3 / 15
3 邂逅
しおりを挟む
「え、小夜ちゃん、今日でバイトやめちゃうの?」
制服の黒いエプロンを身につけ、ふわふわした髪を一つに結んで準備を終えると、仕事にとりかかる前にお別れの挨拶をすることにした。
といっても小さい飲食店なので、挨拶する人は一人しかいない。
「はい。店長にはもうお話したんですけど、家の都合で……すみません。こんなすぐにやめちゃって」
「謝らないで! お家の事情なら仕方ないし、小夜ちゃんは入ってからほぼ毎日働いてくれたから、短期間でもすっごく助かったよ!」
優しい言葉をかけてくれる社員の新山さんは二十代半ば、長めの前髪を右に流した優男で、おば様方に人気がある。わたしが仕事を教えてもらっているとお客さんからの嫉妬の目が痛いので、必要がなければあまり近づかないようにしていた。
「そっかぁ、辞めちゃうのか。小夜ちゃん働き者だから、残念だなぁ」
新山さんは見るからにがっかりしている。それだけ頼りにしてくれていたということが伝わり、少し嬉しかった。
「お世辞でも嬉しいです。今日も一生懸命働かせていただきますね!」
「うん、今日も頑張ろう。終わったらまかない食べるよね? 美味しいの作るから、楽しみにしてて」
「はい! ありがとうございます」
その時、カランカランと入店の音が聞こえる。反射で「いらっしゃいませ!」と声をかけ、ひょいと顔を覗かせると、白いシャツの軍団が入って来ていた。皆がたいが良いが、おそらく学生だろう。安くてボリュームのあるメニューも多いこの店は学生御用達だ。
「あ、お客さまですね。わたし行ってきます」
磨かれたグラスに慣れた手つきでお冷を注ぐ。それらをお盆に載せて、精いっぱいの笑顔でキッチンから出る。テーブルに近づいたところで、足首を何かに掴まれた。たまらずバランスを崩し、お盆が手から離れる。
「わっ!」
ぱしゃっと水が零れる音。ぎゅっと腰を掴まれる感触。恐々と目を開けると、びしょぬれになった真顔のいかつい男性がわたしを見下ろしていた。さっと血の気が引く。
「し、失礼しました。今お拭きしますね」
バイト最終日にやらかすなんて……と内心落ち込みつつもポケットに入れていた布巾を手に取る。
最近、何もない所でこけることが多いのだ。気を付けていたのに、今日は完全にバイトを頑張ろうという気合が空回りした。
「問題ない。シャワー代わりになった。冷たくて心地よいくらいだ」
唸るような低い声に合わない優しい言葉に感動していると、男性はわたしから手を放し、空のグラスが載ったお盆を差し出した。
「おそらくどれも割れていない」
「え……」
わたしは目を丸くする。そういえば、グラスが割れる音は聞こえなかった。まさか。
「さすが部長!」
「床に落ちる前に全部キャッチするなんて!」
「よっ、水も滴る良い男!」
一緒に来ていた男性陣がやんややんやと囃し立てる。
転びそうになったわたしを支えた上に、六つものグラスを一瞬で受け止めるなんて、人間業とは思えない。
口をぽかんと開けていたわたしは、ふと男性が見知らぬ人ではないことに気が付いた。
「合田先輩……?」
「? そうだが……どこかで会ったことがあるだろうか」
「あ、いえ! わたしは同じ高校の一年生で、先輩のことを一方的に存じ上げているだけです」
いかつい男性は、鬼さまに逢ったあの日にすれ違った合田先輩だった。一緒にいる筋肉で白シャツがパツパツになった彼らは柔道部の人たちのようだ。
「お客さん、すみませんでした。小夜ちゃん、怪我はしてない?」
「はい、お客さまのおかげで」
心配した新山さんがキッチンから出てきた。新山さんは合田先輩をじっと見つめる。わたしが怪我をさせなかったか確認しているのだろう。
怒られても当然の事をしたのに、新山さんを含め、このお店の人は本当に優しい。居心地が良くて、ここを辞めなければいけないことが辛いほどに。
(わたしも新山さんみたいに大人だったら、自分の意思で行動できるのに)
もしくは合田先輩みたいに屈強な男性だったら、自分の身を守れるだろう。
ないものねだりだと自嘲していると、耳元で聞こえるような、それでいてずっと遠くから聞こえるような、不思議な音がした。
『その願い、叶えてあげる。三人とも』
ばっと周囲を見回すも、謎の音の出所は分からなかった。
きょろきょろするわたしに、タオルで頭を拭いていた合田先輩は訝し気に尋ねた。
「どうかしたか?」
「あ、いえ……何でもないです! お二人とも、本当に申し訳ございません」
迷惑をかけた二人に深々と謝罪したわたしは、気持ちを切り替えて最後のバイトに勤しんだ。
バイト終わりのまかないはいつになく豪勢で、少食なわたしの胃ははちきれそうになった。最後には出先から帰ってきた店長もケーキを買って来てくれて、鼻がツンとしたのは内緒である。
店長と新山さんが店の前で手を振っている。わたしも小さく手を振り返し、何度もお辞儀した。
(これで、わたしの居場所がまた一つ減った)
鬼さまの姿が、ふと脳裏によぎる。二週間経った今、夢だったのではないかと思う。あそこを訪れた証拠が手元にないから、余計にそう感じる。
(紅葉の一つでも、持って帰れば良かった)
そんな考えが浮かぶが、わたしはすぐに頭を振ってそれを振り払った。証拠があったところで、それが何になるというのだ。
わたしは逃げないと決めたのだ。家に帰ったら、新しい仕事の客が待ち構えているかもしれないけれど。
重い足取りで、わたしはお店から一歩、また一歩と遠ざかって行った。
