七色のエスポワール

ほたる

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3話 戸惑い

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それから市瀬は度々愛のバイト先に顔を出した。いつもスーツ姿で夜に来るから、仕事帰りに寄っているのだろう。愛が出迎えると、市瀬は嬉しそうに笑った。そして必ずと言っていいほどこう言うのだ。

──遠坂くんに会いたくて来たんだよ

なんて、本当に口説いているみたいで恥ずかしい。愛は毎回顔を赤く染めながら俯くことしか出来なかった。
市瀬は毎日のように店に来てくれるけれど、2人で話す機会はない。愛はいつもカウンターの中で黙々と作業をしているだけだ。時々話しかけてくれることもあるのだが、愛は口下手ですぐ会話を切り上げてしまう。もっと話が上手ければ市瀬を楽しませられるのにな、と思う。


そんなある日、珍しく客の少ない時間があった。店内にいるのは、愛と常連のお婆さんだけで、そのお婆さんはいつも通り、愛を孫のような目で見つめていた。しかし今日はその視線が痛い。愛は何となく居心地が悪くなり、窓の外を眺めた。するとそこには、買い物袋を持った市瀬の姿があるではないか。愛は驚いて目を瞬かせた。あんなところで何をしているんだろう。そう思っていると、市瀬に女性が駆け寄る。

「え?」

女性は親しげに話しながら、そのまま二人で並んで歩き出した。まるで恋人同士のようだ。その光景を見た瞬間、胸の奥で何かどろりとしたものが溢れ出す感覚に陥った。なんなんだろう。この嫌な気持ちは。市瀬に親しい女性がいたって、何もおかしくはない。それなのに、何故こんなにも苦しいんだ。もしかして具合が悪いのだろうか。

「愛くん?」

窓の外を見つめて呆然としている愛を心配そうに店主が覗き込む。

「あ、すみません……」

「大丈夫かい? 顔色が良くないよ?」

「はい、平気です」

「お水飲む?」

「いえ、もう上がりますので……」

愛は逃げるように店を飛び出した。心臓がバクバクと音を立てている。何かに怯えるように、足早に家路を辿る。もやもやとした感情が胸に渦巻いていた。家に着いてからも、先程の女性のことが頭から離れない。一体誰なんだろう。あの人と一緒にいる時の市瀬の顔が脳裏に浮かんで、再び苦しくなった。

「どうしよう」

こんな気持ちになったことはない。自分の中に芽生えた初めての感情に戸惑うばかりだった。市瀬は愛にとって確かに大きな存在だった。一人の友人すらいない愛の数少ない話し相手である。妹や弟が生まれ、母親を取られたような気になった子供のような気持ちにでもなったのだろうか。いや、そんなはずはない。市瀬が女性と仲睦まじくしているだけで、赤の他人である自分がどうして嫉妬できよう。考えれば考えるほど坩堝にハマる。愛はもう、考えるのをやめた。考えるのをやめて、バイトに打ち込もう。そう思った。金を稼がねばならない。でなければ⋯でなければ、自分は存在価値がなくなってしまう。愛は自分を奮い立たせた。

愛は毎日一生懸命働いていた。シフトは毎日入れていたし、朝から晩まで身を粉にして仕事をしていた。それでいて、愛は趣味を持っていない。身なりにも無頓着で、毎日清潔な服さえ着られていればそれでいいと思っていた。だから、勝手に金は溜まるはずだった。それでも常に貯金がなく、今日を生き抜くので精一杯なのには、もちろん訳がある。愛の家庭環境の問題だった。
愛はバイトを終えるとすぐ、自宅へ帰る。愛は母親と二人暮らしだ。父親は愛が幼い時に離婚して別居している。父親が今どこにいるのかは、母親も自分も知らない。父親から養育費を受け取っている話も母親から聞いたことは無い。父親が浮気したことが離婚の原因だったが、父親は愛人と逃げ、行方をくらませていた。母親は父親と上手くいかなくなってから病んだ。パートを辞め、毎日家で酒を飲んで過ごした。彼氏を作って家でセックスばかりする毎日。愛が家へ帰ると、母親と彼氏がセックスしていた、なんて場面に愛は学生時代から何度も遭遇している。彼氏が優しい人物ならよかったが、パチンコばかりして働かない上、愛に暴力を振るうとんでもない奴だった。大人がこんな有様だから、愛は金を稼いでくるしかない。そうして稼いだ金も2人に取られて、酒代やパチンコ代へと消えていく。せめてパチンコはやめてくれと言ったが、怒り狂った母親の彼氏にボコボコに殴られてから、何も言わなくなった。母親の彼氏はイライラする度に愛を殴った。母親は見て見ぬふりをするか、たぁくんだめよー♡なんて止める気のない声を出すかしかなかった。母親からしても、愛は邪魔でしか無かったのだ。浮気した元夫との子供。しかも暗くて鈍臭い失敗作の子供。母親は何度も言った。

