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第九章 反逆の狼牙編

EP264 ずっと一緒に居ようね。 <☆>

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 城に設けられた大浴場の女風呂。
 時刻は既に深夜の二時を回り、入浴には遅すぎる時間。20個近くある個室の中で、ただ一つだけ灯りの付いた浴室に2人は居た。

「………………。」

 征夜はただ、虚空を眺めて放心していた。
 花の裸を見ない為に、視線を逸らしていたのもある。だがそれよりも、何も考えたくなかった思いの方が強い。

ザザー……キュッ……チャポンッ……

 シャワーが流れ、止まり、花の裸身が足先から入浴していく。
 体に巻いたバスタオルの上と下を押さえながら、彼女は征夜の前に座り、1人用には広過ぎるが2人用には狭過ぎるバスタブを共有した。

「征夜……大丈夫……?」

「…………大丈夫じゃない。何にも……大丈夫じゃない……。」

「そうだね……辛いよね……。」

 征夜は強がる事すら出来ないほど精神が参っている。
 普段なら無理をして「大丈夫」と答える場面でも、本音を隠しきれないのだ。

「楽しい事を考えて気を紛らわせるより、現実を受け止めた方がアナタの為にもなるかも……。」

「現実……現実…………現実。」

「そう……現実だよ……。」

 生気の無い目で虚空を見つめながら呟く征夜を見て、花は繰り返し語り掛けた。
 それは言葉足らずな我が子を保育する母親のようにも、認知症を患った老人の介護者のようにも見える。

 ――吹雪征夜は、今の自分を情けないとは思わないのだろうか。
 無論、思っている。自分の恰好悪さを理解した上で、それでも彼女に甘えずにはいられない。

「僕のせいで……僕のせいで死んだ……!
 みんな!みんな死んだ!みんな死んだんだ!!!
 ハゼルも子供たちも!みんな!みんな!死んだんだっ!!!」

 頭の中に駆け巡った爆発時の記憶が神経を迸り、全身に激痛を走らせる。
 心が痛い。脳が痛い。息が出来ないくらい肺が苦しい。頭の裏側が引き締まって、側頭部を抑えないと耐えられない。
 喉を震わせて叫ばなければ、魂が軋む音がする。静寂の中に居れば、自分が壊れていくのが分かるのだ。その音を聞きたくないから、掻き消す為に叫び続ける。

 そんな、崩壊寸前の征夜の心を、花は優しく包もうとする――。

「それは違うよね?
 悪いのは……本当に貴方……?」

「…………ぇ?」

 両頬を優しく掴まれ、征夜の目線は花に釘付けにされる。
 真っ直ぐ目と目を合わせて見つめ合うと、花の声がいつもより大きく荘厳に聞こえる気がした。

「自分を責めるのは簡単なんだよ?
 そうやって自分を貶めていれば、楽になれるもんね。…………でも、それじゃ貴方が壊れちゃう。」

「楽……?」

「そんなふうに逃げてるだけだと、何も解決しないよ。」

「…………僕は、悪く……ない?」

「そう、貴方にはどうしようもない事だった……。」

「だから……僕は悪く……ない?」

 征夜の中を循環する花の言葉は、彼にとっては異常なほど歪に思えた。
 花の言う事に間違いは無いと信じたいが、この言葉だけは安易に認めてはいけない――そんな気がした。

「花……僕は……そんな風には思えな、っ。」

 根拠の無い違和感が、否定と反論を呼び起こした。
 だが、絞り出すように呟いた征夜の声は、言い終わるよりも前に握り潰される。

 征夜の口は――いとも容易く塞がれた。

「んっ……んぅ……ん…………。」

ギュッ……ギュウゥ……ギチッ……

 抱きしめられ、花の顔が密着する。
 息が苦しくなるぐらい長く濃厚な口付けが花の体温を伝え、手のひらで両耳を塞がれて訪れた無音の世界は、征夜の精神を花だけに集中させた。

「んっ……んんっ……ぅっ……んっ……。」

 離れたくても離れられない密着感に負けて、征夜の思考は蕩けていく。
 自分の唇から溢れ出る情けない音と、貪るような呼吸音が浅ましく思えても、花を求める気持ちが止められない。