制服の黒いエプロンを身につけ、ふわふわした髪を一つに結んで準備を終えると、仕事にとりかかる前にお別れの挨拶をすることにした。
といっても小さい飲食店なので、挨拶する人は一人しかいない。
「はい。店長にはもうお話したんですけど、家の都合で……すみません。こんなすぐにやめちゃって」
「謝らないで! お家の事情なら仕方ないし、小夜ちゃんは入ってからほぼ毎日働いてくれたから、短期間でもすっごく助かったよ!」
優しい言葉をかけてくれる社員の新山さんは二十代半ば、長めの前髪を右に流した優男で、おば様方に人気がある。わたしが仕事を教えてもらっているとお客さんからの嫉妬の目が痛いので、必要がなければあまり近づかないようにしていた。
「そっかぁ、辞めちゃうのか。小夜ちゃん働き者だから、残念だなぁ」
新山さんは見るからにがっかりしている。それだけ頼りにしてくれていたということが伝わり、少し嬉しかった。
「お世辞でも嬉しいです。今日も一生懸命働かせていただきますね!」
「うん、今日も頑張ろう。終わったらまかない食べるよね? 美味しいの作るから、楽しみにしてて」
「はい! ありがとうございます」
その時、カランカランと入店の音が聞こえる。反射で「いらっしゃいませ!」と声をかけ、ひょいと顔を覗かせると、白いシャツの軍団が入って来ていた。皆がたいが良いが、おそらく学生だろう。安くてボリュームのあるメニューも多いこの店は学生御用達だ。
「あ、お客さまですね。わたし行ってきます」
磨かれたグラスに慣れた手つきでお冷を注ぐ。それらをお盆に載せて、精いっぱいの笑顔でキッチンから出る。テーブルに近づいたところで、足首を何かに掴まれた。たまらずバランスを崩し、お盆が手から離れる。
「わっ!」
ぱしゃっと水が零れる音。ぎゅっと腰を掴まれる感触。恐々と目を開けると、びしょぬれになった真顔のいかつい男性がわたしを見下ろしていた。さっと血の気が引く。
「し、失礼しました。今お拭きしますね」
バイト最終日にやらかすなんて……と内心落ち込みつつもポケットに入れていた布巾を手に取る。
最近、何もない所でこけることが多いのだ。気を付けていたのに、今日は完全にバイトを頑張ろうという気合が空回りした。
「問題ない。シャワー代わりになった。冷たくて心地よいくらいだ」
唸るような低い声に合わない優しい言葉に感動していると、男性はわたしから手を放し、空のグラスが載ったお盆を差し出した。
「おそらくどれも割れていない」
「え……」
わたしは目を丸くする。そういえば、グラスが割れる音は聞こえなかった。まさか。
「さすが部長!」
「床に落ちる前に全部キャッチするなんて!」
「よっ、水も滴る良い男!」
一緒に来ていた男性陣がやんややんやと囃し立てる。
転びそうになったわたしを支えた上に、六つものグラスを一瞬で受け止めるなんて、人間業とは思えない。
口をぽかんと開けていたわたしは、ふと男性が見知らぬ人ではないことに気が付いた。
「合田先輩……?」
「? そうだが……どこかで会ったことがあるだろうか」
「あ、いえ! わたしは同じ高校の一年生で、先輩のことを一方的に存じ上げているだけです」
いかつい男性は、鬼さまに逢ったあの日にすれ違った合田先輩だった。一緒にいる筋肉で白シャツがパツパツになった彼らは柔道部の人たちのようだ。
「お客さん、すみませんでした。小夜ちゃん、怪我はしてない?」
「はい、お客さまのおかげで」
心配した新山さんがキッチンから出てきた。新山さんは合田先輩をじっと見つめる。わたしが怪我をさせなかったか確認しているのだろう。
怒られても当然の事をしたのに、新山さんを含め、このお店の人は本当に優しい。居心地が良くて、ここを辞めなければいけないことが辛いほどに。
(わたしも新山さんみたいに大人だったら、自分の意思で行動できるのに)
もしくは合田先輩みたいに屈強な男性だったら、自分の身を守れるだろう。
ないものねだりだと自嘲していると、耳元で聞こえるような、それでいてずっと遠くから聞こえるような、不思議な音がした。
『その願い、叶えてあげる。三人とも』
ばっと周囲を見回すも、謎の音の出所は分からなかった。
きょろきょろするわたしに、タオルで頭を拭いていた合田先輩は訝し気に尋ねた。
「どうかしたか?」
「あ、いえ……何でもないです! お二人とも、本当に申し訳ございません」
迷惑をかけた二人に深々と謝罪したわたしは、気持ちを切り替えて最後のバイトに勤しんだ。
バイト終わりのまかないはいつになく豪勢で、少食なわたしの胃ははちきれそうになった。最後には出先から帰ってきた店長もケーキを買って来てくれて、鼻がツンとしたのは内緒である。
店長と新山さんが店の前で手を振っている。わたしも小さく手を振り返し、何度もお辞儀した。
(これで、わたしの居場所がまた一つ減った)
鬼さまの姿が、ふと脳裏によぎる。二週間経った今、夢だったのではないかと思う。あそこを訪れた証拠が手元にないから、余計にそう感じる。
(紅葉の一つでも、持って帰れば良かった)
そんな考えが浮かぶが、わたしはすぐに頭を振ってそれを振り払った。証拠があったところで、それが何になるというのだ。
わたしは逃げないと決めたのだ。家に帰ったら、新しい仕事の客が待ち構えているかもしれないけれど。
重い足取りで、わたしはお店から一歩、また一歩と遠ざかって行った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる