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悲月
しおりを挟む男は暗い、黒い煉瓦作り部屋に呆然と立っていた。
眼前の光景を目にすれば、何人も立ち尽くす事象を、彼は見ていた。
眼前に、中年の女が居た。
目がうつろに狂気を帯び、口元が微かに震えていたが、どうやら”笑っている”が妥当であろう。髪は荒れ放題に飛んでおり、衣服ももはや襤褸切れとしか言えない代物を着ている。
否、男が驚いていたのは彼女の姿ではない。彼女の行動に恐怖していた。
彼女がしていたのは、椅子に座っている何者かを楽しむかのごとく、ナイフで肌を滑らせている。その”何者”かは顔を丹念に裂かれた痕が重なり、顔の原型を留めていなかった。
しかし頭の形をよく見ると、人ではない。
上下の顎と鼻らしきものが突出していて、頭上には何かが生えていたらしき盛り上がった部分がある。男は思った。
「(犬だ!)」
しかし頭より下は、人の形をしており、衣服を纏っている。
その者も前者の女と同様、襤褸切れを着ている。言葉では言い尽くせぬ目の前の惨状を前に、男は声を失い、たたずんでいた。
「はふ、はふ・・・」
男、否、犬人は呻き出した。
顔の原型を留めていない為、剥き出しになった筋が無造作に張りあがるだけで目での表情を確認できない。
ただ、”痛み”に呻いているのであろう。
それしか考えられない。男は思った。
咄嗟に男は左手にあるドアノブに手を差し出した。
無意識に起こした行動だ。誰もが当たり前に思うだろう・・・。
逃げる!!
男はドアノブを無造作に捻り、外へ飛び出した。女と犬人はこちらに目もくれない。
追いかける様子もなく、男は確認をする気もなく我武者羅に走り出した。
何処まで走ったのだろう、男は四角い巨大な螺旋階段の吹き抜けの一番下にいた。
安全になったと本能が判断したのか、男は走るのを止め、様々な模様が散りばめられたタイルに両膝をついた。
そこで視界が回転した。男は後頭部を両手で抱え、呻きだした。
先程の拷問のような事象が頭から離れられない。
頭上の四角い螺旋階段にウェーブがかかり、回り出した。余りにも残虐な出来事が眼前に起きたので、混乱している。
あれこれ言葉を並べての混乱ではなく、一つの事に悩みすぎて混乱しているわけでもない。
ただ混乱している・・・、それだけだった。
回転が更に激しくなり、男は耐え切れずその場で前のめりに倒れた・・・。
男は起きた。上体を勢い良く起こし、声が堰いていた。
その男、アーネストはすぐさま枕元にあったロザリオを無造作に掴み、右手で胸元に当てた。
「神よ、神よ・・・!」
アーネストは十字架を当て続け、必死に小声で唱え続けた。
男はこの夢に1ヶ月近くも苦しめられている。
アーネストは元々ドイツのケルン出身の神父だったが、日本の文化に触れて大いに深みに嵌り、転属願まで出して日本に移住して来た。
現在で日本に移住して二年程しか経っていないが、日本でも布教すべく日本語版の聖書をひたすらに読み明かし、僅か一年程で流暢な日本語を話す事が出来、方言にまである程度対応出来るようになっていた。
そんなアーネストが日本に来て驚いた事は、洗礼を受けていない非クリスチャンの日本人ですらも、会った人間の大半は生活様式がしっかりしている事、異様に寛容だったところだ。
転属先の教会の隣に住んでいる老夫婦に至っては熱心な仏教信者だが隣の教会の人間に出くわしても侮蔑しないばかりか丁寧に挨拶を交わし、ご近所の好みとして持っている畑から野菜を分けてくれたりする。
毎週日曜のミサでも興味本位で訪れる若者でも無下に騒ぐ事はせず、今日が礼拝の日なら、と言う事でその場のノリでクリスチャンでもないのにミサに参加したりしている。
同じ地区内にいる寺の住職すらも、特に敵意を向ける事なく地区の催し事にはお互い協力して運営する事も多々あった。
どうやらアーネストが転属して来た地区は、外国人の目線からすると“非常に当たり”だった。
しかしアーネストは日本に来てからの、唯一の悩みがあった。
それは日本に赴任して来てそろそろ二年が経とうとしているある日に、それは起きた。
