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第五章 冬の嵐
125.偽聖女、料理は命懸け
しおりを挟む「うっ、いっでぇ……!」
ハガーの呻き声を聞いた瞬間、足許からせり上がった恐怖の針は霧散した。
腰の短剣を抜き、ラーナは〈ウズマキ〉の前に立ちはだかった。
たちまち渦巻き模様の底から迸る殺気にさらされた。
「退け。お前らに用はない」
〈ウズマキ〉が真横に腕を打ち振ると、地面を這っていたロープが舞いあがった。
それがふいに不自然な軌道に曲がった。
ラーナとウェイグの頭上に放物線を描いたのだ。
先端の短剣が風を斬って唸る!
「こいつ……ッ!」
それを見てラーナは確信した。
〈呪痕〉もちだ。
ラーナは咄嗟に跳び退り、手中の刃を閃かせた。ハガー目がけ落下する短剣が火花とともに弾き飛ばされた。
「……!」
それを機に、茫然と立ち尽くしていたウェイグが我に返った。地を蹴り、風のごとく速くなめらかな太刀筋で〈ウズマキ〉へと襲いかかった。
「……」
〈ウズマキ〉は、それを一歩、二歩と後退り紙一重で躱した。木々の間に身を滑りこませ、剣の太刀筋を殺した。
すると三本の指を強張らせ、バキバキと鳴らした。
そして腕を打ち振った。
はね上がったロープが息を吹き返した。
短剣は螺旋を描きながら、冒険者の背中を襲う!
ウェイグは真横に飛んだ。
二の腕が浅く裂けた。
が、目標を失った刃は、まっすぐに〈ウズマキ〉へと向かう。
「何故、邪魔をする?」
ところが、ロープはまたも不自然な軌道を描いた。主を傷つける寸前で真横へ逸れ、シュルシュルと音をたてながら、その片腕に巻きついた。
「お前こそ、なんで襲う!」
弾いても弾いても鎌首をもたげ飛来する刃をいなしながら、ラーナは叫んだ。
短剣を逆手に構えた〈ウズマキ〉から、冷たい一瞥が返った。
「魔獣だからだ」
「は?」
意味が解らなかった。
しかし背筋が凍りついた。
途轍もなく嫌な予感だけがした。
ラーナは襲い来る刃を刃で弾き返し、肩越しに背後を見た。
「あれ……?」
そこにハガーの姿はなかった。
〈ウズマキ〉もそれに気付いたようだ。仮面の奥で舌を鳴らした。
「しぶとい奴だ。一度ならず二度までも……」
「どういうことだ?」
今度はウェイグが問うた。
〈ウズマキ〉はロープの巻きついた腕を半端にあげた。
「あの男は魔獣だと言ったんだ。まだ完全に目覚めてはいないようだがな」
そう言うと〈ウズマキ〉は、今度こそ腕を打ち振った。手中の短剣が消えた。巻きついたロープが斜め上方に飛翔し、枝にぐるぐると絡みついた。
ウェイグがとび出す。左手にスティレットを抜き、突いた!
