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村上雅樹という人間は、俺の人生の九割を占めていると言っても過言ではない。この先、生きていく上でアレが居なくなると考えるだけで、ちょっと吐き気がするくらいに。
彼と出会ったのは、俺が五歳の時だ。両親を亡くし引き取られた叔母夫婦の家の隣に住んでいた雅樹は、八歳年上の中学生だった。一人っ子の雅樹は「妹の次に弟までできた」と、叔母夫婦の娘で俺の義理の妹になった美弥と、後からやってきた俺をまとめて可愛がってくれた。義妹は義妹で、ずっと欲しかったお兄ちゃんが出来たと大喜びしてくれていたが、当時の俺は子供ながらにどうにも座りの悪い気持ちでいたのを未だに覚えているし、その居心地の悪さは二十年経つ今でも完全に拭い切れた訳でもない。
そこにはひとつの事件があり、様々な思惑が入り乱れてはいたが、誰かに悪意があった訳でも、誰かに落ち度があった訳でもない。多分、関わったすべての人が少しずつ悪かった。俺については、あの時自分に起きた色々なことを飲み下せなかった。そしてそれをずっと口に含んだまま大人になってしまった。
「それで、素直に引き下がったのか」
「そりゃそうでしょ。それ以上、何かできることあるか?」
混み合った居酒屋はめいめいのテーブルがそれぞれに騒がしく、例えば隣の個室の集団が話す単語は壁越しに耳に入ってくるけれど、それは決して意味を成した文章として形にはならず記憶に残らない。仮に残ったとしても、どうせ顔も名前も知らない相手同士のこと、その人に後日どこかで偶然に出会うなんてこと、恋愛小説でもない限りは有り得ない。それにもし出会ったとして、その見知らぬ誰かと関わる確率に至ってはゼロを切っているだろう。
「できる人もする人もいるだろ」
「俺には無理です」
「そんなあっさり引き下がるから、いい弟でいてくれよ、みたいな雰囲気に丸め込まれたんでしょ」
「別にそれだけが理由でもないだろ」
ワインでもないのに意味もなくカクテルの入ったグラスをぐるぐると回している貴倉は、大学の同ゼミの先輩だった。大学三年生、なかなか内定がもらえずひいひい言っていた俺に、何の用事があったのかふらっとゼミに現れ、就活に喘ぐ俺たちに「どこでもいいって言うならうちの会社に口を利いてやる」と、やつれた顔に満面の笑みを浮かべて言い放ったのだ。
その疲れ果てた顔に、同ゼミの奴らはよほどのブラック企業を紹介されるのではと尻込みをしていたけれど、俺個人としてはさっさと就職を決めて家を出る算段をしたかったし、そんなにブラックなのなら二年ほど働いて金を貯めて、さっさと辞めてしまえばいいと思っていたから、貴倉の申し出を素直に受け入れた。そしてその心配は杞憂に終わった。
普段の物腰や未だに大学生みたいなテンションからは想像がつかないけれど、彼は同期の中で最も早くチームリーダーに昇格した、優秀な人材だったらしい。その忙しさに加え、俺たちに仕事を紹介してくれた当時は結婚一年目にして早くも離婚の危機に直面していたらしく(妻だった女性も同じゼミにいたので、あの時はその諸々の挨拶に来ていたらしい)、それでめちゃくちゃに疲れていたんだ、という事情は後に貴倉自身の口から明かされた。
その出世スピードとスピード離婚の来歴から、職場の同期の間では生き急ぎのプロと揶揄されていたらしい。その所為か貴倉は、俺と年齢はたったふたつしか違わないのに、時々妙に達観した物言いをすることがある。俺はその経緯を知っているものだから、こちらも強く反論したりはできない。そういう弱みみたいな部分を差し引いたとしても、貴倉は優秀で頼れる相談相手には違いないのだけれど。
雅樹に振られた日の翌朝、目覚めてすぐ貴倉に連絡をしたのはその為だ。振られた、というシンプルなメッセージに対して貴倉は、飲む? それとも身体でも動かす? カラオケ? という選択肢を並べただけのシンプルな返信を寄越した。職場での評価が高いのは、この問題解決に対する取り組み方と解決策の提起の早さだろう、と思う。そこにある事実は事実として、それをわざわざ報告してきたということは愚痴を言いたいか、或いはフラストレーションの発散が目的なのだろうと理解した上で、じゃあお前はどうしたい、という選択肢を提示する。貴倉の返信を見てつい笑ってしまったのは、俺自身がそういう対応を求めていたからだ。
