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【シリーズ1】ノラ・ジョイの無限の泉 ~みなしごノラの母の教えと盗賊のおかしらイサイアスの知られざる正体~
#7 王子の憂鬱
しおりを挟む「王が道を外れたのなら、正してやるのが臣下の役目だ。それができないのなら、臣下の価値は皆無だ!」
ヴェルハーストの煽情的な物言いに、アルフレッドをはじめとするヴェルハースト派の貴族たちが、おのおの神妙にうなづいている。この国の政治は、王子であるドブソンが支配している。国王ベイレッドは原因不明の病に苦しんでいる。その病の原因は、ドブソンが医師と密かに通じて毒を盛っているからだというのは、ヴェルハーストが最近入手した揺るがしがたい事実だった。
「国は王によって成り立つのではない。王政と言うのは国の政治を行う上でのやり方にすぎない。王などいなくても国は成り立つ」
「ほ……、本当ですか? ヴェルハースト侯……!」
「当然だ。かといって、今すぐこの国から王を排除することが得策とも思えないがゆえに、私は王政を支持するがね」
「おお……」
「ときは満ちた。私は私の仕えるべき太陽を据えるために、月となろう。私は私の太陽のためであれば、いかなる非道な所業にも心を痛めることはない。月はひそやかに、そして冷たく、悪人を照らすものだ……。いいかな、おのおの方!」
「おお、ついにこのときが……!」
「ヴェルハースト候、我々はついてゆきますぞ!」
王宮では今まさにクーデターが起ころうとしていた。
権力と財産、怠惰と腐敗を好むドブソンが実質的為政者となってから、王都をはじめ各地で民が餓えている。働いても生活は楽にならない。奪われるために働き、それは死ぬまで続く。死んでからも、また別の誰かに身ぐるみまで奪われる。ドブソン派の貴族たちは人に痛みを押し付けて、自分はその上に胡坐をかいている。もはや国の基盤が崩れかけていることにも気づいていない愚鈍さだ。多少なりとも目先の利く人々、そして世間が、ドブソンに替わる正しい為政者を求めるのは必然のなりゆきだった。
***
イサイアス商会がコルネットの街に根付いて一年。店を大通りに面した広々とした場所に移してからも、商売は順調だ。かつては盗賊だった男たちは、今ではすっかり商人の顔つきが板についている。取り扱う品数はほかの商会に引けを取らないくらいに増え、従業員も増えた。店の帳簿と営業管理をしているコバドーンとディビーの下には若い部下がつき、アイビスやパルス、アンディもそれぞれの部門で管理する側の仕事についている。ここまで飛躍したのにはわけがある。盗賊の鼻と足で鍛えたイサイアス商会のネットワークは、他の商人には簡単にはまねできなかったからだ。望まないうちに、大手の商社や銀行との取引もできるようになった。
そして、ノラはと言うと……。
「こら、だめよ。ヴェニス。ミレーの邪魔をしないのよ」
「ちえーっ」
「そうよミレー、上手だわ。それにソフィも覚えが早いわね」
店の裏で小さな女の子たちがレースを編んでいる。その隣では男の子が手紙を書いている。ノラはその子らを左右にして見守るように腰かけていた。
「よし、出来た。お客さん、二〇〇ロニーだよ」
「はいはい、いつもありがとうね」
中年の婦人が子どもにお代を渡した。彼は即座に隣の少年に手紙を手渡す。
「さあ、ヴェニス。サバラン通りのオットー宿だぞ。超特急で頼むぜ!」
「おうよ、任せとけ!」
イサイアス商会は店の一部を彼らに無償で貸している。
ノラはそこで彼らに字を教え、裁縫や薬草の知恵を教えている。こどもたちの仕事は、今やイサイアス商会の目玉にもなっている。とにかく安い。街の人々は安い価格でレースや刺繍のハンカチを買えるし、お世辞にも上手な字とは言えないまでも、気軽な値段で手紙を頼むことができる。孤児たちはただ施しを待つのではなく、自らの手でお金を稼ぐことができるようになり、風邪や腹痛になっても自分で薬草を採って自分で治すことができるようになっていた。
ノラがこれを提案したのは三か月前のこと。家のないこどもたちが、路地で誰にも看取られることなく死んでいく冬が始まる前だった。