その時、ロープの表面がビクンと脈打った。
〈ウズマキ〉の身体が宙にはね上がり、スティレットは虚空を穿った。
ラーナと対峙していた刃も、主の許へ引き寄せられた。
その行方を追いながらラーナは、胸を掻きむしるような不安を吐きだした。
「待て! ウソ吐くな。ハガーさんは人間だッ!」
くるりと翻り、枝の上に降りたった〈ウズマキ〉が見下ろす。
不安をかきたてる螺旋の双眸で。
「そう信じたければ、あの男を追うといい。災厄か呪いか。いずれにせよ、お前に待つのは死だがな」
そう言い残し〈ガラスの靴〉の呪いは身を翻した。虚空に身を踊らせたかと思う間に、そのシルエットは宙を舞っていた。木々の落とす影のなかを右へ左へ翔けながら、急速に輪郭を縮ませていった。
「待てッ!」
その後を追おうと地を蹴ったラーナだったが、
「あっ……」
たちまち全身から力が抜け落ち、その場にへたりこんだ。
「な、なんで……ッ!」
ラーナは笑う膝を殴りつけた。
早くハガーを捜さなければ。
〈ウズマキ〉の狙いはハガーなのだ。
「立て、立ってよ……ッ!」
焦燥が頭のなかを炙る。
しかし〈ウズマキ〉の言葉が、ラーナの許に差しこんだ希望を黒く染め上げ、迷わせる。
『あの男は魔獣だ』
あり得ない。あり得るはずがない。
魔獣の正体が人だなどと、そんな話は聞いたこともない。
それなのに。
水底から湧きでる泡のように、次々と疑問が浮上する。
ハガーは何故――。
あれほどの肩の傷を負って生きていられたのか?
治療から間もなくして追いつく体力があったのか? 闇の中、どうやって目当ての人物を見つけ出したのか?
本当に野盗に襲われたのか?
気を失った際に現れた、額の変色は?
「大丈夫ですか……?」
疑念の洪水を、ウェイグの声が破った。
ラーナは我に返り、かろうじて頷いた。
「ケガは?」
「ない」
「それはよかった」
ほっとウェイグが微笑むと、ラーナは俯いた。
「よくない……」
「そういう意味では、あの、すみません……」
狼狽しながら、ウェイグが傍らに腰を下ろした。
ラーナは額を押さえた。
「いや……ごめん。行かなくちゃ」
手をつき立ちあがろうとすると、ウェイグが慌てて腰を浮かした。
「ちょ、待ってください!」
「なに?」
「気持ちはわかりますが、これから捜索に当たるのは危険だ。もうこんなに暗い」
ウェイグの顔半分を炎の光が撫ぜた。
「関係ない」
ラーナは首を振った。
「関係なくはないでしょ! あなたが死んだら元も子もない」
「ボクは死なない」
「そんなふらふらな身体で言われても説得力ないです!」
「うるさい! ボクは……!」
子どものように反抗したものの、依然として力は湧きあがってこなかった。膝が伸び切る前に砕け、ウェイグのほうへ倒れこんでしまう。
「おっと! とにかく大人しくしてください」
受けとめたウェイグの手が、巧まずして肩のうえに載せられた。温かい手だった。
改めてウェイグを見上げると、その優しい面差しに、何か熱いものがこみ上げてきた。それが胸の奥底に沈殿したままの冷たい不安を際立たせた。
「う、うぇう……」
ラーナは両手で顔を覆った。たちまち熱い滴が流れ出した。
涸れたのだと思っていた。
裏切りの痛みを知った、あの時に。
けれど、熱いあつい涙は、とめどなく溢れでた。
「どう、しよう……!」
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですよ。今晩はゆっくり休んで、明日一緒に捜しましょう」
ウェイグは隣に座り直し、背中をさすってくれた。
ラーナは濡れた顔で見上げた。
「一緒に、捜してっ、くれるの?」
ウェイグは肩をすくめ微笑んだ。
「ヴァンさん、俺はさっきの言葉忘れてないですよ。一緒に捜そうって言ってくれたでしょ。困ったときはお互い様です」