「で、久住はどうしたいの」
身体を動かしてすっきりしたいと思ったものの、激しいスポーツに耐えられるほど普段から運動をしている訳でもなく、必死に絞り出したのがボウリングという結論で、貴倉も俺も数年ぶりにボウリング場へと足を運んだ。運動不足の身体で三ゲームもすればもうクタクタで、明るいうちからチェーン店の居酒屋に転がり込んだという訳だ。明日は間違いなく筋肉痛だ、と貴倉はぼやいているけれど、俺の腕や肩は既に悲鳴を上げ始めている。どうせ日曜日は一日寝ているだけだから、身体が痛もうが筋肉痛になろうが構わないとしても。
「どう、って何」
「だからさ、その幼馴染のお兄さんとさ、今後」
「どうしたいも何も、どうするもこうするもないだろ」
「うん。だったら諦めて吹っ切るとか、忘れるとか、新しい人とか、あるだろ」
「俺さ、いつも思うんだけどさ、それ」
賑やかな居酒屋の騒音とアルコールに釣られて、俺の声は徐々に大きくなっていく。貴倉はそれでも、センシティブな話題だからと配慮したボリュームを維持してくれているのに、その聞き取りにくい声量にイライラしてしまった。
その時俺は、間違いなくどうかしていたんだろう。
「失恋したら前向きにならなきゃいけない、みたいなのは好きじゃないな」
「別にそう言ってる訳じゃないよ」
傷付いたのは間違いなく俺だけど、噛みつく相手は貴倉じゃない。ましてや雅樹でもない。それでも、長い長い片想いに終止符を打ってから、まだたった一日しか経っていないという甘えが、自分にあった。だから優しくされるべきだとか、労われて当然だとか、そういう甘え。
「だったら今すぐどうするかなんて、決める必要ないだろ」
「まあ、それもそうかな」
言うだけ無駄、というのは察してくれたんだろうか。
貴倉という人は、俺より二年も先輩であるというのに、俺のこんな横暴な発言や態度を許してくれていることでも分かる通り、温厚で優しい人間だ。ただ本人はそれを否定し、単に人から嫌われることと争いごとが苦手なだけだと言う。それはきっと正しいのだろう。それでも、その波風を立てずに生きるスタンスを、俺がいいように利用してしまっているのもまた、事実だ。だから時々、こうやって貴倉相手に八つ当たりをしたり無茶を言うたび、どうしようもない罪悪感に苛まれる時がある。
今日は早めに切り上げて帰った方が良さそうだ。そして後日、きちんとお詫びの飲み会を開こう。
「しばらく、そういうのは関係ない感じでいくよ」
「そしたらまたどっか遊びに行こうぜ。仕事忙しくて温泉とか行けてないだろ」
「俺より貴倉の方が忙しいじゃん」
「そうなんだよ。だから時間作るからさ、息抜きさせてくれよ」
幼馴染で、兄のような存在の人を子供の頃から思い続けている。という事実を知ってなお、俺とこんな付き合いを続けてくれている貴倉は、本当にいい人だと思う。
たまたま男だっただけだ、なんて言葉に甘えるつもりはない。同じ道ならぬ恋というなら、優しかった養母でもなく、人懐っこく接してくれた義理の妹でもなく、隣に住んでいたというだけで可愛がってくれた男の幼馴染を選んだのは紛れもなく自分だ。つまり多分、最初から俺はそういう人間だったんだろう。現状、世間的に見て決して生き易いことではないし、だからと言って他人に責められるべき悪いことだとも思っていない。ただ、一般的に受け入れ難い話だということは理解している。分かっていたからこそ大人になって、雅樹と同じアパートの隣の部屋に住むようになってから、彼が明らかに友達とは思えない距離感の男を自分の部屋に連れ込むところを見た時は、ずいぶんと心が楽になったものだ。
