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6話 曇り
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翌日、薬を飲んで何とか熱が下がった愛はいつものように出勤したが、市瀬はやって来ない。昨日心配の連絡が沢山来ていたが、疲れて眠っていた愛は今朝になってそれに気が付いた。もう元気になったことと昨日のお礼を返信しておいた。
「おはようございます」
「めぐちゃん大丈夫?」
店主の奥さんが駆け寄ってきた。
「今日も休んだってよかったのよ」
「いえ、大丈夫です」
「そう? でも無理しちゃだめよ。
何かあったらすぐに言ってね」
「ありがとうございます」
店に入ると、客が数人いた。その中には常連の顔もある。愛は挨拶をしながら仕事を始めた。
それから暫くして、店のドアが開く音がした。
顔を上げるとそこには市瀬がいた。
──市瀬さんだ。
嬉しくて思わず笑みがこぼれる。市瀬の顔を見るだけで安心した。心細い時、馬場に殴られている時、寂しい時、思い出すのは市瀬の顔だった。
「遠坂くん。もういいの?」
「はい!
もう元気です。
昨日はありがとうございました」
愛は笑顔で言った。だが、その表情はすぐに曇ることになる。
──あれ? どうしてだろう。
市瀬の様子がおかしい。何か考えるように俯いている。何かあったのか。愛は不安になった。
「遠坂くん、今日の夜、一緒にご飯でもどうかな」
バイトを終えると、愛は市瀬と駅前で待ち合わせをして、近くのイタリアンレストランへ行った。お洒落な店内には、ピザやパスタの良い匂いが漂っている。客も大勢いて賑わっていた。愛は看板メニューであるクリームパスタを注文した。とろとろのクリームはコクがあって美味しい。パスタを口へ運んでいると、市瀬は話を切り出した。
「昨日のことだけど、遠坂くんはいつもあの人と一緒にいるの?」
「馬場さんのことですか?」
「⋯大丈夫なの?
あの人と一緒にいて」
「どういう意味ですか?」
「暴力振るわれたりとかしないよね?」
愛は思わず目を見開いた。ここで勘づかれるようなことがあってはいけない。
「⋯違いますよ。
ただの親子喧嘩みたいなものです」
愛は笑って言った。しかし、市瀬の真剣な眼差しに圧倒され、何も言えなくなる。
「じゃあ質問を変える。
遠坂くんのお父さんやお母さんは?」
「父は幼い頃に離婚したのでいません。
母は今でも一緒に暮らしていますよ」
「そうなんだ。
こんなこと聞いてごめんね」
「いえ⋯」
「あの、馬場さん?とはいつから一緒にいるの?」
「高校生とか⋯ですかね」
「その時からあんな感じなの?
随分酷い態度だと思うけど」
「そうですか?
ちょっと言葉はきついけど、悪い人じゃないですよ」
「本当に大丈夫? 辛くない?」
市瀬の言葉に愛は目を丸くする。まさかこんなに心配されるとは思っていなかった。
「はい、全然平気です」
愛がそう言っても、市瀬は浮かない顔をしている。そして、何かを決心したかのように愛を見た。
「遠坂くんに、言いたいことがあるんだけど⋯」
「⋯はい」
市瀬はその”言いたいこと”を中々言おうとしない。ああでもない、こうでもない、と悩むようにしてから、ふーっと息を吐いた。
「⋯ううん、やっぱりいいや。
もし何か困ったことがあったら、俺にすぐ教えて」
「分かりました。
ありがとうございます」
「遠坂くんは遠慮するから、本当になんでも言って欲しい」
「なんでも⋯」
好きと言っても、市瀬は受け止めてくれるのだろうか。愛の頭の中からは馬場のことが抜け落ちていた。馬場に暴言を吐かれたり暴力を振るわれたりするのは、当たり前だったから、助けを求めるという考えにはならなかった。自分に悪いところがあるから殴られるのだ。愛は本気でそう思っていた。どんな理由であれ暴力はだめなんて、綺麗事だと思っている。愛は自分は劣等種だから仕方ないのだと本気で考えている。市瀬は愛のそういう所に少し気が付いていた。自己肯定感があまりに低く、なんでも自分が我慢すればいいとする愛の性質に。
「何でもいいよ」
「え?」
「遠坂くんが助けて欲しい時は、
俺を頼ってほしい」
「でも、市瀬さんに迷惑ですし⋯」
「大丈夫だよ。
遠坂くんにはたくさんお世話になってるんだから、これくらいさせて」
「ありがとうございます」
愛は嬉しそうに笑ったが、その笑顔がどこか痛々しく見えてしまう。市瀬はそんな愛の手を握った。
「大丈夫だよ。
俺が守るからね」
料理を食べ終わり、二人は店を出た。会計の際、愛が財布を出す間もなく、市瀬は会計を済ませていた。
「市瀬さん、お金返しますよ」
「いいのいいの、もう払っちゃったもん」
市瀬はおどけて笑った。
──市瀬さんのこういうところが好きだなぁ。
愛は市瀬のことを見つめながら思う。自分のことをちゃんと見てくれて、大切にしてくれる。愛が気を遣わないように、逆に気を遣ってくれる。優しいな。愛は嬉しくなって、思わず笑みがこぼれた。
「どうしたの?」
「市瀬さんは優しいですね」
「そう? ありがとう」
それから市瀬は愛を家まで車で送ってくれた。
「遠坂くんの家まで送っていくね」
「すみません、ありがとうございます」
家までの道のりの間、愛はずっと黙っていた。なんだか緊張して上手く話せなかったのだ。
「着いたよ」
家の前まで着くと、市瀬は言った。愛は慌てて頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「またご飯行こうね」
「はい!」
そう言うと、市瀬は愛の頭を撫で、帰っていった。
「おはようございます」
「めぐちゃん大丈夫?」
店主の奥さんが駆け寄ってきた。
「今日も休んだってよかったのよ」
「いえ、大丈夫です」
「そう? でも無理しちゃだめよ。
何かあったらすぐに言ってね」
「ありがとうございます」
店に入ると、客が数人いた。その中には常連の顔もある。愛は挨拶をしながら仕事を始めた。
それから暫くして、店のドアが開く音がした。
顔を上げるとそこには市瀬がいた。
──市瀬さんだ。
嬉しくて思わず笑みがこぼれる。市瀬の顔を見るだけで安心した。心細い時、馬場に殴られている時、寂しい時、思い出すのは市瀬の顔だった。
「遠坂くん。もういいの?」
「はい!