ラーナはばたばたと涙を拭い、何度もありがとうと頭を下げた。
本当は自分一人でも捜しに出かけたかった。
夜など恐ろしくはない。この目は闇をも見通すのだ。
けれど、力が湧いてこない。
夜ではなく、〈ウズマキ〉の言った事が怖くてこわくて仕方がなかった。
その事実を、自分一人だけで抱え込める自信もない。
ハガーの事は信じているつもりでも。
時として感情の篤さに応じ、深くなる憂いもある。
「じゃあ、今はしっかり休んで、明日に備えましょう」
ラーナはこくりと頷き、横になって目を閉じた。
まだ、まだだ。
まだ独りではない。
そう思うと、無駄な力は抜けていった。
ハガーさん、死なないで……。
そして暗闇の中、パートナーの無事を願った。
自分以外の誰かのために希うのは、もういつ以来かわからなかった。
あるいは、初めての経験なのかもしれなかった。
――
ドサ、ドサ。
足音が聞こえる。
赤いあかい土の上だった。
ハガーはいつかの惨劇を思い出しながら、屍の上を歩くような不快感を味わっている。
「死にたく、ねぇ……」
傷ついた肩を押さえ、懸命に前へ進む。ドサと土を踏みしめる音は胸に絡みつく。
まるで置いてきた妻の、死んでいった仲間たちの、糾弾のように思えて。〈ウズマキ〉の跫音のように思えて。怖い。
無論、振り返ってみたところで、弁解する相手などいない。追手の影もない。
ただひたすらに静かな木々の連なりがあるばかり。その間隙に淀む闇は、しかし何かを隠しているような気がしてならない。
ぞっと全身が粟立って、ハガーは足を速める。
ドサ、ドササ。
足音は追ってくる。いつまでも。
決して近くも遠くもならず。
いつまでも背中にぴったりとはり付いている。
「なんでオレが、こんな目に……!」
さらに足を速める。音は遠くならない。
見えない相手から逃げながら、ハガーはふと考えた。
どこへ向かってるんだ、俺は?
わからなかった。誰か知っているなら教えて欲しかった。
否、誰もこの場にいて欲しくなかった。きっとそれは自分を脅かすものだから。
「うわっ!」
張りだした木の根に足をとられた。
惨めに土を舐めたら泣けてきた。
足音がやんだ。
追いつかれたのか?
振り返ることはできなかった。
恐怖の中、何故だろう、ふいに独り村に残してきた妻を思い出した。
「……エルマ」
共に生き、共に死にたいと、初めて思えた相手だった。惰性で過ごしてきた人生に差した灯火だった。
それが消えゆこうとしているなら、守らぬ道理はなかった。
だがその決断の果てが、こんな孤独な最期なのだろうか。
「こんな事になるくらいなら……」
あいつの傍にいてやればよかった……。
引き留めた細腕を振り解かず、命尽き果てる瞬間まで、今度は自分が希望の温もりになってやるべきだった。
帰りたい。
胸の奥底に蓋をした感情が、どっと溢れ出る。残してきたものの重みが、傷ついた肩に圧し掛かる。
狩りはたった一つの手違いが命を脅かすものだ。襲われれば喰われ、逃げられれば飢える。狩人に過ちは赦されない。
人の道もそうだったのだと気付く。
しかし窮地に立たされてから気付くのでは、あまりに遅すぎる。
ビョウ!
その時、風を斬る音がして。
「ッ!」
反射的に土の上を転がっていた。
視界の端で、短剣がザクと土を抉った。
腹の底で、恐怖が拳を突きあげた。
地面を掻くように手足をばたつかせ、立ちあがる。
前につんのめりながら、すぐそばの木陰に跳びこんだ。
頭上を見上げれば、星々に過ぎる影が見えた。
突き刺さった短剣がピンと伸びたロープに引き上げられ、宙を舞った。
影は瞬く間に、死角へ。
と同時に、頭上へ消えゆこうとしていた短剣が、不自然な軌道で飛来する!
「クソぉ……!」
涙目になりながらハガーは横に跳んだ。刃が浅く胸を裂いた。
「ぐあぁ!」
跳んだ勢いのまま、無様に倒れ込んだ。
ドサ。
背後に殺意が凝った。
〈ウズマキ〉が下りてきた。
死にたくない、とハガーは言った。
当然だ、と〈ウズマキ〉は答えた。
そしてこうも言った。
「これは慈悲だ」
と惻隠《そくいん》に。
「今度こそ》楽にしてやる」
と頑なに。
〈ウズマキ〉のロープが螺旋を描いた。
風が哀しげに唸りをあげた。
ハガーの呻き声を聞いた瞬間、足許からせり上がった恐怖の針は霧散した。
腰の短剣を抜き、ラーナは〈ウズマキ〉の前に立ちはだかった。
たちまち渦巻き模様の底から迸る殺気にさらされた。
「退け。お前らに用はない」
〈ウズマキ〉が真横に腕を打ち振ると、地面を這っていたロープが舞いあがった。
それがふいに不自然な軌道に曲がった。
ラーナとウェイグの頭上に放物線を描いたのだ。
先端の短剣が風を斬って唸る!
「こいつ……ッ!」
それを見てラーナは確信した。
〈呪痕〉もちだ。
ラーナは咄嗟に跳び退り、手中の刃を閃かせた。ハガー目がけ落下する短剣が火花とともに弾き飛ばされた。
「……!」
それを機に、茫然と立ち尽くしていたウェイグが我に返った。地を蹴り、風のごとく速くなめらかな太刀筋で〈ウズマキ〉へと襲いかかった。
「……」
〈ウズマキ〉は、それを一歩、二歩と後退り紙一重で躱した。木々の間に身を滑りこませ、剣の太刀筋を殺した。
すると三本の指を強張らせ、バキバキと鳴らした。
そして腕を打ち振った。
はね上がったロープが息を吹き返した。
短剣は螺旋を描きながら、冒険者の背中を襲う!
ウェイグは真横に飛んだ。
二の腕が浅く裂けた。
が、目標を失った刃は、まっすぐに〈ウズマキ〉へと向かう。
「何故、邪魔をする?」
ところが、ロープはまたも不自然な軌道を描いた。主を傷つける寸前で真横へ逸れ、シュルシュルと音をたてながら、その片腕に巻きついた。
「お前こそ、なんで襲う!」
弾いても弾いても鎌首をもたげ飛来する刃をいなしながら、ラーナは叫んだ。
短剣を逆手に構えた〈ウズマキ〉から、冷たい一瞥が返った。
「魔獣だからだ」
「は?」
意味が解らなかった。
しかし背筋が凍りついた。
途轍もなく嫌な予感だけがした。
ラーナは襲い来る刃を刃で弾き返し、肩越しに背後を見た。
「あれ……?」
そこにハガーの姿はなかった。
〈ウズマキ〉もそれに気付いたようだ。仮面の奥で舌を鳴らした。
「しぶとい奴だ。一度ならず二度までも……」
「どういうことだ?」
今度はウェイグが問うた。
〈ウズマキ〉はロープの巻きついた腕を半端にあげた。
「あの男は魔獣だと言ったんだ。まだ完全に目覚めてはいないようだがな」
そう言うと〈ウズマキ〉は、今度こそ腕を打ち振った。手中の短剣が消えた。巻きついたロープが斜め上方に飛翔し、枝にぐるぐると絡みついた。
ウェイグがとび出す。左手にスティレットを抜き、突いた!
