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1 新しい世界への門
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それは、本当に偶然だった。
家に帰りたくなくて、いつも通らない道を選んだのも。舞い散る桜の花びらの向こう、長い石段の先に、古めかしい門を見つけたのも。
その先に何があるのか、無性に気になったわたしが、そこで鬼と出逢ったのも。
学校に行く支度をしていると、珍しく起きていた優子さんが気だるげに言った。
「あんた、バイトやめなさい」
思いがけない言葉にわたしは手を止める。
「え……でも、働いて家に金を入れなさいって言ったのは優子さんじゃないですか」
優子さんは真っ赤な唇を大きく持ち上げた。
「もっと割のいい仕事があるのよ。あんたはじっとして、その身体を貸してくれればいいの。こんな簡単な仕事ないわよぉ」
バサバサしたまつ毛に縁どられた目はぎらぎらしていて、わたしは嫌な予感がした。
「やめるっていっても、もう二週間先のシフトは埋まっているので、そこまでは働かないとお店の迷惑になります」
「ふん、分かったよ。じゃあ新しい仕事はバイトを辞めた日からだね」
優子さんは言うだけ言うとどこかへ出かけていった。
残されたわたしは、不穏な「仕事」のことを考えて呆然としていた。
その日の放課後、ホームルームが終わるとわたしはさっさと教室を出る。教室から「今日カラオケ行く人―!」という声が聞こえた。少し後ろ髪を引かれるが、流行りの曲など知らないし、そもそも自由に使えるお金もない。終業後はバイトに直行するので、親しい友人もいなかった。
お店に行くと、「本日水道工事のため休業します」という張り紙があった。裏口に回ると「休みの連絡忘れていました、小夜ちゃんゴメンネ」と書かれた紙が貼られていた。わたしが携帯を持っていないから、店長が貼ってくれたのだろう。
思いがけず暇になったが、家に帰る気にはなれない。万が一優子さんと鉢合わせたら、何を言われるか分かったもんじゃないからだ。
碌に会った覚えのない叔母が、身寄りのなくなったわたしを引き取ったのは、最初から「仕事」のためだったのかもしれない。
憂鬱になったわたしは、町の探検に赴くことにした。思えば三月に引っ越してきてから、学校やバイト先と家の往復しかしていない。
なんとなく学校方面に戻ってみる。途中で大きな声を上げながら走り込みをする運動部員たちとすれ違った。先頭を走っているいかつい男性は、一見顧問のようだが、そうではない。彼は合田先輩。貫禄は三十歳、体育教師にしか見えない柔道部の不動のエースである。その風貌と強さから、高校で知らない者はいない人なのだ。
部活は大変そうだが、学生らしくて憧れる。バイトに忙殺されているわたしには遠い存在だ。
ゆっくりと学校の裏の坂道を上る。前住んでいた町は平地だったから、坂がたくさんあるここは何だか変な感じがする。
四月も終わりが近づいて、ここから見える学校の桜はもう葉桜になっていた。
ガードレールの向こう側の街並みは、玩具のようにちっぽけだった。
もっと高いところに行けば、家々はもっと小さく見えて、わたしが抱える悩みも小さくなるかもしれない。そう思ったから、どんどん上を目指して歩く。
途中で森につながる獣道のようなものを見つけ、せっかくだからと進んでみた。
踏み込んだ瞬間、土や植物の匂いが強くなるのを感じた。雀や烏とは違う、よく分からない鳥の声があちこちから聞こえる。
木の枝を避けながら歩いていると、急に開けた場所に出た。
目を疑った。もう散ったはずの桜が満開になってわたしを迎えたからだ。
桜は階段の両脇に整然と植えられていた。
階段の先には小さく門が見えた。
きっとあそこが、この町で一番高いところに違いない。
わたしは桜に導かれるままに、長い長い石段を上った。
一段上がるごとに、現実から離れていく。そんな気がして、辛いはずの長い階段は全く苦にはならなかった。門に辿り着いたときは、むしろ残念だった。
「……入ってもいいのかな」
厳重そうな門のをそっと押してみると、意外なほどあっさりと開いた。
鍵もかかってないのなら、知る人ぞ知る観光地なのかもしれない。思い切って入ってみることにする。
「お邪魔しまーす」
声をかけつつ足を踏み入れると、いかにも歴史のありそうな古めかしい建物が目に入る。寺か神社のような趣だ。
砂利を踏みしめつつ、建物に近づく。特に受付所とかは見当たらないが、勝手に入ってもいいものなのだろうか。一旦周囲を探ってみようと、建物の脇に向かう。
そっと覗き込んだわたしはぎょっとした。まるで違う季節に迷い込んだような景色がそこに広がっていたからだ。
「雪……」
誰にも踏み荒らされていない、真っ白な雪が降り積もっていた。
ありえない。もう初夏も近づき、歩いていたら少し汗ばむほどなのに。
両頬をぱん、と叩くが、ちゃんと痛い。わたしの頭がおかしくなった可能性はあるが、とにかくこれは夢ではないようだ。
普段のわたしなら引き返していただろうが、今はどうにでもなれという気持ちが強く、一歩、雪に足を沈めた。
わたしの足跡で汚れた雪を見ると、何ともいけないことをしている気分になる。視界を上に向けると、少し先に縁側があるのに気が付いた。中の様子が窺えるかもしれないと、縁側に駆け寄る。
障子は開け放たれていた。特に人の姿はない。耳を澄ませると、みしみしと誰かの足音が聞こえ、思わず咲き誇る椿の木の後ろに身を隠す。
「ふむ、見知らぬ者の気配がしたが……気のせいだったか?」
低い男の声が耳に入る。
「!」
声の主を見たわたしは、咄嗟に頭を引っ込めた。零れそうになった声を両手で抑える。
その男は普通ではなかった。真っ赤な髪のその人は、着物から覗く肌にびっしりと入れ墨を施し、その頭には二本の角が生えていた。
町で見かけたのなら、コスプレかな? と思ったかもしれない。しかしこの季節すら狂った異常な空間では、彼が常人だとは到底思えない。
体が震えるのは、寒さからか、恐怖からか。
バレる前に逃げないと――
「そんなところに隠れて、気づかれないと思ったか? 脆弱な人の子よ」
瞬きの間に、鬼はわたしの目の前にいた。わたしは雪で服が濡れることも気にせずへたりこみ、ただ彼を見つめることしかできなかった。
家に帰りたくなくて、いつも通らない道を選んだのも。舞い散る桜の花びらの向こう、長い石段の先に、古めかしい門を見つけたのも。
その先に何があるのか、無性に気になったわたしが、そこで鬼と出逢ったのも。
学校に行く支度をしていると、珍しく起きていた優子さんが気だるげに言った。
「あんた、バイトやめなさい」
思いがけない言葉にわたしは手を止める。
「え……でも、働いて家に金を入れなさいって言ったのは優子さんじゃないですか」
優子さんは真っ赤な唇を大きく持ち上げた。
「もっと割のいい仕事があるのよ。あんたはじっとして、その身体を貸してくれればいいの。こんな簡単な仕事ないわよぉ」
バサバサしたまつ毛に縁どられた目はぎらぎらしていて、わたしは嫌な予感がした。
「やめるっていっても、もう二週間先のシフトは埋まっているので、そこまでは働かないとお店の迷惑になります」
「ふん、分かったよ。じゃあ新しい仕事はバイトを辞めた日からだね」
優子さんは言うだけ言うとどこかへ出かけていった。
残されたわたしは、不穏な「仕事」のことを考えて呆然としていた。
その日の放課後、ホームルームが終わるとわたしはさっさと教室を出る。教室から「今日カラオケ行く人―!」という声が聞こえた。少し後ろ髪を引かれるが、流行りの曲など知らないし、そもそも自由に使えるお金もない。終業後はバイトに直行するので、親しい友人もいなかった。
お店に行くと、「本日水道工事のため休業します」という張り紙があった。裏口に回ると「休みの連絡忘れていました、小夜ちゃんゴメンネ」と書かれた紙が貼られていた。わたしが携帯を持っていないから、店長が貼ってくれたのだろう。
思いがけず暇になったが、家に帰る気にはなれない。万が一優子さんと鉢合わせたら、何を言われるか分かったもんじゃないからだ。
碌に会った覚えのない叔母が、身寄りのなくなったわたしを引き取ったのは、最初から「仕事」のためだったのかもしれない。
憂鬱になったわたしは、町の探検に赴くことにした。思えば三月に引っ越してきてから、学校やバイト先と家の往復しかしていない。
なんとなく学校方面に戻ってみる。途中で大きな声を上げながら走り込みをする運動部員たちとすれ違った。先頭を走っているいかつい男性は、一見顧問のようだが、そうではない。彼は合田先輩。貫禄は三十歳、体育教師にしか見えない柔道部の不動のエースである。その風貌と強さから、高校で知らない者はいない人なのだ。
部活は大変そうだが、学生らしくて憧れる。バイトに忙殺されているわたしには遠い存在だ。
ゆっくりと学校の裏の坂道を上る。前住んでいた町は平地だったから、坂がたくさんあるここは何だか変な感じがする。
四月も終わりが近づいて、ここから見える学校の桜はもう葉桜になっていた。
ガードレールの向こう側の街並みは、玩具のようにちっぽけだった。
もっと高いところに行けば、家々はもっと小さく見えて、わたしが抱える悩みも小さくなるかもしれない。そう思ったから、どんどん上を目指して歩く。
途中で森につながる獣道のようなものを見つけ、せっかくだからと進んでみた。
踏み込んだ瞬間、土や植物の匂いが強くなるのを感じた。雀や烏とは違う、よく分からない鳥の声があちこちから聞こえる。
木の枝を避けながら歩いていると、急に開けた場所に出た。
目を疑った。もう散ったはずの桜が満開になってわたしを迎えたからだ。
桜は階段の両脇に整然と植えられていた。
階段の先には小さく門が見えた。
きっとあそこが、この町で一番高いところに違いない。
わたしは桜に導かれるままに、長い長い石段を上った。
一段上がるごとに、現実から離れていく。そんな気がして、辛いはずの長い階段は全く苦にはならなかった。門に辿り着いたときは、むしろ残念だった。
「……入ってもいいのかな」
厳重そうな門のをそっと押してみると、意外なほどあっさりと開いた。
鍵もかかってないのなら、知る人ぞ知る観光地なのかもしれない。思い切って入ってみることにする。
「お邪魔しまーす」
声をかけつつ足を踏み入れると、いかにも歴史のありそうな古めかしい建物が目に入る。寺か神社のような趣だ。
砂利を踏みしめつつ、建物に近づく。特に受付所とかは見当たらないが、勝手に入ってもいいものなのだろうか。一旦周囲を探ってみようと、建物の脇に向かう。
そっと覗き込んだわたしはぎょっとした。まるで違う季節に迷い込んだような景色がそこに広がっていたからだ。
「雪……」
誰にも踏み荒らされていない、真っ白な雪が降り積もっていた。
ありえない。もう初夏も近づき、歩いていたら少し汗ばむほどなのに。
両頬をぱん、と叩くが、ちゃんと痛い。わたしの頭がおかしくなった可能性はあるが、とにかくこれは夢ではないようだ。
普段のわたしなら引き返していただろうが、今はどうにでもなれという気持ちが強く、一歩、雪に足を沈めた。
わたしの足跡で汚れた雪を見ると、何ともいけないことをしている気分になる。視界を上に向けると、少し先に縁側があるのに気が付いた。中の様子が窺えるかもしれないと、縁側に駆け寄る。
障子は開け放たれていた。特に人の姿はない。耳を澄ませると、みしみしと誰かの足音が聞こえ、思わず咲き誇る椿の木の後ろに身を隠す。
「ふむ、見知らぬ者の気配がしたが……気のせいだったか?」
低い男の声が耳に入る。
「!」
声の主を見たわたしは、咄嗟に頭を引っ込めた。零れそうになった声を両手で抑える。
その男は普通ではなかった。真っ赤な髪のその人は、着物から覗く肌にびっしりと入れ墨を施し、その頭には二本の角が生えていた。
町で見かけたのなら、コスプレかな? と思ったかもしれない。しかしこの季節すら狂った異常な空間では、彼が常人だとは到底思えない。
体が震えるのは、寒さからか、恐怖からか。
バレる前に逃げないと――
「そんなところに隠れて、気づかれないと思ったか? 脆弱な人の子よ」
瞬きの間に、鬼はわたしの目の前にいた。わたしは雪で服が濡れることも気にせずへたりこみ、ただ彼を見つめることしかできなかった。
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