「ん…………ちゅ……ん、はぁっ。…………また、したね?」

「…………だって、」

「だって、じゃないよ。」

「…………っ。」

 花の視線は真っ直ぐ、征夜の瞳の中心を見つめる。
 弁解など許さないと言わんばかりの圧が、征夜の心を萎縮させた。反論、抵抗の意思は即座に潰され、その全てが花に握られて呑み込まれた。

「今の自分に、自信を持たないと。」

「今の……自分……。」

 征夜にはもう、という物が分からなかった。
 自分がどこに居て、何をしているのか。ミサラの死で見失った自分の姿が、ハゼルの死で確定的に粉砕された。そんな物に自信を持てと言われても、何も分からないのではどうしようもない。

 ――花は、そんな征夜の疑問にも応えてくれた。

「私は征夜が好き。
 とっても可愛くて、一生懸命な貴方が好き。
 貴方は素敵ななんだから、自分でそれを否定しちゃダメだよ。」

(かわ……いい……おと……このこ……。)

 花が何気なく放ったという単語が、耳から入って征夜の脳の神経を駆け巡る。

(僕は……おと……このこ……。)

 これまで何度も――否、何年も思い続けて来たという物に対する羨望が溶かされ、握り潰されていくのが実感できる。
 本当なら否定するべき単語なのに、今の征夜は彼女から見た自分がでありであるという認識に対して、反感も抵抗も覚える事が出来なかった。

 ――それがどうしようもなくで、花の言う事は否定のしようがないに思えたのだ。

「これからも、自分を貶す悪い口は私が塞いじゃうからね。」

「うん…………分かった……。」

「じゃあ言ってみて。……何が分かったの?」

 征夜の意思を確固たる物に練り固めようと、花は決断を迫った。
 いや、違うのかも知れない。彼女にはそんな気など全く無くて、ただ純粋に征夜の心を救おうとしているのだろうか。

 しかし傍から見れば、ソレは紛れもなく思考の矯正。
 吹雪征夜の人格を、思うように塗り変えようとしている。そんな風に見えて仕方がない。
 悪意を持った行為ならだが、善意で行われたなら。その線引きは、花にしか分からない。

 征夜に出来る事は、これが後者だと信じるのみ――。

「僕は………………。」

「うん……その通り。それで良いの。」

 征夜は悶々とした心に嘘をついて、自分を肯定した。
 このままじゃいけない事は分かっている筈なのに、その判断に自信が持てない。

 もう何も考えたくないのだ。
 自分の判断で、再び罪の無い人間が死んだら――そう思うと、全てを投げ出したくて仕方が無い。
 投げ出した自分の全てを、今なら花が拾ってくれる。花が自分の代わりに考えて、進むべき道を示してくれる。

 その道を進んでいけば、少なくとも花にだけは肯定してもらえる。
 辛くて、痛くて、苦しくて、いつ死ぬかも分からない道を進むとしても、誰かの為に戦えるなら構わない。

 その点、花は自分を裏切らない。絶対に、何があっても、自分の傍に居て認めてくれる。
 人間なら誰しも、そんな人の為に戦いたいと思うだろう。本当に救えるかも分からない、そもそも何の見返りも無い命の為に死ぬ事を惜しまない人間が、この世の何処に居るだろうか。

