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ライブに興味はありませんか、と青柳が言ったのは彼のおすすめのサンドイッチを食べに行き、さらにラーメン屋に立ち寄ってしこたま脂っこい食事を摂取した帰り道のことだった。
「チケットノルマとかそういうの?」
「違います」
我ながらひねくれた回答だと思ったが、青柳はいとも簡単に穏やかな顔でそれをスルーする。
青柳が言うには、突然街中で声を掛けてきたどこの馬の骨とも知れない人間を、大して疑いもせず住まわせてくれていることに対する感謝として、もし良かったらライブに招待させてほしい、ということだった。こちらからしたら青柳が来たことで生活は向上している訳だし、こっちに深入りをしてこない青柳は同居人として最高だし、何より、あの日うちに彼が転がり込んできたことで失恋の痛手を紛らわせることもできた。そう考えるとこっちから感謝することではないにしても、あちらから感謝されるようなことでもないと思っていたから、そういう青柳の思慮を察せなかったことが少し恥ずかしかった。
あるか、と言われればある。でも、ライブハウスなんてもう何年足を運んでいないだろうか、と考えると躊躇もある。だから一瞬答えに詰まったのだけれど、青柳はそれを無関心と取ったらしい。
「ないなら別にいいですけど」
「ごめん、ある。めっちゃある」
「無理しないでください」
「違う。観てみたいけど、ライブハウスが怖い」
「……ライブハウスは取って食いませんよ?」
茶化されたのかと思って隣を見ると、あまりにも青柳が真剣な顔をしているから笑ってしまった。まるで心底それを心配しているかのような顔。こういうすっとぼけたところが人気の秘密なのかもしれない。
小さなライブハウスだけどフロアの後ろの方にならそんなに人もいないから落ち着いて観られるはず、と必死の説得に頷いて、四月半ばの休日をライブの日に充てることを約束した。
その話が決まってからずっと、時間があれば青柳の属するバンドの動画を見たり音楽を聴いたりしている。元々好きなこともやりたいこともなく、たださっさと家を出ようと考えてばかりいた人生だった。大学までは出なさい、と勧めてくれたのは養父で、今後のことを考えると最善と思えたからありがたく甘えさせてもらった。掛かる費用の問題を考えて遠方の大学に行くという選択肢は最初からなかったから、やりたいことは近くの大学にある学部から決めた。休日はできるだけ金を稼ごうとバイトをしていたし、本当に何か好きなことやのめりこんだことなんて、思いつかない。そんな中で、ひとつのバンドの情報を追いかけるというのはいい暇潰しになった。
「久住さん、そういうの聴くんですね」
左耳にするりと声が滑り込み、右耳に流れ込んでいたボーカルの声と混じって脳が一瞬混乱する。イヤホンを抜いて顔を上げると、コーヒーが入っているらしい紙カップを持った前髪の長い男がこちらを見下ろしていた。机の上に置いていたスマホの画面には相変わらず例のバンドの面々が映っていて、俺の背後に立った同期の男はその画面をじっと見つめている。
「知ってんすか、杵築さん」
「最近よくおススメに上がってくるんです。聞いたことはないけど。でもこの人たち、顔がいいから覚えてます」
「どういう理由っスか」
「顔がいいとつい見ちゃうじゃないですか。そういうの、ないですか」
「正直あんまりないかも」
そうなんだあ、と言い置いて杵築さんは自分の席へと戻って行った。杵築さんは自らをコミュ障と言い、人間との関りがとにかく苦手なのでと常から公言している。かといって別に偏屈なタイプでもなく、本当に単純に人と話すのが苦手なんだな、という印象しかないから好まれることもなければ疎まれることもそれほどない。誘われれば飲み会にもついてくるけれど、休日のプライベートな誘いとかには絶対に参加しない。うまく生きてるなあ、と思う。本人はそんなことは決してない、不器用なだけだと全力で否定するけれど。
杵築さんが居なくなったのを確かめて、改めて右耳にイヤホンをねじ込んだ。一瞬の間の後、息を大きく吸い込む音に続いてここ最近嫌と言う程聞いた、なんだか深夜の水族館みたいなクリアな声が鼓膜に流れ込んでくる。
深夜の水族館、と言うと青柳は、なんだか分かると控え目に笑った。本人に伝えておきます、とも。そしてその伝達は滞りなく行われ、今度どこかのインタビューで使います、という丁寧な回答を頂いた。その一文を、まだ俺はどの媒体でも目にしていない。