酒量は多かったしペースも早かったのに、ちっとも酔えなかった。酔ったふりをして言いたいだけ愚痴を吐いて満足したふりをして、割り勘を少しだけ多めに払って、貴倉にありがとうと告げて改札の前で別れる。結局、気持ちはなにひとつ晴れないままだ。
貴倉の言ったことは間違いじゃないんだろう。失恋の傷は新しい恋で癒すという理屈は、それなりに正当性がある。じゃあ、その次の新しい恋とやらは、一体どこで探すんだろうか。
ボディバッグの中から定期入れを取り出す。改札を抜けて慣れない街の見慣れない駅で、帰り道に繋がる電車のホームを探して案内板を見上げていると、手にぬるい体温がまとわりついた。
「あの」
振り返ると、そこには確かに俺の手首を掴んでいる青年が立っていた。ヘアカタログに載っていそうな前髪の長い洒落た髪型、ウェリントン型のフレームの太い眼鏡に杢グレーのパーカー。背中には大きな黒い楽器ケースを背負っている。
およそ俺には一生関係のなさそうな、お手本みたいな陽キャの男だ。当然、見覚えはない。
「すみません、突然」
「いえ、あの」
見知らぬ人間の手首を突然掴むという所業は、確かに不躾だ。けれど、わずかの恐怖こそあれ何故か不快感は無かった。それは流行りの髪型の所為か、小ざっぱりした服装の所為か、それとも柔らかい声音の所為だろうか。普段なら変な人に絡まれてしまったと、さっさと手を振り払って逃げ出すところなのに、どういう訳かそうする気持ちにはならなかった。何なら手首を掴まれたまま人通りの少ない壁際まで移動して、彼の話を最後まで聞いてやろう、という気持ちにさえなってしまった。
「あの」
「お願いがあるんです」
とは言え、終電に近い時刻の繁華な駅で、爽やかな音楽青年と手を繋いだままでいられるほどの強いメンタルはない。話は聞くがさっさと解放してもらうと振り絞った声に、彼の言葉が覆いかぶさる。吐き出した音はそのまま空気に紛れ、怪訝そうにこちらを見ながら通り過ぎた起こした人の風に、散らばって消えていった。
「貴方の家に泊めてもらえませんか」
確かに俺は新しいものや刺激的なものを探すのは得意じゃない。でも、だからって、こんな風に唐突に向こうから転がり込んで欲しいと思っている訳でもないのだ。
彼と出会ったのは、俺が五歳の時だ。両親を亡くし引き取られた叔母夫婦の家の隣に住んでいた雅樹は、八歳年上の中学生だった。一人っ子の雅樹は「妹の次に弟までできた」と、叔母夫婦の娘で俺の義理の妹になった美弥と、後からやってきた俺をまとめて可愛がってくれた。義妹は義妹で、ずっと欲しかったお兄ちゃんが出来たと大喜びしてくれていたが、当時の俺は子供ながらにどうにも座りの悪い気持ちでいたのを未だに覚えているし、その居心地の悪さは二十年経つ今でも完全に拭い切れた訳でもない。
そこにはひとつの事件があり、様々な思惑が入り乱れてはいたが、誰かに悪意があった訳でも、誰かに落ち度があった訳でもない。多分、関わったすべての人が少しずつ悪かった。俺については、あの時自分に起きた色々なことを飲み下せなかった。そしてそれをずっと口に含んだまま大人になってしまった。
「それで、素直に引き下がったのか」
「そりゃそうでしょ。それ以上、何かできることあるか?」
混み合った居酒屋はめいめいのテーブルがそれぞれに騒がしく、例えば隣の個室の集団が話す単語は壁越しに耳に入ってくるけれど、それは決して意味を成した文章として形にはならず記憶に残らない。仮に残ったとしても、どうせ顔も名前も知らない相手同士のこと、その人に後日どこかで偶然に出会うなんてこと、恋愛小説でもない限りは有り得ない。それにもし出会ったとして、その見知らぬ誰かと関わる確率に至ってはゼロを切っているだろう。
「できる人もする人もいるだろ」
「俺には無理です」
「そんなあっさり引き下がるから、いい弟でいてくれよ、みたいな雰囲気に丸め込まれたんでしょ」
「別にそれだけが理由でもないだろ」
ワインでもないのに意味もなくカクテルの入ったグラスをぐるぐると回している貴倉は、大学の同ゼミの先輩だった。大学三年生、なかなか内定がもらえずひいひい言っていた俺に、何の用事があったのかふらっとゼミに現れ、就活に喘ぐ俺たちに「どこでもいいって言うならうちの会社に口を利いてやる」と、やつれた顔に満面の笑みを浮かべて言い放ったのだ。