「イサイアス、街のこどもたちにはもっと根本的な救済が必要ではないかしら?」
「俺だって、いずれは孤児院を建ててやりたいと思っている。だが、今はまだ無理だ。そこまでの経済的な余裕がない」
「わたしは昔、花売りや手紙屋をしていたこともあるの。少しの知識や技術があれば、こどもたちは変われるわ。誰かに助けてもらうだけじゃなく、自分たちで生きていくことができるようになるの」
ノラの言葉は、まさにその言葉の生き証人のような仲間たちの心にも響き、イサイアス商会は動き出した。三ヶ月後には、街の孤児は全員で一軒の古い家を借り、各々ができることで日々の生活費を稼いでいる。イサイアス商会が雇い入れた新しい従業員の何人かも孤児だ。
「あたし、いつか、ミレーとレースの生地屋さんを作るのよ」
今では、こどもたちが目を輝かせて胸に宿った小さな夢までも聞かせてくれる。
「きっとできるわ、ソフィ」
***
いくつかの商談を終えた帰り道、イサイアスは花屋に立ち寄っていた。
「あら。イサイアス商会の旦那じゃないか」
「その赤い花を花束にしてくれ」
「目の付け所がいいね、春の一番初めに咲く花だよ。きれいだろう、今日咲いたばかりさ。おや、なに怖い顔してんだい? プロポーズでもする気かい?」
「そ、そうじゃない」
慌てて顔をそらせたが、全くのうそだった。ポケットにはアンディとケスに頼んでおいた特注の珊瑚の指輪が入っている。
「そうだ、旦那。王都のきな臭い噂を聞いたかい?」
「ああ……。政権が揺れそうだ。ドブソン王子が死んだらしいな」
「こういっちゃなんだけど、死んで良かったよ。景気が悪いのも、あたしたちの生活が苦しいのも、みんなあの王子のせいだったんだろ?」
ヴェルハーストの仕業に間違いないだろう。果たしてこれで国政はどう転がるのか。
「王様にはもうお子がいないしねぇ、いったいこの国はどうなっちまうんだろう。やっぱり公爵の中から新しいお世継ぎを選ぶのかねぇ。誰が次の王様だっていいけど、あたしたちの生活は楽になるのかねぇ」
「どうだろうな……。俺たちはただ、できることをするだけだよ。花、ありがとう」
***
同じころ、イサイアス商会の前に貴族の馬車が止まった。
「やあ、ノラ。イサイアスはいるかい?」
「いらっしゃいませ、アルフレッド様。もう戻るころだと思います。どうぞ奥でお待ちになってください」
「いや、それは好都合だ。僕は君に話があって来たんだよ」
アルフレッドは案内された奥の部屋でノラとふたりきりになると、ずっしりと重そうな袋を置いた。音からしてお金のようだ。
「これを君に受取ってほしい。一生楽に暮らせるだけの金貨だよ」
ノラはきょとんとした。受け取るもなにも、理由がない。
「ドブソン王子が死んだんだ。この国は今新しい王子を必要としているんだよ」
「あの……それが、わたしになんの関係があるのでしょう……。意味がわからないのですが……」
アルフレッドはコートの中から、なにやら書類を取り出した。
「現国王ベイレッド様には、二人の王子がいたんだ。一人は正室の王子、もう一人は妾の王子。死んだドブソン王子は、妾のマリーナ様の子だ。そして、正室シーラ様の子はイサイアス。この商会の頭であるイサイアスなんだよ。ほら、この書類をごらん」
書類には確かにその旨と王家の印が押されていた。
ノラは驚きで声も出なかった。
「驚くのは無理もない。でも、イサイアス王子を宮廷にお迎えするのはもう決まったことなんだ。イサイアス商会は、従業員ごとほかのだれかに売ってもいいし、どうしてもというなら王家の事業にしてもいい。だが、君はだめだ。わかるね、ノラ?」
「あの……わたし……」
「イサイアスは君を愛している。君がいるかぎり、イサイアスはこの生活を手放そうとしないだろう。孤児を迎え入れようといいだしたのは君だそうだね。君も親を失って苦労してきたと聞いてるよ。君なら、今こそこの国にイサイアスが必要だとわかるはずだろう」
アルフレッドのいわんとしていることはノラには全くよくわかる話だった。商人として身を持ち直した以上、疎遠になっていた生家とのつながりが再び復活しうるだろうことは予想にも難くはなかった。だがまさか、それが、この国の王子だったとは……!