その時、ロープの表面がビクンと脈打った。
〈ウズマキ〉の身体が宙にはね上がり、スティレットは虚空を穿った。
ラーナと対峙していた刃も、主の許へ引き寄せられた。
その行方を追いながらラーナは、胸を掻きむしるような不安を吐きだした。
「待て! ウソ吐くな。ハガーさんは人間だッ!」
くるりと翻り、枝の上に降りたった〈ウズマキ〉が見下ろす。
不安をかきたてる螺旋の双眸で。
「そう信じたければ、あの男を追うといい。災厄か呪いか。いずれにせよ、お前に待つのは死だがな」
そう言い残し〈ガラスの靴〉の呪いは身を翻した。虚空に身を踊らせたかと思う間に、そのシルエットは宙を舞っていた。木々の落とす影のなかを右へ左へ翔けながら、急速に輪郭を縮ませていった。
「待てッ!」
その後を追おうと地を蹴ったラーナだったが、
「あっ……」
たちまち全身から力が抜け落ち、その場にへたりこんだ。
「な、なんで……ッ!」
ラーナは笑う膝を殴りつけた。
早くハガーを捜さなければ。
〈ウズマキ〉の狙いはハガーなのだ。
「立て、立ってよ……ッ!」
焦燥が頭のなかを炙る。
しかし〈ウズマキ〉の言葉が、ラーナの許に差しこんだ希望を黒く染め上げ、迷わせる。
『あの男は魔獣だ』
あり得ない。あり得るはずがない。
魔獣の正体が人だなどと、そんな話は聞いたこともない。
それなのに。
水底から湧きでる泡のように、次々と疑問が浮上する。
ハガーは何故――。
あれほどの肩の傷を負って生きていられたのか?
治療から間もなくして追いつく体力があったのか? 闇の中、どうやって目当ての人物を見つけ出したのか?
本当に野盗に襲われたのか?
気を失った際に現れた、額の変色は?
「大丈夫ですか……?」
疑念の洪水を、ウェイグの声が破った。
ラーナは我に返り、かろうじて頷いた。
「ケガは?」
「ない」
「それはよかった」
ほっとウェイグが微笑むと、ラーナは俯いた。
「よくない……」
「そういう意味では、あの、すみません……」
狼狽しながら、ウェイグが傍らに腰を下ろした。
ラーナは額を押さえた。
「いや……ごめん。行かなくちゃ」
手をつき立ちあがろうとすると、ウェイグが慌てて腰を浮かした。
「ちょ、待ってください!」
「なに?」
「気持ちはわかりますが、これから捜索に当たるのは危険だ。もうこんなに暗い」
ウェイグの顔半分を炎の光が撫ぜた。
「関係ない」
ラーナは首を振った。
「関係なくはないでしょ! あなたが死んだら元も子もない」
「ボクは死なない」
「そんなふらふらな身体で言われても説得力ないです!」
「うるさい! ボクは……!」
子どものように反抗したものの、依然として力は湧きあがってこなかった。膝が伸び切る前に砕け、ウェイグのほうへ倒れこんでしまう。
「おっと! とにかく大人しくしてください」
受けとめたウェイグの手が、巧まずして肩のうえに載せられた。温かい手だった。
改めてウェイグを見上げると、その優しい面差しに、何か熱いものがこみ上げてきた。それが胸の奥底に沈殿したままの冷たい不安を際立たせた。
「う、うぇう……」
ラーナは両手で顔を覆った。たちまち熱い滴が流れ出した。
涸れたのだと思っていた。
裏切りの痛みを知った、あの時に。
けれど、熱いあつい涙は、とめどなく溢れでた。
「どう、しよう……!」
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですよ。今晩はゆっくり休んで、明日一緒に捜しましょう」
ウェイグは隣に座り直し、背中をさすってくれた。
ラーナは濡れた顔で見上げた。
「一緒に、捜してっ、くれるの?」
ウェイグは肩をすくめ微笑んだ。
「ヴァンさん、俺はさっきの言葉忘れてないですよ。一緒に捜そうって言ってくれたでしょ。困ったときはお互い様です」
ラーナはばたばたと涙を拭い、何度もありがとうと頭を下げた。
本当は自分一人でも捜しに出かけたかった。
夜など恐ろしくはない。この目は闇をも見通すのだ。
けれど、力が湧いてこない。