その疲れ果てた顔に、同ゼミの奴らはよほどのブラック企業を紹介されるのではと尻込みをしていたけれど、俺個人としてはさっさと就職を決めて家を出る算段をしたかったし、そんなにブラックなのなら二年ほど働いて金を貯めて、さっさと辞めてしまえばいいと思っていたから、貴倉の申し出を素直に受け入れた。そしてその心配は杞憂に終わった。
普段の物腰や未だに大学生みたいなテンションからは想像がつかないけれど、彼は同期の中で最も早くチームリーダーに昇格した、優秀な人材だったらしい。その忙しさに加え、俺たちに仕事を紹介してくれた当時は結婚一年目にして早くも離婚の危機に直面していたらしく(妻だった女性も同じゼミにいたので、あの時はその諸々の挨拶に来ていたらしい)、それでめちゃくちゃに疲れていたんだ、という事情は後に貴倉自身の口から明かされた。
その出世スピードとスピード離婚の来歴から、職場の同期の間では生き急ぎのプロと揶揄されていたらしい。その所為か貴倉は、俺と年齢はたったふたつしか違わないのに、時々妙に達観した物言いをすることがある。俺はその経緯を知っているものだから、こちらも強く反論したりはできない。そういう弱みみたいな部分を差し引いたとしても、貴倉は優秀で頼れる相談相手には違いないのだけれど。
雅樹に振られた日の翌朝、目覚めてすぐ貴倉に連絡をしたのはその為だ。振られた、というシンプルなメッセージに対して貴倉は、飲む? それとも身体でも動かす? カラオケ? という選択肢を並べただけのシンプルな返信を寄越した。職場での評価が高いのは、この問題解決に対する取り組み方と解決策の提起の早さだろう、と思う。そこにある事実は事実として、それをわざわざ報告してきたということは愚痴を言いたいか、或いはフラストレーションの発散が目的なのだろうと理解した上で、じゃあお前はどうしたい、という選択肢を提示する。貴倉の返信を見てつい笑ってしまったのは、俺自身がそういう対応を求めていたからだ。
「で、久住はどうしたいの」
身体を動かしてすっきりしたいと思ったものの、激しいスポーツに耐えられるほど普段から運動をしている訳でもなく、必死に絞り出したのがボウリングという結論で、貴倉も俺も数年ぶりにボウリング場へと足を運んだ。運動不足の身体で三ゲームもすればもうクタクタで、明るいうちからチェーン店の居酒屋に転がり込んだという訳だ。明日は間違いなく筋肉痛だ、と貴倉はぼやいているけれど、俺の腕や肩は既に悲鳴を上げ始めている。どうせ日曜日は一日寝ているだけだから、身体が痛もうが筋肉痛になろうが構わないとしても。
「どう、って何」
「だからさ、その幼馴染のお兄さんとさ、今後」
「どうしたいも何も、どうするもこうするもないだろ」
「うん。だったら諦めて吹っ切るとか、忘れるとか、新しい人とか、あるだろ」
「俺さ、いつも思うんだけどさ、それ」
賑やかな居酒屋の騒音とアルコールに釣られて、俺の声は徐々に大きくなっていく。貴倉はそれでも、センシティブな話題だからと配慮したボリュームを維持してくれているのに、その聞き取りにくい声量にイライラしてしまった。
その時俺は、間違いなくどうかしていたんだろう。
「失恋したら前向きにならなきゃいけない、みたいなのは好きじゃないな」
「別にそう言ってる訳じゃないよ」
傷付いたのは間違いなく俺だけど、噛みつく相手は貴倉じゃない。ましてや雅樹でもない。それでも、長い長い片想いに終止符を打ってから、まだたった一日しか経っていないという甘えが、自分にあった。だから優しくされるべきだとか、労われて当然だとか、そういう甘え。
「だったら今すぐどうするかなんて、決める必要ないだろ」
「まあ、それもそうかな」
言うだけ無駄、というのは察してくれたんだろうか。