そしてこの一年、ノラとイサイアスは互いに想いを確かめ合うことはなかったものの、こうした暮らしがいつまでも続けばいいと心から思いっていた。ノラはイサイアスへの恋心を胸に秘め、イサイアスも同じ気持ちだったらいいのにと思っていた。しかし、こんな形で、アルフレッドの口から聞くことになるとは思いもしなかった。重ね重ね、おいそれと信じられる話ではなかった。
「君のことだから、遊んで暮らすよりも、引っ越した先で店か宿を買うのもいい。これを持参金に嫁の貰い手を探すのもいい。幸い君はとても魅力的だし、その明るい性格は黄金にも代えがたい。僕が然るべきの紳士に口添えしてもいい」
ノラの耳にアルフレッドの言葉はただ通り過ぎていくだけの風のようだった。だが、王家の紋章が入った書類に書かれた、イサイアスの名前を見つめているうちに、イサイアスへのあらゆる疑問が結ばれて行く気がした。イサイアスの品の良さ、生家への憎しみ、死んだ母への慕情。すべてが合点がいく。
「この国の未来は、今君の選択にかかっているんだよ。君が黙ってここを去ってくれれば、イサイアスは王宮に戻りコルネットの街だけでなく、国全体の孤児たちを救うことができる。でも、君がここにいたら、それはできないんだよ」
「準備ができたら知らせておくれ。くれぐれもイサイアスには秘密に」
アルフレッドは立ち上がると、金貨袋をノラの手に持たせた。ずしりと重く、それはノラの心まで暗く重く、鈍くさせた。アルフレッドが部屋を出ていった後も、ノラは見送ることも忘れてただ立ち尽くしていた。アルフレッドの言葉が正しければ、確かに自分がここにいることでイサイアスの未来を邪魔してしまう。もし本当に、イサイアスが私を愛しているのだとすれば……。もしそれが真実ならば、できることも、やるべきことも、ただひとつだった。
***
「やあ、イサイアス、帰ったのかい」
「来ていたのか」
たったいま店から出てきたアルフレッドと花束を手にしたイサイアスが向かい合った。
「もう帰るのか、アルフレッド」
「ああ、改めて出直すよ。今日の用件は済んだし」
用件。なんのことだろう、と一瞬考えたイサイアスだったが、彼もまたこれから重要な用件を控えていたために、その考えをすぐに流し去った。感謝祭では大いにこじれた旧友同志だったが、アルフレッドは足しげく店に通い、イサイアスとの友情を取り戻していた。
「そうか、また寄ってくれ」
アルフレッドが馬車で去っていくのを見送って、イサイアスはすぐに店を見渡した。
「ノラ! ノラは?」
「会長。早いお帰りで……その花は?」
目ざとく見つけたのは、今日ゴールデンビンズの買い付けから戻って来たばかりパルスだった。すぐにピンと来たのはコバドーンだ。
「さっきアルフレッド様のお相手をしていたから、まだ上ですよ」
「そうか、ありがとう」
それだけ言うとさっと階段を駆け上がっていくイサイアスを見ながら、ステルスいがいう。
「あれ、なんだろ?」
「決まってるだろ。これを見逃す手はないな」
「なに? なんだって?」
「まあ、来いよ」
男たちは足音密かにイサイアスの後を追った。
「ノラ、いるのか?」
「え、ええ」
ノラは自分の部屋にいた。金貨袋をベッドの下に押し込み、動揺を隠して貼り付けたような笑顔を返した。
「おかえりなさい」
「ああ……。ノラ、大切な話があるんだ」
ノラの目に赤い花束が映った。ああ……。ノラの中で針が振れようとしている。幸せの絶頂は、別れの予兆。こんなに早く真実を確かめることになるなんて、誰が想像しただろう!