 征夜の思考は少しずつ、そんな考えに染まろうとしていた――。

「よく言えたね……それは、勇気が要る事だよ。
 貴方は何も悪くないの。怖い事に巻き込まれて、酷い目に遭わされただけ……。」

「うん……うん……ぅっ……ぐすっ……!」

「辛いね……泣いて良いんだよ……すごく……辛かったもんね……。」

 溢れ出した嗚咽と涙が止まらなくて、花に縋る事しか出来なかった。
 全てを受け止めて抱きしめてくれる彼女の優しさに甘えると、征夜は堕落の道に進んでいく。

 ――けれど、もう。
 彼女に縋って堕ちて行く他に、何も考えられなかった。

「僕は……これからどうすれば良いんだろう……。」

 バスタオルの生地に顔を埋めて抱かれる征夜には、もう何も分からない。

「僕には……分からないんだ……。
 だから……教えて欲しい……僕はこれからどうすれば良い……?」

「…………そうだね。」

 ぐちゃぐちゃになった頭の中から絞り出した問いを花に投げると、彼女はすぐに答えをくれた。

「貴方には悪癖が有る。」

「……うん。分かってる。」

 花に指摘されなくても、それだけは分かっている。
 転生する前も、転生した後も、吹雪征夜の最大にして最悪の悪癖はいつも同じだった。

「僕はいつも……。」

 吹雪征夜は、気を抜くとすぐに逃げようとする。
 敵と戦う時は勇猛果敢に、恐れを知らない戦士として立ち向かえる征夜。しかし、彼はその対極としてが苦手であった。
 自分の内面を見つめるのが苦手だし、という物に正対するのが怖かった。シンの影武者を死なせた時も、ミサラを死なせた時も、現実から逃避しようとした。

 その悪癖が招いた惨事が、ハゼルと少年兵たちの死だ。――これを治さなければ、自分は。征夜は確かにそう思った。

「僕はいっつも……いつもいつも……全部から……逃げてる……!努力から逃げて!辛い事から逃げて!僕は!僕は!」

「征夜……そういう所だよ。」

「…………ぇ?」

 頭の中をぐるぐると廻る悔悟の念が征夜の思考を支配して、彼をパニックに陥らせた。
 過呼吸になって頭を振り乱す彼の頬を優しく支えて正気に戻した花は、真っ直ぐに目線を合わせて彼に呼び掛ける。

「貴方の逃げ癖は……確かに悪癖。
 でも、それは貴方だけに有る訳じゃないよ。だから、自分を責めないで。責めたら、また逃げる事になる。」

「うん……そうだね……そうだった……ごめん……。」

「大丈夫、謝らなくて良いの。
 みんな……同じなんだから。私だって、辛い事から逃げ出したくなる時がいっぱいある。」

「花にも……そんな時が有るの?」

「もちろん……有るに決まってるわ……。
 私だけじゃない。人は誰しも、いろんな辛い事に耐えて生きてるよ。」

「たとえば……?」

 征夜から見た花は、まさに「完璧」を体現するような女性だった。
 自分に欠けた物を全て持っているし、彼女自身に欠けてる所は何も無い。まさに太陽のような女性。
 彼女が居るから輝ける、それが夜の闇を征するだと思った。

 ――だが、そんな彼女にも曇ってしまう時がある。

「たとえば……そうだね。
 女の人は月に一度……いや、何日間もお腹が痛くなるんだ。
 血がいっぱい出て、気持ちも悪くなって。こんなに辛いなら女に生まれたくなかったって、思う時もある。」

「そう……だね……。」

「でも、私は耐えてる。お薬を飲んだり、運動したり、いろんなことを頑張って耐え続けてるの。
 どんなにお腹が痛くても、それがだって分かるから、逃げたりしない。」

「本当に……花は強いね……。」

「私だけが特別なわけじゃない。
 普段の生活で何気なくすれ違ってる女の人も、みんな耐えてるの。前にも言ったでしょう?それが私のだって。」

「うん……。」

 花の事を限定して賞賛した征夜の言葉を、彼女はやんわりと否定した。
 別に同情を受けたい訳ではない。大人が背負う重荷の例の一つとして、一般化された視点で自分の話を捉えてほしかったのだ。

「辛くても、逃げられない時がある。それがって事なんだと思う。
 逃げられる事なら逃げたいけど、それが出来ないから頑張る。ただ、それだけの事なの。でも、それってカッコいいと思わない?」

「すごく……カッコいいと思う……。
 花が逃げずにいてくれるから……。」

「うん……そうだよ。」

 花はタオルの上から自らの下腹部をさすって、暗に示す。
 そこにあるのは未来の息吹。もしも彼女が拒否したなら、永遠に失われていた未来の形だ。

「あなたは臆病じゃない……とっても優しいの……。
 覚悟を決めて、責任を負って、全身全霊を尽くしても誰かを救えない。……そうなったら、辛くて耐えられない。それを思い知るのが怖いから逃げてるの。」