この男に利用されているのか、と思うことがなくもない。歌っている男ではない。カメラに抜かれる、スカした茶髪でギターを弾く男。
いい奴なんです、と青柳は言っていた。それは惚れた欲目も差し引いてのことだという。話を聞く限り青柳を利用している悪い奴、という印象なのだけれど、利用できるものは利用するというのは自分にも適用されるルールらしく、それはインタビュー記事を読んだりサイトに上げられる企画動画みたいなものを見ても分かる。分かる、けれど。
思っていたよりも情が移ってしまった。小学生の頃学校の帰り道に、美弥と二人で犬を拾ったことを思い出した。養父母からしたら滅多に我侭を言わない息子の希少なお願いは聞くべきだろう、と考えたのだろうけれど、養父母を止めて俺と美弥を叱ったのは当時高校生の雅樹だった。生き物を大事に思うのはいいけれど、最後まで責任を持って育てられるのか。可哀想だとか可愛いからだとか、そんな一時の感情で動物を飼うのは感心しないとか、そういうことを言っていた。それを聞いて美弥は雅樹に対して簡単に考えてる訳じゃないと強く言い返し、両親はなんとも言えない顔で雅樹と美弥のやり取りを聞いていた。
その時は両親が犬を動物病院を連れていく間に雅樹が犬の飼い方みたいな本を買って来て、ちゃんと勉強するんだと言いながら三人で頭を突き合わせてそれを読み耽った。結局、その犬を診てくれた獣医がうちで飼ってもいいと好意で申し出てくれた為に、美弥の決意と雅樹の小遣いは無駄になってしまったのだけれど。
久しぶりに雅樹のことを思い出した気がする。何とも言えない気分になってスマホを触り音楽を止め、イヤホンを耳から外した。途端に日常が音になって身体の中に染み込んでくる。思い出すというのは忘れたということだ、という昔聞いた歌がふと脳裏に浮かんだ。そういえば最近は、雅樹と玄関先で顔を合わすこともほとんどない。意識せずにいれば隣同士でも、こんなに会わずに過ごすことができるものなのかと感心してしまう。
青柳がうちに住んでくれて良かったんだろう。あの時拾った犬を飼いたいと思ったのも、拾われた子が自分だけじゃなくなれば少しは心が軽くなるかもしれないなんていう打算が、多少なりともあったからだ。失恋の傷を見も知らない男に託した俺は、なんだかんだ言っても犬を拾った子供の頃と少しも変わっていない。
「チケットノルマとかそういうの?」
「違います」
我ながらひねくれた回答だと思ったが、青柳はいとも簡単に穏やかな顔でそれをスルーする。
青柳が言うには、突然街中で声を掛けてきたどこの馬の骨とも知れない人間を、大して疑いもせず住まわせてくれていることに対する感謝として、もし良かったらライブに招待させてほしい、ということだった。こちらからしたら青柳が来たことで生活は向上している訳だし、こっちに深入りをしてこない青柳は同居人として最高だし、何より、あの日うちに彼が転がり込んできたことで失恋の痛手を紛らわせることもできた。そう考えるとこっちから感謝することではないにしても、あちらから感謝されるようなことでもないと思っていたから、そういう青柳の思慮を察せなかったことが少し恥ずかしかった。
あるか、と言われればある。でも、ライブハウスなんてもう何年足を運んでいないだろうか、と考えると躊躇もある。だから一瞬答えに詰まったのだけれど、青柳はそれを無関心と取ったらしい。
「ないなら別にいいですけど」
「ごめん、ある。めっちゃある」
「無理しないでください」
「違う。観てみたいけど、ライブハウスが怖い」
「……ライブハウスは取って食いませんよ?」
茶化されたのかと思って隣を見ると、あまりにも青柳が真剣な顔をしているから笑ってしまった。まるで心底それを心配しているかのような顔。こういうすっとぼけたところが人気の秘密なのかもしれない。
小さなライブハウスだけどフロアの後ろの方にならそんなに人もいないから落ち着いて観られるはず、と必死の説得に頷いて、四月半ばの休日をライブの日に充てることを約束した。
その話が決まってからずっと、時間があれば青柳の属するバンドの動画を見たり音楽を聴いたりしている。元々好きなこともやりたいこともなく、たださっさと家を出ようと考えてばかりいた人生だった。大学までは出なさい、と勧めてくれたのは養父で、今後のことを考えると最善と思えたからありがたく甘えさせてもらった。掛かる費用の問題を考えて遠方の大学に行くという選択肢は最初からなかったから、やりたいことは近くの大学にある学部から決めた。休日はできるだけ金を稼ごうとバイトをしていたし、本当に何か好きなことやのめりこんだことなんて、思いつかない。そんな中で、ひとつのバンドの情報を追いかけるというのはいい暇潰しになった。