「ノラ、驚かないで聞いてほしい……」
「ええ……」
「俺と、結婚してくれないか」
ノラの前に花束が差し出された。
一瞬で視界がかすんだ。声も出ない。ノラの中で別れが確定した瞬間だった。ああ、なぜ今なの? ずっとそうならいいと思っていたことが、どうしてこんなにふうになるの……? ノラの中でやり場のない感情が嵐のように心を乱した。
「ノラ……。どうして泣くんだ。なにか言ってくれ」
ノラは花に顔をうずめた。
「うれしいわ……、イサイアス……」
ノラに言える精一杯の返事だった。
イサイアスの顔に輝くような笑みが広がった。ノラの手を取ると、薬指に珊瑚の指輪をはめた。そしてキス。
ノラの初めてのキスだった。
ドアからのぞいていた仲間たちが一斉に口笛を吹き、手を叩いたのが聞こえた。
イサイアスの腕に抱かれながら、心の中でノラは強く思った。せめて、今だけは、言わせてください……。この人を愛しています、心から。心から……。イサイアス、あなたを愛してる……。
***
ノラは街の誰もが眠りこけている、まだ日も出ていない朝に家を出た。こんなことが前にもあった。あの時だってさみしかった。でも、今回とは比べ物にならない。お母さんにいつか聞いたことがある。ノラを身ごもった体で、ひっそりと元いた場所を去ったことを。お母さんもこんな気持ちをだったのかしら……? こんなにせつない気持ちを、どうしてお母さんは乗り越えられたの?……
ノラは一輪の赤い花を見てにじむ涙を拭った。
はじめに異変に気づいたのはイサイアスだった。彼は珍しく早く起きた。昨日は本人たちより興奮していた仲間の祝福のおかげで、せっかく思いが通じ合ったというのに、ふたりの時間はほとんどなかった。邪魔されないためには、この時間が一番いい。
「ノラ?」
炊事場、洗い場、庭、店、倉庫。ノラの姿を探して、イサイアスは店中を探し回った。テーブルにはいつものように皿が並び、鍋からは美味しそうなスープの香りが漂い、吊るし紐には洗濯物がはためいている。どこにもノラはいない。
もと来た階段を上り、ノラの部屋をノックした。いずれ明け渡すはずのこの部屋。夫婦となれば、同じベッドを共有するのだ。ドアをたたくイサイアスの脳裏にはそんな甘い想像もよぎったのだが……。
部屋はきれいに片付いていた。ベッドの上には昨日ノラに渡した赤い花と手紙、そして珊瑚の指輪があった。
「これは……!?」
慌ててつかみあげた手紙には横滑りの文字が短く並んでいた。
――イサイアスへ
指輪は受取れません。どうか許して下さい。
あなたの幸せを祈っています。
ノラ
***
アルフレッドが慌ててイサイアス商会にやってきたのは、今まさにイサイアスが馬を出そうとするその時だった。
「イサイアス! 待て、待て!」
「アルフレッド、用なら後にしてくれ!」
「いや、だめだ! 追うな、追ってはいけない!」
その言葉でイサイアスの顔色が変わった。馬を下りるとアルフレッドの胸倉につかみかかった。
「ノラになにをいったんだ!」
***
「な……なんだってぇ? か、会長が……お、王子!」
ノラのいないテーブルを囲んで、男たちはアルフレッドの周りに詰め寄った。イサイアスは壁に背を預け、アルフレッドを睨み続けている。
「そうです、ノラが去ったのはこの国のためなのです。ですからイサイアス王子、どうか王宮へお戻りください、国王様とヴェルハースト候が王子お帰りをお待ちです……」
男たちは朝食も仕事も忘れて、目を白黒させながら、イサイアスとアルフレッドを交互に見ている。
「お前が、ノラを連れ去ったのか?」
「そんなまさか! ノラは自分の意思でここを出ていったんですよ。あなた様にこの国を救ってほしいと願うからこそ、身を引いたのです」
「これ以上話しても無駄だ! 俺はノラを追う。コバドーン、店のことは頼んだぞ!」
「イサイアス王子!」
アルフレッドの制止を振りほどいて、イサイアスは馬のもとに向かった。そこへヴェルハースト家の豪華な箱馬車がやってきた。
***
「イサイアス王子、王宮に戻るのなら、わたしの馬車をお使いください」