「ち、ちが……」

「貴方は優しいから、人を斬るのも躊躇する。
 それは何も悪い事じゃないわ。斬られるぐらいなら先に斬る、なんて言うよりずっと良い。」

「違うんだ……花……。」

 自分は、そんな高尚な人間じゃない。
 自分は花が思ってるよりもずっと短絡的で、救えない人間なのだ。征夜は今すぐにでも、そう叫びたかった。

 だが、絞り出した声が喉の奥に引っ掛かって、花の元まで届かない。
 有無を言わさない花の口調に抗う勇気も、その認識を否定して幻滅される勇気も無い。

「ち、違……僕は……。」

んだよね……。
 仲間の命も敵の命も、本当は背負いたくない。奪われるのも、奪うのも、怖くて辛くて耐えられない。だから逃げようとする。……私は、それを悪いとは思ってないよ。」

「っ!ぁ……あ……あ……。」

 誰の心にもある、重圧から逃れようとする欲求。
 俗に言うという本能すらも、花には見透かされていた。
 彼の心の中にある醜悪な本性すらも見抜いた上で、花はそれでも征夜を鼓舞してくれていた。

 恐怖と感謝と困惑が入り混じったドブ色の感情が、心の中をグチャグチャにする。
 どんな顔をすれば良いのかも分からずに、征夜の魂は握り潰され縛られて、花の心に手繰り寄せられる。

「それでも……戦わなくちゃいけない時がある。それは分かるよね……?」

「ぁっあ……あ……。」

「痛い事……苦しい事……悲しい事……。
 世界は辛い事でいっぱいだけど、何もかもから逃げ出した先には、本当に何も無い。
 何も我慢せず、全てから逃げ出したままでも生きていける世界なんて……の。」

「…………っ!」

 花の言った「どこにも無い」という単語が、征夜の頭の中で渦を巻く。
 戦わなければ生き残れない。それはあまりに辛辣で、あまりに残酷な現実。

 どうしようもないほど絶対的な、だ――。

「その世界に居られるのは……きっと、お父さんお母さんに守られた子供だけ。
 戦わなくても食べ物が得られて、誰かを蹴落とさなくても安全が保証されてる。……それがなんだと思う。」

「そ、それって……!」

 それは紛れもなく、だ。
 花に出会う前、転生する前、刀を握る前――そして何より、に無関係だった頃の自分。

「征夜は……子供のままでいたい?」

「嫌だ……。」

「この世界に来る前に戻りたいって少しでも思ってるなら……それは間違いじゃないよ。」

「そ、それは……。」

 異世界に来てからは、毎日が戦闘の連続。
 刃を交えて斬り合う事だけが闘いとは限らない。目に見えないところでも、いつも人間は闘っている。
 そこに在るのは、という残酷なルール。一たび足を踏み入れれば、そう簡単には抜け出せない。地獄の世界への入り口だ。

(父さんに従うのが……正しかった……のか……?)

 吹雪悠王征夜の父親はその名の通り「悠然とした王」だった。

 国内最高の東強とうきょう大学に難なく合格する類稀な頭脳と、スポーツでも喧嘩でも負け知らずの怪力。
 父親の会社吹雪カンパニーはバブルの風に押されて軌道に乗り、大学卒業と同時に結婚して長男が産まれ、都内の一等地に豪邸を建てた。

 勝ち組だとか、負け組だとか、彼は最初からそういう次元に立っていない。
 資本主義社会という闘技場で殺し合う平民たちを、特等席から微塵の感興も示さずに見つめ、つまらなそうに拍手をする。それが悠王の仕事だ。

 足元の殺し合いで誰が勝とうが、誰が死のうが関係は無い。それは自分に何の影響も無い事だ。
 平民を侮蔑しているとか、そういう訳でもない。
 ただ単に、殺し合わなければ生きられない哀れな存在として、何の違和感も無くだと考えているだけだ。

 玉座の横には、美しい妻が座っている。その手には愛らしい我が子が抱かれ、妻と共に笑いかけている。

 いずれは息子も成長し、同じような人生を辿る。
 親の言う事を聞いてジッと座っていれば、彼は特等席に留まっていられる。
 やがて成長し、自分の子供を抱いて、つまらなそうに闘技場を見下ろす。それが、が辿る本来の人生だ。

 それは何の変哲も無い、ごく普通の事だ。
 王族はもちろん、貴族や富豪であれば誰でも、自分の子供にはそうさせる。
 家の存続とか、名門のプライドとか、そんな小難しい話ではない。誰が好き好んで必要の無い闘争に身を投じるのか、というだけの事だ。

(僕が……自分で……選んだ……。)

 そんな闘技場の内側に、自ら飛び込んだバカがいる。それは他でもない、王の息子である。
 花と共に転生した事は偶然のように思えるが、結局はそれも「いつか訪れた必然」の発露に過ぎない。
 たとえ、あの場所で死ななくても、敷かれたレールから外れた人生へと、征夜は自ら飛び込んでいただろう。

(僕の……せいで……。)

 あの時トラックの前に飛び込んだのは、一目惚れした1人の女を、運命から救う為だった。
 だが、そこに在ったのは本当に「人の為なら死んでも良い」という善意から来る衝動だったのだろうか。

 答えはノーだ。

 人間の本能は、「赤の他人の為に死にたい」と願えるほど利他的には作られていない。
 もしも他人を救う為に自らを犠牲にする人間が居るのなら、それは覚悟と決意を伴ったの持ち主だろう。

 無論、吹雪がそんな物を持っている筈がない。
 温室育ちの無味無臭な人間、それが清也だ。目立った悲しみも喜びも無い人生を送って来た人間が、ある日突然何の理由も無く高潔な英雄になれるほど社会は都合良く出来ていない。

 彼を突き動かした本能は、薄っぺらな好奇心と浅ましい承認欲求。そして何よりも「闘技場の景品トロフィー」である。

 もしも、あの事故に飛び込んでまで女性を救いたかった理由が「彼女が美しかったから」とか「上手く救えれば交際出来るかも知れない」などの、極めて短絡的な理由であったなら、話はすごく単純だった。
 結果として征夜は楠木花に好かれ、恋仲となり、今も一緒に入浴している。他の全てを犠牲にしてでも手に入れたかった栄光トロフィーに、血塗れの手で縋る事も出来ただろう。
 
 だが、それは全くの誤りだ。
 
 征夜が花を好きなのは、「美しいから」ではない。
 確かに彼女の容姿は、不気味なほど征夜の趣味に迎合している。
 日本人女性としてはかなり長身な背丈に、フックラと肉付いた太もも。
 小悪魔のような吊り目と、聖母のような垂れ目が時と場合で交錯する不思議な視線も、彼の趣味を完璧に撃ち抜いていた。

 しかし彼女に求めているのは、そんな事ではなかったのだ――。

「僕は……。」

 誰かに必要とされたかった。
 誰かに認められ、頼ってほしかった。
 ここに居て良いと認められる居場所を、どうにかして確定させたかった。その為に我武者羅になっていた。

 あの日、あの時、あの一瞬。
 吹雪征夜は確かに「誰かの為に死にたい」と願った。
 こんな自分でも誰かの役に立てるなら、それは全てを投げ打ってでも手に入れるに相応しい「最高の栄誉トロフィー」だと本気で思った。

 彩りの無い廃線のような道を辿って来た男でも、最後に一握りの勇気を見せたなら。――それがになると信じてみたかった。

(けど……本当は……。)

 しかし、現実は甘くなかった。

 自分一人が傷付いて、自分一人が死ぬだけなら、何も怖くはない。
 勝手に飛び込んだ冒険の先で、自業自得で死んだだけなら、それも本望だと思っている。

 ――だが、自分が死ぬ時は1人じゃない。

 もう既に、自分のせいで大勢の人間が死んだ。
 ミサラを危険な旅に巻き込んで、ハゼルを少年兵も巻き込んで爆発させ、その死者は両手でも数えきれない。

 自分が死ねば、自分を信じてくれた人も死ぬ。
 名も知らぬ市民から、今も傍に居てくれる花まで。1人残らず踏み躙られ、奪われ、殺されるのだ。
 
 「殺される」と一言で言っても、その末路は「死」と同義ではない。
 人としての尊厳を奪われ、前途の全てを他者に握られ、家畜のように搾取され続ける人生。それもまた、殺されるに等しい末路だ。

