陽の当たるアパート

なたね由

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「それで今、一緒に住んでる」
 貴倉に事の次第を伝えたのは、会社の休憩スペースの自動販売機の前のベンチだった。貴倉は、は、と短い声を発し、それから深く息を吸ってもう一度、は、と言った。
「ごめん、ちょっと何言ってるか分からない」
「貴倉が言ったんだろ。失恋の傷は新しい恋で癒せって」
「いや、言ってない。全然言ってない」
 それに近いニュアンスの話はされたと思う。だからそう言うと、そうだけど、とかちょっと待って、とか言いながら貴倉は、慌ただしく三回、缶コーヒーに口を付けた。
 深呼吸の代わりなのかもしれない。そんなに動揺されるなら、少なくとも仕事の合間の休憩中にするような話ではなかったな、と後悔した。本当はあまり長く説明したくなかったし、深く突っ込まれたくないからとこの場所とこの時間を選んだのだから、俺も大概卑怯者だ。
 あの日俺に駅の中で唐突に、そして大変不躾な要望を伝えてきた青柳慈人という人間について最初の一週間で下した評価は、「いてもいなくても気にならない」というものだった。
 あまり有名ではないバンドの、さらに目立たないポジションである(本人がそう言った)ベースを担当しているという彼に駅で呼び止められ、家に泊めてくれと言われてからもう数週間になる。けれど、未だに彼を邪魔だと思ったことはない。かと言って、役に立たないかというとそういう訳でもない。バンドとしての仕事がある日は昼間に出掛けることもあるけれど、基本的には夜のバイトが入ることが多いらしく、帰宅した俺と玄関先で入れ違いになることも多い。冷蔵庫にはその日作った簡単な惣菜が入っていることがあるし、そうでなければ冷凍庫に常備菜が入っていたりもする。料理が趣味なのか、と聞けばいつも金がないから見切り品で冷凍の惣菜を山盛り作って食い繋いでいたのだと言う。そしてその言葉通り、見栄えが良いとか繊細な料理なんかはないけれど、味はそこそこに美味い。
 光熱費もきちんと入れてくれる。元々空いていた部屋を使っているのだから家賃はいらない、と言ったらその分青柳がなんとなく家事を担当してくれるようになった。だから、生活についてはかなり楽になった。その辺を加味して言うなら、いても気にならにけれどいなくなると結構困る、というのが総合評価だ。
「そいつ、大丈夫なの」
「何が?」
「変な奴とか、ヤバい奴とか」
「うん。それは大丈夫。なんか、座敷童みたいだし」
「何だよそれ」
「家のことやってくれるし、騒がないし」
「ああ、そう……うん、まあ、久住がそれでいいならいいけどさ」
 貴倉が心配してくれているのは分かる。俺が後輩ということを差し引いても、彼は心配性なのだ。後から俺が変な男と住んでる、なんて話が俺以外の誰かから耳に入ろうものなら何を言われるか分かったものではないし、それならいっそ先回りしてやろうと伝えたのだけれど、先の通り仕事の休憩時間を選んだのは、根掘り葉掘り問い詰められたくないという気持ちの表れでもある。
「まあ、今度ゆっくり聞かせてくれよ。良かったらさ、その同居人も一緒に飲みにでも行こうぜ」
「分かった。一応伝えとく。いつ?」
「連絡する」
「うっす」
 深入りされたくない、という心情を察してくれるところが、貴倉のいいところだ。俺にとって都合のいいところ、と言われればそれまでだけれど、貴倉は貴倉で時間潰しや息抜きとして俺に構うのがちょうど良いからお互い様だ、と勝手に思っている。コーヒーの缶を缶入れに放り込み、それじゃ、と立ち去る貴倉に手を振って、俺は深めの溜息を吐いた。
 実際のところ、青柳と暮らすのは心地が良い。大人しいと言えば違うのだけれど、バンドマンという割に家で鼻歌を歌う程度で騒いだりはしないし、楽器の練習なんかはどこかよそでやっているらしい。俺が家にいる時にはあまり部屋から出てこないけれど、声を掛ければ嫌がりもせず顔を出す。座敷童みたい、と言ったのは決して運が向いてきたとかそういう話ではない。ただそこにいて、決して邪魔にならなくて、でも確かに居る、というその感覚が小さな怪異のように思えるのだ。