イサイアスは激しい怒りの色を目に宿してにらみつけた。
「これがお前のやり方か、ヴェルハースト……!」
「まったく、アルフレッド君の爪の甘さには困ったものですねぇ。看板娘に渡したはずの手切れ金が今朝方、屋敷に届けられたという知らせを聞いて、こんな朝早くからコルネットの街までやってくる羽目になるとは。これではなんのためにイサイアス王子の旧友である君にこの件を預けたのかわかりませんねぇ」
「申し訳ありません、ヴェルハースト候……」
イサイアスは鋭い視線を投げた。
「いいか、ヴェルハースト! 今後一切ノラに近づくな。お前もだアルフレッド!」
ヴェルハーストは優雅に馬車から降りてきたかと思うと、ゆったりとイサイアスの前に立ちはだかった。
「それはあなた様次第ですよ、イサイアス王子」
眉間にしわを寄せたイサイアスの隣で、アルフレッドはごくりとつばを飲んだ。
ノラは朝早くトロンボーン家を訪ね、アルフレッド当てに昨日の金貨袋を返して去っていった。メイド頭からそれを聞いたアルフレッドはイサイアス商会にはせ参じると同時に、ヴェルハーストに早馬を送ってそれを知らせていた。訳を知らないメイド頭がノラの行き先を尋ねるはずもない。だがヴェルハーストは、まるで知っているかのような言い方だった。
「王宮へどうぞ、王子。すべてはそこでお話ししましょう」
「……わかった。だが、ノラには一切の手を出すな」
「ええ、約束いたします」
手を出さないどころか、いる場所もわからない相手にどうやって手が出せようか。アルフレッドはヴェルハーストの心理戦に舌を巻いた。ヴェルハーストの馬車に乗り込むイサイアスの姿を、商会の顔ぶれのみならず、街の民や孤児たちもが黙って見送くるほかなかった。
***
王宮のある王都チューバはコルネット街と目と鼻の先だ。事情を知るなりすぐにも戻ろうとしたイサイアスだったが、兵士たちに部屋を囲まれて、あっという間に閉じ込められてしまった。イサイアスは怒り狂っていた。
「ヴェルハーストを呼べ! ここへ連れて来い、アルフレッド!」
胸ぐらを吊るされ息も絶え絶えのアルフレッドが、もう出世は望めないだろうと同時に、友情も潰えるに違いないと覚悟したその時、ヴェルハーストがやってきた。
「イサイアス王子、少々落ち着ちついてください。さあ、お茶を飲んで。それを飲んで気が鎮まったら、国王様にご挨拶に行きますよ」
「ここから出せ、ヴェルハースト! 騙しうちのような真似をして、卑怯な奴め! お前の言うことなど誰が聞くか!」
ヴェルハーストは従者に椅子を持ってこさせて座ると、その整った顔でくすくすと笑った。
「私に命令できるのは、この国の王だけ。商人風情の若造にそのように言われても、痛くもかゆくもありません。私になにかを命じたければ、どうぞ国王に王子が戻ったとはっきりと公布させてからにしてください」
「誰がなんと言おうと、俺はノラを探しに行く。父にはイサイアスは死んだと伝えろ!」
「それは少々遅かったようですね」
ドアが開き、従者が来客を知らせた。
ヴェルハーストはさっとたちあがり、場所を開けた。それにならってアルフレッドと兵士たちが一様に膝をついた。はるかぶりに互いの顔を見る父と息子だった。母と自分を見捨てた積年の恨みに、思わず眉を寄せたイサイアスだったが、それ以上の衝撃に絶句した。イサイアスの心を激しく乱し揺さぶったのは、かつて絶対だったはずの父の変わり果てた姿だった。
「お、おお……、イサイアス……確かに、我が息子……イサイアスである……」
白髪の頭には確かに王冠が、やせ細った肩には確かに王衣のマントがあった。だが、その枯れ木のような手を引かれ、歩きはじめた赤子のようにおぼつかない足取りは、イサイアスの知っている王ベイレッドではなかった。
ベイレッドはいまにもぽきりと行きそうな風情だったが、その目だけはしっかと息子の姿をとらえていた。
「よ、よくもどった……、イサ……うぅっ……!」
手を伸ばしかけたベイレッドはそのまま前のめりに膝をついた。誰よりも早く手を差し伸べていたのは、誰あろう。