 征夜が敗れれば間違いなく、それが花に訪れる。
 これまでの旅の中で幾度となく狙われてきた彼女の操が未だに守られているのは、征夜たちが勝ち続けて来たからだ。

 ときには征夜が、ときにはシンが、ときにはミサラが、窮地の中でも懸命に立ち上がった。
 それは花の為ではなかったが、結果的にはいつも彼女は守られて来た。

(逃げ場なんて……どこにも無い……もう……進むしかないんだ……。)

 握り締めた刀の重みは、背負っている命の重みだ。
 最初は重く感じた刀が、修行を経て軽くなったように思えた。だが、それは間違いだった。
 ミサラを失った時、その重さに引かれて溺れ掛けた。自分が背負っていた物が、自分を殺しかねないほど重かったのだと思い知らされた。

 これまで歩んできた道のりが「キラキラ光る冒険活劇ファンタジー」から「ドス黒い大人の階段リアリティ」に姿を変えた。
 屍を積み上げて作った階段の頂上には、断頭台しか見えないのだ。その先にある天国という栄光に至るには、もっと多くの屍を築くしかない。

 ラドックスを殺した時、自分の中で何かが壊れたのを感じた。
 しかし、これからの自分に求められているのは「ラドックスをにする」という冷酷な選択。

 そうでなければミサラとハゼルがになり、花もそこに加えられる。――それが、痛いほど分かってしまった。

「それは……それは……。」

 誰かに頼られる事が、こんなに辛いと知っていたら。
 誰かの希望を託される事が、こんなに苦しいと分かっていたなら。

 こんなに飛び込もうとは、思わなかったかもしれない――。

「なら……質問を変えるね。」

「ぅん……。」

「私と出会う前に……戻りたい……?」

「嫌だッ!!!」

 征夜は即答した。こればかりは、迷う余地など微塵も無かった。

「そんなの嫌だ!絶対に!絶対に嫌だ!!!
 花と離れるぐらいなら!辛い事だって我慢できる!だ、だから!そんな事言わないで!!!」

 自分でも驚くほど、みっともない絶叫が喉の奥から響いて来た。
 吹雪征夜はそれが自分の本心だと知り、より一層の絶望を味わう。

(これが……僕か……。)

 情けなくて涙が出てくる。
 訳も分からずポロポロと零れ落ちる大粒の塊が、風呂桶の水面に波紋を作って消えていく。

「アハハ……笑っちゃうよね……。
 これが……僕だ……僕なんだ……。偉そうな事を言ってても……これが……。」

「……うん、分かってるよ。」

 征夜を見つめる花の目には感情が伺えない。
 同情とも侮蔑とも違う、真空の色をした想い。征夜には、それが何なのか分からなかった。

「そっか……なら……別れ、っ!?」

グイッ……!

「そんな事は言ってない。」

「ぇ、ぁ……ご、ごめん……。」

 花の細い指先が、征夜の頬を挟んで掴む。
 征夜の目線をガッチリと自分に固定し、獰猛な獣のような圧をかける。
 眼球を通って脳髄にまで侵入する花の視線、桃色の瞳から放たれる光線は後頭部までも貫通し、血管を破らんとするばかりの熱を加えていく。

 震えが止まらない、手足が言うことを聞かない。
 何かを考えるだけでも命を奪われそうなほど、一挙手一投足を縛られている。

「ご……ごめん……いきなり……変なこと言って……ごめん……。」

 出会って、およそ1年。
 楠木花の事を心の底から恐れたのは、今日が初めてかもしれない。征夜はパニックになった。

 焦って選択肢を間違えた。
 ただならぬ圧を感じる花の気配に萎縮して、反射的に「別れの提案」という逃避を選んだ。
 しかし、そんな見え透いた退路は簡単に潰される。もっと追い込まれてしまった。もう逃げられない。