貴倉という人は、俺より二年も先輩であるというのに、俺のこんな横暴な発言や態度を許してくれていることでも分かる通り、温厚で優しい人間だ。ただ本人はそれを否定し、単に人から嫌われることと争いごとが苦手なだけだと言う。それはきっと正しいのだろう。それでも、その波風を立てずに生きるスタンスを、俺がいいように利用してしまっているのもまた、事実だ。だから時々、こうやって貴倉相手に八つ当たりをしたり無茶を言うたび、どうしようもない罪悪感に苛まれる時がある。
今日は早めに切り上げて帰った方が良さそうだ。そして後日、きちんとお詫びの飲み会を開こう。
「しばらく、そういうのは関係ない感じでいくよ」
「そしたらまたどっか遊びに行こうぜ。仕事忙しくて温泉とか行けてないだろ」
「俺より貴倉の方が忙しいじゃん」
「そうなんだよ。だから時間作るからさ、息抜きさせてくれよ」
幼馴染で、兄のような存在の人を子供の頃から思い続けている。という事実を知ってなお、俺とこんな付き合いを続けてくれている貴倉は、本当にいい人だと思う。
たまたま男だっただけだ、なんて言葉に甘えるつもりはない。同じ道ならぬ恋というなら、優しかった養母でもなく、人懐っこく接してくれた義理の妹でもなく、隣に住んでいたというだけで可愛がってくれた男の幼馴染を選んだのは紛れもなく自分だ。つまり多分、最初から俺はそういう人間だったんだろう。現状、世間的に見て決して生き易いことではないし、だからと言って他人に責められるべき悪いことだとも思っていない。ただ、一般的に受け入れ難い話だということは理解している。分かっていたからこそ大人になって、雅樹と同じアパートの隣の部屋に住むようになってから、彼が明らかに友達とは思えない距離感の男を自分の部屋に連れ込むところを見た時は、ずいぶんと心が楽になったものだ。
酒量は多かったしペースも早かったのに、ちっとも酔えなかった。酔ったふりをして言いたいだけ愚痴を吐いて満足したふりをして、割り勘を少しだけ多めに払って、貴倉にありがとうと告げて改札の前で別れる。結局、気持ちはなにひとつ晴れないままだ。
貴倉の言ったことは間違いじゃないんだろう。失恋の傷は新しい恋で癒すという理屈は、それなりに正当性がある。じゃあ、その次の新しい恋とやらは、一体どこで探すんだろうか。
ボディバッグの中から定期入れを取り出す。改札を抜けて慣れない街の見慣れない駅で、帰り道に繋がる電車のホームを探して案内板を見上げていると、手にぬるい体温がまとわりついた。
「あの」
振り返ると、そこには確かに俺の手首を掴んでいる青年が立っていた。ヘアカタログに載っていそうな前髪の長い洒落た髪型、ウェリントン型のフレームの太い眼鏡に杢グレーのパーカー。背中には大きな黒い楽器ケースを背負っている。
およそ俺には一生関係のなさそうな、お手本みたいな陽キャの男だ。当然、見覚えはない。
「すみません、突然」
「いえ、あの」
見知らぬ人間の手首を突然掴むという所業は、確かに不躾だ。けれど、わずかの恐怖こそあれ何故か不快感は無かった。それは流行りの髪型の所為か、小ざっぱりした服装の所為か、それとも柔らかい声音の所為だろうか。普段なら変な人に絡まれてしまったと、さっさと手を振り払って逃げ出すところなのに、どういう訳かそうする気持ちにはならなかった。何なら手首を掴まれたまま人通りの少ない壁際まで移動して、彼の話を最後まで聞いてやろう、という気持ちにさえなってしまった。
「あの」
「お願いがあるんです」
とは言え、終電に近い時刻の繁華な駅で、爽やかな音楽青年と手を繋いだままでいられるほどの強いメンタルはない。話は聞くがさっさと解放してもらうと振り絞った声に、彼の言葉が覆いかぶさる。吐き出した音はそのまま空気に紛れ、怪訝そうにこちらを見ながら通り過ぎた起こした人の風に、散らばって消えていった。
「貴方の家に泊めてもらえませんか」
確かに俺は新しいものや刺激的なものを探すのは得意じゃない。でも、だからって、こんな風に唐突に向こうから転がり込んで欲しいと思っている訳でもないのだ。
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