イサイアスだった。
***
ヴェルハーストの手腕は全く見事なものだった。あっという間に、イサイアス王子の帰宮と王子を中心とした政権体制を整え、貴族たちと国家全土の民たちにもれなく公布した。ヴェルハーストは人の心理とその人柄や性格を読む力に長けていた。アルフレッドからイサイアスがコルネットの街に戻って来たことを知らされてから、ヴェルハーストはずっとその様子を観察しつづけていたのだ。盗賊に身を落としながらも、弱者から奪うことはなく、商売ではしごくまともな取引を行い、店や一部を孤児に貸し、弱き者を救い上げようとしてきた姿。いかに積年の恨みがあろうと、イサイアスが病に侵された父を見捨てることは、できるはずがないと見抜いていたのだ。
実際、イサイアスの働きぶりは目を見張るものがあった。もともとドブソンとは出来が違ったのだろう。国の仕組みや財政の欠点を洗い出し、責任者を指名し、その対応と改善を命じた。イサイアスにとっては、商会でやっていたことと何も変わらなかった。おかげで、王都のみならず、各地の街、村が次第に暮らしぶりを明るくしていった。イサイアス商会はコバドーンが主体となって変わらずに営業を続けている。孤児たちもめきめきと自立の力をつけている。ただひとつ、大きく変わったのはノラがいないことだけだった。
「うるさいっ、ついてくるな!」
「イ、イサイアス王子……!」
「お待ちください、王子……!」
今、イサイアスの後ろには、アルフレッドをはじめ数名の従者がついてまわる。アルフレッドもそうだが、好んでその役目を負っている者はひとりもいなかった。どの従者も王子のそばで仕えれば将来が約束されるものと思い、揚々と張り切ってやってくる。だが最近ではどの従者も三日と持たずに辞めていく。役割に忠実なほど、王子に嫌われるからだった。隙あらば王宮を抜け出そうとするイサイアスに対して、従者たちは毎日のように罵倒され、身体を張っては張り倒され、突き飛ばされた。為政の評判とおなじかそれ以上に、イサイアスの気難しさは宮廷で知られるようになった。
「ヴェルハースト! 呼んだらすぐに来い!」
イサイアスはヴェルハーストのいる宮殿の中の一室を乱暴に開けた。そこには、何人かの貴族たちとその息子たちも一緒にいた。おそらく、従者の交代要員だろう。かわいそうに、まだ子どものようなものまでいて、怯えているではないか。
「イサイアス王子、申し訳ありません。ただいま伺うところでしたが、丁度ようございました。新しい従者をご紹介します」
「必要ない。誰が来ても同じだ、名前も顔も覚える気すら失せた」
イサイアスの低い声で人払いを命じると、ヴェルハースト以外の全員がおずおずと部屋を出た。
「さて、お急ぎの御用でしたか?」
「とぼけるのはよせ。ノラは見つかったのか?」
「ほうぼう手を尽くしているところですよ。見つかるのは時間の問題です」
「いい加減聞きあきた! いいかげんにしろ、本当はお前がかくまっているんだろ!」
王宮を出られないイサイアスの代わりに、ヴェルハーストがノラの捜索を続けていた。ノラの持ち金や足を考えれば、それほど遠くに行けるはずはない。捜索は容易と思われたが、実際ノラの足取りは全くつかめていなかった。イサイアスが苛立ちを募らせ、ヴェルハーストを疑ってかかるのは無理からぬことだった。
「まあまあ、王子。これでも捜索隊はよくやっていると思いますよ。親が死に、どこかの村から出てきたノラという名前の少女。よくある名前です。実際わたしでさえも、昔同じ名前の孤児とちょっとしたよしみがあったくらいです。ごくごく平凡な名前に、ありきたりな生い立ちです」
イサイアスはノラのフルネームを知らなかった。自分自身が身の上を隠していたせいもあって、イサイアスはノラに詳しい生い立ちを聞いたためしがない。さらにいえばいつでも聞けると思っていると、そうしたことはなかなか聞かないものだ。
「それから、なんでしたっけ……。ノラは強盗に襲われなかったのなら、行く当てがあったそうですね。どこからきてどこへ行くはずだったんでしたっけ。ああそうでした。王子にもイサイアス商会の仲間にも誰にもわからない、ということでしたね。よっぽど無口な娘だったようですねぇ」