 俺が雅樹に振られた傷心の飲み会の帰り、割と強引で非常識な要望を俺に告げた青柳は、後から聞けば相当に切羽詰まっていたのだという。
 あの日青柳はバンドのスタジオ練習の後、俺と同じ居酒屋の隣の個室でメンバーと飲んでいたのだそうだ。あまり売れないCDと増える気配のない出演依頼の悩みに加え、当時一緒に住んでいた恋人から一方的に別れを告げられ、行く当てもなく途方に暮れていたらしい。一週間程度ならメンバーの家やネカフェで凌げるだろうけれど、だらだらとそんな生活を続ける訳にもいかない。それでも自分の身に降りかかった事件が自分のこととは思えなくて、他人事みたいに考えながらつまみを酒で流し込んでいたら、隣の個室に居た俺たちの会話が耳に入ったのだという。
 幼馴染の男に振られたばかりの男。そいつに新しい恋を始めろとけしかける友人。新しい刺激による気持ちの切り替え。
 やけくそだったんです、と青柳は言った。万が一了承を得られたとしたらそれはとんでもないラッキーだし、断られたとしても酔っ払いの戯言だと思われて、次の飲み会や出演しているラジオや何かで笑いのネタにするだけだ、と。当たって砕けろってことか、と言うとそうそれです、と心底感心したような顔をしていた。その表情につい笑ってしまうと、勉強は苦手なんですと照れ臭そうに俯いた青柳が、俺にとってはなんだか新鮮な人間に見えたのだ。
『今日、飯食いますか』
 尻ポケットでスマホが震えて、ロック画面を見ると青柳からのメッセージが表示されている。
『どっち?』
 時刻は午後三時。青柳はおそらく今夜は出掛けるのだろう。この短いメッセージからそんなことが分かるくらい、彼はたった数週間で俺の生活にすっかり馴染んでしまっていた。かけがえのない、なくてはならない、というものではない。それでも部屋の中にあったそれが無くなってしまうと、困りこそしないものの喪失感に見舞われてしまう便利グッズのような存在がある。
『レコーディングです』
『お疲れ。俺は多分早く帰る』
『分かりました。飯、冷蔵庫に入れときます』
『助かる』
 就業まであと四時間ある。ここ数日の慌ただしさがようやく落ち着いたから、余計な仕事の連絡さえなければきっと今日は定時で帰れるはずだ。雅樹との件があって、青柳が家に転がり込んで数週間。その忙しさの所為で救われたのも事実としても、さっさと帰って家でゆっくり落ち着きたいという気持ちも嘘じゃない。席に戻り腰を下ろす前、もう一度だけスマホのメッセージツールを開く。
『今日早く帰れる?』
 一人で暮らしていた時には考えもしなかった。一人の家に帰るのが怖い、という感覚を味わう日が来るとは。
『頑張ります』
『お前が頑張ってどうにかなるの?』
『なるかもしれないので』
「久住さん、怖。めっちゃ笑ってるじゃないですか」
 隣の席の女性社員に笑いながらそう言われてしまったものだから思わず頬を揉んだ。
「え、マジですか?」
「彼女ですか?」
「どうっすかね」
 指先が眼鏡のつるに当たってかちゃりと音を立てる。まるで乙女みたいな仕草だと、彼女はまた笑った。
 青柳と交わした約束はたったひとつ。
 この家にいることを誰かに悟られないで欲しい、ということ。
『頑張れ』
 俺の激励に対し、返ってきたのは妙な表情をしたクマが、頭を下げているスタンプだった。
 新しい刺激を、と貴倉は言った。それは確かに、今の俺に必要なもので間違いないと思う。けれど青柳と俺はただの利害の一致した同居人で、俺たちの間に何かがあるかと言えば、そこには何もない。
 それでも、隣に住む雅樹にはまだ気付かれたくないのだ。俺がすっかり平穏な生活を送っていることを。雅樹を想う気持ちを眠らせることを、今はそれほど苦にしていないのだというその事実を。
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