 真っ直ぐと見つめる視線に囚われた今、彼には拒否権も主導権も無かった。

「私こそ、意地悪なこと言ってごめんね……怖がらせちゃったね……。」

「いや……怖がってなんか……。」

 弁解する征夜の目は、ウゾウゾと泳いでいる。
 花と目を合わせるのが、どうしようもなく怖い。だが、その感情を正直に告げる勇気も無い。

「征夜は……大人になりたいんだよね……。」

「大人……。」

 征夜は大人になりたかった。
 親から自立した自分に。誰にも頼らず、自分だけで生きていける自分に。

 だが、今となっては、そんな無形の目標すらも霧の中に掻き消える幻に過ぎなかったと思わざるを得ない――。

「僕にはもう……何が何だか……分からないんだ。
 子供のままでいるのは嫌だと思って、ここまで来たはずなのに……。」

 自分は何も変わっていない。
 喚いて、泣いて、塞ぎ込んで。これでは幼稚園児だ。
 これまで歩んできた旅路は、征夜にとっての成長の糧となるはずだった。
 しかし冷静に振り返ってみると、スタート地点から微塵も動けていないような。そんな気がしてならない。

「教えてくれ……花……。
 僕はこれから……何をすれば良いんだろう……?」

 もう何も分からない。
 自分1人では何も変えられない。

 人生というのは、長く険しい旅路だ。
 そもそも最初から、何も分からない自分が1人で旅するなど無理だった。

 進むべき道が欲しい。
 自分ではない誰かに、正しい道を示してほしい。
 そうすれば、今度こそ前に進める。他人を傷つけながら進むだけの道で迷い続けるのは、もう嫌だった。

 だから征夜は、答えを求めた。
 何も分からない自分に、叡智を授けてほしかった。

「貴方は優しいから、何でも背負いたくなる。
 無責任でいられないから、いつも他の人の分まで傷ついちゃう。……そうなったら、最後まで進み続けるしかないんだよ。」

 花の言葉はしかった。
 しいのとは少し違う。征夜を傷つけないように気を付け、なおかつ幼稚園児でも分かるくらいハッキリと要旨を伝える。そんな言葉。

「うん……でも……どうやって……。」

「その答えは……たった今、自分で言ったばかりじゃない?」

「ぇ……?」

「私と一緒に居たいんだよね?勿論、私だって一緒に居たいよ。
 でも、貴方が子供として私に着いて来るのなら……もう、お留守番しか出来ないよ?」

「留守……番……?」

「だって……そうでしょう?
 怖くて痛くて苦しい戦争に子供を巻き込む大人が、どこに居るって言うの?……私が、そんな人に見える?」

「見える訳……ないよ……。」

「…………そっか。」

 征夜の答えなど一つに決まっている。
 こうやって問いかける事に、一見すると意味は無い。

 しかし、相手に応答を迫る論法は、精神が衰弱した相手に対し覿面に効果する事もある。
 それは良くも悪くも、対話者の意思に従わせるのに便利な方法だった。

「征夜にもが出来たら……になれると思うんだ。」

「守りたい物……。」

「どれだけ振り回されても、傷ついても、最後には帰って来れる場所。
 何があっても貴方を傷付けたりしない、優しくて暖かい、陽の当たる場所……。」

 この1年だけで、吹雪征夜は何度も何度も繰り返し振り回され、迷い続けてきた。
 遠い異郷の摩天楼で、入り組んだ路地裏にハマり込み、同じ場所を回り続けては振り出しに戻され、進めば進むほど深みに堕ちた。

 そんな征夜にも、帰れる場所が有ったなら。
 本人よりも、それをすぐ傍で見守っている恋人の方が、そう願わずにはいられなかった――。

『私なら、アナタの居場所になれるかな?』

「…………。」

 花が前のめりになって、顔を近づけてくる。
 その目には光が震えており、映す視界には俯いたままの征夜が映っている。

「アナタの心の軸に、私を置いてほしい。」

「…………。」

「もっと強く、どこに居ても忘れないように。」

「…………。」

「どんなに深い闇の中でも見失わない、道標になれるように。……今よりも、もっと。」

「…………。」

「だから……征夜……私の目を見て……。」

「……………………ぅん。」

 黙ったまま、ひたすら俯いていた。
 自分でも忌々しいほどの逃避が、体と心を支配している。その呪縛を祓うように、花の手が頬に触れた。

「君も…………泣いて……る?」

「…………ぅん。」

 頬を支えられて目を合わせると――花も泣いていた。
 震える声は今にも消え入りそうだが、その響きは透明だ。
 その涙は見た事がないほど綺麗で、その瞳に映る征夜の無様な泣き顔とは、似ても似つかないほどだった。

「私だって……辛いの……。」

「ぅん……ぅん……ひくっ……!」

「大丈夫……1人じゃないからね……。」

 俯いたまま、1人で黙って泣く事など許さない。
 焼けるように熱い頭を抱きしめて、花は一緒に涙を流し、心で征夜とシンクロする。浴室に満ちた湯気を介して、鼓動さえも溶け合って行く。

「今から一緒に……、作ろうか。」

「…………ぁ。」

 聖母のように朗らかな笑みが、花の顔に満ちていく。
 涙を浮かべながら、それでも征夜を安心させ、導こうと、必死に笑顔を作っていた。

ガタンッ……!