『産まなきゃよかった』

そんな環境では、愛の自己肯定感が底を突くのも当然だった。愛は自分をいらない子だと思っている。生きているだけで他人に迷惑をかけ、嫌われる存在。愛と書いてめぐむと読む名前が、自分には酷く似合わなかった。頑張っても頑張っても報われない。愛されない。愛は人生をとっくに諦めていた。

だけど、そこに一縷の光が差し込んだのだ。
それが、市瀬との出会いだった。あの日、誰も見向きもしなかった自分を助けてくれた市瀬。誰とも話すことがなかった愛と目を見て笑顔で話をしてくれた。店で元気がないと、心配のメールも寄こした。誰かが聞いたら笑うのかもしれない。そんな存在、今まで居ない方がどうかしている。ただの友達じゃないか。社交辞令だ。そんなに期待をするなんて、他に何にも楽しいことがないんだな。
でも、愛には大きかった。傍で笑っていてくれるだけで、すごく心強かった。明日も頑張ろうと思えた。依存はしたくないが、それでも大きな存在なのだ。愛は市瀬に感謝していた。だからこそ、あの日女性と仲睦まじく歩いていたのにショックを受けたのだ。

「市瀬さん……」

会いたいなと思った。市瀬に会って話がしたい。だが、愛から市瀬に連絡を取ることはなかった。連絡をしたら迷惑だと思った。愛はスマホを置いて、そのまま布団に潜り込む。忘れよう。考えちゃだめだ。あの女性と市瀬さんは友達だ。僕がとやかく言えることじゃない。そう自分に言い聞かせた。もう寝ようと思ったその時。スマホが音を立てて震えた。電話だ。誰だろうと思って見ると、市瀬の名前があった。心臓がドクンというのが分かった。意を決して、通話に応じる。

「もしもし……」

「あ、ごめんね夜に」

「いえ……」

「どうしても心配でかけちゃった。
遠坂くん最近元気ないから……」

「あ……ご心配おかけしてすみません」

「だってさ、なんか無理してる感じの声だったもん。
何かあったんでしょ? 話聞くよ」

その言葉を聞いて、愛の目からは涙が溢れてきた。我慢しようと思うのだが、次々流れてくる涙は止まらなかった。想像以上に堪えていたらしい。ずっと積み重なってきた家のことと、最近の市瀬のことで、愛の心はキャパオーバーだった。

「ど、どうしたの?大丈夫?」

流石の市瀬も突然泣き出した愛に、電話の向こうであたふたしていた。

「あ、あの……嬉しくて……。
市瀬さんが、心配してくださるのが……」

「当たり前でしょ?
遠坂くんが元気ないと、俺も悲しいよ。
本当に、何でも話して欲しいな」

市瀬だったら、なんでも聞いてくれるのかもしれない。勇気を出して、相談してみてもいいかな。

「あの……」

その時だった。

「お風呂空いたよ~」

市瀬の電話の向こうで、そんな女性の声がした。

「ああ、分かった」

「ごめん、話し中だったんだ」

市瀬は女性といたのだ。お泊まり、だろうか。そんなに仲が良かったんだ。やっぱり、彼女なのだろうか。愛の目からまた涙がこぼれ落ちる。どうして、こんなに苦しいんだろうか。愛はその答えを知っているような気がしたが、認めたくなかった。認めてしまったら、自分は立ち直れない。この苦しみから解放されるには、自分が消えればいいだけだ。

愛は気がつくと、電話を切ってわんわん泣いていた。自分でも、みっともないと思った。でも、もう耐えられなかった。胸の奥が痛くて苦しかった。
愛はしばらくすると泣き疲れて眠ってしまった。
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