もう元気です。
昨日はありがとうございました」
愛は笑顔で言った。だが、その表情はすぐに曇ることになる。
──あれ? どうしてだろう。
市瀬の様子がおかしい。何か考えるように俯いている。何かあったのか。愛は不安になった。
「遠坂くん、今日の夜、一緒にご飯でもどうかな」
バイトを終えると、愛は市瀬と駅前で待ち合わせをして、近くのイタリアンレストランへ行った。お洒落な店内には、ピザやパスタの良い匂いが漂っている。客も大勢いて賑わっていた。愛は看板メニューであるクリームパスタを注文した。とろとろのクリームはコクがあって美味しい。パスタを口へ運んでいると、市瀬は話を切り出した。
「昨日のことだけど、遠坂くんはいつもあの人と一緒にいるの?」
「馬場さんのことですか?」
「⋯大丈夫なの?
あの人と一緒にいて」
「どういう意味ですか?」
「暴力振るわれたりとかしないよね?」
愛は思わず目を見開いた。ここで勘づかれるようなことがあってはいけない。
「⋯違いますよ。
ただの親子喧嘩みたいなものです」
愛は笑って言った。しかし、市瀬の真剣な眼差しに圧倒され、何も言えなくなる。
「じゃあ質問を変える。
遠坂くんのお父さんやお母さんは?」
「父は幼い頃に離婚したのでいません。
母は今でも一緒に暮らしていますよ」
「そうなんだ。
こんなこと聞いてごめんね」
「いえ⋯」
「あの、馬場さん?とはいつから一緒にいるの?」
「高校生とか⋯ですかね」
「その時からあんな感じなの?
随分酷い態度だと思うけど」
「そうですか?
ちょっと言葉はきついけど、悪い人じゃないですよ」
「本当に大丈夫? 辛くない?」
市瀬の言葉に愛は目を丸くする。まさかこんなに心配されるとは思っていなかった。
「はい、全然平気です」
愛がそう言っても、市瀬は浮かない顔をしている。そして、何かを決心したかのように愛を見た。
「遠坂くんに、言いたいことがあるんだけど⋯」
「⋯はい」
市瀬はその”言いたいこと”を中々言おうとしない。ああでもない、こうでもない、と悩むようにしてから、ふーっと息を吐いた。
「⋯ううん、やっぱりいいや。
もし何か困ったことがあったら、俺にすぐ教えて」
「分かりました。
ありがとうございます」
「遠坂くんは遠慮するから、本当になんでも言って欲しい」
「なんでも⋯」
好きと言っても、市瀬は受け止めてくれるのだろうか。愛の頭の中からは馬場のことが抜け落ちていた。馬場に暴言を吐かれたり暴力を振るわれたりするのは、当たり前だったから、助けを求めるという考えにはならなかった。自分に悪いところがあるから殴られるのだ。愛は本気でそう思っていた。どんな理由であれ暴力はだめなんて、綺麗事だと思っている。愛は自分は劣等種だから仕方ないのだと本気で考えている。市瀬は愛のそういう所に少し気が付いていた。自己肯定感があまりに低く、なんでも自分が我慢すればいいとする愛の性質に。
「何でもいいよ」
「え?」
「遠坂くんが助けて欲しい時は、
俺を頼ってほしい」
「でも、市瀬さんに迷惑ですし⋯」
「大丈夫だよ。
遠坂くんにはたくさんお世話になってるんだから、これくらいさせて」
「ありがとうございます」
愛は嬉しそうに笑ったが、その笑顔がどこか痛々しく見えてしまう。市瀬はそんな愛の手を握った。
「大丈夫だよ。
俺が守るからね」
料理を食べ終わり、二人は店を出た。会計の際、愛が財布を出す間もなく、市瀬は会計を済ませていた。
「市瀬さん、お金返しますよ」
「いいのいいの、もう払っちゃったもん」
市瀬はおどけて笑った。
──市瀬さんのこういうところが好きだなぁ。
愛は市瀬のことを見つめながら思う。自分のことをちゃんと見てくれて、大切にしてくれる。愛が気を遣わないように、逆に気を遣ってくれる。優しいな。愛は嬉しくなって、思わず笑みがこぼれた。
「どうしたの?」
「市瀬さんは優しいですね」
「そう? ありがとう」
それから市瀬は愛を家まで車で送ってくれた。
「遠坂くんの家まで送っていくね」
「すみません、ありがとうございます」
家までの道のりの間、愛はずっと黙っていた。なんだか緊張して上手く話せなかったのだ。
「着いたよ」
家の前まで着くと、市瀬は言った。愛は慌てて頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「またご飯行こうね」
「はい!」
そう言うと、市瀬は愛の頭を撫で、帰っていった。
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