「久住さん、そういうの聴くんですね」
左耳にするりと声が滑り込み、右耳に流れ込んでいたボーカルの声と混じって脳が一瞬混乱する。イヤホンを抜いて顔を上げると、コーヒーが入っているらしい紙カップを持った前髪の長い男がこちらを見下ろしていた。机の上に置いていたスマホの画面には相変わらず例のバンドの面々が映っていて、俺の背後に立った同期の男はその画面をじっと見つめている。
「知ってんすか、杵築さん」
「最近よくおススメに上がってくるんです。聞いたことはないけど。でもこの人たち、顔がいいから覚えてます」
「どういう理由っスか」
「顔がいいとつい見ちゃうじゃないですか。そういうの、ないですか」
「正直あんまりないかも」
そうなんだあ、と言い置いて杵築さんは自分の席へと戻って行った。杵築さんは自らをコミュ障と言い、人間との関りがとにかく苦手なのでと常から公言している。かといって別に偏屈なタイプでもなく、本当に単純に人と話すのが苦手なんだな、という印象しかないから好まれることもなければ疎まれることもそれほどない。誘われれば飲み会にもついてくるけれど、休日のプライベートな誘いとかには絶対に参加しない。うまく生きてるなあ、と思う。本人はそんなことは決してない、不器用なだけだと全力で否定するけれど。
杵築さんが居なくなったのを確かめて、改めて右耳にイヤホンをねじ込んだ。一瞬の間の後、息を大きく吸い込む音に続いてここ最近嫌と言う程聞いた、なんだか深夜の水族館みたいなクリアな声が鼓膜に流れ込んでくる。
深夜の水族館、と言うと青柳は、なんだか分かると控え目に笑った。本人に伝えておきます、とも。そしてその伝達は滞りなく行われ、今度どこかのインタビューで使います、という丁寧な回答を頂いた。その一文を、まだ俺はどの媒体でも目にしていない。
この男に利用されているのか、と思うことがなくもない。歌っている男ではない。カメラに抜かれる、スカした茶髪でギターを弾く男。
いい奴なんです、と青柳は言っていた。それは惚れた欲目も差し引いてのことだという。話を聞く限り青柳を利用している悪い奴、という印象なのだけれど、利用できるものは利用するというのは自分にも適用されるルールらしく、それはインタビュー記事を読んだりサイトに上げられる企画動画みたいなものを見ても分かる。分かる、けれど。
思っていたよりも情が移ってしまった。小学生の頃学校の帰り道に、美弥と二人で犬を拾ったことを思い出した。養父母からしたら滅多に我侭を言わない息子の希少なお願いは聞くべきだろう、と考えたのだろうけれど、養父母を止めて俺と美弥を叱ったのは当時高校生の雅樹だった。生き物を大事に思うのはいいけれど、最後まで責任を持って育てられるのか。可哀想だとか可愛いからだとか、そんな一時の感情で動物を飼うのは感心しないとか、そういうことを言っていた。それを聞いて美弥は雅樹に対して簡単に考えてる訳じゃないと強く言い返し、両親はなんとも言えない顔で雅樹と美弥のやり取りを聞いていた。
その時は両親が犬を動物病院を連れていく間に雅樹が犬の飼い方みたいな本を買って来て、ちゃんと勉強するんだと言いながら三人で頭を突き合わせてそれを読み耽った。結局、その犬を診てくれた獣医がうちで飼ってもいいと好意で申し出てくれた為に、美弥の決意と雅樹の小遣いは無駄になってしまったのだけれど。
久しぶりに雅樹のことを思い出した気がする。何とも言えない気分になってスマホを触り音楽を止め、イヤホンを耳から外した。途端に日常が音になって身体の中に染み込んでくる。思い出すというのは忘れたということだ、という昔聞いた歌がふと脳裏に浮かんだ。そういえば最近は、雅樹と玄関先で顔を合わすこともほとんどない。意識せずにいれば隣同士でも、こんなに会わずに過ごすことができるものなのかと感心してしまう。
青柳がうちに住んでくれて良かったんだろう。あの時拾った犬を飼いたいと思ったのも、拾われた子が自分だけじゃなくなれば少しは心が軽くなるかもしれないなんていう打算が、多少なりともあったからだ。失恋の傷を見も知らない男に託した俺は、なんだかんだ言っても犬を拾った子供の頃と少しも変わっていない。
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