 征夜は押し倒された。
 80kgを悠に超える筋骨隆々の肉体が驚くほど簡単に湯船から持ち上げられ、大理石の床に墜落する。
 背中に触れる無機質で冷たい感触と、掌同士を合わせて握る花の両手の温もりが、彼の魂を挟み込んだ。

「ぁ、花……。」

「征夜は良い子……とっても頑張ってる……だから、我慢しなくて良いの……。」

「わ……ぁ……待っ……。」

「自信を持って……私に全て任せて……。
 貴方は素敵な子……何も我慢しなくて良いくらい、一生懸命に頑張ってるよ……。」

 花の顔に浮かぶ悲痛の色は、同情で溢れていた。
 彼の努力を、戦いを、苦労を、全て認めて受け止める。その果てで、今の自分に出来る事をしたい。

 を、母親が抱きしめる時のように――。

「だから今度は……私に頑張らせて……。」

 もう頑張らなくて良い。
 もう十分に頑張って、征夜は限界を超えている。
 何度も何度も傷ついて、上手くいっては折れてしまって。ほんの少しのすら、運命は許してくれなかった。

「もう……私……征夜を見てるの……辛いよ……。」

「花…………。」

 シャワーで濡れた長い髪に、瞳から溢れ出した大粒の雫が走った。
 ポタポタと音を立てて流れ落ちる涙が征夜の腹にも掛かって、その温度が彼の心を掻き乱す。

「私から離れちゃダメだよ……私も絶対……アナタから離れないから……。」

 花はもう、征夜を見ていられなかったのだ。
 誰よりも愛する恋人を、自壊しながら踊らされ続ける宿命の奴隷オートマタにしたくない。

「ずっとずっと……私と……一緒に居ようね……。」

 征夜には確かに逃げ癖がある。
 けれど誰かが同じ立場になったとして、逃げずにいられるだろうか。花には不可能に思えた。

 自分たちはだ。
 他の何者でもない。
 戦う為だけに生み出され、世界を救う為に生きる事を定められたではない。

 ほんの1年前までは、平和な国で穏やかな日々を過ごしていた。そんな、なのだ――。

(征夜が……何をしたって言うの……。)

 何の不自由も無い暮らしの中で、何気なく「自分の力で生きたい」と願った。ただそれだけの罪なのに、どうして恋人がこんな目に遭うのか。

 自分がいかに恵まれているか弁えて、その立場に甘んじて生きる事が正解だとでも言うのか。

 そうやって生きていれば、今頃ラドックスの野望は成就して、もっと多くの人間が不幸になっていた。
 その不幸を一心に集約して受け止めた征夜が居なければ、世界は間違いなく悪い方向に向かっていた。

「私……アナタが居たから……ここまで生きていられなの……。」

 もし征夜がいなければ、彼女は間違いなく悍ましい最期を遂げていた。感謝しても仕切れないだけの恩が、そこにある。

「なのに……どうして……こんな……!」

 全てを投げ出命を賭して自分を守ってくれた青年に与えられるべきは、試練ではなく祝福のはず。
 異世界で成長できた事が祝福であるとして、その過程で負い続けた傷の痛みは代償として相応しい物なのか。

「さっきは厳しい事を言って……ごめんね……。
 でも……私は……貴方を……絶対に……見捨てたり……しないから……。」

 だからせめて、同じ場所で痛みを感じていたい。
 何があっても一人じゃないと、彼に分かってほしい。

 もし、それすらも叶わないなら――。

「2人で……オトナに……なって……。」

 決して離れられない、家族の縁キズナを結んで――。

「ずっと……一緒に居ようね。」

 ――壊れる時だって、一緒が良かった。
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