたホテルに到着した。
そのとき、同じタイミングでチェックインしに来た人物にあっと声をあげた。
「あの、もしかして摺木先輩じゃないですか?」
自分と同じくらいの年齢の人を探していたら、都合よく見覚えのある人がいるじゃないか。それだけの、軽い気持ち、すがりつきたい気持ちで声をかけた。
けれど彼はマフラーとマスクの奥から鋭敏な視線で僕を睨んできた。
「どちら様ですか」
「えっと、同じ高校、の……」
「高三?」
「はい」
「後輩か」
ポツリと漏らしたあと、彼はチェックインを始めた。僕も慌ててチェックインを済ませる。
僕のチェックインが終わると先輩は僕の手を引っ張ってエレベーターに急いで乗り込んだ。エレベーターで二人きりになると、彼がふぅっと溜息を吐いた。
今目の前にいるこの人は、首が見えなくなるほど黒髪を無造作に放置し、虚ろな目の下には隈が深く刻まれている。
一人で舞台に立っていた去年とはすごい変わりようだ。本当にあの人なのか?
「僕、人違いしてしまったんでしょうか」
「だったら?」
「謝ります」
エレベーターの扉が開き、先輩がキャリーバッグを引きながら外に出る。
こちらに振り返ると、マスクをはずして微笑した。
「謝らなくていいよ。人違いじゃないし。荷物を置いてロビーで待ち合わせでいいかな」
「はっ、……あっ」
返事しようとしたが、エレベーターが閉まってしまった。
しまった! ボタンを押しておけば!
その後、急いで部屋に荷物を置いてロビーへと向かった。
ホテルのロビーは丸い机と椅子が置かれていて、各々がくつろいですごしていた。
壁はガラス張りで、外の景色を楽しむこともできるが生憎の曇り空だった。やっぱり明日は雪か、と考えつつ、外の景色からロビー内へと視線を移す。
先輩の姿があったが、先程睨まれたこともあり、少し距離をおいたところからじっと観察してみた。
椅子に座り、先輩は英単語帳を眺めていた。他の受験生と何ら変わらない態度だが、妙に風格を感じる。先ほどまでマフラーやマスクで隠れていた顔全体を見て腑に落ちた。風格を感じるのは、歳不相応な目つきのせいだ。
先輩と目があった。バレバレだったらしい。
僕は駆け足で近寄り、「失礼します」と彼の向かいの席に着席する。
「どうぞ。何か飲むならあっちに自販機あったけど」
「いえ、大丈夫です」
「そう」
暫しの沈黙。彼は手元の英単語帳を眺め、僕は視線を泳がせていた。
何も話題が思いつかないのである。
前にもこんなことがあった。
恋愛に浮かれてる奴をバカにしてやろうと踏み込んだが、先輩だとわかった瞬間、何もできなかった。
今日も、先輩とわかった途端何も言えなくなってしまった。
情けなくて落ち込んでいる僕に、先輩が助け船を出してくれた。
「で、何の用?」
「あ、その、……先輩はどうしてここにいるんですか?」
「受験」
と手に持っている英単語帳を軽く上げてみせた。
「同じなんですね」
「ああ。今日ここに泊まってる受験生全員そうじゃないか?」
「なるほど……。一人だと明日のことばかり考えてしまって不安で」
「だろうな」
「先輩は落ち着いてますね」
「慣れてるから」
ダンス部としていつも人前に出ていた彼のことだ。慣れていて当然だろう。
それに僕の受験する大学は、彼からすれば余裕で合格圏内だ。そのぶん僕の合格がますます遠のいていくとしたら……。嫌だな。困るな。
「先輩って、昨年は難関大受験でしたよね?」
「よく知ってるな……。そうだよ。今年はここ。余裕で合格できるなんて思ってないけど」
自分の気持ちが見透かされた気分だ。思わず乾いた笑いがこぼれて背筋を伸ばす。
先輩が小さく溜息を吐いた。
「俺のこと知ってる奴がいるから驚いた」
「そうですか」
「ていうか会ったことある?」
「ない、と思います。僕が一方的に知ってるだけです」
「ふぅん」
興味なさそうに相槌を打たれた。
今になって僕がこの人に話しかけてしまった意味が分からない。
この人はめちゃくちゃできる人じゃないか。自尊心を粉々にするために話しかけたんなら、僕もいよいよ受験勉強で頭がおかしくなってしまったか。
恥ずかしくなってきて、僕は平身低頭した。
「すみません」
「何のこと?」
「僕、知ってる人がいない県外を受けたくてここ選んだんですけど、いざひとりで受験すると思ったら不安になって、知ってる顔が見えたから話しかけちゃったんですけど先輩の邪魔しちゃってますよね。すみません」
「……え?」
「えっ?」
「そのためじゃないの?」
「へ?」
「それ目当てで話しかけてきてるのかと」
「は?」
「え?」
僕は目を見張り、先輩は目を瞬いた。
去年、先輩にイライラした覚えはあるが、受験勉強をしていたら気にならなくなった。いなくなれば赤の他人だからだ。顔と名前すら思い出さなくなることだってある。
先輩は人気者だったから思い出せたが、あと一年遅ければ忘れていたかもしれない程度だ。
でも、わざわざ彼がそう漏らすということは、考えられることはひとつ。
「もしかしてですけど、そういうことされたことあります?」
「だったら?」
答えることができなかった。目の前の先輩が当たり前だとでも言いたげに返したことに不快感を覚えた。
蘇るのは昨年の文化祭。
先輩が一人で立っていた姿。
あの文化祭がどうか思い出作りと称して彼の受験を邪魔する建前でなかったことを願わずにはいられない。
言葉に詰まっていると、先輩は英単語帳を閉じてこちらに目を向けた。
「ま、たいしたことじゃない」
固まっている僕と違い、彼は気怠そうに頬杖をついた。
「人間、分相応な生き方しないと痛い目に遭うってことだな」
「だから先輩はここを受験するんですか」
「ああ」
「分相応に生きるために受験先を変えたと?」
「そう思う?」
凡人の僕には有名税の実体験がないので、何とも言えない。
漫画キャラならと仮定してみれば、数作品の登場人物が脳内に浮かぶ。
完璧主義のキャラはいつだって完璧を求めるし、プライドを持っているので諦めない印象が強い。
とするならば、先輩は分相応な生き方を理由に受験先を変更しないと考えられる、か?
僕が口を開く前に「まさか」と彼は冷笑した。
「うんざりした。それだけだよ」
その冷たい笑みに一瞬、心が押しつぶされそうになった。
僕は視線を落として彼の言葉を心のなかで反芻し、何に対してうんざりしたのかが抜け落ちていることに気がついた。
自分自身に対して嫌気が差したのか。それとも周囲の、社会に対しての幻滅か。
どちらにせよ、この人は嘲てみせたのだ。
僕は意をけして面を上げた。先ほど抱いた去年の文化祭の真相を確かめたくなった。
が、やめた。彼の手持ち無沙汰になった手がかすかに震えているのが気になる。さっきから顔色もよくない。
「ちょっとすみません」
立ち上がり、有無を聴かずに先輩の手に触れる。
「熱くないですか?」
「さあ。自分ではあまり感じないけど」
「本当ですか? じつは風邪引いてたりしません?」
「……連日寝不足かな」
「ちょっと来てください」
「大丈夫だよ。電車で仮眠とったし」
「カードキー貸してください、ほらはやく」
僕は先輩を強引に引きつれ、彼の部屋に押し入る。先輩が追い出さないようにこれまた強引にカードキーを取り上げ、僕の部屋から体温計を持ってくると熱があることが判明した。
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