夜眠っている時に必ず見る悪夢。
狼の頭の皮を被った男と、その男を甚振りながら狂喜する中年女性。
その拷問光景をひたすらに直視していて、怖くなってたまらず逃げ出し、螺旋階段を駆け下りて下に着くと景色が回転して、頭痛と共に目が覚める。
これが丸一カ月も続き、目に見えてアーネストの顔はげっそりとやつれていた。
これに同僚の神父や司祭も心配していた。
中には悪魔の仕業と判断して悪魔祓いを行った事があった。
しかし、悪魔祓いの際、憑依している何かを呼び出す事に成功したが、聖水やロザリオ、銀製の物品を近づけても何も効果がなく、その取り憑いた何かは祓おうとする司祭達を嘲笑っただけに終わっていた。
しかし、睡眠以外は特に日常生活には余り支障がないという、どうにも不可解な状況となっており、これに困惑したアーネストは、同僚の八住尊に付き添ってもらい、同じ地区内にある寺を訪れた。
「ようお越しなさった。えらいモン乗ってるなあ」
開口一番、住職の高野柳音がのんびりと話しかける。
「え、何もしていないのにわかるんですか?」
アーネストはびくついた。
教会では儀式ばった事をしてまで呼び出して取り憑いてる事がわかったのに、この住職はアーネストを一目見て状況を把握したらしい。
「アーネストは日本でのこういう話よく知らなかったよな?
この人、相当視える人だぜ」
尊が返す。
「高野さんの仰る通り、アーネストはどこでもらったかわからないけど取り憑いてる。本場から来たエクソシストにとっちゃ、向こうの悪魔じゃないからある意味専門外だな」
尊の言動のひとつひとつ、アーネストはどうにも理解が追い付かなかった。
エクソシストは確かに悪魔祓いだが、悪霊祓いでもある。
でもいくら国が違っても専門外とかあるのだろうか。
「アーネストさん。アンタに取り憑いてるのは悪霊じゃないし、悪魔とは少し違う。日本に昔からいる妖だな」
柳音が答えると、アーネストを強引にお辞儀させ、急に強く背中を叩き出した。余りの勢いにアーネストは噎せ返った。
「ちょっと、何をするんですか!?」
アーネストは憤慨した。柳音が好人物なのはよくわかっているが、突然強く叩かれたものだから憤慨するのも致し方ない。
「すまんねえ、寺に入ってから背中に乗ってたヤツがアンタにしがみ付いて離すもんか!って威嚇してたから強引に追い払ったよ。今意外と体が楽だろ?」
柳音はテンションを変えずのんびりと返す。
そう言われたアーネストは、不意に肩が軽くなっているのに気付いた。
「お!顔色抜群に良くなったよ!」
尊が叫ぶ。人目に見てわかるレベルで、アーネストの体から邪気が消えたようだ。
「だがこれで安心しなさんな。今ソイツに触れて解った事、そいつが何なのか、今後どうなっていくか話す必要があるから、上がりなさい」
柳音に促され、アーネストと尊は寺の本堂に入った。
神父の立場上、寺に上がった事がなく、見る物全てが新鮮に感じられ、教会とは違う神々しさを感じた。
仏像は金に彩られているが、それ以外は素朴にそのまま防腐剤を塗られた木材にデザインをあしらった飾りが寺の素朴な雰囲気を高めている。
畳は日本に来てから何度も触れた事があるが、ここの寺の畳はそこそこ年季が入っているようで、歴史を感じる縁側の黒ずんだ床板とよく見た目が馴染んでいる。
「さて」
仏像の前で柳音が座る。それに倣いアーネストと尊は対面で座った。
「最初は狐か狸、獏の質の悪い悪戯か、蜃の毒気にやられたかと思っていたんだが、どうにも引っかかるものがあってね」
ここで柳音の表情が一気に強張った。
終始物腰柔らかく、のんびりと受け答えしていた住職の面影が全くなく、アーネストはとても同一人物に思えなかった。
「狐か狸って。日本の悪魔はよくいる動物なんですか?」
少し和ませようと思ったアーネストは冗談を吹っかけてみた。が、
「アーネスト、日本でのこういう話の時、狐と狸は本気で怖いぞ。
特に狐は悪魔の比にならない」
尊が窘めて来た。尊も妙に表情が強張っている。
「狐はお稲荷様と呼ばれるし、狸も神様として祭られているところもある。
獏は昔から悪い夢を食ってくれるし。
まず動物の神さんじゃ有り得ない。
最近ずっと見ている悪い夢、教えてくれるか?」
口調は穏やかなままだったが、表情がまだ強張ったままの柳音にアーネストは少したじろいだが、たどたどしく何とか夢の話をした。
「なので、夢は私の故郷の雰囲気によく似ているのに、取り憑いているのが悪魔の類じゃないというのもどうにもおかしいです」
アーネストはそう話を締めくくった。
しばらく柳音は唸り、熟考していた。
「確かに内容がいかにも西洋のホラー話だな、ずっと同じ内容なんだよな?」
尊が質問した。
「そうだが・・・、最近は見る時間が長くなってる気がする。螺旋階段を下りてから、そこでいつも景色が回転するんだけど、最近回転する時間が長いんだ」
アーネストの答えに、柳音が反応した。
「それは本当かい」
柳音が聞く。表情が強張りを通り越えて相当に険しい。
「そうですが・・・」
アーネストは弱々しく答える。
「こりゃ俺だけじゃ手に負えん。
助太刀を頼みに行くから、今晩二十一時に、ここへ来てくれ」
柳音がそう言うと、座っている隣の座卓にあったメモに走り書きをし、住所を記載したメモを手渡した。
「絶対に昼寝もするなよ」
二十一時、アーネストと尊は柳音に指示された場所に着いた。
そこはバーだった。
間違いなのかと二人は不思議がったが、メモの住所とスマートフォンのマップで確認するも、正しく記載された住所だった。
柳音は何故ここに指定したのか。
「おう、着いたね。早速入るぞ。
店には話を通していて今日は貸し切りにしている。
料金は俺がもっとくから気にせんとね」
急く柳音に促され、二人はバーに入った。
柳音は一応店にはある程度話をしたそうだが、余りにも急を要する事態の為、準備に時間がかかりアーネストがどんな人間なのか、名前すら相手に教えていないという。
柳音の言った通り、確かにバーは開店中の佇まいではなかった。
ところどころにオカルトグッズが並べられており、オカルトバーなのが見て取れるが、マスターと思しき人物は仕事着ではなく真っ黒な和服に身を包んでいた。
落ち着いた雰囲気ではあったが、柳音に事前に話は聞かされていたのだろう、少しピリついた雰囲気を放っている。
「高野さんから伺いました、私はこのバーを経営している山根と申します」
マスターの山根が挨拶する。
「事前にはある程度伺っていますが高野さん、えらいのが来ましたね・・・」
山根はピリついた雰囲気を保ったまま、困惑していた。
「俺では手に負えんのがわかるだろ?」
柳音が答える。
「蜃の毒気とも似てるが、ここまで人の夢に直接干渉してくるタイプが初めてでな。
背中に直接取り憑いていたヤツは叩き落せたんだが、奥底にまだ何かいそうなんだ。こんなの見た事がない」
柳音は引き続き答えるが、アーネストはどんどん不安になっていた。
ただ謎の悪夢を見ていただけでこんな事態になるとは露にも思わなかった。
故郷でもこんな怖い目に遭った事はもちろんないし、日本に来てからすぐにもこんな事はなかった。
自分の人生とは無縁と思っていた。
「最近こういうタイプのものが増えて来ていて、私も困ってますよ・・・。
悪霊とか妖とかそんな次元じゃない」
山根のこの一言に、その場の空気が一斉に凍り付いた。
「妖ですらないって、じゃあこれは何なんだ!」
柳音は取り乱して聞いた。昼間の落ち着いた雰囲気はもはや欠片も感じられない。
「コレは悪意とか悪戯とかそういう感情、そもそも意思すらもないんです。
凄く理不尽な存在ですよ。この数百年は神干渉に徹しているようですが、どうも人間を調べているようなんですよね・・・」
山根はどんどん、柳音すらも想定していなかった回答を繰り出していた。
「もちろん対処法がないわけではありません。無は有を嫌うので、相応の方法を取ればいいだけです」
ここで山根はアーネストに向き直る。
「アーネストさん、私の手に触れて下さい」
山根の問いかけに、アーネストは驚いた。
まだ自己紹介すらしておらず、柳音が名前すら教えていなかったのに、さも既に知り合いのように自然に名前を言って来た。この男は何者なのか。
「手に触れた後、その夢を思い出すだけで良いです」
そう促され、アーネストは山根の手を触れた。柳音と尊は言葉を発さず見守っている。
アーネストは山根の掌に触れ、目を閉じ、夢を思い返した。
すると、アーネストは夢の中にいた。狼の皮を被った男が狂女から拷問を受けているシーン。
夢の通り、アーネストは無我夢中で部屋を飛び出し、螺旋階段を駆け下りる。
そしてあの回転が始まる。同時に頭が痛くなってくる。寝起きよりも随分とはっきりした頭痛だった。
始まってどれぐらい経ったかわからないが、回転が突然収まった。
アーネストはよろめきながら何とか立ち上がった。
ここで、回転していた場所が改めて見る事が出来た。
螺旋階段を下りた先は、教会の長椅子が並べられた礼拝堂のような場所だった。
しかし、長椅子があって、天井に鈍く蛍光色で照らされたオレンジのステンドグラスがあって初めて礼拝堂のような場所と初めて認識出来たのであって、長椅子周辺が真っ暗な影になっており、自分の目線はほぼ闇だった。
ここからは未知の領域だった。
遠くで何かが聞こえた。
アーネストは声と思ったが、同じ発音が繰り返されていただけで何と言ったのか全く聞き取れない。
だが、しっかり思い返す必要もなかった。
声が闇から近づいてきた。
ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ
声は笑っていた。
異様に甲高く、意思が感じられず冷え切っている、絶対零度の音声。
耳元にまで大音量で聞こえて自身が叫んだところで、アーネストは瞼を開いた。
いる場所は礼拝堂ではなく、バーだった。
目の前には掌を上に向けた山根が対面に座っていて、傍らに柳音と尊が見守っている。
「よおくわかりました」
山根がそう言い、アーネストの手から自身の手を離した。
「あんたですらも震えるか」
柳音が山根に問う。
山根は表情では何てないようにしていたが、手が小刻みに震えていた。
「夢の記憶を通してここまで接触して来たのは初めてですね。
これは骨が折れる・・・」
山根は震えを押さえるように手を握る。
「アーネストさん、対処法をお教えします。
簡単な事ですが、何があっても絶対に守って下さい」
山根はアーネストに向き直り、静かに問う。表情に反して異様に怒気が籠っている。
「は、はい・・・」
アーネストは力なく答えた。
「一度自分の国に帰って、あなたの故郷で昔訪れた、礼拝堂がある古城に行って下さい。それだけで解決します。だが急いで行って下さい」
何をしなければいけないのかアーネストは身構えていたが、山根の言ったすべき事に、アーネストは少し拍子抜けした。だが思い返してみて、礼拝堂がある古城、という言葉に引っかかった。
「わかりました」
アーネストはただそう答えた。そう答えるしかなかった。
ドイツ連邦共和国 ケルン
アーネストは故郷に二年ぶりに帰って来た。
しかし手放しでは喜べなかった。
自分が助かる為の帰郷という、聞いた事もない除霊法で、ケルンに着いてからどうにも終始落ち着けなかった。
何かあっては良くないと、尊と柳音も同行してくれた。
日本の教会は事情が事情だからと、尊の休暇まで認めてくれた。
柳音に至っては寺を若い住職に任せてまで着いて来てくれた。
二人には感謝しかなかった。
帰郷してすぐに、三人は山根に言われた、礼拝堂のある古城に向かった。
ケルン自体は中々都会だったが、目的地の古城は幾分か郊外に存在した。車を手配でもしないと行けない距離でもあり、中心部から軽く二時間は超え、もはや隣国のフランス、ルクセンブルクと国境に近い位置まで到達していた。
「日本じゃ全く感じないが、地続きで国境があるって変な感じだなあ。しかもこの歳になってドイツに来るとは」
柳音は険しい顔を崩していなかったが、初めての外国だったようでどこか浮足立った発言もしていた。
本来なら別の形で来たかっただろうが、目的が目的なので心底楽しめていないだろう。申し訳ないと思いつつ、アーネストは全てが終わったらケルンの観光案内をしようと思った。
「この辺りで古城って、プロイセンか神聖ローマ帝国の時代のものかな?
この一帯の歴史は複雑だからどうにも想像出来ない」
尊はケルン周辺の地図を広げて唸っている。
慣れないドイツ語の地図でも読めているのに感心だったが、話を聞いただけでおおよその歴史を話し出すものだから、アーネストはこの人間性に感銘を受けていた。
「ここはどの時代の遺跡かわかっていないんだよ。
ドイツに限らずヨーロッパの国にはそういう遺跡が多いよ」
アーネストは運転しながら答える。
「まあ日本は島国でよその国に占領されたなんて一度だけだから、日本みたいに文献残ってる事が少ないんだろうな」
柳音は後部座席で何か用意している。古城に着いたら何かを始める為のようだ。
「日本みたいに昔の事が色々わかる場所だったら良かったんですが、さあ着きましたよ」
アーネストは車を停める。古城に到着した。
古城と言いつつ、意外にも原型をほぼ留めており、観光地化していてもおかしくなさそうな佇まいである。
蔦はある程度外壁を覆っているが、まだ建物としての機能を残している風である。
「日本ではこんな場所の情報とか流れてこないなあ」
尊は呑気に建物の外観を眺める。
「この国でも余り知られていないから、日本では知られていなくて当然だね」
アーネストは答えるが、思い出すかのように古城を睨み付ける。
「ここってアーネストにとっては何かあったとこなのか?」
尊の質問に、アーネストは答えようか迷った。
心の奥底に仕舞った過去の記憶。
忘れられないが、思い出したくもないトラウマ。
夢に出て来た場所がまさかここだったとは。
「若い頃に少しあったね」
アーネストはそれだけ答えた。
城門を開くと、中庭とか広場ではなく屋内ホールに通じている。
高さ二十メートルはあろうかというキープと、隣接するキープより高い尖塔が目につく。
苔むした石造りに、かつてガラスがはめられていたであろう窓枠に蔦がカーテン状に連なり、内部は完全に廃墟状態だった。
一体どれぐらいの歴史を刻んだものなのだろうか、専門家でない限りわからない。専門家ですらもまだ憶測の域を抜けていない場所なのだから、想像するしかない。
「これが欧州の城か。日本とは随分趣が違うなあ」
柳音はそう言いながら、進路方向に塩を蒔き始めた。
「住職さん、ドイツでも塩は効くんですか?」
尊は呆気に取られる。
「お国柄は違うだろうが、清めた場所はどんな悪い輩も寄って来れないもんだ」
構わず柳音は塩を蒔き続け、塩の後を辿る。
二人はそれに続いた。
幾ばくか内部を歩き、三人は玄関ホールより開けた部屋に出た。
天井がここだけ突出して高く、外観と同じ高さだけはある。
壁の窓枠はここもガラスがなくなっているが、もしここにステンドグラスがあるなら、礼拝堂と言っても遜色ない規模である。
ゆうに百人以上は収容出来るだろう。
しかし違っていたのは、もちろん廃墟然としているのはもちろんだが、礼拝堂ならあってもおかしくない長椅子が一つもない事だった。
「昔はここ、礼拝堂だった。私がここに来た時はほぼ誰も来ていなかった」
アーネストが独白する。思い出すように。
「もし夢の通りなら、礼拝堂の奥の左側に、私が降りて来た螺旋階段がある」
そう言うとアーネストは柳音に塩を渡して欲しいと頼んだ。
柳音はここから任せる方がいいと判断したのか、麻袋に入れた塩をアーネストに手渡した。
礼拝堂奥の左手に向かい、塩を蒔きながらアーネストは歩き始めた。
遅れて尊と柳音が続く。
礼拝堂奥左手に、縦長の空間があった。
螺旋階段の手すりも見える。ここだ。
「夢はいつもここで終わってた」
アーネストは一人呟き、塩を蒔き続ける。
麻袋に手を入れる度、何故か嫌な空気が指先だけ紛れ一抹の安心感を得ている。
階段ホールに入ると、異様に高い石造りの螺旋階段が続いている。
礼拝堂の高さ以上はありそうで、礼拝堂がかつてのキープ、日本の城で云うところの天守なら、この螺旋階段は尖塔、物見櫓になるのだろう。
三人は螺旋階段を登り始めた。
意外と崩壊は進んでいないのか、しっかり踏んで登れる。
何段登っただろうか、下を見ると一階の床に散らばる瓦礫が小さく点に見える。
外壁から時折見える景色に、キープの屋根が見え始めていたので、もう屋根裏と同じ高さまで登ってきていた。
そして三人の眼前に、それは現れた。木の梁が天井を覆い、階段の終点に木扉が半開きになっている。
アーネストはおそるおそる、外れかかった閂をそのままに扉を押した。
そのまま夢に見た、部屋がそこにあった。
壁に蠟燭台があるものの、当然ながら蝋の欠片も残っていない。
まだ蔦の浸食はないのか、植物は全く生えておらず、木製の窓枠だったろうか、木片が部屋中に散らばっていた。
そして夢に出た、狼の皮を被せられた男が座っていたものと同じ椅子があった。
どうやらこれだけが金属製のようで、錆び始めていたものの部屋の中で唯一まともに原型を留めている物だった。
「そういや、何でここに来たんだ?
全く教えてくれないし、そろそろ説明してくれよ」
尊は苛立ちはじめ、アーネストに詰め寄った。
「完全に思い出すまで確信が持てなかったけど。
ここはね・・・、昔の私の、最悪の記憶だよ。
十七年前に私の弟がここで殺された」
※注意※ 当作品の中で最も残虐かつ陰惨な表現がなされています。
這イズラセルノハ楽シイ
ソノ声モマタ一興
眠ル一時モ与エナイ
私ハ双子ヲ攫ッテ来タ
二十代ナノデ体ツキハ非常ニ良イ
コレナラ次ノ満月ノ夜ガ楽シミダ
イツモノヨウニタダ甚振ルノハ芸ガナイ
ナノデ私ハ双子ノ片割レニ見物サセタ
モウ一人ノ片割レノ頭ニ狼ノ皮ヲ被セタ
今朝獲レタバカリノ狼デトテモ皮ノ生キガ良イ
ソコデ私ハ被セル双子ノ片割レノ顔ノ皮ヲ剥イダ
私ハ満チテイタ
私ノ餓エタ感情ガコレ程ニ満タサレタ事ハナイ
被セタ片割レハ最初ハ痛ミト恐怖デ叫ンデイタ
コノ日ノ満月ハイツモヨリ大キク 赤ク光ッテイタ
ソノ月明カリハ良イ雰囲気ダッタ
コノ空気デ 片割レノ体ニ滑ラセタないふニ食イ込ム感触ハ堪ラナイ
切リ刻ミ始メテドレグライ経ッタロウカ 片割レハ叫ビ声ニモナッテイナイドモリ声ヲ上ゲテイタ
私ノ子宮ガアッタ腹ガジワジワト熱クナリ どれすノ中カラ水ガ滴ルノヲ感ジタ
年甲斐モナク欲情シタヨウダ
見物サセテイタ男ハ見ルニ絶エナカッタノダロウカ 部屋カラ勢イ良ク逃ゲ出シタ
コレ程ノ悦シミヲ 残念ナ男ダ
今ハ本気デコレヲ楽シミタイカラ 逃ゲタ片割レヲ追ウノハ後デ良カロウ
城ノ一帯ヲ憲兵ガ囲ンデイル
逃ゲタ片割レガ連レテ来タヨウダ
部屋ニイル片割レハ息ヲシテイナイ 私ハ一晩カケテ片割レノ肉ヲ切リ刻ンダ
残ッテイルノハ皮ヲ被セタ頭ト胴ダケ 手足ハ落トシテ中身ヲ吸イ尽クシタ
片割レノ一物モソソラレタノデ コレハ大事ニ取ッテアル 休ミナガラ口ニ頬張ッテ舌デ味ワッタ
ソンナ悦スラモ許サナイノカ
捕マレバ私ハ一生コノ悦ビニ触レラレナイダロウ
ダカラ私ハ最期ノ悦シミトシテ 自分ノ体デ楽シム事ニシタ
人ニ包囲サレテ自分ノ体ヲ切リ刻ム コレハ昨晩ヨリモ良イナ
誰カガ来タヨウダ
私ヲ呼ブ声ナノカ 何故カ耳ガ不快ダ
常ニ嗤ッテイル コノ声ハ何ダ
入ッテ来タノハ人ノ形ヲシタ何カダ
赤イ
タダソレダケノ何カ
ダガ 私ニハソイツガ何ナノカナンテ事ハドウデモ良イ
オ前ノ体デモ 楽シマセロ!!
アーネストは思い出した。
否、思い出したくなかった。
十七年前のまだ若かった頃、双子の兄と共に変な女に拉致された。
当時の記憶を辿っても、女とどんな会話をしたのかは断片的で思い出せない。
ただ間違いのは、女は狂っていると言う表現では言い足りない程に常軌を逸していた。アーネストと兄アレクサンドロスが大学からの帰り道に、何かで尖らせたであろう木槌で二人の背後を襲い、二人とも気を失わせて古城に連れ帰り、アレクサンドロスから拷問を始めた。
どういう意図か、アーネストは椅子にただ座らせ、拘束すらもせず狂女は兄への執拗な暴虐を楽しんでいた。
ただ、アーネストが気付いた時には兄に狼の皮を被せられた後なのと血塗れだった事もあり、それが兄であると全く認識出来なかった。
兄と思しき人物から発せられた声は異様な雄叫びとも言える声ともなっており、おそらく舌を切断されていたのであろう。
兄であると知ったのは、アーネストが古城から脱出した後、警察が古城を制圧した後だった。
現場検証では、兄はこれでもかと言うくらい、体の原型がなくなるくらい甚振られた後に、女はあろう事か自分を甚振って、悦しみながら死んでいった。
これにより何故兄弟がこんな目に合わされたのか、理由は永遠にわからず仕舞いだった。
「なんてひでえ・・・、そんなヤバイ事日本でも滅多にねえよ・・・」
アーネストから告白を聞かされ、尊は相当なショックを受けていた。
「だから私、兄を弔う為に、神父になった。
だけど、余りにも辛すぎたから、記憶をわざと消していたと思う」
「いや、そりゃそうなるよ。誰だって・・・」
アーネストが答えるが、尊は遮る。
これ以上聞くには堪えない、との意思表示だ。
「・・・それで、記憶が戻ったのは良いとして、この後はどうしたらいいんだ?」
尊は空気を読み、敢えて話を反らした。
「お前さん達、記憶の話に夢中だったから気付いてないようだが、彼が話した“女”が来たぞ」
柳音が険しい声で答えた。これにアーネストと尊はびくつき、血の気が引いた。
「え、その女って、アーネストの兄貴殺した後に意味わからん自殺したんじゃないのかよ。て、そいつもしかして、悪霊化してんの?」
尊の声が震え始めた。
「悪霊化なら全然対処出来るんだが、このレベルは予想外だ。
魔物や悪魔でもこうはならん」
すると柳音は上着を脱ぎ始めた。
五十代の割には意外と体格が良く、骨が太いのが一目でわかるが、何より目についたのは、全身に字らしき模様が描かれている。
アーネストは、この字は日本語ではないと思った。サンスクリット語でもないし、その発展形の梵字にも似ているがどこか違う。
ひとつひとつがどこか攻撃的で、目で見るにもどこか辛い。
「山根の言う通りの準備をしてよかったよ。
これがなかったら三人とも既にお陀仏だったよ」
柳音がそう言うと、部屋にある椅子が突如ひとりでに激しく揺れ出した。
誰も触れておらず、動かすにも距離があるにも関わらず、椅子が暴れていた。
「こやつの兄を甚振り通して、自分の体で愉悦を貪った挙句まだこやつに執着するか、滅却!!」
柳音は脱いだ上着から何枚かお札を取り出していた。
こちらも、体に描かれた模様のような文字で書かれている。
しかし、お札に書かれた字は体の字とは比べ物にならない程攻撃的な意匠がある。
アーネストは見ただけで目の奥に痛みを覚えた。
「まだ足掻くか、貴様のおるべき場所はここではない!滅殺!!」
すると今度は柳音の叫びと共に椅子が燃え出した。
ここで、あの声が聞こえて来た。
ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ
嫌な程に、耳に纏わりつく笑い声だった。椅子が嗤っている。
「滅茶苦茶なヤローだな!しぶてえ!!滅在!!」
ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ
椅子はまだ嗤っていた。
椅子自体は燃え盛る炎に耐え切れなくなり、溶け出していた。
「滅!!滅!!滅!!」
柳音は連呼した。お札はずっと持っていたが、滅と叫び始めると今度は燃える椅子にお札を投げつけ始めた。
とても軽い和紙にも拘わらず、弾丸のようにお札が椅子に飛んでいく。
どれぐらいお札を投げ続けたであろうか、柳音はお札を投げ切ると両膝に手をついた。汗だくになり、息遣いを荒くさせている。
「・・・お前さん達、失敗だ。先に、逃げろ」
柳音はそれだけ言うと再び上着を取り、中から残っていたお札を取り、持って来ていたカバンの中から、刃渡り四十センチ程の七支刀を取り出した。
「柳音さん、何言ってるんですか!
あんたでもどうしようもないんだったら全員で離れましょうよ!」
尊は拒否する。しかし、
「これだけの事をやって、ヤツの、興味をアーネストから俺に、変えさせたんだ。今やった努力を無駄にさせないで、くれ」
柳音がそう言ったのを最後に、アーネストと尊の意識がそこで途絶えた。
夜に、アーネストは意識を取り戻した。
古城の部屋の中は変わっていなかったが、部屋にいなかった人物がいた。
「まだ休んでて下さい。もうすぐでこちらの片づけが終わります」
山根だった。
同行していなかった筈だが、いつ合流したのだろうか。
山根はそれから、椅子のあった場所に向かって一人何かブツブツと呟き始めた。
アーネストは椅子の方に目をやると、そこに椅子はなかった。
否、椅子らしき物は残っていた。
高熱で溶けた、小さな鉄の塊だけがそこに残っていた。
「終わりました。全て説明しますが、尊さんを起こしましょう」
山根はそう言うと、寝そべっていた尊の上半身を抱き起し、背後から首に拳で軽く叩く。すると、すぐに気付き噎せ返した。
「柳音さん、怪我の具合はいかがですか」
山根は尊の背中を摩りながら、静かに聞いた。
「もう俺は引退だな。おとなしく寺の事務でもやってるよ」
柳音は力なく答えた。アーネストが目をやると、柳音は痛々しい姿をしていた。七支刀を持っていたであろう右腕が丸々なくなっており、反撃でも喰らったのか左目に、血に染まったガーゼが当てられている。右足にも応急処置で木板と布で即席のギプスが宛がわれている。満身創痍だった。
「それでも、ヤツと対峙して生き残った事自体が凄いです。
やはり貴方は稀代の滅却師ですね」
山根は安堵した顔で少し微笑む。と同時に少し寂しそうな笑顔でもあった。
アーネスト達はしばらくドイツで療養した後、日本に戻った。
尊はあの柳音の戦いを終わる直前まで見たらしく、あの嗤い声を聞き過ぎたせいで精神のどこかがやられたらしく、神父の活動が出来なくなった。
以来療養生活を余儀なくされ、アーネストが合間を見て看病に赴いている。
柳音はあの戦いで相当に深手を負い、住職としての職務を果たす事が出来なくなり引退。寺の住職は若い僧が跡を継いだ。
あの事件以来から、山根とは会っていない。
私と会ってもロクな事も思い出せないから、会わない方がいいでしょう、と提案されたのもあり、アーネストは義務的に従っていた。
もちろん、あの悪夢も見ていない。
寝覚めは常に良い。
しかし、寝覚めの良い朝を得られたのと引き換えに、友人を危険な目に遭わせた事がアーネストにとって遺恨だった。
いくら悪夢から解放されても後味が悪すぎる。
せめてもの償いで、尊の療養の手助けと、柳音の困り事に応えるぐらいでしか助ける事しか出来なかった。
これで良かったのだろうか。
アーネストは毎日自問自答するが、答えは出ない。
ただ、あの声だけはもう聞きたくなかった。
しかし、またあの声を聞く事になろうとは。
ある日尊の見舞いに家を訪れると、玄関のドア越しに、尊の声で、あの声のように嗤っていたのだった。
ふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっふぇっ
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