これも一年以上前のことで、正確な記憶が定かでない。無数に襲ってきた貴族の馬車がどこの家だったかまで、アンディとケスですらはっきりと覚えていなかった。そして、ノラは無口ではなかったが、過ぎてしまったことをくよくよいうようなタイプではなく、元いた場所への未練なども聞いたためしがなかった。
「それよりイサイアス王子。三か月後、近隣の国々の姫君を招待して王宮でパーティを開きます。そのような街娘よりもはるかに美しく聡明な女性が大勢やってくるでしょう。そこできっと良い出会いがありますよ」
「なんども言わせるな、俺はノラ以外を妻に迎える気はない。パーティは中止だ!」
「それは無理です。もう招待状を出してしまいました。それに我が国の大事な王子のお披露目の会です。三か月後、イサイアス王子は麗しき姫君と出会い、半年後には盛大な婚約パーティを開くことになるでしょう」
「付き合いきれん!」
イサイアスは体中に苛立ちをみなぎらせて、踵を返した。
しかし、それすらもヴェルハーストの手の内だった。
「わかりました、王子。こうしましょう。パーティが開かれるまでの間、王子に時間を差し上げます」
「なに?」
「国中回ってノラをお訪ねになったらよろしいのです」
驚きだ。この国でもっとも豪華で頑強な軟禁状態をつくった本人が、まさかそのような提案をするとは。
「本当か、ヴェルハースト……」
「ええ、もちろんです。ただし、期限はぴったりと三カ月後の本日までですよ。それまでにノラが見つからなかった暁には、お披露目パーティに出席し、花嫁をお決めになってください。それが条件です」
「……いいだろう!」
イサイアスは気負って部屋を飛び出た。王宮に来て以来はじめてヴェルハーストから引き出した譲歩だった。この機を逃せば、きっとイサイアスは二度とノラと再会することはできないだろう。
「アルフレッド、馬を持て!」
「イサイアス王子、どちらへ……? あの、この者たちは新しい従者たちで……」
「勝手にしろ!」
イサイアスはアルフレッドたちを視線の端にもおかず、つかつかと長い回廊を進んでいく。その後を例によって、従者たちが後を追った。その中の一人に、十五歳になったアルロ・フィ・レノが混じっていた。
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希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
ヤケになってドレスを脱いだら、なんだかえらい事になりました
杜野秋人
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「そなたとの婚約、今この場をもって破棄してくれる!」
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唯一の味方だと信じていた第一王子までも、アレクシアの味方ではなくなった。
もう味方はいない。
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◆虐待を窺わせる描写が少しだけあるのでR15で。
◆ざまぁは二段階。いわゆるおまいう系のざまぁを含みます。
◆全8話、最終話だけ少し長めです。
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◆片手間で書いたんで、主要人物以外の固有名詞はありません。どこの国とも設定してないんで悪しからず。
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◆9/2、HOTランキング11→7位!ありがとうございます!
9/3、HOTランキング5位→3位!ありがとうございます!
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