夜ではなく、〈ウズマキ〉の言った事が怖くてこわくて仕方がなかった。
その事実を、自分一人だけで抱え込める自信もない。
ハガーの事は信じているつもりでも。
時として感情の篤さに応じ、深くなる憂いもある。
「じゃあ、今はしっかり休んで、明日に備えましょう」
ラーナはこくりと頷き、横になって目を閉じた。
まだ、まだだ。
まだ独りではない。
そう思うと、無駄な力は抜けていった。
ハガーさん、死なないで……。
そして暗闇の中、パートナーの無事を願った。
自分以外の誰かのために希うのは、もういつ以来かわからなかった。
あるいは、初めての経験なのかもしれなかった。
――
ドサ、ドサ。
足音が聞こえる。
赤いあかい土の上だった。
ハガーはいつかの惨劇を思い出しながら、屍の上を歩くような不快感を味わっている。
「死にたく、ねぇ……」
傷ついた肩を押さえ、懸命に前へ進む。ドサと土を踏みしめる音は胸に絡みつく。
まるで置いてきた妻の、死んでいった仲間たちの、糾弾のように思えて。〈ウズマキ〉の跫音のように思えて。怖い。
無論、振り返ってみたところで、弁解する相手などいない。追手の影もない。
ただひたすらに静かな木々の連なりがあるばかり。その間隙に淀む闇は、しかし何かを隠しているような気がしてならない。
ぞっと全身が粟立って、ハガーは足を速める。
ドサ、ドササ。
足音は追ってくる。いつまでも。
決して近くも遠くもならず。
いつまでも背中にぴったりとはり付いている。
「なんでオレが、こんな目に……!」
さらに足を速める。音は遠くならない。
見えない相手から逃げながら、ハガーはふと考えた。
どこへ向かってるんだ、俺は?
わからなかった。誰か知っているなら教えて欲しかった。
否、誰もこの場にいて欲しくなかった。きっとそれは自分を脅かすものだから。
「うわっ!」
張りだした木の根に足をとられた。
惨めに土を舐めたら泣けてきた。
足音がやんだ。
追いつかれたのか?
振り返ることはできなかった。
恐怖の中、何故だろう、ふいに独り村に残してきた妻を思い出した。
「……エルマ」
共に生き、共に死にたいと、初めて思えた相手だった。惰性で過ごしてきた人生に差した灯火だった。
それが消えゆこうとしているなら、守らぬ道理はなかった。
だがその決断の果てが、こんな孤独な最期なのだろうか。
「こんな事になるくらいなら……」
あいつの傍にいてやればよかった……。
引き留めた細腕を振り解かず、命尽き果てる瞬間まで、今度は自分が希望の温もりになってやるべきだった。
帰りたい。
胸の奥底に蓋をした感情が、どっと溢れ出る。残してきたものの重みが、傷ついた肩に圧し掛かる。
狩りはたった一つの手違いが命を脅かすものだ。襲われれば喰われ、逃げられれば飢える。狩人に過ちは赦されない。
人の道もそうだったのだと気付く。
しかし窮地に立たされてから気付くのでは、あまりに遅すぎる。
ビョウ!
その時、風を斬る音がして。
「ッ!」
反射的に土の上を転がっていた。
視界の端で、短剣がザクと土を抉った。
腹の底で、恐怖が拳を突きあげた。
地面を掻くように手足をばたつかせ、立ちあがる。
前につんのめりながら、すぐそばの木陰に跳びこんだ。
頭上を見上げれば、星々に過ぎる影が見えた。
突き刺さった短剣がピンと伸びたロープに引き上げられ、宙を舞った。
影は瞬く間に、死角へ。
と同時に、頭上へ消えゆこうとしていた短剣が、不自然な軌道で飛来する!
「クソぉ……!」
涙目になりながらハガーは横に跳んだ。刃が浅く胸を裂いた。
「ぐあぁ!」
跳んだ勢いのまま、無様に倒れ込んだ。
ドサ。
背後に殺意が凝った。
〈ウズマキ〉が下りてきた。
死にたくない、とハガーは言った。
当然だ、と〈ウズマキ〉は答えた。
そしてこうも言った。
「これは慈悲だ」
と惻隠《そくいん》に。
「今度こそ》楽にしてやる」
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