狐狸の類

なたね由

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二章

人の子

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 結局のところ、僕はこの土地ではなくて彼の傍を離れられないのだ。

 そう気付いてしまってからの気持ちの切り替えは早かった。屋台を軽く流したついでに石段を下りてその周りを少しだけ散策した。散策と言っても余り遠くへ出歩いてしまうと帰れなくなるのではないか、という恐怖感が凄くて、本当に石段の周りを少し歩いただけだったのに、社へ戻る頃にはすっかり日も暮れ人影もまばらになっている。

 散らかった境内を見て明日の掃除が大変だな、と考えながら、どうせ気付かれないだろうと思いつつ、道を掃きごみを拾う村の人たちに軽く頭を下げながら参道を拝殿の方へ抜ける。その奥に既に彼の姿はなく、これはきっと大いに機嫌を損ねているに違いないと、ほんの少しだけうんざりした。思えば、祭の最中に抜け出して祭が終わるまで戻らずにいたことも、拝殿で拗ねる彼を迎えに行かなかったことも、長いここでの生活の中で初めてのことかも知れない。

 ことことと音を立てて襖を開けば、祭衣装のままの彼がこちらに背を向けて座っている。やっぱりなあ、と思いながら雪駄せったを脱いで畳に上がる。物音は立てているし僕に気付いているはずなのに、こちらを振り返ろうともしないのは彼なりの主張なのだろう。拗ねているのだぞ、と。

「ただいま」
「おかえりなさい。遅かったですね」

 咎める口ぶりではあったが、それほど怒っている様子も無い。それに安堵しつつお土産です、とさっき屋台で買った飴細工の袋を手に背中越しにその表情を伺おうとした時に、僕はとある違和感に気付いた。

 いや。彼の背に隠れて部屋に上がった時には見えなかったそれは、違和感どころの騒ぎではない。開け放った襖の向こうから吹き込む風にしゃらしゃらと鳴る菊細工の簪、目尻に刺した紅。その視線が見る先に転がる、一人の子供の姿。
 悲鳴を上げかけて、必死に喉の奥に飲み込んだ。幸い、子供は眠っているように見えるけれど、こんな状況で目を覚まされたら僕だってどうしていいか分からない。眠りこける子供を見詰める彼は、何とも言えない表情をしていた。困っているのか楽しんでいるのか、それすらも分からない。

「あの、これは一体」
「うん」

 慌てる僕とは対照的に平穏そのものといった声音を聞き、その腕を掴んで引き立たせ部屋の隅へ連れて行くと、どこか呆けたような、怪訝そうな顔で僕を見返してくるから、彼はこれっぽっちもことの重大さを理解していないようだ。

「どういうことなの」
「今日はほら、祭りの日ですから」

 耳の奥の方でふと、しゃりんと鈴の音が響いた気がした。

 一瞬であの日のことを思い出す。祭の夜、親に引かれた手がふと離れた時のこと。人の波に揉まれて流されて歩いた先で聞こえたあの鈴の音。誘われるようにしてその音を辿り、行き着いた先で手招きをしていた金色の狐のこと。祭の夜のかどわかし、攫ったのはお狐様、それと知っていて自らの足で、招かれるままに誘われて歩いたこと。

 あの日のように、彼はこの子供を惑わしたのだろうか。

「そうだけど、だからって、どうして今更」
「言ったでしょう。今日はほら、祭の日ですから」
「でも、今更なんで」

 これではただの堂々巡りだ。
 透き通るような無表情な目に見詰められて言葉に詰まってしまう。怒りたいのか泣きたいのか戸惑っているのか冷静なのか、自分にも分からない僕の感情全部を飲み込んで、それでも動じない彼の、目元は紅い。

 僕がここを離れることを渋っていたからだろうか。ここから離れたくないと、ただ土地神に隷属の身で反抗するそぶりを見せたから、僕に愛想を尽かしてしまったのだろうか。だとしたら、これからもう僕が彼に出来ることは何も無い。最初の僕の願いどおりにここへ残って、彼の庇護を失いいつか消えていくのを静かに待つよりないんだろう。だけれど。

「……これ、お土産」

 彼に渡した飴は、毎年祭の日に売られる白い狐を模した飴細工だった。僕も子供の頃親にねだったことがある。その頃から続く屋台の主は、どれほどの時代を経ても面差しに換わりは見られない。
 それだけではない。集会所に集まる村人たちも、祭りで見かける地元の人たちも、毎日犬を連れて境内に散歩に来るおじさんだって、それぞれがそれぞれに、僕にとってはどこか懐かしい顔で、だからこそここを離れたくないのだと思っていた。それでも、彼がそう言うならと、やっと気持ちに踏ん切りをつけたばかりだというのに。

「境内の方、片付けてくる。かなり散らかってるから」
「ああ、はい。分かりました」

 立ち上がり、小階段を下りて雪駄を履く。ちらりと盗み見た彼はもう僕を見てはいない。
 今日はずいぶん冷えるな、と思った。そんなことはもう、僕には感じられるはずもないというのに。
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